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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

こんな私でも幸せになれるでしょうか





「油は買った、紙と墨も買った。あとは……姫路さんの香油ですね」


汚い着物姿の由良は少し立ち止まったあと、買い物覚え書きを確認した。

義姉が愛用している精華堂の香油は、若くて可愛い令嬢たちに人気の品で、最近できた洒落たデパートに行かねば買えない。

デパートの店員たちは由良が入っていくと特に顕著に顔をしかめるので本当は行きたくないが、姫路に怒鳴られるのも嫌なので、仕方がない。

由良はえいっと覚悟を決めて、小走りに駆けだした。



由良がデパートを目指して移動している帝都の市街地では、カランコロンと鳴る路面電車と、金持ちしか持っていない自動車がトコトコ走っている。

煉瓦道を歩くのは、まだ見馴れた着物姿の人が多いが、西洋式のシルクハットやドレスを着ている貴族もチラホラいる。

モダンと言われて若い人に人気がある通りには、西洋文字を記した時計と並べる店や、黒光りする紳士とハイヒールを売る店も出来た。

珈琲を出す喫茶店も増えたし、おかしな洋食を提供するレストランも出来た。

数年前までこんな風ではなかったのに、戦争が終わって街はあっという間に姿を変えてしまった。


「アイスクリイム、アイスクリイムはいかがかね」


目的地へ急ぐ由良の耳に、陽気な声が聞こえた。

何となくその鮮やかな色をした出店へ視線をやると、店の前で高価そうな洋服を着た夫人が子供にアイスクリイムなるものを買い与えているところだった。


「ありがとう、かあさま!」

子供は満面の笑顔で喜んで、アイスクリイムを頬張った。

「これこれ、ゆっくりお食べなさい」

頬を汚した子供の横に屈んだ夫人は、白いシルクのハンカチを取り出して子供の頬を拭いてやっていた。


和やかな光景だ。

でも、由良に家族はもういない。


遠い故郷の小さな山の温泉街で、両親と妹と暮らしていたことを思い出す。

石畳に旅館や商店が並んでいて、湯気の立つ坂を上ると、温泉水が湧き出る小川もあったりする。

小さな温泉宿を営んでいた両親を手伝っていた由良は、夕刻になったら近所の子たちと山の中を探検して遊んでいる妹を迎えに山まで上がる。

愛する家族がいたあの頃は、幸せだった。


でも、他人が羨ましいなんて思ってはいけない。戦争で家族を亡くして帰る家も失くして、独りぼっちになった子は由良だけじゃない。この国には大勢いる。

それに由良はもう、寂しいだなんてそんな子供のようなことを言っている年ではない。


つい見てしまった親子のやり取りから目を逸らし、由良は再び歩きだした。

しかし碌に前も見ずに踏み出してしまったので、新聞を籠に入れて走っていた自転車とぶつかってしまった。


「おい女、ちゃんと前見て歩け!」

「す、すみません……」

「うわっ!なんだその顔!バケモンか?!気色の悪いブスだな!」


新聞屋は由良の顔を見るなりギョッとして、逃げるように去っていった。


ブスだとかバケモノだとかもう慣れっこになったはずなのに、由良は尻もちをついたまましばらく動けなかった。

こんなみすぼらしくて陰気な女など、誰も手を差し伸べて助けてくれようとする人は勿論いない。


由良はキュッと唇を結び、長く伸ばした前髪で再び顔を隠した。

そして立ち上がってデパートに向かった。




-----



屋敷に戻った由良は買ったものを整頓してから、最後に香油を手に持って分厚い木製の扉の前にいた。


「姫路さん」


恐る恐る、コンコンと扉をノックする。


「姫路さん、いらっしゃいますか……。香油を買ってきました」


ついか細くなってしまう声を張り上げて再び呼び掛けると、バタンと扉が開いた。

出てきたのは華やかに着飾った姫路だった。


「遅かったわね。あんたはブスの上に、買い物も素早くできないクズよね。我慢して追い出さずに置いてやってるんだからもっときりきり働いたらどうなの?」

「も、申し訳ありません……」


香油をもぎ取った姫路は、汚いものを見るような目でユラを睨んだ。

由良は何も言い返すことはせず、ただ頭を垂れる。


家族を亡くした由良を押し付けられた姫路の高問家は、由良の遠い親戚だ。

由良は形式上は高問家の養子となっているが、その生活は使用人ですらなく奴隷のような状態だ。

しかし本来であれば親も家も失くして哀れな物乞いになるしかなかった由良を育ててくれたのだから、高問家に文句は言えない。


「次からは、もう少し早く買ってくるようにします……」

「もういいわ。今礼二さんが来ているの。さっさと失せなさい!」


謝る由良にそれだけ言って、姫路は由良の鼻先でバタンと扉を閉めた。

閉められた扉の奥で、男女が親し気に笑い合う声が聞こえる。


時々姫路に請われて屋敷にやってくる土雲礼二は、大層な美男子だ。

女性に人気なのは言われなくとも分かるし、姫路が結婚をしたいと迫っていることも知っている。

しかも顔が美しいだけでなく物腰も柔らかで、由良のような醜女にも優しい。

だけど、それは同時に恐ろしいことでもある。

礼二が由良を庇ったり少しでも優しい言葉をかけると、姫路は必ず後で由良を折檻するのだ。

「ブスの癖に色目を使うんじゃないわよ!礼二さんの前でわざとらしく可哀そうなふりするのもやめてくれる?」と、そんな風に叫んで、姫路は由良を蹴ったり叩いたりする。


礼二はただ薄汚い下女にも丁寧に接しているだけで、由良に対してなど何の感情もないのに。


由良は俯いて、廊下を引き返して仕事に戻った。




