嫌われシンデレラは、魔法使いに恋をする
カタン、と目の前の椅子が静かに引かれる音がした。
お世辞にも綺麗とは言えない服を着て、くすんだ赤い髪を伸ばし放題にした女の子が読んでいた本から顔を上げると、これまた農民のように汚れた服を着た瓶底眼鏡の男性が、抱えていた数冊の本を机に置きながら女の子の前の席に腰かけたところだった。
ここは、小さな街の図書館の中だ。
通常、図書館と言えば、貴族の学院や王宮なんかにしかないと思われがちだが、この街には小さな図書館があるのだ。
身分証も持っていないような町人や農民でも出入りすることのできる街の図書館。
年季の入った小さな小さな建物なのだが、中に入れば本が所狭しと並べられている。
商人はともかく農民の識字率は高くないし、この図書館を利用する人はあまりいないが、それでも毎日誰かしらは窓際の椅子に座って本を開いている。
静かで、独特な紙のにおいがする場所だ。
この、赤いくせ毛を顔の前に長くたらしたボロボロの女の子、アリアが一息つける唯一の場所だ。
色々な事から逃げて、現実を忘れられるたった一つの場所だ。
アリアは与えられた仕事を全力で終わらせて作った少しの合間の時間に、街に降りてきてはこの図書館に来て本を読む。
本の世界は現実を忘れさせてくれるから、好きだ。
なかでも、推理小説を読むのが一番好きだ。
巧みなトリックとジェットコースターのような怒涛の展開に、煩わしいことを全部忘れて没頭できてしまうところが好きなのだ。
「やあ。今日の本はそれ?やっと読んでくれてる。僕が勧めた本」
そんなアリアの目の前に自然な動作で腰掛けた瓶底眼鏡の男性は、少し身を乗り出して、アリアの手元を覗いた。
そしてにんまり笑う。
「最後の3行のどんでん返しが驚きでね。多分、読み終えた君は……」
「だ、駄目です。ばらさないでください。ちょうど今、最後のパートを読んでいるんですから!」
嬉しそうにネタバレを話しだそうとする男性に向かって、アリアは慌てて口に指を当て、黙るよう懸命にジェスチャーをした。
図書館なので音量は落とすように気を付けてはいたが、つい声に力が入ってしまう。
……
パタン。
茶々を入れてくる男性を黙らせたアリアは本を読み切り、軽い音を立てて本を閉じた。
「………………」
「どうだった?」
「っ、最後の3行、大どんでん返しでした!まさか、締めくくりにあの言葉が飛び出してくるとは!235ページの主人公の台詞と、回想シーンでの父親の台詞はこの伏線だったのですね!ああ、さすがの私もこの展開は予想していませんでした!でも、清々しい良い終わり方です!」
「うん、だよね。僕、読みながら君が喜びそうな展開だと思ってたんだよね」
アリアが興奮してまくし立てると、ボサボサ頭で雑な服を着た瓶底眼鏡の男性は嬉しそうに頷いた。
アリアが、このみすぼらしい格好をした瓶底眼鏡の男性、ノアと出会ったのは今から何か月も前の事だった。
その日は珍しく図書館が少しだけ賑わっていて、いつもなら一人で独占できてしまうテーブルも、誰かと相席をしなければならなかった。
そこで適当に選んだ席のテーブルを挟んだ向かい側に、ノアが座っていたのだ。
ボサボサ頭で、瓶底眼鏡で、雑な服。丁度、今と同じような。
適当に選んだその席に着いて本の続きを読み進めていたら、唐突に、ノアがアリアに声を掛けてきた。
『それ、おもしろい?』
彼は、アリアが手にしていた新刊――日常の裏側に住む魔法使いが、日常の裏側で起こる様々な謎を解いていく話――に興味を持ったらしかった。
『ええと、あ、この本ですか?はい。面白いです。私、推理小説も好きだし、この作者の方も好きです。この人のトリックは魔法が絡んでいて現実離れしていますが、世界とロジックの作りこみが凄くて、推理小説としてだけでなく、ファンタジーとしても楽しめるところが特徴です』
『へえ。他には?』
『そうですね……造語を多用したり、背景の描写を細かくしたり、そう言った工夫が、この本の独創的な世界観を出している気がします。作者のセンスが窺えます』
『いいね、君はなかなか良い事を言ってくれる。本は好き?』
『あ、はい、とても好きです』
『うん、そうだろうね。最近は他に何を読んだの?』
この時のアリアは、完全に初対面の他人と馴れ馴れしく話を続けようとするこの男性に、少し不審感を抱いていた。
彼の着ている服や、手入れが全くされていない髪から推測をすれば完全に街の下層出身のようだが、瓶底のように厚い眼鏡と、学のある話し方、それから文字を読むという事実が、下層出身者の特徴とあてはまらないような、そんなちぐはぐで怪しい印象を受けた。
『最近はこの本の作者、ノワール・ジャックスの本をたくさん読んでいて、あとは摩天楼の秘密シリーズとか真珠の謎シリーズとかでしょうか。真珠シリーズの最新刊はこれなのですけど』
『ああこれなら僕も最近読んだよ。この最新刊の最後のトリック、あれだけはちょっと不完全燃焼だったと思ったけど、まあ面白かったかな』
『ええと、賛成です。あの最後のトリックは、ちょっと引っ張り過ぎた割には、インパクトに欠けました。もしかしたらあの場面、三人称ではなく一人称で書いても良かったかもしれません』
『なるほどね、それは面白いかもしれないね。いやもしくは、その前の会話の主語を全部こう差し替えると……』
『ああ、凄いですね、これは是非作者に提案のお手紙を書いた方が……!』
その日のアリアは、ノアを不審に思っていたにもかかわらず、思いがけず楽しい時間を過ごした。
アリアは社交的ではない。
いや社交的でないだけでなく、誰とも会話らしい会話をせずに一日を終えることなどざらだ。
そんな風だから勿論、本の話ができる友人など一人もいない。
でもひょんな事から出会ったこの彼は、アリアの意見を聞いてくれて肯定してくれて、それから自分の意見も教えてくれる。
アリアの言ったことに対して時に笑い、時に感心してくれる。
そして、いつも軽快にアリアの心を和ませるジョークを言い、時々真剣な顔で難しいことを言う。
こうやって誰かと他愛のない話をしたり、どうでもいい議論を真剣に繰り広げるのは楽しいのだということを、アリアは思い出した。
誰かと一緒にいて楽しいと思ったこんな経験は、アリアがずっと幼い時以来だ。
それからいつしか、アリアは図書館に来るたび、ノアが来ていないだろうかと小さな図書館内をくるりと一周してから席に着くのが癖になってしまっていた。
ある日は図書館のソファで寝入ってしまっているノアを見つけ、その隣に座って静かに本を読んだ。
またある日は雨の日で、濡れてしまったアリアにノアが綺麗なタオルを貸してくれた。
それから、メモを取っていたアリアの字を、隣に座ったノアが褒めてくれたこともある。
ノアと過ごす時間は、いつもとても楽しかった。
もしかしたらとっくの昔に、本を読んでいる以上に楽しいものになっていたのかもしれない。
*
「アリア!どこをほっつき歩いてたの?あんたの汚い小屋にまでわざわざ出向いて呼びに行ってやったのに、いないなんてどういうこと?私、今日夜会があるって言ってあったでしょう?もう時間がないわ。早く髪を結いなさいよ!」
時間ぎりぎりまで図書館でノアと本の話をして過ごし、帰宅したアリアを待っていたのは、物凄い剣幕と怒声だった。
鬼の形相でアリアに迫ってきたのは、腹違いの姉、アリスだった。
アリスが型落ちのドレスを箪笥から引っ張り出してあれでもないこれでもないとあちこちに散らかしたのだろう、足の踏み場が無くなったアリスの自室に引きずり込まれたアリアは、恐る恐る首を傾げた。
「ですが、夜会は8時からと……」
「グレゴリー子爵のところのアホに突然エスコートを申し出られたのよ!あいつ、他の女に断られたからギリギリで私を誘ったんだわ。ああ、苛々する」
(でもその誘い受けたんだ……)
「は?何か言った?」
「え?い、いいえ、何も!」
プライドを傷つけられて腹を立てながらも、その子爵の息子からの誘いを断らなかった姉を見たアリアは心の中で疑問に思いはしたが、ただ身を縮めていただけだ。
顔にも声にも決して出してはいなかったはずなのに。
しかし、自らが貶められる気配に恐ろしく敏感なアリスは、更に眉を吊り上げる。
「あんた、やっぱり何か言ったわよね?!可愛くないブスの癖に!あんたみたいなブスで穢れた血の女じゃ、子爵のアホにさえ誘ってもらえないこと分かってる?!いい、私はね、あんたみたいなゴミも養わなきゃいけないから、出来るだけいい男の所に嫁いでやろうって頑張ってるんじゃない!文句じゃなくて、美しく生まれた私に感謝しなさいよ、ゴミ!」
髪を振り乱したアリスは、勢いよく化粧台の上に乗っていたものをぶちまけた。
部屋に散らばったドレスを踏むまいと考えて避けるのが遅くなったせいで、アリアにはブラシや髪を巻くコテが容赦なくぶつかった。
そして運の悪いことにアリアに向かって飛んできた小物の中にペーパーナイフもあり、アリアにぶつかったそれは、アリアの手の甲をザックリ裂いた。
「っ!」
痛い。
そう感じた一瞬で、アリアの手が赤く染まった。
しかしそれを見たアリスがアリアを心配することはなく、逆に鼻を鳴らして嫌そうに舌打ちをした。
「なによ。それは私の所為じゃないわよ。あんたが鬱陶しいからよ。血、絨毯に垂らしたらただじゃおかないから。
…………ああ、そういえば私、新しいドレスが欲しいのよね。だから私、お母さまに提案しようと思うの。そろそろアリアを娼館にでも働きに行かせてくださいって。あんたみたいなブスでもドレス代くらいは稼げるわよね?あの女の子供なんだもん、男を篭絡する仕事は性にあっているでしょ?」
「……」
「まあいいわ。今日は早く髪結って」
アリスは自分が床に落とした物を拾うこともなく、化粧台の前の椅子にドシンと腰かけ、自らの金色の髪をさっと手で払うだけだった。
アリアは急いで傷口をボロ布で押さえつけ、ブラシやコテを床から拾い上げた。
雑な止血を施した後、ブラシやコテを綺麗なタオルで拭き、そのままアリスの髪を結い始める。
アリスは、このクライトン男爵家の跡継ぎ娘であり、男爵の妻の娘だ。
そしてアリアは、クライトン男爵と平民の浮気相手との間にできた子だ。
幼い時のアリアは街の外れで、母親と2人で暮らしていた。
そして時々人目を忍んで会いに来るクライトン男爵を父と呼び、慕っていた。
その時のアリアは男爵を父と呼びながらも、何となく理解していた。
男爵には正しい家族がおり、自分と母は誰からも認められない家族なのだということを。
そしてこうも思っていた。
アリアがこうして男爵と母と幸せに過ごしている時間、自分たちは罪を重ねているのだと。
男爵の本当の家族の幸せを犠牲にして、偽りの家族の時間は成り立っているのだと。
自分たちが良くないことをしているのだろうとは分かっていた。
自分が父親と楽しい時間を過ごせば、一方で悲しむ人たちがいるのだと心の隅ではわかっていた。
誰にも認められることのない母親との子供なのに、アリアが図々しくも男爵を父と呼んでいることも罪だと分かっていた。
男爵から物を贈られるたびに笑顔の裏で、アリアは心のどこかで怯えていた。
