新しい三角関係
「蒼、起きろって」
「うるさぁい、おきてるよー」
「二人とも早く食べないと。遅刻しちゃうよ」
その部屋は朝だというのに賑やかな声に包まれていた。
これがこの部屋に住む三人兄妹の日常。築四十七年六畳一間のアパートに暮らす、三人の新しい日常だった。
「…、…うと、優翔」
優しい声と共に体を揺すられ、現実に意識が戻ってくる。
「……ん、んー……」
このまま睡魔に身を任せたい気持ちを押し殺して目を開けた。
「おはよう、空」
「おはよう、優翔」
視線の先には優しい微笑みをしている義姉の空が、起こすためか近距離で俺を覗き込んでいた。
俺が寝ぼけて顔でも上げていたら、鼻と鼻が当たるそのぐらい近い距離で。
「ち、近い……」
近距離に空の顔があることが恥ずかしく照れてしまう。反射的に顔を背け弱々しい声が出る。
「あ、ごめんね」
俺の言葉を聞いた空が申し訳なさそうになり横目で見ていた顔が遠ざかる。
その様子に少し罪悪感を抱くが、それ以上に恥ずかしく、気にかけることが出来なかった。
「……大丈夫」
せめて何か言わなければと口にした言葉は、ありきたりで普通の言葉しか出てこなかった。
「よかった……」
それでも安堵してくれた空を見て、間違ってはなかったことに内心ほっとする。
「朝ごはんもう少しで出来るから」
「分かった。こっちも準備しとく」
要件はそれだけだったのか空はキッチンに向かっていく。
こうして起こされるのは今日が初めてだった。空は最近になって出来た義姉で、そのせいか弟との距離感というものが分からないのだろう。
これは違うから次から止めてと教えることも出来たがしなかった。それはこうやって起こされることを嫌と思っていないからだ。
むしろ冷静になった今思い返すと、嬉しくさえ思える。
それは俺、柊優翔が義姉である安達空のことを好きだからだ。
「ふわぁー、よし。……ん?」
空に言ったように準備するため、まだ眠気が残る体を起こそうと力を入れると、左腕に重い違和感を感じた。
「……こいつは」
左腕を見ると違和感の原因はすぐに分かった。
この部屋のもう一人の住人で俺の妹である柊蒼が、俺の腕にしがみついて拘束していたのだ。
「おい、蒼、起きろ」
体を揺すって声をかけてみるが、なんの反応もない。
それもそのはずで蒼は昔から朝が弱かった。
それでも昔はとある事情から起きることは出来ていたのだが、今は安心しているのか心地良い寝顔で寝ている。
昔と違う嬉しい変化に、起こしたくない気持ちが芽生えるがそうも言っていられない。
三人で暮らしているアパートは部屋が狭いため、布団を端に寄せないと朝食を食べるための机が出せない。
どうしたものかと悩んでいると、ふと掴まれていた左腕が軽くなった気がした。
今がチャンスだと思い蒼の腕から抜け出す。
「ふぅ、助かった」
ずっと掴まれていたせいか左腕に痺れがあるものの自由になる。
「こいつは……。もうちょい寝かしとくか」
さっきも言ったが蒼は朝が弱いので仕方なしにギリギリまで寝かしとく。
その間俺は二つ敷いてある布団の一つを畳むために立ち上がろうとするが、また立つことは出来なかった。
行き場をなくした蒼の腕が何故か今度は腰に蒼がしがみついてきたからだ。
「ちょ、蒼離せって」
「……。やー」
起きているのかいないのか分かりづらい声を出し、俺の腰をしっかり掴んでくる。
「おい、起きろって」
無理やり引き剥がそうとするも、腕だけではなく足まで使って抱きついてくるのでどうすることもできない。
さながら蒼の様子は親にしがみつくコアラのようになっていた。
「そ、……」
空、と助けてもらおうと口に出しかけたが踏み止まる。
義姉になったとはいえ姉ではないので、兄妹を知らない空にこんな格好を見せては何を思われるか分からない。
それに抱きしめてるのが妹とはいえ好きな人にこんな格好を見せるわけにいかない。
「優翔呼んだ? どうしたの?」
だがそんな俺の思いとは裏腹に、声が届いていたようでキッチンから声をかけられる。
「な、何でもない。気にしないでいいから」
キッチンから少しでも体を動かせば、こっちの部屋が丸見えになるため必死になる。
「大丈夫? 布団畳んだ?」
しかし逆にそれが良くなかったようで、心配した空がこっちの部屋を覗いてきた。
「何してるの!?」
「……。あはは」
驚いたような声に乾いた笑いしか出ず、終わったとそう思った。
しかし空は驚きこそすれ、俺が考えていた軽蔑や蔑んだりすることはなく、むしろ羨ましがるように見ていた。
「ずるい、私も」
ずるい要素がどこにあるか分からなかったが、空は一度キッチンに身を隠し、また現れると躊躇いなくこっちの部屋に入ってきて抱きついてきた。
「え?……」
もちろん俺なんかではなく、俺の背中にいた蒼にだが。
「えー」
ほっとしたような、残念なような何ともいえない気持ちになる。
「……なにこれ?」
頭が状況の理解に追いつけない。