その夜、由良は与えられた仕事を終えて、梟が鳴く深夜過ぎに寝床に帰ってきた。

明日の朝も早いので休める時間は限られているが、静かな夜は唯一由良が心を休めることのできる時間だ。

由良は雨漏りのする倉庫の引き戸を引いて、中に敷かれた萎びた布団に横たわった。


風で心っもと鳴く軋む天井を見つめながら、由良はおもむろに懐に手をやった。

着物の懐から取り出したのは、小さな赤い錦袋だった。


いつも肌身離さず持ち歩いているせいでもうすっかり汚くなってしまったが、由良にとっては大切なものだ。


これは、この帝都から遥か離れた故郷にいた頃、ある人に貰ったものだ。


由良の大切な記憶の中にあるその人は綺麗な黒髪の美しい男性で、山に入ると時々会えた。

彼は山で修行をしていると言っていた。

確かに彼はいつも槍を背負っていたし、険しい岩の上でも跳んで移動できる身体は良く引き締まっていてしなやかだった。

とても優しくてかっこいい人だった。


由良は彼の邪魔にならないようにと思いつつも、妹を迎えに行くついでとか両親の宿の手伝いにかこつけて、よく山へ行っていた。そこで彼に会えると嬉しかった。

わざわざ会いに来ましたなんて言えなくて、でも彼に「もう少し話していかないか」と言われれば内心舞い上がったし、「夕日が綺麗に見える場所がある」と言われればドキッとした。

齧りかけの柿を食べるかと聞かれた時に一生分の勇気を出して頷いた事もあるし、物凄く緊張したけどほつれた裾を直させて欲しいと提案したこともある。

それから偶々持っていたと嘘をついて、わざわざ作った握り飯や団子を一緒に食べたことだってある。

彼といた時は緊張したり勇気を出したりで忙しかったが、とても楽しかった。


だけど戦争が始まって、由良が街を離れることになった。

彼には最後に言いたい事があったけれど、結局勇気のなかった由良は何も言えなかった。

だけど街を離れる前日、彼は由良に「お守りだ」と言ってこの錦袋をくれた。

彼はいつ帰って来るのかと聞いてくれたけど、由良はもう彼とは会えないだろう。

というか、彼はきっと山で時々見た程度の女のことなんて、もうすっかり忘れている筈だ。

しかも、こうして何年も前に貰ったお守りを見つめながら、由良がしつこく昔の思い出を思い出しているなんて、彼が知ったら気持ち悪いと思うかもしれない。

でもこうして夜にこっそり思い出すだけだから、許して欲しい。





------



「ブス、ブス女。来なさい!」


長い廊下の先で姫路の金切り声が聞こえたので、由良は慌てて返事をした。

姫路は自室から大変不機嫌そうな顔を出していて、駆け付けた由良を睨みつけた。


「今日、礼二さんが来てくれてるって言うのに、メイドが出払ってるの。だからあんたしかいないんだけど、茶を持って来て?」

「は、はい」

「言っておくけど、出しゃばるんじゃないわよ」

「はい、それは勿論……」

「絶対よ。もし礼二さんに何かしたら、本当に殺すから」

「は、はい……」


言われた通り茶を用意しなければと食堂へ引き返した由良は、廊下を歩きながらブルリと震えた。

何も起こりませんように。

礼二が姫路の機嫌を損ねるような余計なことを言いませんように。

素早くお茶を出して素早く下がれますように。


由良は震える手で茶を準備してから、重い足取りで姫路の部屋に戻った。

ノックをして許しを得てから中に入る。


真っ先に西洋風の天蓋ベッドを購入していた姫路の部屋の中では、ベルベットのソファで足を組む礼二と、それによりかかる人形のような姫路がいた。


「やあ由良ちゃん。元気だったかい?お茶、ありがとうね。由良ちゃんが淹れてくれるお茶は美味しいから楽しみだ」

「は、はい……」


誰の顔も見ないよう、由良は俯いて返事をした。

それすら気に食わない姫路がギリリと由良を睨んだのが分かる。


なるべく早くお茶を出して、一刻も早く下がりたい。

由良は急いで茶器を配置して茶菓子を配った。


しかし手が震えていたのでティーカップが揺れ、テーブルに置く時に跳ねてしまった。

そして跳ねたお茶は、運の悪いことに礼二の手にかかった。


「熱っ」

「ああっ!申し訳ありません!本当に申し訳ありません!」

「そんなに謝らなくて大丈夫だよ。火傷もしていない」

「で、でも!本当に申し訳ありません!」

「だから、なんてことはないさ。それより由良ちゃんは火傷していない?手を見せて」

「えっ?!」


由良が危険を感じて手を引っ込める前に、礼二にガシッと掴まれてしまった。

ひゅっと喉が鳴る。

礼二は由良の汚い手をギュッと握って怪我がないか真剣に観察しているようだったが、由良は突き刺さるような姫路の視線を感じて、顔を上げられないでいた。


「……ねえ礼二さん。そんなブスの手なんか触って貴方が汚れたらどうするの?」」


姫路の這うような声がする。


……お願い、礼二さんどうか気付いて。手を離して。

このまま「ブスの手を触って汚れたから手を洗って来よう」とでも言ってこの場を収めて。


しかし礼二は姫路の意図に気が付かないのか、由良の手を強く握ったまま、由良を擁護するような発言をした。


「姫路ちゃん、いつも言っているけど、由良ちゃんをそんな風に呼ぶのは良くないよ。義理でも妹だろう?大切にしてあげて」


諭された姫路は非難されたと思ったのか顔をカッと赤くして「どきなさいよこのブス!」と手を上げた。

しかしその瞬間、礼二が後ろから由良を引き寄せた。

そしてあろうことか、捨て猫でも拾うように由良を優しく抱きしめた。


「え?!」


声を出したのは姫路だが、完全に息が止まったのは由良の方だ。


……な、なにをしているの?