男爵から誉められるたびに喜びながらも、アリアは後ろめたい気持ちになっていた。
そんなアリアの懸念通り、犯した罪は隠しきれるものではなかった。
いつか綻んで、明るみに出る。そして、悪人は断罪される。
それは何の変哲もない、アリアの母親と男爵が二人で出掛けた夜だった。
いつもはアリアと母の住む家に訪ねて来るだけの男爵だが、その晩は母と二人で出かけることになっていたのだ。
アリアは一人で留守番をしていた。
しかし、いつまで経っても2人は帰ってこなかった。
その晩の二人は馬車に轢かれて、あっけなく一緒に死んだのだ。
この事故で、クライトン男爵家は稼ぎ頭を失ったのみならず、男爵の浮気という大ニュースを世間に大々的に公表してしまった。
その所為でクライトン家の評判は地に落ち、社交界から酷いバッシングを受けた。
それから長い間、クライトン家の夫人とその娘であるアリスがしてきた苦労は想像に難くない。
これは全て、アリアと、アリアの父親と母親が他人の不幸を顧みず自分勝手なことを願ったからだ。
勿論、アリアの存在もその事件をきっかけに明るみに出た。
アリアだって、クライトン夫人やアリスに負けないくらいの酷い言葉を散々浴びた。
貴族と平民の混血で、汚い雑種。
両親の不実でできた子供。汚らわしい子供。
だが、それは仕方のないことだ。
アリアのような存在は、おぞましいものでしかない。
そしてクライトン家は、不幸にもそんなアリアの面倒も押し付けられた。
アリアのことは教会や孤児院にでも送ってくれればよかったものを、どこからか現れた母の友人を名乗った弁護士が、『アリアはクライトン男爵の血を引いているのだから、貴族の家に入れてやるべきだ。孤児院などに送ってしまえばやがてスラムの住人になってしまい、碌な人生が送れない』と要らぬ正義感を振りかざし、最終的にアリアを拒否するクライトン家にアリアを入れてしまったのだ。
その日から今まで、アリアはずっとクライトン家の倉庫の片隅で寝起きし、朝日が昇る前に起きて、夜遅くまで働いた。
給料などは勿論出ない。奴隷に近いような生活をしていた。
クライトン夫人に罵られ、頬を叩かれ、突き飛ばされても、アリアは耐えてきた。
あまり、悔しいと思ったことは無い。
もう嫌だ、辛い、痛いと思ったことはあるが、理不尽だ、と思ったことはあまりない。
アリアは、クライトン夫人の怒りや憤りはもっともだ、と思ってしまったのだ。
アリアたちは悪いことをしてきた。クライトン家に対して、非道の行いをしてきた。彼らは甚大な被害を被った。
だからアリアは、クライトン夫人が手をあげるのも、甘んじて受けてきた。
腹違いの姉であるアリスは、夫人よりも更にアリアに対して容赦がない。
だがアリアは、これも罪滅ぼしなのだと思って、受け入れてきた。
全部、泣き言も言わずに我慢した。
本当は、痛いし怖いし、人に嫌われて罵られるのは擦り切れるように辛い。
でもそれは考えないようにして、我慢しないといけない。
夫人とアリスは、アリアの母親と男爵の行為、それからアリアの存在によって、それだけの傷を受けたのだ。
理不尽だとか逃げたいだとか、そんなこと何も考えずに、ただ、痛いことが起こっても苦しいことが起こっても、抗うことを諦めないといけない。
*
「ねえ、その手の包帯はどうしたの?」
図書館の一角、テーブルを隔てた向かい側、頬杖を突いてアリアを覗き込んできたのはノアだ。
「ああ、これですか?ええと、ペンでひっかいてしまって」
「そう。でも君、右利きだよね?右手でペンを持った時に右手の甲を引掻いたの?」
「……左手で、ペンを持った時に引掻いてしまって」
アリアが言い終わらないうちに、頬杖を更に頬に食い込ませたノアが不満げに大きく息を吐いた。
「君は嘘が下手だね。小説の内容に口を出すときの君は冴えているのに、誤魔化す時の君はどうやらポンコツになるみたいだ。猫に引っかかれたとでも言えばいいのに、自分の左手で持ったペンで引掻いてしまうなんてどう考えても不自然でしょ。ほら、包帯巻きなおしてあげる。利き手に巻く包帯は、どうしても不格好になりがちだ」
「あ、いいです。汚いですから……」
ノアに手を差し出されて、アリアは反射的に手を引っ込めた。
「ああ、ごめん。手を洗ってくるよ。ちゃんと石鹸付けて。それならいい?」
「ち、違うんです、この包帯が汚いから……」
「汚い包帯を巻いてるなんてもっと駄目だ。新しいものを買って来よう」
「あの、包帯も綺麗ではないのですが、私の傷口も、その、綺麗なものではないので……」
包帯が巻かれた手の甲を、机の下に隠してしまう。
ペーパーナイフで切れた傷口は痛々しく、膿んで汚かった。
傷がある手で水仕事も外仕事もこなさなくてはいけないので治りも遅いし、どう考えても人様に見せられるような綺麗なものではないのだ。
「傷口が汚いからって綺麗に処置をしなかったら、醜い傷跡が残るよ。さあ、包帯、買いに行こう」
「いえでも」
「君がなんと言おうと行くからね」
「ええっと、すみません、もし行くとしても、恥ずかしいんですけど、今持ち合わせが……!」
揺らがない意志の強い口調で宣言されたアリアは、ぎゅっと目をつぶって訴えた。
百歩譲って包帯を巻くのをお願いしたとしても、アリアはお金を持っていないのだ。
行くことを了承したところで、肝心の包帯が買えない。
「何言ってるの。包帯くらい、言い出しっぺの僕に買わせとけばいいでしょ」
「でも……」
アリアはまた戸惑った。
アリアが両親以外の誰かに何かを買って貰ったことなど、今までで数えるほどしかない。
さらに、数少ないそのうちの一回にもう既に、ノアから軟膏を貰ってしまっている。
何故だか分からないけど、唐突に「手に塗ってごらん」と渡されたものだ。
まだアリアが言い淀んでいると、ノアは「さあ行こう」と急かしてくる。
「君は日が昇っている間に帰らないといけないんでしょ。もう時間ないよね。走りたくないなら早く立って」
これ以上遠慮し続けるのも良くないと思ったアリアは、おずおずと立ち上がる。
「あの、お礼はいつか必ず……」
「お礼か。いつかと言わず今日、僕が包帯を巻くのを成功させたら、笑顔でありがとうって言ってくれるだけで十分かな」
「そんなこと!そんなことはもちろんです、ありがとうございます」
アリアは大きく頭を下げた。
少し笑ったノアは、そんなアリアに合わせるように歩きだした。
彼の身長は、瓶底眼鏡で本を読みふけっている彼からは想像できない程高い。
見るからに足が長いので、アリアに合わせてゆっくり歩くさまは、少し窮屈そうに見えた。
ノアに導かれるまま街の歩道を歩き、幾つかの通りを通り過ぎ、あっという間にこじんまりとした薬屋の中にいた。
壁からは所狭しと薬草がぶら下がっており、独特の濃い匂いがする店内だ。
行きつけではない薬屋の店内を見回しているアリアの横で、ノアは素早く包帯と、何やら瓶に入った薬を注文していた。
薬屋を出て、次に連れて行かれたのは街の小さな庭園だった。
その木陰の下に丁度ベンチがあったので、アリアたちはそのベンチに陣取った。
季節は鮮やかな夏が過ぎて、丁度穏やかな秋が来たところだった。
今日という日が、冬支度を始めた植物の色が薄い秋空に映える良い日であったことに、アリアは遅まきながら気が付いた。
吹いてきた柔らかい風が気持ちいいと思ったところで、横から低くて心地いい声が聞こえてきた。
「ええと、今更だけど、僕が君の手に……触れることになるけど、いい?」
「あっ、はい!むしろすみません。こんなボロボロの手なんかを触らせてしまって」
アリアは、自分で巻いた不格好な包帯を片手で剥ぎ取ろうとして、ノアに制された。
きっと、片手で不器用にするくらいなら包帯を取るのも任せてくれという意味なのだろう。
「いや、すまなくなんて全然ないんだけどさ。君の家の事情は少し複雑なようだけど、君の手がこんなになるまで酷使させているという事実に対しては気分が悪いよね」
「私は、大丈夫ですよ。大丈夫です」
頭を大きく横に振りながら、アリアは包帯越しに伝わってくる人の手の温かさを不思議に感じていた。
人の手というのは、こんなに温かだったのだろうか。
時々アリアに振り下ろされる義母の手のひらがいつも冷たいから、人の温度などもう忘れてしまっていた。
古いアリアの包帯を解き終わったノアは、薬屋で買った瓶の蓋を開けた。
漂ってくる薬らしい匂いから察するに、瓶の中身は傷薬なのだろう。
ノアは薬を丁寧にアリアの傷口に塗ってくれている。
そして時折、しみたりしないかと気遣ってくれた。
「ところで、この前渡した軟膏は使ってる?」
「軟膏ですか?ええと、使うのが勿体なくて、大事にしまってあります。でも良い香りがするので、毎晩嗅いで寝てます」
「……なんとなく、君はそういう事しそうだなって思ってたよ。軟膏というものは、嗅ぐのではなくて塗ってこそだ。彼らには塗られるという役割があるんだ。お願いだから、その役割を全うさせてやってくれ。いい香りがするものが好きなら、また何か見繕ってくるから」
困ったように眉を下げたノアは、新しい綺麗な包帯をアリアの手に巻きつけ始めた。
「あ、あんなに凄いもの、もういいです!私は大丈夫ですから、そのお金で是非、貴方自身の服でも買ってください!」
「あ、ああ。僕の服ね。まあ確かに、これはボロボロの服だからね」
農民でお金もなくて、こんなボロボロの服しか着られないノアに、これ以上物を貰う訳にはいかない。
そんなアリアの必死の遠慮に、ノアは一瞬迷子になったような顔をしたが、すぐに自分の着ているボロボロの服を見おろして、ああ、と頷いていた。
「本当に、ありがとうございました」
綺麗に包帯が巻かれた腕を抱きながら、アリアは深々と頭を下げた。
「笑顔でって言ったのに、そう深々と頭を下げられたら顔が見えないんだけどな。まあ、君は前髪が長いから、顔を上げていても見辛いといえばそうなんだけどね……」
治療も済ませて小さな庭園を一歩出た時、「そうだ」と声を上げて、ノアがアリアの方にぱっと振り返った。
彼は、何か面白いものを見つけた時の顔をしている。
「いつも図書館に籠りきりの僕らが折角街に出て来たんだし、あそこのアイスクリームでも食べようか。アイスクリームは好き?」
見れば、不思議な屋台が二、三軒道の向こうに立っている。
チラホラと人がいて、ある程度人気のある屋台なのだということが窺えた。
「アイスクリーム?」
「冷たくて甘いお菓子」
「……」
アリアは甘いお菓子というものを思い出してみた。
幼い頃は、毎日とはいかないまでも、結構な頻度で食べていた。
父親がいろいろ買ってきてはアリアに与えてくれていたからだ。
あの甘いお菓子は、結構好きだった記憶がある。
「うん、食べたそうな顔してるね。
……あ、次のそれはお金がないって顔だね。大丈夫。言ったでしょ、言い出しっぺに買わせておけばいい」
アリアの百面相を看破したノアは、ニコッと笑って早速アイスクリームの屋台の方に向かって行った。
「だから、じぶんの服を買ってください……」
気を遣って優しくしてくれるその広い背中を見て心がじんわり温かくなるのを感じながらも、困った顔をしたアリアはぽつりとつぶやいた。