「空まで抱きつくことないだろ……」
空がこんな行動をするとは思っておらず少し呆れてしまう。
「えーだって何か兄妹ぽくていいなって思ったんだもん。私だって義姉になったんだから蒼ちゃんに抱きしめられたい」
何だかよく分からないが、空も空なりに思ったことがあって抱きしめたのだろうと自分を納得させる。
それに何だか満足気な表情をしている空を見ると何も言えなくなる。
「……うっ、うー」
満足気な表情の空とは逆に、俺と空にサンドイッチされている蒼が苦しそうな声を出す。
「そ、空姉。……くるしい」
「わっ、蒼ちゃんごめん」
蒼に苦しいと言われ、空は慌てて離れる。
何で空だと分かったんだ、と思ったがそもそも俺が蒼に抱きつくわけないし、それに男の俺にはない何かで気づいたんだろう。
「蒼、空みたいに離してくれ」
「んー」
ついでにとばかりに期待せず頼んだ俺の声は聞こえていたみたいで、素直に抱きつくのを止めてくれた。
まだ寝ぼけているのか、言葉にならない声が漏れていたが助かった。
「じゃあ優翔机出しといてね。もうすぐ出来るから」
「分かった」
改めてキッチンに戻っていく空の背中を眺め立ち上がる。
蒼を二つある一方の布団に移動させ、今度こそすんなり布団を畳めた。
「うーん、起こすべきだよな……」
未だに寝ている蒼を見る。
口に出したように起こすべきなのだが、めんどくささも相まってどうも気が乗らない。
しょうがないので畳んだ布団の上に蒼をお姫様抱っこで運んだ。
「後は空に任せよう」
義姉になる試験だと空に蒼のことを投げて二つ目の布団を畳んだ。
そうして二つ畳むと部屋にスペースが出来て、そこに押し入れに立てかけていた古い茶色のちゃぶ台を置く。
「後はよろしく」
「うん」
準備が終わったことを洗面所に向かうがてら空に伝え、前は目にかかり、横は耳が隠れ、後ろは肩まである男にしては長い髪についた寝癖を直す。
直し終わり部屋に戻る頃には大分時間が経ちちゃぶ台に朝食が並んでいた。
「蒼ちゃん起きてー」
「おきてるよぉ」
「ほら顔洗いに行くよ」
「うぅ、うー」
試験と名ばかりに面倒事を空に投げたが、思いのほか上手くいっていて、瞼を擦っている蒼の手を空が引っ張り、俺と入れ違いで洗面所に向かっていく。
「……さっき羨ましがってたけど」
その様子は仲の良い姉妹にしか見えなかった。
「いただきます」
やがて戻ってきた二人が座ったのを確認して口を開いた
「いただきます」
俺の後に続くように空が口を開き、並んでいる朝食に手をつける。
「いひゃはひます」
顔を洗ったはずの蒼は、まだ寝ぼけているのか声がはっきりしていない。
「蒼、起きろって」
「うるひゃい、おきてるよー」
そう言う蒼だが、焦点が定まっていないのかご飯が掴めていない。
何も掴んでない箸を口に持っていってはハテ
ナ顔を浮かべている。
「二人とも早く食べないと。遅刻しちゃうよ」
慌てて言う空に釣られ時計を見ると、確かにこの後を考えれば急がないといけない時間であった。
「ほら蒼食べさせてやるから、口開けろ」
このまま蒼を待っていたら、俺だけならまだしも空までも遅刻してしまいそうなので、俺が食べさせることにする。
「んー。あーん」
素直に口を開いてくれたのでその口にご飯とおかずを交互に突っ込んでいく。
蒼の口に入れたら自分の分を食べ、また蒼の口に入れてを繰り返していると、当たり前だが空が先に食べ終わる。
「ごちそうさま。優翔、私変わるよ」
「じゃあよろしく」
そう言ってくれたので後は空に任せて自分の分を食べることに集中する。
「ごちそうさま。蒼の食器は流しに置いといて。俺着替えるから」
「分かった」
俺が食べ終えそう言うと、自分の分と空の分の食器を持ってキッチンに向かう。
一旦流しに置いて洗面所で制服に着替える。
自分の部屋というものがないので着替えの時が少し面倒だ。
ちゃんと伝えておかないとラッキースケベ的な展開がしょっちゅう起こってしまう。
「まぁ現実ではそんな上手くいかないけどな」
制服に着替え終わり学校に行く支度が終わると、流しにある食器を洗う。
部屋に入らないよう扉が閉まっているので、隣では二人が着替えているのだろう。
ただ好きな人が隣で着替えているのにも関わらず、俺は緊張などすることはなかった。
むしろ水道から出る水の音しか聞こえないため、ちゃんと着替えているのか不安になる。
「蒼、空、外で待ってるから」
不安から覗きたい気持ちを我慢して声をかける。
「うん」
「はぁい」
中から声が聞こえ、俺は学校に持っていくカバンを持って外に出た。
四月の空は雲一つない晴れた空だった。
まるで今日から高校一年になる三人を祝福してるかのように。
「「お待たせ」」
そんなことを思ってボーとしていると二人仲良く外に出てくる。
「行くか」
俺が家に鍵をかけ、そしてそのまま三人で学校に向かう。
俺たちの新しい日常が、今日から始まったのだった。