全力で逃げ出したいのに、唐突過ぎて身体が動かない。

そして礼二の力も思ったよりも強い。


「礼二さんなにしてるの!?」

「何って、姫路ちゃんが由良ちゃんに手を上げそうだったから心配で」

「な、何言ってるの?!」

「暴力は良くないってことを言ってるんだよ」

「なにそれ!礼二さん、それはおかしいわよ!なんでこんなのに優しくするわけ?!なんで私のこと悪者みたいに言うの?」

「違うよ姫路ちゃん。君を悪者にしたいわけでは無くて」

「礼二さんは私よりこのブスがいいの?!このブスの顔を見ても同じことが言えるの?!」


礼二から由良を無理やり引き剥がした姫路は、由良の前髪をわし掴みにした。


「あ、や、止めてください姫路さん!」

「五月蠅い!!」

「み、醜いですから、どうかやめ……」


由良の抵抗も無視し、姫路は無理やりその顔面を礼二の前に晒した。


「! これは……」


由良の顔を見て、流石の礼二も同情を隠し切れず眉をしかめたようだった。

こういう人の反応には慣れているが、やっぱり少し悲しい。


由良の顔には、丁年戦争が終わった頃に突然現れた大きな痣がある。気味の悪い蛇の鱗のような醜い痣だ。

どこかにぶつけた覚えがなかったので、奇病か何かかもしれない。でも由良には病院へ行けるようなお金はなかった。


「ね、本当にブスでしょう?!ねえ礼二さん、こんなのに優しくして好かれでもしたらどうするの?!おぞましいでしょ!?」


由良は震えながら、姫路の怒りが少しでも収まるのを待つしかなかった。

痛いと声を上げると姫路に益々酷く髪を掴まれそうで、由良は奥歯を噛んで堪えていた。


「でもね姫路ちゃん、由良ちゃんはその痣の所為で苦労をしてきたんだと思うよ。そんな酷い事を言っちゃいけないんじゃないかな」

「まだそんなことを言うの?!礼二さんもしかしてこのブスが好きなの?!まさかそうなの?!」

「……姫路ちゃん、僕は姫路ちゃんのような女の子が人に不親切なところを見たくないだけだよ」

「私は誰よりも親切よ!だってこの身寄りのないブスを屋敷においてやっているんですもの!ね、そうでしょう!私は礼二さんの好きな親切で可愛い女の子よ!?」


姫路が発狂したように叫んで、由良の髪を思いっきり引っ張って突き飛ばした。

その勢いで、由良は壁に激突する。

頭を打っていたかったが、由良はなんとか解放された。

この隙しか無いと思った由良は、なるべく音を立てないように姫路の部屋を出た。


廊下を逃げるように駆けて、狭くて汚い物置部屋に飛び込んでハアハアと息をつく。


冷汗が止まらない。


あの場で叩かれることは奇跡的に無かったけれど、姫路はものすごく怒っていた。

あんなに怒った姫路が由良をただで許してくれるはずがない。

なにか、とんでもない折檻をされることになったらどうしよう。




その夜、最悪な事に由良の懸念は的中した。


まず、由良は姫路が護衛として雇った男に殴られた。

必至に抵抗して逃げて暴れようとしたけれど、髪を引っ張られて着物を切られ、見るも無残な姿で拘束された。


そして連れていかれたのは、屋敷の中でも人の寄り付かない離れの蔵だ。

由良はそこで、熱く燃える火鉢の前に突き出された。

姫路は血走った目で由良を睨みながら、鉄器の棒を熱く熱している。


「これでね、あんたの顔を火傷でもっと不細工にしてやることにしたわ。礼二さんがもう庇う気さえ起きないように」


姫路は恐ろしい顔をして、赤に染まっていく鉄器を見ている。

これから姫路がしようとしていることを理解した由良は青ざめた。


「姫路さん、そ、それだけは……」

「嫌なの?でもこれはあんたへの罰なのよ!」

「わ、私は……っ」

「何もしてないとでも言いたいの?じゃあさっきのあれは何なの?!ねえ、なんで礼二さんは私からあんたを守るみたいなことをしたの?!レイジさんの前で私を悪者にしたいの?!あんたは礼二さんと私の仲を引き裂きたいの?!」