はいっと渡された、綺麗な色をした冷たいアイスクリームは、不思議で甘くておいしかった。
口に入れたら溶けてしまうこの素敵なものは、食べてしまうのが勿体ない。
「ほら、猫みたいに舐めてないで、頬張ってごらん。もう夏でもないのに、うかうかしてるとアイスクリームってやつはすぐ溶けてくるんだ」
アイスクリームをチビチビ食べるのはよろしくないらしい。
アリアは意を決して口を開けてみた。
「え、えい」
アイスクリームの頭ではなく、溶けかかっていた胴の部分にかじりついたアリアは勢い余って顔面でアイスクリームに突っ込んだ。
自分の顔の所々が冷たい。
アリアが顔を上げれば、ノアと目が合った。
彼は、愉快そうにクックックと笑っていた。
「君、アイスクリームに突撃したんだね。鼻の頭、付いてるよ。僕の指で取ってもいいっていうなら取ってあげるけど、どうかな」
「あっ、いえ。お手を煩わせるわけには。取れましたか?」
農民の癖に長く綺麗なノアの指がアリアに触れる前に、アリアは自らの着ていたローブの裾でグイッと鼻を拭っていた。
アリアの質問に「とれたよ」と律儀に答えながら、ノアの眉が少し残念そうに下がったのは何故だったのだろう。
アリアには見当もつかなかった。
「あの、どうしてあなたは、見ず知らずの私にこんなに良くしてくれるのですか?」
アイスクリームを食べ終わった図書館への帰り道、アリアは隣を歩くノアに常々思っていた疑問をぶつけていた。
「僕たち、見ず知らずかな?もう何か月も毎週図書館で顔を突き合わせてる。たくさん話もした。それでも僕は、君の中でまだ見ず知らずの他人?」
「そっか、じゃあもう見ず知らずじゃないのかな……。でも、いつも思っていました。貴方は私なんかとお喋りしてくれて、しかもこうして親切にもしてくれて。どうしてなのですか?」
こつん、と足元の小石が音を立てて転がっていった。
アリアに親切にしてくれて、アリアと話をしてくれる人は、今まで誰もいなかった。
こんな風に、温かさをくれる人は誰もいなかった。
「どうしてだと思う?」
「私、お金は持っていませんよ……?」
「……君は、活字が相手だと無類の洞察力を発揮する癖に、現実では本当に鈍感なんだね。いくら馬鹿でも君の身なりを見て、恩を売って後からお礼をたかろうとする輩は稀だろうと思わない?」
「そうか、そうですね!ああ、いえ、勿論、貴方が私にお金を請求するなんて思ってないのですけど。でも、なんというか、親切にされることが稀なので、なにか、親切にしてもらえる理由があるなら聞いてみたいと思ったというか……」
「普通の人は理由を考えるより先に、困っている人がいたら反射的に心配するし、友達なら尚更、自然と力になりたいと思うだろうね。でもまあ、僕の場合の理由は少し特殊だけど。聞きたい?」
特殊、そう言った瓶底眼鏡の奥の瞳がどんな色に光っているのか、レンズが歪んで正確に捉えることが出来ない。
アリアは答えを仰ぐために頷くしかなかった。
しかし頷いても、ノアは暫く何も教えてくれなかった。
「………………うん、ごめん。やっぱり、ここまで言っておいてアレだけど、何の心構えもない君に、いきなり予期せぬ理由を言うのは、僕としても君の反応を想像して少しばかり緊張してしまうから、そうだな、推理してみて。君がよくやってる、犯人の動機当てゲームだ。僕のその特殊な理由ってやつ、当ててみて。当たったら教えてあげよう」
「ええと、じゃあ、宗教上の理由……ですか」
「……君は犯人の動機が分からないないときは、いつも宗教上の理由ということにするよね」
思考の放棄だよ、とアリアの返答に難癖をつけたノアは、大げさに肩をすくめた。
「ええと、では、占いかなにかでしょうか。怪我をした女の子に親切にすると運気が上がるとか」
違う違うと言いたげに首を振ったノアは、うーんと小さく唸ってから、アリアの顔を覗き込んだ。
ノアの瓶底眼鏡は不思議で、その奥にある瞳がぼやけていないようで、ぼやけて見える。
だからアリアには、今ノアがどんな目をしているのか、分かりそうで分からない。
「じゃあ、物凄いヒントをあげようか。僕は今、君が暗い顔をして話してくれたあの男爵家に居続けるのと、好きでも何でもないであろう人間に突然結婚を申し込まれて連れ去られるのと、どちらがマシだと考えているか、気になってる」
「ええと、どういうことですか?
でも、誰かから結婚をしてほしいと言われることはいい事だと思いますよ。だからどっちがマシかなんて……うーん、それで、私がどう考えるかですか?変なヒントですね。えっと、言葉遊びでしょうか?それとも、高度な比喩でしょうか」
言葉遊びでも高度な比喩でもないと言うように眉根にしわを寄せたノアは次の瞬間、何かに気が付いて飛び跳ねるようにぱっと顔を上げた。
「ねえ今、誰かから結婚して欲しいって言われるのは、君にとっていい事って言った?」
「え?えっと、そうですね、はい。誰かから好かれるのに、幸せでない訳はないのではないでしょうか」
この答えには、迷いはなかった。
それは、アリアが誰かから好かれることの難しさを知っているからだ。
嫌われることの痛みを知っているからだ。
そして自分とは縁のない夢のようなことであるからこそ、誰かに誰よりも好きだと言ってもらえることは、絶対に幸せな事なのだとアリアは思っている。
「それは例えば、その相手が君の好きな相手じゃなくても?」
なぜノアがアリアの役に立たない意見を求めるのかは分からないが、アリアはコクコクと頷いた。
「私なんかを好きだって言ってくれる人は、何と言うか多分、凄く優しい方で、絶対いい方で、私も好きになるはずで、あ、いえ私のことを好きになる人なんていないので……それなら私のことを好きでなくても、本が好きな人なら……」
言ってしまってから、ノアも本が好きだったことにハッと気が付いた。
きっと彼はアリアの言ったことなど何も気にしていないだろうけど、アリアの方は心の奥で一瞬だけ、この農民の彼と結婚する人は幸せになれるのだろうな、と考えてしまった。
「ああ、そっかそっか。
……そっか、君は君のことが好きで、本が好きな人ならいいのか」
アリアが慌てて掻き消した想像などいざ知らず、ふっと顔を上げ、ノアは秋の空を見上げたようだった。
さわさわと秋の乾いた木の葉が風に揺られて擦れる音がする。
今は豊かな季節。少し寒くなってきて、本を読むのに最高な季節でもある。
*
「やっぱり貴方は私の娘よ、アリス。あの侯爵の心を射止めるなんて、素晴らしいわ」
クライトン男爵家の流行の過ぎた高価そうな調度品と、安物の家具がごちゃ混ぜに存在しているティーサロンで、ほつれたソファに座ったアリスの母親であるクライトン夫人が、その向かいのソファに座ったアリスと紅茶を飲んでいた。
菓子を買うような余裕はこの家にはないので、彼女らのティーパーティの主役は専ら、アリアの淹れた薄い紅茶だけだ。
「あはは。でも不思議だわ、お母様。私、彼に夜会で挨拶なんてしたかしら?ノワール・クロノスなんて喋ったら絶対憶えていそうなものなのですけど。だって彼ってばお金持ちで顔も良くて、有名な小説家なのよ」
いつになく高い声で笑うアリスと夫人の話題は、アリスに来た縁談の話だった。
アリスは、アリアでも知っているような大貴族のノワール・クロノスから手紙で求婚されたらしい。
ノワール・クロノスと言えば、有名な貴族なだけでなく、アリアの好きな小説家の一人でもある。
もしアリスとその男性が結婚することになったら、彼の姿を一目くらいは見られるだろうか。
サインをもらうことは無理だろうけどもしかしたら、素敵な小説を生み出してくれたことへのお礼くらいは言えるかもしれない。
「きっと遠目に貴方を見て、一目で恋に落ちたのでしょ。しかし腹立だしいこともあるのよ。侯爵が勇気を出して貴方と挨拶を交わさなかった所為で、親書にあった貴方の名前が間違っていました。よりによって貴方の名前を召使いと間違えるなんて、侯爵位持ちでなければ破り捨てていたところだわ」
「え?……どういうこと?お母様、今、アリアの名前で手紙が来たっておっしゃいましたか?」
ピシッとその場の空気が凍り付いた音がした。
アリア、という単語が聞こえたので、部屋の端で湯を沸かしていたアリアも身を固くした。
「単なる綴り間違いでしょう。考えてもみなさい。侯爵家の当主が、この薄汚い娘を見初めることは天地がひっくり返ってもあり得ない。そもそも出会うことも、名前を聞くことさえない筈よ」
夫人は、凍った緊張感を打ち破るように首を振り、紅茶をすすった。
「まあそれもそうですよね。私とあいつの名前を同じような綴りにしたお父様もムカつくけど、お母様が仰るように、惚れた女の名前の綴り間違いだなんてもっと失礼よね。これは侯爵に会った時に叱ってあげないといけないわよね」
ずっとアリアは身をこわばらせていたが、結局、上機嫌のアリスの視線はアリアに向かってくることは無かったし、夫人も侯爵の綴り間違いは水に流すことにしたようだった。
どうやらアリアにとばっちりが来る心配はもうなさそうだ。アリアはホッと胸を撫で下ろした。
しかし、アリスとアリア、綴りが似ているからと言って、これから一生共に歩んでいきたいと思った女性の名前を間違えるなんて。侯爵は凄い作品を書く、頭が良い方の筈なのにおっちょこちょいなのか。一体どんな方なのだろう。
一方で、その男性の妻になるアリスといえば、嬉しそうにああだこうだと将来の夫との展望について話すのに夢中のようだった。
「ああ。これで、この貧乏生活ともおさらばよね、お母様。
侯爵で売れっ子小説家だったら、お金はたくさんあるはずだわ。新作のドレスを買ってもらって、靴も買ってもらって、専属の侍女も雇って、それから庭には薔薇園を作るの!そこで毎日侯爵と一緒にお茶を飲むわ」
「そうね、侯爵もきっと喜ぶでしょう。それにね、クロノス侯爵は相当な美男子でもあるのでしょ、きっと皆が羨むでしょうね」
「そうよね、ああ、待ちきれません!お母様、早く承諾の返事を出しておいて下さいね。その時に結婚式の打ち合わせの日も指定していただけないかしら。できるだけ早い方がいいです。だって、早く結婚したいもの!」
「心配いらないわ。先方は、もし貴方が結婚を承諾してくれるなら、一刻も早くクロノス家に来て欲しいっておっしゃっているの。結婚式の打ち合わせもすっ飛ばして、挨拶に来たその足で貴方と屋敷に帰りたいとか、本がたくさんあるから夜も一緒に読めたらいいとか、情熱的なことが手紙には書かれているわ。流石小説家ね。ふふふ」
「あら素敵だわ!本だけは嫌いだけど、侯爵様が望むなら付き合ってあげてもいいわ。それより早く迎えに来て欲しいの。早く会いたい。彼への返信に、早く迎えに来てって付け加えておいてくださいませ、お母様」
「はいはい、分かったわ」
興奮しているアリスは瞳をキラキラさせて、高い声で喋り続けていた。
過去にあった男爵の浮気のニュースで落ちてしまっていたクライトン家の評価は今、辛うじて夜会の招待は受けられるくらいには回復していたが、アリスへの良い縁談の話はなかなかなかった。
