なろうエッセイと他人の呼称
エッセイを好んで読まれる皆様。お懐かしゅうございます。タイトル詐欺でお馴染み異世界金融毎日更新の暮伊豆でございます。
今回は今までのエッセイとは全く関係ありません。ただ、ふと思ったことを書くという本来の意味でのエッセイに立ち帰っただけの内容となっております。
その内容とは!
『人の呼び方』について!
誰が誰をどう呼ぼうとその人の勝手です。余人が口を挟む問題ではありません。
これは『私が気になった』ただそれだけの話なのです。
さて、皆さん。
織田哲郎って知ってますか?
知ってますよね?
知らないわけないですよね?
だから説明などしませんが、オダテツこと織田哲郎です。
最近、私は彼のことをあるアーティスティックエッセイストさんの影響で『織田先生』と呼ぶようになってしまいました。
織田先生の曲で好きなものはめちゃくちゃ多いのですが、ご自分で歌われている中だと『君の瞳にRainbow』がこの上なく好きなのです。
めっちゃムーディーなイントロから始まり、ねっとりとした色気あふれるAメロへ!
一抹の寂しさを感じるBメロから、徐々に盛り上がり、追いかけたくなるサビ!
何かを追って駆け出したくなるメロディに歌詞! 大好きな曲なのです!
そんな織田先生ですよ。
そこで気にしているのが……
私のような素人が織田『先生』などと呼んでいいのか? ということなのです。
先ほど、誰が誰をどう呼ぼうとその人の勝手だと書きました。そう思います。
思うのに!
私のような素人は普通に『織田哲郎』と呼び捨てにするべきではないのか!? という気持ちが拭えないのです!
高崎晃氏のことを『あきらさん』と呼ぶ大阪のギタリストを知ってます。きっと彼は高崎氏の知り合いなのでしょう。
でも私が誰かと話す時に「あきらさんのギターってぶちカッコええけぇのぉ!」なんて言おうものなら……
「なぁに知りあいみてぇな口ぃきぃとんじゃ?」
「おめぇ別に知り合いじゃなかろうがよ?」
となってしまいますよね?
私が織田哲郎氏を織田先生と呼ぶのってそんな感覚ではないのかと思うのです。
そもそもですよ?
皆さん、好きなアーティストに敬称つけて呼びます?
「ヨシキって頭のてっぺんから爪先まで美しいよなぁ!」
「トシの声ってめっちゃハイトーンで痺れるわぁ!」
「ヒデのセンス何あれ!? イカれてんよな!?」
て感じじゃないですか?
「パタのギターって職人だよね!」
「タイジのチョッパー渋いのに派手!」
「ヒースはひろしだからヒース!」
とか言ってるんでしょ!?
私の別作品『日本ビジュアルヒストリー』ではアーティストの皆様には『氏』をつけて呼んでおります。
ですが、日常会話でそんなことする方はそうそういないとも思うのです。
もちろん私も。
それこそ……
「先週織田先生とレコーディングしてきたよ」
「あきらさんに一曲提供してもらってさ!」
「私のデビュー曲はヨシキさんプロデュース!」
というように!
選ばれし者しか敬称を付けるべきではない気すらしているのです!
そこで結論!
私は今後、織田哲郎氏のみ織田先生と呼びますが、他の方々は呼び捨てにすることにします!
一郎!
哲!
キョー!
シーラ!
タスク!
ロッド!
林!
出山!
松本!
石塚!
沢田!
森江!
当然のことですが、彼らが再び日本ビジュアルヒストリーに登場する際は『氏』をつけますけどね!
友人と話す際などの心構えのことを言っているだけなんです……
いかがだったでしょうか。
このような駄文こそが本来のエッセイではないでしょうか。
誰かを批判したり、何かに文句を言うのもいいでしょう。
大昔、ここではない世界での恋愛経験を物語風に書くのもいいでしょう。
ですが私は思うのです。
『エッセイとは随筆』
枕草子のように、何がイケてるだの、何はダサいだのをだらだらと書き綴ったものこそが本当のエッセイではないのかと。
これに賛同していただける皆さん。
駄文を書きましょう。
私のこれよりもっと酷い駄文を書いてはどうでしょうか。
そしてもし、エッセイランキングを駄文で埋め尽くす日が来たならば……
こんな痛快なことはないと思いませんか?
とかく荒れがちな『なろうエッセイ界』を、あなたと私の駄文が変えるのです。
でも荒れてるエッセイランキングも好きなんですよね……
えへへ。
日本ビジュアルヒストリー
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