「違います、お願いです……っ」


気味の悪い頬の痣だけでももう既に人前に出られない程十分醜いのに、これ以上自分の顔を嫌いになりたくない。

世の中の若い女の子のようにお洒落や恋愛を楽しみたいなんて贅沢は言わない。でもせめて、これ以上人に嫌悪される顔にはなりたくない。


「私は抱きしめてもらえたこと無いのに、あんたみたいな薄気味悪いブスがなんで?!?身分を弁えなさいよ!」

「分かっています、お願です……」

「分かってない!分かっていたらさっさとお茶を置いて出ていけば良かったでしょう?それなのにわざとお茶をこぼすような卑怯な真似をして!」

「っ、違います……!」

「あんた、礼二さんに優しくされて調子に乗ってるんだわ!もしかして自分は礼二さんに好かれているなんて思ったりしてないわよね?」

「し、していません!滅相もありません!」


胸ぐらをつかまれた由良は、必死に首を振った。

その時、ボロボロになった由良の着物の懐から何かが転がり落ちた。


「……あら?汚いあんたからなにか汚いものが落ちたわ」

「あっ」


落ちたのは、貰ったお守りだった。

確かに汚くなってしまったけれど、それは由良にとって大切なものだ。由良は咄嗟に屈んで拾おうとしたが、姫路がそれを許可するはずがなかった。


姫路は由良の手が伸びきる前にお守りを片足で踏みつけた。

そして由良を勢い任せにドンと突き飛ばしてから、拾い上げたお守りを一瞥して「汚ったない」と吐き捨てた。


「懐に入れて持ち歩いてるなんて、あんたの大切な物?」

「そ、そうです!どうか返してください!」

「ふうん、こんなゴミに必死なんて気持ち悪い。いいわ、燃やしてあげる」

「やめてください!お願いです!」


姫路に体当たりをしてでも止めようと起き上がった由良だったが、護衛に押さえつけられてそれは叶わなかった。

フンと鼻で笑った姫路は、容赦なくお守りを火鉢に投げ入れた。


火鉢の火は瞬く間にお守りに燃え移り、お守りは真っ赤な炎に包まれてしまった。


「やめてください……!」


思い出さえも無情に燃えて消えていくようで、由良は必死に叫んだ。

しかし護衛の力には敵わず、お守りが灰になっていくのを見ている事しかできなかった。



まだ由良の顔に痣が無かった頃。

優しい両親と過ごした記憶、幼かった妹の無邪気な笑顔、故郷の風の匂い、少しだけ憧れていたあの人。

そして、それらの時間が終わる最後の日に貰ったお守り。それさえこうしてあっけなく燃えてしまった。

もう由良には何も残っていない。



「あはは、良い顔。あんた、醜い顔でも絶望してる表情は良く似合うじゃない」


姫路は護衛の男に頭をしっかり押さえるけるように言って、鉄器を持って由良の前に屈んだ。

護衛は更にユラの身体を抑える手に力を込める。

抵抗したくても、護衛の太い腕が全力で押さえつけてくるのでなにもできない。


姫路は由良をの睨みつけたまま歩いてくる。

その手には、熱された凶器。


……怖い。


このまま姫路が持った熱い鉄器が顔に押し付けられたら、物凄く痛いだろう。

でも、もう必死に抵抗する力が入らない。


醜くなった由良の顔を見て悲しんでくれる両親はもうどこにもいない。

由良の怪我を見て泣いてくれる妹もいない。

もう綺麗な自分を見せたい相手に会えるわけでもないし、可愛いと思われたい相手もいない。

抵抗を止めて受け入れようか。

そうだ、そうすれば恐怖も少しは諦めがつく。別に顔なんていいじゃないか。

これで姫路の気が済むのなら、別にいいじゃないか。


……そう思ったけれど、やっぱり嫌だった。

もう既に痣がある酷い顔だけど、やっぱりもうこれ以上醜くなりたくない。


「お、願い……やめてください、姫路さん。助けてください」


小さく懇願したが、姫路はそれを完全に無視した。

迫ってくる熱い鉄器が怖くて、由良はギュッと目を瞑った。





「きゃあああああああ!!!!!!」


火傷を覚悟した。

しかし叫んだのは由良では無かった。


地震を思わせるような轟音と甲高い姫路の悲鳴に目を開けてみると、由良達がいる漆喰の蔵が半壊していた。


……ば、爆撃?それとも地震?


一瞬、訳が分からなかった。

由良が連れてこられたこの蔵は壁が四方にしっかりとあって密室だった筈だ。なのにあったはずの壁は爆発四散したように消えている。

そして蔵の中からでも夜空の月が見える。要するに、屋根も吹き飛んでいる。


「お前たち、その子に何をしている」


月を隠す大きな影と共に低い声がした。

見上げると、真っ黒な人影が蔵のすぐ隣の建物の屋根の上にあった。

由良は理解が追い付かず口を開けて固まっていたが、勝ち気な姫路は辛うじて声を発していた。


「な、あ、あんた、なんなの?!」

「何なのかと聞きたいのは俺の方だ。まさか、お前はこの子の顔にその熱された鉄棒を押し付けようとしていたのではないだろうな?」

「だ、だったら何なのよ!って言うか蔵を壊したのは、まさか、あ、あんたなの?!」

「そうだ」


影が背中に手を伸ばしたかと思えば、なにかがビュンと目の前の風を切った。

何だろうかと考える間もなくドスッという音がして、長い槍が姫路の顔の真横の瓦礫に刺さって止まった。


「その子を放せ」


影は赤く鋭い目で姫路を睨み、背筋が凍るような低い声でそう言った。

影が長い腕でギュッと宙を握りこむと、飛んできた槍が抜けてすいっと影の手の中に戻っていく。


「ひいっ!!ば、化け物!!!」

「化け物とひとくくりにされる日が来るとは。やはり都会の人間は最近の文明開化にうつつを抜かして、俺たちのことを語り継ぐのを疎かにしていたようだな。罰当たりな」


大きな影はカランと下駄を鳴らし、地面に降り立った。

そしてゆっくりと由良達の方へ歩いてくる。


上等の黒い着物を着て下駄を履いたその影は、月に照らされて横顔が見えた。

黒い髪と切れ長の目。陶器のように綺麗な肌と、すっと通った鼻すじ。

その男性の顔は、由良が何度も記憶の中で見た顔と同じだった。


でも記憶の中のあの人がこんなところ、こんなタイミングにいる筈がない。

しかし男性は由良の傍までやって来て、着ていた大きな黒の羽織を由良にすっぽりと掛けた。


「着物がボロボロだ。これを羽織っていてくれ」


由良の着物は切られる前もボロボロで、髪も元々ボサボサだったのだが、男性は姫路たちの仕業だと思ったらしく、由良に労わるようなまなざしを向けた。

そして由良の横に屈み、由良の腕にできていた傷口を示した。


「ここは殴られたのか?傷が出来ている。手当をしよう」

「え、あの……」


何が起こって絵いるのかさっぱり分からない。

貴方は本当にあの時のあの人なの?