だから今回、年頃を完全に過ぎてしまう前に、たぐい稀なる良縁を引き寄せたアリスが大興奮しているのも無理はない。
*
そんな会話が繰り広げられた日から一週間とそこら。
雨がしとしと降っている今日は、アリスに求婚をしたクロノス侯爵がクライトン家に訪ねて来る日だ。
この日に備えて、アリアはほとんど寝ずに玄関と客間、廊下とキッチン、主要な部屋を全て磨き上げ、アリスのドレスを買う資金を稼ぐために、街の古本屋で写本の仕事をした。
約束の時間になって、ドアがコンコンと音を立てた時、アリアは玄関の奥にある廊下から玄関ホールをこっそり覗いていた。
ノワール・ジャックス、本名をノワール・クロノスという有名な小説家を一目見たいと思ったのだった。
そして、手にはタオルもあった。彼に渡す機会など無いだろうが、雨だから一応だ。
「ようこそ、ノワール・クロノス様。わたくしを選んでくださったこと、本当に光栄ですわ。これから貴方に誠心誠意尽くしますわね。あ、それはそうと、親書でわたくしの名前の綴り、間違えていましたわよ。わたくしを見初めてくださったのなら、わたくしの名前くらいきちんと綴ってくださらないといけませんわ」
玄関扉が大きく開いて、外の雨のにおいと共にノワール・クロノスが姿を現した時、アリスが待ってましたとばかりにお辞儀をし、満面の笑みで出迎えた。
が。
「……は?」
月のように綺麗な銀の髪、細長く整った体躯、綺麗な瞳の男性、噂以上の美男子だったノワール・クロノスは、挨拶より何よりも先に、心底意味が分からないという声を出した。
「……は?ですか?」
「何を言っているんだ、貴方は」
整った顔を歪ませたノワール・クロノスが、もう一度首を傾げた。
「もう。ですから、わたくしの名前、最後の綴りが間違っていましたよ。わたくしアリアではなくて、アリス、ですもの。名前を間違えられて、わたくし悲しかったんですから」
ぷんっと頬を膨らませたアリスは腰に手を当てる。
それからノワールを中に招き入れようと、その手を取ろうとした。
しかしノワールはつっと目を細めて、迫ってきたアリスの手を避けた。
「……ああ、合点がいったよ。それは僕が綴りを間違えたのではなくて、貴方が想像力を過剰に働かせてしまったというだけに過ぎないね」
「え?え?貴方こそ勘違いをされているようですわ。わたくしがアリス、ですわよ。それで、貴方の書類が間違っていて……」
「ほら、ゆっくり深呼吸をして冷静になってみてごらん。普通、男が一世一代の結婚を申し込むとき、好いた相手の名前の綴りを間違えると思う?いくら筆に覚えのない人間でもそんな間違いは犯さないのに、仮にも仕事として文字と親しんできた僕のような人間が、そんな愚かな間違いを許すはずがないよね」
目を細めたノワールは玄関前に立ちはだかっているアリスの脇をついっと通り抜けて、玄関ホールに靴を鳴らして入ってきた。
外は雨なので靴くらいは濡れていてもいい筈だが、なぜか彼の靴は先まで乾いていて綺麗だった。
「え?ちょっと、お待ちになって……それって、貴方は、あいつ、あのボロ雑巾と結婚すると……?」
「ボロ雑巾?
それよりアリアはどこ?この分だとどうせ、アリアにきちんと話は行ってないんでしょ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ボロ雑巾と、結婚するって言ったの?貴方!」
「だから、ボロ雑巾ってなにかな?
僕はね、この玄関扉を開けたらアリア・クライトンが出迎えてくれるとばかり思ってたんだよ。彼女が結婚を承諾してくれた上に、早く迎えに来て欲しいなんて言うから、喜んで仕事も全部終わらせて急いで来たよね。それなのに、扉を開けたら見たことのない女性が勘違いして立っていて、ぎゃんぎゃん喚いている。流石に苛々するんだけど」
ノワールが冷たく目を細めるその仕草は、妖艶を通り越して怖いような空気さえあった。
「ち、違うわ!貴方は勘違いをしていると思うの!アリアは今連れて来るけど、本当に不細工で汚い子よ!貴方も間違えたのだとすぐに気づくはずだわ!」
彼の視線で射抜かれてビクリと身を縮めたアリスは、それでも勇敢に大きな声でノワールを否定した。
そしてアリスは、猛スピードでアリアがひっそり隠れている廊下の方に突進してきた。その顔が怖くて、アリアはタオルを取り落としてしまった。
「これがアリアよ!ね、見ての通りボロボロできったない子でしょ!貴方が何を思って頑なにアリアの名前を言ってるのか分からないけど、絶対に人違いなのよ!ね、アリアも言ってやりなさい。こんな人、見たことないでしょ?」
アリスに捕獲され玄関ホールに引きずり出されたアリアは、倉庫に逃げ帰りたいと全身で考えていた。
一目見たいと思っていた小説家は、完璧に輝くような美貌を持った男性で、あり得ないような気品が漂っている。
ボロボロの服とボサボサの髪のアリアなんて、その輝きにあっという間に焼き殺されてしまうのではないか。
「え、えっと、はい。この方とお会いしたことはないです……」
アリスに小突かれたアリアは辛うじて声を出し、後ずさった。
しかし距離を取るように後ずさったはずなのに、何故か次の瞬間にゅっ、とノワールの端正な顔が目の前に現れた。
「今の僕と会うのはこれが初めてかもしれないけど、実は僕たち結構な頻度で会ってるんだよ。いつもの恰好で来るのもいいかと思ったけど、ご家族の前だからね。挨拶は大切だし、牽制の意味でも大層な衣装は威力があるから、眼鏡も取ってカチカチの服で来たけど。どうかな」
目の前の人から、どこか安心する低い声がした。
この心地の良い声は、知っている。
特徴的な喋り方も、知っている。
「あ……ノア……?」
「うん、正解。でも僕はね、本当はノワール・クロノスっていう名前なんだ。これまでどおりノアって呼ばれるのも悪くないけど、時々はノワールって呼ばれたいかな」
「えっ。ということは、ノアはクロノス家の方だったということ?それならノアがノワール・ジャックス?そうだったら私、貴方の本の話を貴方としていたということ?えっでも、……なんでそのノアがここに……?」
ノアは、瓶底眼鏡のボロボロの農民だったはずだ。
確かに妙に品がある怪しい農民ではあったけど、きちんと農民だったはずだ。
思い出してみれば、ノアの顔の造りは確かにノワールと似ている。声は一緒だ。話し方も一緒。背格好も、言われてみれば。だが、彼は農民だったはずだ。
その農民だったはずの彼が、何故か侯爵家を名乗ってアリアを呼び出している……
目を白黒させたアリアが深呼吸をするのを待って、ノワールはコホンと咳払いをした。
「何で僕がここにいるかっていう理由は、手紙が君に届いてなかったから、今言うしかないんだけど」
何か言いたげにぎろりとアリスを一瞬睨んでから、ノワールはアリアに向き合った。
「君は、本が好きな人となら結婚してもいいって言ってたよね。
僕はね、本が好きだよ。なんなら、自分で書いてしまうくらい好き。僕と結婚してくれるなら、もれなく僕の屋敷にある、あの小さな図書館の三倍は下らない量の本がついてくるし、庭にある本を読むのにぴったりな気持ちのいい木陰も君のものだ。冬ならあったかい部屋の暖炉の前で毛布に包まって一日中本を読んでいられるよ。
ということで君が頷いてくれたら、僕は君をここから連れ去りたいのだけど、どうかな」
「え?あの、今、なんか結婚って聞こえたような……」
パチパチと目をしばたかせ、アリアは掠れる声を振り絞った。
ノアの正体さえまだ完全に消化し切れていないのだ。頭が上手く回らない。
「言ったね。どうかな。こう見えて、今僕は逃げだしたいくらい緊張してるから、早く答えが欲しいかな。振る気なら、どうか一思いに頼むね」
萎むような声しか出せないアリアを見て困ったように笑ったノワールの眉の形は、ノアと一緒だった。
「なんで、私とけ、結婚を……?」
「うん。君はさ、図書館で僕と話してた時楽しくはなかった?僕はね、とっても楽しかったんだ。知らないだろうけど、僕がこんなに楽しく気楽に話ができた人間は君くらいなんだよ。それに君はとても優しいし、のんびりしているのに実は凄く頭がいい。……………………それから、その、とても可愛い」
「……!」
頭が言葉を理解する前に、全身が発火したように熱くなった。
全身から汗が噴き出したかのような感覚に襲われたアリアは声が出せなくなってしまい、反対に、その後ろで静かにしていたアリスは爆発した。
「待ちなさいよ!こいつが可愛いですって?あんた、目おかしいわよ!魔法?それとも変な呪いにでもかかってるんじゃない?」
「何言ってるの?僕が誰かの魔法や呪いにかかってるって?この僕が?貴方、自分が物凄く面白いことを言っている自覚はある?」
「お、面白いこと……っ?!」
物凄い勢いで食って掛かったアリスは、冷たいノワールの瞳に睨まれてあっという間に鎮火され、ぐっと押し黙った。
「と言う訳でアリア、僕は頑張って正直に君への気持ちを述べた訳だけど、君はどうかな」
「あ、あ、あ、はい、えっと、その……………………私も、貴方と話している時はとっても楽しかったです。いつも、時間が止まればいいと思っていたんです。だから、だからっ……!」
手のひらをぎゅっと握りこんだアリアは、声を振り絞った。
誰かが自分を可愛いと言ったことなど全く信用できなかったが、この目の前の人物がノアで、心休まるあの楽しい時間をアリアにくれた人物ならば、楽しいと感じた事実と感謝を伝えないという選択肢はない。
「だから……!」
次の言葉が出てこなくなった時、大きな手に腕を取られ、グイッと引き寄せられた。
前にあったノワールの顔が目の前にある。
「…………君の事だから何も考えずに言ってるんだろうけど、時間が止まればいいだなんて、それは結構な殺し文句だね。これで僕は、君に嫌がられても君を連れて帰りたくなってしまった訳だけど、覚悟は大丈夫かな」
返事など待たず、ノワールは踵を返した。アリアの腕を強く掴んだまま、ノワールは大股で玄関扉に向かって行く。
「ちょっと!待ちなさいってば!その不細工のどこがいい訳!?陰気で汚くて、最悪よ?なんで私じゃ駄目なの?なんで私がこんなやつに負けなきゃいけない訳?!」
ドレスをはためかせて、玄関扉とノワールの間に転がり込んできたのはアリスだ。
仁王立ちをして、ノワールとアリアをもう先には行かせまいとばかりに叫けぶ。
そしてノワールとアリアの背後に気が付いたアリスは、味方の到着に高い声を出した。
「あっ、お母様、丁度いいところにいらっしゃったわ。
お母様はこの家の主で、そのボロ雑巾を今まで育ててやったのよ。その恩を忘れたとは言わせないわ、アリア!」
アリスが大声を出していたから異変に気が付いたのか、待っていても客人が一向に客間に来ないので様子を見に来たのか、理由はどちらかなのか両方なのか分からないが、クライトン家を取り仕切る夫人が玄関ホールに現れたのだ。
こつん、こつんと夫人の履いている靴の音が不気味に響く。
「私は許しませんよ、侯爵。その娘は自由に幸せにさせるために、生かしておいてやったわけではないの。その娘を、私の許可なしに連れて行くことは許されないわ」
やはり先ほどまでのアリスの叫びを聞いていたのか、既に状況を察した様子の夫人の、苦みを含んだ声がホールに響いた。
それに対してはっと乾いた笑いを漏らしたノワールは、クライトン夫人を冷たい眼で見降ろした。
「貴方はまったくセンスのないことを言うね、クライトン夫人。全ての人は自由に幸せになるために生きているんだよ。勿論アリアも。
………………貴方には選択させてあげよう。アリアの自由な結婚を許すか、アリアとの縁を切るかだ。僕のおすすめは結婚を許す方かな。ほんの僅かだけどクライトン家に侯爵家との繋がりがもれなく付いてくるからね」
「……まず、その娘が幸せになることは許されないのよ」
ノワールの視線を正面から受けた夫人は、すべてに対する返答としてハッキリとそう言った。
「私たちは、許さないわ」
夫人の憎しみを湛えた瞳を見たアリアの腕が少し強張ったのを感じ取ったからなのか、ノワールの目がまた少し細くなった。
「あのね、貴方がそれを許せないように僕はね、好きになった女の子が不幸になることが許せないと思ってるよ。だから誰かが彼女の不幸を願うなら、家一つなんてすぐ潰せるって言いだすかもしれないね。どうする?」
「っ、権力を持つ者が脅しなんて、卑怯な……」
「何言ってるの。権力の使い方なんて脅しか、壁に掛けて飾っておくくらいしかないでしょ」
「……」
薄く笑ったノワールの圧力を全身に受けた夫人は、ぐっと潰されたような声を出して押し黙った。
長らくアリアを抑圧し、アリアの人生の脅威だった夫人を黙らせることは、このノワール・クロノスにとって、息をするように簡単な事だった。
そしてきっと、クロノス侯爵家が既に落ちぶれたクライトン男爵家を歴史から消すのは、赤子の手をひねるよりも容易い。
「……っていうかそれ以前に、私は貴方がおかしいと思うのよ!何で貴方、アリアにこだわるの?アリアをよく見て!不細工でしょう?ええ、こいつはどう見たって不細工だわ!こんなブスが結婚なんてありえない!ねえ、今からでも許してあげる!貴方は私と結婚しなさいよ!その方が貴方の為にもなるわよ!」
何も言わなくなってしまった夫人の代わりに、金の髪を振り乱したアリスが一歩前に踏み出す。
父の男爵に似て整った顔立ちをしているアリスは、長い前髪で顔を隠したボロボロのアリアを思い切り指さした。
「うーん。貴方はさっきから元気だね。
それは要するに、アリアが美しくないと、そういう事を言っているわけだよね?」
「当り前じゃない!どう見ても汚くて不細工でしょ!ねえ、なんで私じゃ駄目で、こんなやつと結婚したいなんて言うのよ!」
「アリアはね、長い前髪と煤の所為で分かりづらいけど、驚くほど綺麗だよ。初めて会った時に僕が見惚れてしまったくらいね。だからアリアが美しくないといった貴方のその口を、完膚なきまでに叩きのめして黙らせてあげることなんて、欠伸をするくらい簡単なんだけど」
「あ、あんた、目がおかしいんじゃない!?」
「もう一度言おうか。惚れた贔屓目で見なくても、アリアは綺麗だよ。まあ、この貴方との押し問答じゃ何も解決しないから、実際に見て思い知るのがいいだろうね。
そうだ。丁度3週間後にエルレイン公爵邸で夜会があるから、それに貴方も招待してもらおう。精一杯おめかしして来るといいよ」
「ど、どういうことよ!?」
「主観的にだけじゃなくて、客観的にも誰が一番綺麗か、夜会にでも参加してみれば嫌でも分かるでしょって言ってるんだよ」
初めて、ノワールがアリスに向かって微笑んだ。
ただそれは、にっこり親しみを込めた笑顔ではなくて、有無を言わせぬ圧力を有した微笑みだった。
「では、3週間後の夜会でね」
アリアがノワールに半分連れ去られるように馬車に押し込まれ、暫く走って到着した先にあったのは、本の中でしか見たことのないような豪邸だった。
これが音に聞こえたクロノス侯爵邸である。
門が開いて馬車が敷地内に入ると、まるで魔法でもかけられたかのように、空の色が明るくなって雨が止んだ。
青い空とクロノス邸の広い庭の緑、それから白亜の壁と灰色の屋根のコントラストが美しい。
景色に見惚れていたアリアは、止まった馬車からすぐに降ろされた。
降りるとすぐに、アリアは速攻メイドたちに引き渡された。
メイドたちがアリアを引き摺って容赦なく歩いていくので、ノワールの姿がすぐに遠くなっていく。
「ノ、ノア!これからどうすれば……!」
「彼女たちに任せておいて。君が不安なら僕がお風呂までついて行ってあげたいのは山々ではあるのだけど、本当にそんなことしたら君はきっと一週間は口利いてくれないでしょ」
メイドたちに担がれるようにして突っ込まれたのは、ちいさな庭園ほどのサイズのある風呂場の中にある、花の香りのきめ細かい泡が立った湯船だった。
そこでアリアは、数人がかりで体をゴシゴシ磨かれた。
こんなに広くて綺麗な白いお風呂、見たことも聞いたこともない。
石でできた架空の生き物のオブジェから流れてくるお湯も、天井の窓も、風呂場を鮮やかに彩っている南国の花も、何故か宙に浮いているブラシや石鹸も、初めて見るものばかりだ。
アリアがため息も吐けずに感心していたら、あっという間に体が拭かれて、何やら化粧水やクリームが全身に塗りたくられ、清潔なバスローブを着せられていた。
そして息つく間もなく次に連れて行かれたのは、大きな化粧台がでんと置かれた、控室のような試着室のような部屋だった。
その部屋の奥には大きなソファと、別の部屋へ続く扉がある。
アリアの体を洗ってくれたメイドの一人がその扉をノックする。
するとすぐにその中から、綺麗な紫の髪の男性がしゃなりと出て来た。
彼は、化粧台の前に座らされたアリアの方に真っすぐに向かってくる。
「つ、次は何を……?」
「次は髪を切っていくわ。
聞いたわよ。うちのどアホが、全然準備も出来てないあんたを3週間後の夜会に連れて行って、見せびらかしたいってウキウキしてるんでしょ」
げんなりとした口調でレギンと名乗った男性は、女性より女性的な手つきで、自らの腰に下げた物入から銀に輝く鋭い鋏を取り出した。
「めっちゃ痛んでるじゃない。髪は女の命なのに、何やってんのよ、ったく」
ジャキン、ジャキン、ジャキン、ジャキン!
大きな悪態と共に、恐ろしく戸惑いのない音がアリアの耳の後ろで響いてくる。
「この長い前髪、クッソ邪魔!」
ジャキン、ジャキン!
前髪と顔の間に鋏を入れられ、アリアは反射的に目をつぶった。
「ねえあんた、おバカな子よね。こんなに綺麗なのに、なんで今まで前髪で顔隠してたの?」
ジャキン、ジャキンという音が止んだと思ったら、レギンにピシャリと露になったおでこを叩かれた。
アリアは目を開けて、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめる。
「綺麗、ですか?」
「こんなの、誰がどう見ても綺麗って言うに決まってんでしょ?ほら、この深い海の色の目。果物みたいな唇に、絹みたいな白い肌と綺麗な形の鼻。ちょっとこけ過ぎてるけど、この顔に化粧なんてした日には、大化けよ」
「私の、母に似ています。あと父にも少し」
「あったり前でしょ?両親に似てない子供なんていないっての。でも、最高な遺伝子貰ってるわよ、あんた」
母親や父親に似た自分の顔は、彼らが死んでクライトンの家に引き取られた時から、なるべく見ないようにして過ごしてきた。
両親が憎い訳でも、嫌いなわけでもない。
ただ、両親に似た自分の顔を見れば、自分が彼らの悪い性質を受け継いでいるように思えてくるので何となく怖くて、直視することを避け続けていた。
「……最高な遺伝子だとは思えないんですけど」
「何か言った?」
「あ、いえ、何でもないです」
「あっそ。よし、もうカットはいいわね。次はどうしようかしら、くせ毛を生かして巻くか、ストレート……」
レギンの呟きをぼんやり聞きながら、アリアは考えていた。
そういえばアリアはまだ、ノワールに大切なことを伝えていない。
だからきっと、ノワールは大切なことを知らない。
言いたいことではないが、言わなければならない。
これを聞いたら彼はきっと、結婚したいと言ってくれたことを取り消すだろうけれど。
「……」
「えっと……」
「……」
風呂に入れられてさっぱりして、全身に化粧水を塗られてしっとりして、髪を切られてすっきりしたアリアは、シンプルで清潔なワンピースを着せられて、ノワールの書斎に案内されていた。
だが、目の前にいるノワールは書類を捲っていた恰好のまま固まってしまって動かない。返事もしてくれない。
「ったく、うちのどアホは」
ドスドスと足音を立てて移動したレギンがノワールの目の前で指を鳴らすと、ノワールはガタンと音を立てて動き出した。
「あ!えーっと、正直に言うと、目の毒と言うか、元々君の事は綺麗だと思っていたけど、汚れが落ちて髪を切っただけでここまで違うことに驚いているというか、多分これからしばらく君の目を見て話せそうにないと思うんだけど、そんな僕の失礼な態度も、寛大な心で許してくれると嬉しい」
いそいそと書類を片付けて、ノワールはアリアにソファを勧めてくれた。
レギンがため息をつきながら部屋から出ていき、それと入れ替わるようにやって来たメイドがお茶を淹れてくれた。
目の前に置かれたお茶は、見たことも聞いたことも、勿論飲んだこともないようなとても良い香りのするお茶だった。
それを小さく飲んでから、アリアは腹を決めた。
この話は、なるべく早く話さなくてはならない。
「あの、私、貴方に大切なことを言い忘れていました」
「うん、うん。何かな」
相槌を打ちながら、ノワールはティーカップの取っ手を観察しているようだった。
人の目を見ずに話を聞くノワール――いや、アリアはノアしか知らないが――は珍しい。
一息おいて、アリアは謝った。
「私、クライトン家の正式な子供ではありません。父は家庭があったにもかかわらず平民の母と浮気をしました。私、不実な両親から生まれていて、しかも綺麗な血の子供ではないのです。穢れた平民との混血なのです。
け、結婚したいと言ってくださっただけで、嬉しかったので、結婚は無かったことにしてくださって構いません。こんな大切な話、黙っていて本当にごめんなさい。騙していたようで、ごめんなさい」
きゅっと唇を結び、アリアはノワールの次の言葉を待った。
どれだけ冷たい罵りの言葉を投げつけられても、アリアは今までずっと耐えてきた。
だから今日も、彼に何を言われても大丈夫だ。そのはずだ。
「……………………まずは、頭を上げて」
しばしの沈黙の後、静かな声が降ってきたので、アリアはゆっくり頭を上げた。
見れば、ノワールは全く驚いても怒ってもいないようだった。
「僕は別に、君の血に魔女の血が混じっていようと吸血鬼の血が混じっていようと気にしない。もちろん平民だろうが貴族だろうが気にしない。
それから君は、僕を騙したと言って謝ったね。それは謝るに及ばないことだ。僕はね、好きな女の子の秘密を時間をかけて知っていくのは悪くないと思ってる。推理小説好きな君が、途中全部読み飛ばして最後のページだけを読むことはないのと同じように、僕も知っていく過程が好きだ。