どうしてここにいるの?

何故いきなり現れたの?

どうやってここに来たの?

もしかして助けてくれたの?

心配してくれるの?でも、なんで?



「どこか静かな場所へ」


男性はすっと腕を伸ばし、まだ混乱している由良の手を取ろうとした。

しかし、それを我に返った姫路が阻止する。


「ま、ま、待ちなさいよ!手当てするって、ど、どういうつもり?!」

「そのままの意味だ」

「じゃ、じゃあ行かせられないわ!だ、だってそのブスは私に酷い事をしたんだもの、罰を与えなきゃ……っ!」


姫路は咄嗟に護衛に指示して、手を伸ばした由良を地面に張り倒して押さえつけた。


受け身を取ることが出来なかったから、由良は顔面からもろに倒れてしまった。

頭を地面に押し付けられて、口の中に土と血の味を感じる。


……痛い。


もう会えることは無いだろうと思っていた男性がいきなり現れて、自分を助けてくれるなんて全然信じられなかった。お守りが焼かれたショックで見ている幻覚かとも思った。

だけどきっと、痛いということは現実なのだ。



「その子を放せと言ったはずだが」


次の瞬間、男性の影がカランという小さな下駄の音と共に動いて、護衛は一瞬で蹴り飛ばされていた。

体の上に載っていた護衛の重みが消え去って自由になった由良は、男性に助け起こされた。


「行こう。ここはあまり気分が良くない」


男性はそのまま由良の手を引き、槍と共に背負っていた大きな団扇の一振りで塀をぶち壊し、由良を屋敷の外に連れ出した。


取り残された姫路は「ば、バケモノが出たの!」と叫んでいた。そして轟音に驚いて飛び起きて来た姫路の両親や使用人も集まってきているようだった。

何故団扇の一振りで塀が吹き飛ばされたのかは分からないが、男性は当たり前の顔をしてどんどん歩いていく。



屋敷から十分に離れたところで、まだ混乱している由良に男性が振り返った。


「大丈夫だったか」

「は、はい。でも、なんで」

「どうした?」

「あ、あの……」


何故助けて欲しいと思った時に来てくれたのか。何故場所がわかったのだろうか。たまたま通りかかっただけなのだろうか。由良のことをまだ覚えてくれていたのだろうか。彼は本人なのだろうか。

由良の中で色々な疑問が一気にせり上がってきたが、由良は結局上手く言葉にできなかった。




そのまま無言で、二人は帝都の茶寮に入った。

由良が毎回前を横切るだけだったその高級な茶寮の内部はとても広く、和洋折衷の洒落た空間だった。

給仕に案内されて座敷に通された。

男性が一番値の張る懐石と薬箱を頼んだところで、由良は男性と広い座敷に2人だけになった。



「帝都はハイカラな店が多いな」

「は、はい。こんなところ、初めて入りました。貴族の人しか来ないようなお店です」

「そうか。俺は別に爵位はないが」


男性は座布団に座っていても絵になる。

男性は驚くほどの美形で見るからに高価な着物を着ていて給仕もニコニコ顔だったのに、その取り合わせの由良が顔を前髪で隠した異質な女ということで、ぱっと怪訝な顔に変わってしまったことが申し訳ない限りだ。


由良が小さくなって座っていると、給仕が薬箱を持ってきた。


「傷を見せてみろ」

「は、はい」


男性は薬箱から包帯と、自分の懐から変わった塗り薬を取り出した。


「傷跡が残らないようにする薬だ。変なものではないから安心してくれ」

「は、はい」


薬を塗られて包帯を巻かれている間、由良はぐっと息を潜めていた。

男性の手にそっと触れられると、それが傷口でなくとも熱くなる気がした。


……この人は昔と変わらず、優しい。


傷口の痛みが引いていくのと共に、自分は助けてもらったのだという実感がわいてきた。


「あの」

「なんだ?」

「どうして貴方はあの場に現れたのですか?」

「君に渡した錦袋の中に、破壊されると俺が呼ばれる特殊な術式を施していたんだ」

「じゅ、術式……?」


聞き慣れない言葉を、由良は反芻した。

よく分からないが、要するに由良がずっと大切にしてきたあの赤い錦袋が姫路に燃やされたので、数年越しにその術式というのが発動したという事らしい。


「何故そんなものを……?」

「いや、君に変なことをしようとしたわけでは無いんだ。術式も人体に影響があるものではない。ただ、人間は死んだらあの世へ行って帰ってこないだろう。だから心配で」

「……心配?」


なんだか思いがけない言葉を聞いた気がしてぽかんとしていると、男性はハッとして握っていた由良の手を離した。

治療も完了したようだ。


「いや、こんなことをいきなり言われても君は困るだろう。君は俺のことなど忘れていただろうし、驚かせてすまない。俺は手当をしただけで帰るから大丈夫だ。君の邪魔になるようなことはしない」