だから君が言わないことも、言えないこともひっくるめて結婚を申し込んだと言っても……………………うん、君は不服そうな顔をしているね。これは大切なことだから、秘密で済まされることではないとでも言いたげだ」
「はい……」
「じゃあ教えてあげよう。僕もね、まだ君に言ってない秘密を山ほど持ってるんだ。だからこれで君に秘密が幾つあったってチャラだ。どうかな」
「……」
「………………まさか、秘密ばかりの僕と結婚したくなくなったなんて言わないよね。君が騙されたと泣いて結婚しないと怒るのなら、僕は今急いで全部教えるけど」
お茶に砂糖を落としたノワールは困ったように顔を上げ、今度はアリアの瞳を正面から見た。
優しくて、まっすぐな目だった。
思いがけず優しい言葉を貰って声が出せなかったアリアは、辛うじて頭だけをぶんぶんと振った。
こんなに素敵な人と結婚したくないなんて。そんな訳ないと言えればいいのだけれど。
一時の夢でもいいから、結婚したいと言いたいのだけれど。
やはり声が出ない。
「あのね。僕はね、君に惚れてるよ。君さえよければ結婚したいと思ってるよ」
アリアの頭の中を見透かしたようにノワールの低い声が聞こえて、アリアはビクンと体を起こした。
ボロボロのアリアが好きだと言ってくれただけでも驚いたのに、アリアの生まれを知ってもまだこんなことを言ってくれるなんて。
何故かアリアの目が熱くなってきた。
温かくて、とても優しい気持ちが心臓の奥から湧いてくるようだった。
しかし同時に、アリアは少しだけ怖くなった。
こんな綺麗な瞳に自分なんかが求められていいのだろうか。
「わ、私……………………気持ち、悪くありませんか。私は両親の浮気で生まれた子で、平民との混血です」
「君を気持ち悪いだなんて思ったことはないよ」
「でも、私の、私の両親は浮気を繰り返し、人目を忍んでこそこそと二人で外に出かけた時に、馬車に轢かれました。悪いことをしていた彼らは罰されたのだと思います。でも私は、彼らと同罪なのにまだ罪を償い切れていない。だから、私はこんな風に、貴方に良くしてもらう資格は無い、と、思うんです」
目の前の人の隣に立てる資格が自分にあるなんて、やっぱり思えなかった。
自分は幸せになるべきではないという思いが、どうしても消せない。
「まず、根本から間違ってる。彼らは罪など犯していない。故に罰されるべきでもなかった。それどころか僕としてはね、浮気をしてくれた二人に盛大に感謝したいところだ」
「えっ。なんで……」
「理由、聞きたい?」
アリアが遠慮がちに頷くと、「察してくれてもいいんだけどね」なんて呟きながらノワールは声を低くした。
「……二人が浮気をしてくれたおかげで、君が今ここに存在してくれているから、でしょ」
存在してくれてよかったなんて、そんなことを言われたことなんて、なかった。
あの優しかった両親だって、その言葉だけは言ってくれなかった。
このままこの人の言葉を信じてしまえたら、どれだけ幸せか。
そう思ったのも確かだが、今までアリアに向けられてきた冷たい眼が思い出されて邪魔をする。
飛んできた冷たい掌の感触が、投げつけられた酷い言葉の響きが、アリアの体に蘇ってくる。
あれはアリアが一人で受けるべきもので、ノワールを巻き込むものではない。
「でも、あの、私は……このままだと貴方に不利益をもたらしてしまうと思います。父が浮気相手の母と一緒に死んで、それが大きなニュースになった時、私とクライトン家の継母と姉は冷たい非難の的になりました。それだけではありません。私の両親の倫理に反した行為の証明として存在する私は、やはりいつまでも、皆にとって気持ちの良いものではないのです。私が一緒にいることで、貴方に迷惑をかけるのだけは嫌です……」
「心無い言葉は聞いていると気が滅入るよね、同感だ。でもね、頭の悪い噂や非難を潰すのなんて、苦いコーヒーを飲むより簡単だ。それは心配しないで僕に任せておけばいい」
砂糖を幾つか入れて混ぜた紅茶を飲んだノワールは、綺麗な顔で微笑んだ。
……
「それで、君が話したかった事っていうのは以上かな。僕の回答は腑に落ちた?」
可愛らしいお茶菓子を勧めてくれたノワールは長い足を組み替えた。
彼のその堂々とした振る舞いと余裕そうな微笑からは、アリアが苦しんできたものすべてを解決する力があるのだろうと思わされた。
そんな彼が話を聞いてくれて、その上でまだアリアがいいと言ってくれて、アリアは自分で思ったより救われたようだった。
きっとまた、こうしてウジウジと思い悩むこともあるのだろうが、それでも少しだけ怖くはなくなった。
彼は、自分なんかが釣り合うような人ではないことは分かっている。
自分は幸せになるべきではないとも思っている。
だが、彼が離れないでと言ってくれている間くらい、傍にいたいと思ってしまった。
「……あの、良いのでしょうか」
両手で掬うように持っていたティーカップのお茶を一口飲み、アリアは息を吸った。
「……私で、良いのでしょうか」
「ありきたりな表現で申し訳ないけど、君がいい、かな」
躊躇うことなく言い切ったノワールの腕が、おもむろにアリアの方に伸びてきた。
何だろうと思って見ていると、長い指がアリアの頬を撫でた。
それから、アリアの顔に垂れた髪を耳にかけてくれた。
優しい手だった。
もしも猫になれるのなら、一日中甘えて頬を擦り付けたりしたいなと一瞬考えて、アリアは慌てて自らの太ももをつねる。
まったく、自分がこんなことを考えるほど、想像力の優れた人間だったなんて思っていなかった。
アリアが自分自身に向けて溜息をついた時、何を思ったのか、ノワールの片手のひらが頬を大きく包んできた。
「僕はね、心配してる。僕が君に気持ち悪がられてないだろうかって。僕は君の顔を見ると、どうもにやけてるみたいだし、ちょっと気を抜くとこうして手が勝手に君に触れようとするし。いや正直に言うと、図書館で君が寝入ってた時何回か触っちゃったりした常習犯だし。
……まあこれは不可抗力で、無防備に可愛いことする君も悪いよね」
「……!?」
いよいよ顔を真っ赤にしたアリアはふるふると震えだしたが、一方のノワールは困ったような顔をしていた。
「それよりもっと心配なことがあってさ。さっき、浮気は問題じゃないって言ったけど、それは君の両親に限った話だからね。君が浮気をしてもいいっていう意味じゃないからね。君は無意識に人をたぶらかすところがあるから、これからうっかり君に惚れる男が出てきてもおかしくないんだよね」
「え?!た、確かに、私の遺伝子では心配かもしれませんけど、でも私、絶対に、誓って死んでも浮気なんてしません。あの、私なんてまず好かれるようなことはないでしょうし、それに、他の人になんて好かれたくありません」
一生懸命頭を振って否定すると、頬杖を突きはじめたノワールが嬉しそうに目を細めて笑った。
「………………それって都合のいいように解釈すると、君は僕になら好かれたいってことかな」
「あ、えっと、そういうことになるのでしょうか……いえ、お、烏滸がましいことを」
「そうやって何にも考えずに、可愛いこと言うところが危険だよね……………………やっぱり君にはいつもみたいにボロ着ててほしいんだけど、駄目かな」
「ええと、はい、私もこんな綺麗なワンピースでは落ち着かなくなってきたところです。なにか、ボロのローブのようなものがあれば着替えたいです」
「まあ……ボロは冗談だけど、落ち着かないならローブを貸そうか。僕、ローブと三角帽にはこだわりがあってね。たくさん持っているけど、君には特別にお気に入りの一枚を貸そう」
立ち上がったノワールは書斎を出て、私室に案内してくれた。
そしてクローゼットを開け放ち、彼のローブと三角帽コレクションをアリアに見せてくれた。
綺麗な漆黒のローブから透明なローブまで種類は様々で、カラフルな三角帽から古めかしい三角帽まで多種多様だった。
また、彼の意外な一面を知ることができた。
ローブと三角帽のコレクションを持っているなんて魔法使いのようだが、有名なファンタジー推理小説を書いているのだから、資料として集めたのかもしれない。
そんなことを思いながら、アリアはお気に入りだと言ってノワールが差し出してくれたローブの袖に腕を通した。
*
「アリア!おバカ!なんて小食なの!もっと食べんのよ!こんなガリガリの体じゃドレスがずり落ちるでしょーが!」
クロノス邸の重厚な食堂にて、レギンの怒声が響いていた。
彼が叱咤しているのは、たくさんの料理を載せた皿の前で嫌々をしているアリアだ。
「も、もう食べられません……」
「泣き言言うな!もう時間が無いの!食べて食べて食べなさい!」
3週間で夜会をそつなくこなせる淑女になる。それが、アリアの今回の使命だった。
痩せすぎているアリアは、まず太れという課題を出された。
そして食事の時間になるたび片っ端から口にものを詰め込まれていたが、今までお腹いっぱい食べたことなどなかったアリアはすぐに満腹になって、何も食べられなくなってしまう。
ノワールは「アリアは賢いからできるよ」と言うが、食べるのに脳みそは必要ない。
「アリア!姿勢が悪い!ドレスを着たなら、ドレスに着られてちゃいけないっつてんでしょ!」
食べることと並行して、勿論その他の課題も山済みだ。
レギンにビシバシと背中を叩かれているアリアが今取り組んでいるのは、ドレスの着こなしとハイヒールでの歩き方の練習だ。
「ヒ、ヒールが高すぎませんか……」
「あんた分かってる?美しさとはね、我慢と同意なのよっ!ヒールの高さくらい我慢してみせなさい!」
実はアリア、運動神経は悪くない。
ずっと身を縮めて生活していた癖さえ正せば、ヒールで歩くことは何とかなりそうだ。
ノワールは「アリアは可愛いからすぐできるようになる」みたいなことを言っていたが、ヒールで姿勢正しく歩くのに必要なものは可愛さではなく筋力だ。
「アリア、笑いなさい!女はね、余裕な顔して笑ってれば、大抵どんな勝負にも勝てるのよ!」
「は、はい……!」
来る日も来る日も、みっちり練習をした。
何年も何年も召使いの仕事しかしてこなかった体に、いきなりたくさんの所作や礼儀作法を詰め込むのは不可能だとアリアは絶望したが、それでも根だけはあげなかった。
絶対に、投げ出したりはしなかった。
「付け焼刃は付けてくるんだ。あとは僕がフォローするから」とノワールは励ましてくれた。
アリアは、ノワールの隣に立って人の前に出るのだと思ったら緊張して、寝る時間を削って練習するまでになってしまった。まあ、きちんと寝るようにと叱られてしまったが。
「アリア、お辞儀はこう!腰の角度が違うってんでしょ!足の運びも違う!見てくれだけ綺麗にしても美しさってのは生まれてこないって言ってんでしょ!あのどアホに恥はかかせたくないって言ってたのは誰?気張りなさい!」
「は、はいっ!」
アリアは真剣に頑張った。
今までで、こんなに頑張ったことなどないと胸を張って言えるほど頑張った。
ノワールも仕事の合間に、アリアの様子を見に一日何度も顔を出してくれた。
そこで彼に頬を撫でられると、何故か分からないが、もっと頑張れる気がした。
*
「すごい、綺麗」
3週間という短期間に怒涛のプランを組まれて死力を尽くしたのは、アリアだけではなかった。
ノワールの贔屓にしているという仕立て屋もだった。
彼らは、3週間という短い期間で、アリアにぴったりの美しいドレスを作り上げてくれたのだ。
王道の、しかしアリアの為だけのAラインのドレス。
物語の中でしか見たことのない、夢のようなドレス。
このドレスに負けないためにも、このドレスを贈ってくれた人に恥をかかせない為にも、アリアは今日、気を引き締めなくてはならない。
「ふん、あんたも綺麗よ。あんたのことを不細工って言ったクライトン家の連中に会ったら笑って言ってやるといいわ。『貴方たちとんでもない不細工ね』って。ほら、行きなさい。うちのアホが馬車の前で待ってるわ」
クロノス邸の大きな玄関が開け放たれ、ドレスを身に纏ったアリアは外に一歩踏み出した。
秋の少し冷たい風が火照った肌に気持ちいい。
青い月の光が眩しい。
そしてその光の先に、しっかりとした正装のノワールが立っていた。
鈍く光る銀の髪と涼やかな目元の彼は、絵画のように綺麗だった。
目を細めた彼は、アリアに向かって手を差し出してくれた。
馬車に揺られ、アリアたちは目的地に到着した。
今日がその、王都のとある公爵邸で行われる夜会の開催日なのだ。
オレンジの街灯が博物館のように大きな建物に続いて等間隔に並んでいる。
馬車から降りて思い思いに広大な庭の煉瓦道を歩く招待客たちに交じり、アリアたちは歩き出した。
「緊張してるね」
隣に立つノワールは小さく笑い、アリアの為に腕を小さく突き出した。
誰が見ても緊張した面持ちのアリアは、小さく震える手を腕にちょこんとひっかけるので精いっぱいだった。
ノワールはぎくしゃくしているアリアを暫く眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「アリア」
「は、はい」
「最後にひとつ、ありきたりな、でも本心からの言葉を僕から贈るね」
背の高いノワールがアリアの耳元に顔を寄せるようにして、少し屈んだ。
「……君はね、とても綺麗だよ、アリア」
小さく告げられた言葉を聞いて、アリアの瞳が深海の泡のように揺らめいた。
いつも否定ばかりされてきたアリアに、ノワールはたくさんの肯定の言葉をくれる。
彼の言葉はとても優しく、そして凛と胸に響く。
もう小さく縮こまることはしたくない。
自分を見つけてくれたこの人の為に、綺麗になりたい。
アリアをしゃんと立たせてくれる彼の言葉はまるで、魔法なんかよりずっとすごい魔法のようだと、アリアは思った。
会場内に入ると、たくさんの人が思い思いに歓談をしていた。
今日は、ダンスはないらしい。
ただ飲み物を飲んだり食べ物を食べたりしながら互いに交流を深め、人脈を広げる為だけのパーティだった。
早速、会場である大ホールの大きな扉の前に立っていた男性がノワールの到着に気付き、足早にこちらにやって来た。
いかにもおしゃべり好きそうな、小太りの髭の男性である。
「やあやあ、クロノス侯爵。君が女性を連れているなんて明日は空から槍が降るんじゃなかろうな?……………………いやあ、ここまで美しい女性だと、いくら君でもエスコートしたくなってしまうか!
コホン。ええ、レディ、こんなに美しい方を見かけたら私は絶対に覚えている筈なのだが、私が覚えていないということは、この界隈の夜会に出席するのは初めてではないですかな?私は今夜の主催、エルレインだ。レディ、お名前をお伺いしても?」
芝居がかった仕草でアリアの手にキスをするような真似をして、小太りの男性は自己紹介をした。
これが、アリアのこの夜会初の会話ということになる。
アリアは深呼吸したことがバレないように微笑んで、習った通りのお辞儀で挨拶を返した。
「はい。アリアと申します」
「ああ、良い名前だ。歌いだしたくなるよ。ええと、家名もお伺いしても?」
アリアは顔に笑顔を貼り付けたまま少し躊躇いがちに、ノワールに視線をやった。
正直にクライトンの家のアリア、と言えば目の前のエルレイン公爵は昔の事件を思い出し嫌な顔をするかもしれない。
それどころか、妻ではない女との間に生まれた汚らわしい子供であるアリアを連れているノワールの評判も、地に落としてしまうかもと心配になってしまったのだ。
「彼女の家はクライトン男爵家ですよ。彼女は箱入りで、社交界には出入りしていませんでしたけど、僕が頑張って口説いて、今日ようやく一緒にここに伺うことができました」
しかしノワールはアリアの心配をよそに、飄々とそう言ってのけた。
「アリア・クライトン……してやられましたな!クライトン男爵家の年頃のレディは一人だけだと思っていましたが、そういえばもう一人いましたな。ああ、早く気が付いていれば私がクロノス侯爵より先にアリア嬢にアプローチしたものを!」
どうなるだろうと戦々恐々とノワールに引っ付いていたアリアは、大きな素振りで悔しがる太った公爵を見て驚いていた。
名前を明かせば、クライトン男爵の不実の子供として、少なくともぎょっとされるくらいの事はするのだろうと思っていたが、公爵の反応はアリアの予想より遥かに好意的なものだった。
もうかれこれ10年前になるクライトン家の騒動を覚えている人はいないのだろうか。
いや、社交界は狭いというのに、そんなことはあり得るのだろうか。
答えを求めるようにアリアが見上げると、ノワールは余裕な顔をして笑い返してくれた。
その笑顔にホッとして気がまぎれたのも束の間、長い間人と話すことなどなくずっと働き続けてきたアリアに向けて、口から先に生まれて来たかのように調子よく喋る公爵の次なる質問が飛んできた。
「アリア嬢、どうですかな。今からでも遅くありません、この細面の美男子など止めて、この太った髭公爵とこの夜会を回りませんかな?」
……何と答えればよいのだろう。
レギンはアリアに会話術のイロハも叩きこもうとしたが、こればかりは付け焼刃さえもできなかった。
アリアは、会話というものがすこぶる苦手なのだ。
ノワールでもない人を相手に話を続けるなんて既に無理難題なのに、高度な冗談まで言われた暁には、頭がおかしくなってしまう。
しかしアリアは必死で頭を回転させ、なんとか返事を絞り出した。
「えっと、あっ。公爵様、後ろで奥様が眉を吊り上げておられますけど、大丈夫でしょうか!」
「な、なにぃ?!」
「なんて、冗談です……」
「ははは!全く、ヒヤヒヤさせてくれますな。それにしても、アリア嬢はチャーミングな上に、私のくだらない冗談にも付き合ってくれる優しい方ときた。これはクロノス侯爵、うかうかしてないでとっとと結婚を決めた方がいいでしょうな」
公爵はさらに上機嫌になったようだった。
ということは、アリアの苦し紛れの返答も、悪くはなかったのかもしれない。
アリアはバクバク言う自らの心臓の音を聞きながら、あとをノワールに任せて取り敢えず笑っておいた。
「僕がいいから公爵は嫌ですってハッキリ言ってやればよかったのに」
公爵から解放されて飲み物を給仕から受け取っていた時に、アリアの視界の左側が不意に銀色に染まったと思ったら、アリアは顔を近づけてきていたノワールにそう囁かれていた。
先ほどとは違う音を立てて心臓がバクンと鳴ったので、アリアはどうしようも出来ずに小さく俯くしかなかった。
最近、こんな風に心臓が大きく鳴って、顔が熱くなるのだが、自分は病気かなにかだろうか。
もうすぐ死ぬのだろうか。
アリアは熱い頬を手のひらで冷ましながら、そんなことを考えた。
それからアリアとノワールは、こんな調子で大勢の客たちに囲まれ、話しかけられた。
会場でもっぱらの話題は、常にライトが当たっているかの如く人目を惹く、ノワールとアリアについてだった。
「なるほどね~。ノワール様は、私がお誘いしても来てはくださらなかったけど、アリアのようなお相手がいたなら、それも納得だわ」
今アリアとノワールと話をしているのは、セレーナという伯爵令嬢と、その相手のフレッドという侯爵令息だった。
「で、その時のセレーナはノワール様に首ったけだったから、僕が誘ってもどこ吹く風でさ。あの時はつらかったなあ」
サバサバした性格のセレーナは好感が持てる子で、フレッドも気さくでよい青年だ。
大袈裟に肩をすくめたフレッドを一瞥したセレーナは、「あんたはあの時からしつこかったわ」なんて言いながら、アリアの方に更に近寄ってきた。
「それよりアリア、ノワール様とはどこで知り合ったの?パーティ、ではないわよね。貴方、これが初めてのパーティって言ってたから」
「えっと、図書館で会いました。ノアール様本人とは知らず、一緒にノワール様の本の話で盛り上がってしまいました……」
「え~!ぷぷぷ、アリア、面白いことしちゃったのね!でもなんだか、二人でのんびり話してるところが目に浮かぶわ」
面白いことをしちゃったというが、あの恰好をしたノワールを見れば、セレーナだって絶対に農民だと思うはずだ、と心の中で返事をしたアリアだった。
そんなアリアの心の内は知らないセレーナは、アリアに向かってすっと手を差し出してきた。
「ね、アリア。私とお友達になりましょ。私達、次の春に結婚するの。アリアとノワール様の事、結婚式に呼ぶから」
「えっ。は、はい!それはおめでとうございます!私で良ければ是非!セレーナさんの友達にしてください!」
一拍置いて言葉の意味を理解して、勢い余ってぴょんと飛び跳ねたアリアは、コクコクと頷きながらセレーナの手を両手で握る。
友達も、誰かの結婚式も、自分とは縁のないものだと思っていた。
これは夢で、いつか儚く崩れてしまうのかもしれない、なんてまだ心のどこかでは思ってしまうけど、それでもアリアは嬉しかった。
「アリアってば、すっごい喜んでくれるのね。なんかうれし~。
じゃ、決まりね。だから、貴方たちの結婚式も呼んでね。……あっ、貴方たち、結婚する可能性は高いのよね?だって、ノワール様が女性連れてるのなんて初めて見たし。アリアとノワール様は美男美女で、お似合いだし!」
元気に笑ったセレーナに対し、何か言わなければとアリアが口を開きかけた時、突然後ろから鋭い声がした。
「どいつもこいつもアリア、アリアって何?そいつは結婚できないわよ!アリア・クライトンは侯爵家には相応しくない雑種よ。こいつ、穢れた血の女なの」
ヒールの音を乱暴に鳴らして、アリアたちの方に向かってきたのはアリス・クライトンだった。
アリスはアリアに向かって突進してきたが、アリアがノワールに腕を引かれてアリスの攻撃を免れたので、勢いを殺せなかったアリスはセレーナとフレッドの間に割って入る形になった。
「ちょ、誰?いきなり失礼ね」
セレーナが眉をしかめて声を上げる。
その非難がましい声に反応したのか、アリスはセレーナをキッと睨みつけた。
「このアリア・クライトンはね、今は化粧と衣装で誤魔化してるけど、本当はボロボロで汚くて罪で恥じ晒しな存在なの!こいつはね、クライトン男爵の浮気で平民との間に生まれた子供なの!まず、この女がこの夜会に我が物顔で出席していることが間違いだと思わない!?」