「あ、あの、私は貴方の事を忘れてなどいません」

「無理はしなくていい。忘れていたならそれで」

「そんなことはないんです!」


由良はブンブンと首を振って否定した。


交わした会話の一字一句を正確に覚えています。

毎晩一緒に過ごしたことを思い出していました。

貰ったお守りは何よりも大切にしていました。

そんなことを言おうかとも思ったが、気持ち悪いと思われたらと不安になって踏み止まった。


由良が黙り込むと、男性は少し困ったように眉を下げた。

そして言うか言わないか迷ったようだったが、口を開いた。


「君が故郷を出た日から、俺はずっと待っていた」

「……え?」

「俺は君にまた会いたかったんだ」

「わ、私に?」

「そうだ」


諦めたように小さく笑って、男性は続けた。


「また何でもない話をして、君の握り飯を食べて、釣りでもして、木の上で夕日を見たいと思っていた。街を出る君を引き留めることは出来なかったけれど、君はまた会えると言ってくれた。だから待った。また会えたらちゃんと伝えて答えを聞きたい事があったからな。でも二年経っても三年経っても、人間の戦争が終わっても君は戻ってこなかった。君は俺のことなどとっくの昔に忘れたのだろうと思っていたが、君のことを思い出さない日は無かった」

「それは……」

「ああいや、責めている訳ではない。俺が勝手に待っていただけだから気にするな」


丁寧な男性の言葉に対して、上手く声が出ない。

まだ完全に理解が追い付いたわけでは無い。

でも、こんな奇跡があるのかと思うと、声にならないほど嬉しかった。

由良だって彼のことを思い出さない日は無かった。

彼との思い出を、どれほど心の支えにして生きて来たか。


しかし同時に、この恋は叶わないのだと悟って心の底から悲しくなった。

だって、男性が待っていてくれたのは顔に痣のない頃の由良だ。

彼が思い出していたのは綺麗な顔だった頃の由良で、今の由良のような醜い女ではない。


会えて嬉しいと思うのに、会いたくなかったと消えてしまいたい衝動に駆られる。

入り混じったどうしようもない気持ちは、由良の目から涙となってポロポロと溢れて来た。


「泣くほど嫌だったか?!気味が悪かっただろうか。すまない、もう二度と君の前には現れないようにするから……」

「ち、違います!」


由良は前髪の間から涙を零しながら首を振った。


「私もずっと貴方に会いたかったです!」

「……でも君は泣いている。人間は辛い時に泣くのだろう?」

「だけど、貴方と会えて嬉しかったのも、会いたかったのも本当です!また貴方とお話して、山の頂上から景色を見て、お弁当を食べたりしたいです!」

「そうか。なら……」


男性は少しだけ安堵の表情になった。

だけど由良にはまだ伝えなくてはいけない事がある。覚悟を決めて、息を吸った。


「でもきっともう、貴方は私には会いたくないと思います」

「なに?」

「だって……」


由良は自らの前髪を上げ、男性の前に顔を晒した。

由良はもう、彼の知る頃の由良では無い。今ではもう、とても人には見せられないような酷い顔になってしまった。


こんな女、気味悪がって誰も近付きたがらない。きっと彼だってそうだ。それが普通だ。

だから本当は、彼が由良のことを忘れていてくれればよかった。

そうすれば、彼の記憶の中の由良は綺麗なままでいられたのに。

そうすれば面と向かって彼に拒絶されなくても済んだのに。


「私、こんな風に醜くなってしまったんです。気持ちが悪いですよね。もう昔とは全然違うんです」


彼の驚いた表情の方が、誰かの嫌悪も眼差しよりも百倍痛いけれど、ここで泣いたら彼が困るだろうと思って由良は頑張って笑ってみせた。


「確かにその酷い顔では見るに堪えないな。さっきの話は無かったことにしてくれ」


……なんて言われるのだと覚悟していた。

しかし。


「これは大蛇女の呪いだな。あいつらは綺麗な女性に嫉妬して呪いをかける妖怪だ。だが心配するな、俺が君に呪いをかけた個体を見つけ出して八つ裂きにしてくる」

「……え?」


ユラの痣を見ても、男性は眉をしかめたりはしていなかった。

そればかりか予想外な単語を並べ、痣を取り除くことができるとまで言った。


「……ちょ、ちょっと待ってください。私の痣は妖怪に付けられたものなのですか?妖怪って、あの伝承の?」

「そうだ。身に覚えはないか?」

「い、いえ」

「まあ人間の姿で人間の社会に溶け込んでいる妖怪も少なくないから、君が気付かぬうちに接触していたとしても不思議ではないな。いなかったか?痣が出来た時期に君を妬んだ女は」


そういえば、戦争が終わった頃に文学サロンに仕事の面接に行ったら、面接官の女性に「綺麗な肌ね」と舐めるように触られたことがあった。

その時の女性の手が異常に冷たくて、ビクッとしてしまったことを覚えている。


由良は小さくブルリと震えた。

妖怪とは恐ろしく、理不尽に強い存在であるから「出会った時は首を垂れてひたすら静かに去っていくのを待つしかない」と幼い頃に祖母に教えてもらった事がある。

また、妖怪の中には人を攫うものや人肉を好むものも少なくないと聞く。

そんな妖怪に、知らないうちに出会ってしまっていたなんて。


由良は無意識のうちに、男性の着物の裾をぎゅっと握りしめていた。


「貴方は、よ、妖怪を退治すると仰いましたか?」

「ああ」

「駄目です!妖怪は人知を超える恐ろしい存在です。貴方に危険が及ぶくらいなら退治なんてしないでください」

「確かに大蛇女は大妖怪だが、大丈夫だ」

「だ、大妖怪?!ますます大丈夫じゃないです!」


男性は何てことないようにそう言うが、由良は気が気ではなかった。

妖怪なんて恐ろしいものには関わってはいけないというのに、まさかの大妖怪だなんて。

痣だけで済んだ由良は幸運は方なのかもしれない。


「やっぱり妖怪は怖いか?」

「こ、怖いに決まっています」

「そうか」


青ざめる由良を見て、男性は何を思ったのかおもむろに居住まいを正した。


「そういえば俺も君に言わなければいけない事があった。これを聞けば、君こそ俺にもう会いたくないと言うかもしれない」

「え?」

「本当はもっと早くはっきりと伝えておくべきだった。でも君に嫌われたくなくてな」


男性はすっと立ち上がり、懐から黒い面を取り出した。


「君は、俺の名前を憶えているか?」

「は、はい勿論です」


彼の名前は天狗山葉。


由良は目の前に立つ葉を見上げた。

一振りで竜巻を起こせそうな大きな黒い羽と、黒い天狗の面。

建物すらぶち壊す風を起こす団扇と、長くて重そうな槍。


彼の正体に、今更になって気が付いた。


「……貴方は天狗だったのですね」

「ああ。大妖怪の中でも大妖怪だ。だから大蛇などには負けない」


名前を教えてくれた時、彼は天気を聞くような調子で、天狗のような妖怪はどう思うかと聞いてきた。

その時由良は「妖怪は恐ろしいものだと聞いています」と答えた記憶が在る。

もしかしたら由良がそう答えてしまったから、葉は自分の素性を中々明かせなかったのかもしれない。


思えば、腑に落ちる記憶ばかりだ。

岩山でも下駄でぴょんぴょんと登っていく異常な身体能力だってそうだし、口笛だけで烏を呼んだり、草むらに落とした由良の櫛を一瞥だけで見つけてくれたりした事がある。

それに先程、蔵や塀を簡単に破壊したことだって妖怪でなければ説明がつかない。



「怖ければ怖がってくれていい。君が近づくなと言えばもう近付かないし、消えろと言えば大人しく消える。君に害をなすことはしない。勿論、攫ったりは特に絶対にしないようにするから」


葉は由良を怖がらせないように気を遣ってくれているのか、少し後ろに下がった。


……でも、近付くななんて言う筈がないのに。

醜くなった由良を見ても変わらなかった優しい人が、実は妖怪だったくらいなんだ。そんなことで嫌いになんてなる筈ない。


由良は立ち上がり、逆に葉にグイッと近づいた。


「あの……近づかないでとは言いません。消えろとも言いません。攫ってくれても構いません」

「え」

「私で良ければ攫ってください」

「え……?いや、攫った人間を無理やり嫁にする天狗もいるんだぞ?!」

「それでも大丈夫、です」

「え、えっと、君は妖怪が怖いと言っていたのに」

「貴方は怖くないです」

「それに妖怪はしつこいのが多いぞ。だからもう離してやれないかも」

「それも大丈夫、です」

「大丈夫って……俺は人間の社交辞令とか謙遜は不勉強なんだ。そんなことを言われればそのまま受け取りかねない……」


それでもいいと由良が頷こうとした時。

パアン!と襖が開いて、「おまちどうさまですー」と注文していた料理が運び込まれてきた。

葉は物凄い反射神経で翼を隠し、真っ赤になった由良は目にもとまらぬ速さで元居た座布団の上に戻っていた。


「せ、折角だし食べるか」

「は、はいそうですね」


料理を注文していたことをすっかり忘れていた。

由良は葉の顔を見られないまま手を合わせ、目の前に並べられた豪勢そのものの料理に手を付けた。


こんな高級な料理見たこともないが、先ほどからの余韻であまり味が分からない。

しかも由良はしばらく満足に食べられない生活を送っていたので、料理を全て食べきることが出来ないと早い段階で悟った。


「あまり箸がすすんでいないようだが、腹は減っていなかったか?」

「いえ、お腹はすいていたのですが」

「ならたくさん食べた方がいい。君は依然と比べて随分と痩せたようだ。帝都では過剰に痩せるのが流行なのかもしれないが、やり過ぎは良くない。ほら、これも食べろ」


葉は自分の刺身や魚の姿焼き、かやくご飯なんかをあれもこれもと由良にくれた。




食後にアイスクリイムまで出されて、由良のおなかはパンパンだった。

給仕が全ての食器を下げ、座敷は再び二人だけになる。


ゆっくりと時間が流れる中で、葉は由良が故郷を離れてからどのような生活をしてきたのかと質問した。


訳あって家族より先に疎開をした由良は、戦禍のうちに家族を亡くした。

そして遠い親戚の高問家に身を寄せ、最初は養子として家に貢献しようと働き口を探したが、痣が出来て醜さゆえに雇ってくれるところはなかった。

高問家はそんな足手まといになった由良を辛うじて家に置いてくれ、狭くて汚かったが雨風を凌げる場所をくれた。

戻りたいとは思わない場所だが、高問家が無ければ由良はきっと野垂れ死んでいただろう。

酷い仕打ちも沢山受けたが、由良は感謝している。


しかし話を聞いた葉は気分を害したようで、眉を寄せていた。


「君はもっと丁重に扱われるべきだった」

「大丈夫ですよ」


自分の為に憤ってくれる人がいるだけで、由良は十分救われた。

これで話は終わりかと思われたが、葉が予想外の言葉を呟いた。


「あの家には妖怪の臭いが残っていたが、そんな悪辣な人間であれば助けてやる義理も無いか」

「え?!今何と言いましたか?!」

「あの家には妖怪が頻繁に出入りしている痕跡があったと言った」

「よ、妖怪が!な、何の為に?!」

「食われるか呪い殺されるか攫われるか……まあ、あの妖怪なら良いことは起きないだろうな」






------




「ふふふ、礼二さんからキスしてくれるなんて私とっても幸せ。やっぱりあのブスがいなくなったらすっきりしたわね」

「……」

「礼二さん?」


姫路は部屋で抱き合っている礼二の様子がおかしいことに気が付いた。

肩に顔が乗っているので表情は見えないが、カサカサと小刻みに揺れている。


「礼二さん……?」


異常を感じた姫路は礼二の背に手を伸ばした。


「きゃあああっ!!!」


しかし礼二の背中に触れる前に、何本もの巨大な蜘蛛の足が礼二の背中を突き破って姿を現した。

それらは、姫路の広い部屋を覆いつくすような長さだ。

そしてあっという間に蜘蛛の銀糸が姫路の部屋に張り巡らされ、姫路の手足も絡めとった。


「れ、礼二さん?!礼二さん、どうしちゃったの?!なんなのこれ?!ねえ、なんなの?!」


金切り声を上げる姫路をうるさそうに見て、綺麗な顔の礼二は溜息を吐いた。


「あの痣の子に優しくすると姫路ちゃんが露骨に嫉妬するから、人間って醜いなあって見ていて楽しかったのに。残念、どこかに行っちゃったんだね」

「れ、礼二さん……?」

「姫路ちゃんはもうつまらないから、食べちゃおうかな」

「れ、礼二さんがバケモノに……!!!」

「あはは、良い顔。姫路ちゃんはとっても醜い人間だけど、絶望してる表情は良く似合うね」

「れ、礼二さん……助け」

「いただきます」


ニッコリと笑う礼二が蜘蛛の大足を振り上げ、姫路の胴体を引きちぎった。

顔は恐怖と痛みに歪み、姫路はあっけなく絶命した。


……と思われた。


「姫路さん!!」


轟音がして、屋敷が破壊される。

姫路は身体を貫かれるその瞬間にぎゅっと抱きしめられ、妖怪が本性を現した屋敷の部屋から救い出された。


「姫路さん、大丈夫ですか?!」

「あ、あんた……!」


姫路を救い出したのは、行方不明になっていた由良と、由良を連れて行った黒い男だった。

由良は俯いて隠していたのに前髪をバッサリと切って顔を出していたから、一瞬誰だかわからなかった。




「な、なんで」

「礼二さんが妖怪の土蜘蛛だったと分かったからです。土蜘蛛は女の人の肉が好きだから、狙われてるのは姫路さんだろうなって」

「そ、そんな……!」


姫路はがっくりとうなだれた。

礼二の方には葉がいるので、由良達は安全だ。


「姫路さんが食べられてしまう前に来れて良かったです……」


由良は気が動転しているであろう姫路を慰めようとした。しかし姫路は自分が安全なところにいると分かったからか、急に強気になって由良の手をはたいた。


「っていうか私、あのバケモノに騙されてあんたに助けられたわけ?」

「そ、そういう事になります……」

「あー、なにそれ最悪!最初からあんな風に気持ち悪かったら誰も好きにはならなかったっていうのに!」

「……姫路さんはあれほど好きだったのに、もう礼二さんが好きではないのですか?」

「当り前よ!好きな訳ないでしょ!あいつはバケモノじゃない!あの蜘蛛の足が見えないの?!気持ち悪過ぎるでしょ!!」





「僕も、姫路ちゃんは嫌いだったなあ。人間は醜いから面白いんだけど、彼女は流石に反吐が出るほど性格が悪かったから」

「俺も話は聞いたが、食べるためとはいえお前、よく我慢できたな」

「ほんとだよ。でも僕に惚れた女の悲鳴を聞きながら内臓を食べるのがたまらなく楽しいんだよ。でも天狗は人の肉は食べないからこの楽しさを知らないかな?」

「そうだな」

「あはは、知らないなんて可哀そう。ほら、そこをどいて。ゆっくり育てたんだから僕にあの女を食べさせてよ」


礼二は葉の横を通り過ぎて姫路を捕らえようとしていたが、あちらには姫路を助けたいと言った由良がいる。

通すわけにはいかない。


「あの人間は食べられてもいいんだが、そうすると由良が悲しむからな。もし無理矢理通るって言うのなら、相手する」




由良は「姫路さんは礼二さんがとても好きでした。だからきっと、礼二さんになら喜んで食べられてしまうかもしれません。でも私は彼女を助けたいです」と言っていた。

だから今回は由良に免じて助けてやる。

だけど妖怪は執着が強いものが多いから、この場を切り抜けたとしても果たして姫路は生き残れるか。

まあ、金はあるようだから一生退治屋でも雇ってびくびくしながら過ごせばいい。







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土蜘蛛を追い払ってから、由良と葉は帝都を出て故郷へ戻った。もう姫路と会うことは無いだろう。



こうして帰った二人が祝言を上げるのも、葉が由良の呪いを解くのも、両親の旅館を再興させるのも、そう遠くない将来のことである。




















本気のタイトル回収は…もし機会があったら長編か続編で……

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