驚いてしまったセレーナが何も言わないので、アリスはその横にいたフレッドに迫った。
「汚い平民の売女と浮気男の間に生まれた女よ。そんなやつと喋ってるの、気持ち悪くない?」
「……」
「……」
フレッドも、何事かと駆け付けた主催者の公爵も、周りにいた招待客たちも、アリスの暴言に一斉に口を噤んでしまった。
アリアは、自分とアリスにどんどん視線が集まってくるのを感じていた。
想像してしまう。これらはきっと冷たい視線。軽蔑の視線。汚いものを見る視線。
昔と同じ。皆、アリアの事を忌み嫌う。
「ねえ、おかしくない?今夜、こいつは疎まれるどころかアリアアリアってちやほやされてる。私とお母様が被害者で、こいつは加害者よ?こいつの母親とお父様のことがニュースになった時、私たちは血も涙もない言葉を散々浴びたわ。今だって肩身が狭い思いをしてる。だったら、このアリアは酷い言葉を浴び続けて、不幸であり続けるべきじゃない?だって私たち、こいつらに人生滅茶苦茶にされたのよ!」
「……」
「……」
「でも、なんでこいつが綺麗だとか、美しいだとか褒められてるのよ!なんで私たちを苦しめた加害者が一人だけ、誰かに愛されて結婚とか!意味分からない!」
腕を勢いよく振り下ろしテーブルに叩きつけたアリスの剣幕に、アリアは思わず身を震わせた。
ぎゅっと唇を噛んで俯こうとしたアリアは、小さく肩を抱き寄せられた。
見上げれば、ノワールが落ち着いた視線をアリアに送ってきた。
大丈夫だから背筋を伸ばして前を見ろと言われているようだった。
「………………貴女のことも、そりゃ可哀そうだなとは思うわよ」
静まり返った会場の緊張を破るように、声がした。
一歩踏み出したのはセレーナだった。
「そのニュース聞いたことあるけど、確かに私子供心に、平民との間に子供作ってしかも浮気って、男爵えぐいことしたなって思ったこと憶えてるけど、この件についてはアリアも被害者だと思うわ。子供は親を選べないもの。だから、アリアは貴方にそんなふうに責められるべきじゃないと思う」
「アリアさんは貴女の言うように、平民の浮気相手の血が混じっているのかもしれないけど、彼女自身はきちんと貴族として教育されて、立派な貴族としてここにいると僕は思うんだ。だから、彼女の両親だけを見て彼女を判断するのは、おかしいんじゃないかな……」
セレーナの横に立ち、彼女を庇うようにアリスと対面したのは、フレッドだった。
そしてその向かい側からアリスを挟み込むように、主催者のエルレイン公爵が歩を進めてきた。
「ああ、コホン。まず、レディはそんな汚い言葉を使うものじゃない。そしてレディなら場を弁えない発言は控えるべきだ。今のあなたの発言は、美しいアリア嬢にただ嫉妬しているだけのように聞こえてしまうよ」
「確かに嫉妬かもね。あの子、アリア様が綺麗で妬ましいのよ」
「浮気相手の平民の子が許せないのはわかるけど、それでパーティ台無しにしちゃうのもちょっとおかしいわよね……」
公爵の言葉を皮切りに、小さな囁きが招待客たちの中から聞こえてくる。
大半がアリスに不審の視線を送り、大半がアリアではなくアリスを非難しているようだった。
「な、なんでよ!なんでわかってくれないの!なんで私達ばっかり不幸になるの!私だって、私だって幸せになりたいだけなのに!」
針のむしろに放り込まれ、この場に味方など誰もいないと悟ったアリスは、金切声を上げながら膝から崩れ落ちた。
「なんで、私は悪くないのに!」
長い髪をぶんぶんと振り乱し、決壊したダムのように泣き声を上げ始める。
ずっとずっと我慢してきたものが破裂したような泣き方だった。
アリアは、アリスが泣くのを初めて見た。アリアの中で、アリスはいつだって高飛車で勝ち気で、意地悪で元気な女の子だった。
悲しいことがあってもいつだって強気に悪態をついて、涙なんて見せない女の子だった。
数合わせにパーティに呼ばれても、誰かの代わりの予備としてエスコートを申し込まれてもそれでも諦めず、自分なりに幸せになりたいと頑張っていた女の子だった。
確かにアリアは、アリスに酷いことをたくさんされた。
アリスの事は好きじゃない。
だけどアリスがああなってしまったのは、彼女の所為じゃない。彼女はたくさん傷ついて、沢山の悪意に晒されたから、あんなふうにしか自分を守れない。
アリアは声にならない思いを込めて、ノワールの顔を見た。
彼は理解してくれたのか、仕方ないと言うように頷いてくれた。
トンとヒールの音を立ててアリスの方に踏み出したアリアは、わんわん泣くアリス目指して一直線に駆ける。
人々の視線に晒されながら、アリアはアリスを抱き起した。そして、皆に聞かせるように大きく声を張り上げる。
「まったく、お姉ちゃんお酒臭いよ。皆さんごめんなさい。お姉ちゃんはいつも優しくて元気なのに、お酒が入ると人が変わっちゃうんです。お姉ちゃんは人付き合いもいいから、きっとみんなに勧められて飲んじゃったんだね。でもこれから気を付けてね」
「お酒なんて一滴も飲んでないわよ!あとお姉ちゃんなんて呼ぶな!」と泣くアリスを強制的に黙らせて、アリアはアリスを引き摺って人込みを割り、人気のない庭の方を目指して歩いた。
アリスが暴走を始めた時は立ち竦んでしまって何もできなかったので、今更出てきて『酒癖が悪い姉を、本当は仲の悪くない妹がフォローする』設定を貫くのは無理があるのかもしれないが、こうするしかなかった。
このまま泣き叫ぶアリスを放っておけば、アリスの評判はどんどん落ちていくばかりだったから。
暴れるアリスは重かったが、何故か途中で嘘のように軽くなり、アリアは途中から小走りで進むことができた。
庭に出て、悪態をつく姉を背に背負うような形でそのまま煉瓦道を駆けた。
そして門付近に停まっていた適当な馬車を一つ呼び出した。
「これ使って」
泣き続けるアリスにハンカチを押し付け、そしてアリアは彼女を馬車に押し込んだ。
「あんたなんて、あんたなんて……!」
バタン!
アリアはアリスの泣き声を遮って馬車の扉を閉めた。
御者に、馬車を発進させるように合図を送る。
これでアリスは、一応は家に辿り着く筈だ。
「流石に君のお姉さんは暴走しすぎたね。……アリア、君は大丈夫?」
アリアの後ろにいたノワールが静かにアリアの横に立った。
心配そうな視線を投げかけてくる。
「はい、私は大丈夫です。それにしても私の出自が明らかになった時……もっと嫌がられるかと思いましたが、貴族の皆さんは、私のような者も庇ってくださる良い方ばかりなのですね」
「ううん。それは彼らの人間性の問題ではないよ」
「というのは……?」
「彼らは善良でもないし賢くもない。ただそこを流れる水のようなものだ。
これはね、短い時間でも君が一生懸命彼らと話して、身だしなみにも振る舞いにも気を付けて、自分の力で土手を築いたから、彼らが君の方に流れてきただけだ。たとえ浮気相手の平民の子だと言われても、それだけの事実では嫌悪できない好印象を彼らに与えることに成功した君の力だよ。
まあ、君のお姉さんが勝手に憎まれ役を買って出てくれたおかげも少しはありそうだけど」
「……」
アリアは、ノワールの横顔をじっと見つめた。
ノワールが視線を感じてアリアの方に目をやったので、アリアは慌てて逸らした。
そういうことならきっと、この人のおかげだ。
アリアが見ず知らずの他人と、何とかうまく話せたのはノワールが隣にいてくれたからだ。
アリアを見つけ出して綺麗にしてくれたのも彼だし、アリアに上品な振る舞い方を身に着ける機会をくれたのも彼だ。
アリア一人だけだったら、今まで通り前髪を長くたらし、顔に煤を付けてボロを着て、聞き取りづらい声で喋っていたのだろう。
そして人々の視線に怯えて立ち竦み、その場から逃げ出して部屋の隅の暗がりで身を縮めて、脅威が去るのをじっと待つだけだっただろう。
「初めての夜会、頑張ったね」
偉い偉い、と頭を撫でた大きな手が、瞬きをしていたらゆっくり頬まで下りてきたので、アリアは思わずその手に自らの細い指を添えていた。
その手を包むなんて大それたことはまだできないけど、本当はもう少し近づきたい。
もう少し触れられるようになりたい。
だから、だから。
「私、貴方に釣り合うようになりたいです」
心から伝えたら、ノワールは何よりも愛しいものを見るように、そして眩しそうに目を細めて笑ってくれた。
*
本を読むためだけに作られたような秋の夜。
さらさらと絹のような月の光が落ちる夜。
アリアとノワールは、クロノス邸の一角にある居心地の良い部屋の中にいた。
「そう言えば、ノアは私の大好きな作家さんなのでした!私としたことが、色々あって失念していました。私、貴方の作品の大ファンです!処女作から最新刊まで全て読んでおります!一番好きなシリーズは、世界の裏の魔法探偵です!」
心地の良さそうな肘掛椅子に座るノワールに、興奮した様子で話しかけているのはアリアだ。
「うんうん、知ってる。ありがとう。
あ、そうだ。サイン欲しい?」
小さく笑ったノワールは、頬杖を突いていた手から顔を起こし、アリアの頬を撫でるように触れた。
「えっ、頂けるのですか!是非、お願いします。部屋に飾らせていただきますので、観賞用と保存用に二ついただきたいです!」
「2つじゃなくて、観賞用と保存用と、提出用の3つが要るかな。はい。君は僕のサインの横にサイン書いてね」
ひらり、とノワールの手の中に舞い落ちてきたのは、3枚の羊皮紙。
何処からともなく現れた羽ペンを手に取り、サラサラとサインを書き上げた彼は、その三枚をアリアに手渡した。
渡されたそれは、3枚の婚姻届けだった。
一瞬目を見開いたが、ノワールが穏やかに笑っているのを見て、アリアは思った。
もう、幸せになりたいと願ってもいいのではないか。
ノワールから渡されたペンを握ったアリアは、ノワール・クロノスの名前の横に、それはそれは丁寧に丁寧に、自分の名前を書いていった。
書き終わったアリアが顔を上げる。
すると、ノワールと目が合った。
ああ。これから自分は、あの忌み嫌われたアリア・クライトンではなく、この人の横でアリア・クロノスと名乗れるのだ。
こんな風に生まれた自分なのに、この人の隣でこの人と同じ姓を名乗れるようになる。
何故だか鼻の奥が痛くなってきた。
目の前が少しだけ滲んできたので、慌てて瞬きをする。
泣きそうになることなんて、叩かれても罵られても、今までなかったのに。
嬉しいと涙なんてすぐに出てきてしまうのだと、アリアは彼に出会ってから知った。
「不束者ですが、どうぞ、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそとんでもない不束者だけど、どうぞよろしく。僕のお嫁さん」
目が少し赤いアリアに優しく微笑んだノワールは、受け取った婚姻届けの一つををくるくると巻き、内ポケットから取り出した赤いリボンできゅっと留めた。
★★★
「お茶でも飲む?」
婚姻届けを片手に、満足そうなノワールはアリアに尋ねた。
肘掛椅子に座って足を組み、その上に分厚い本を置くノワールの姿は、彫刻のように美しくもあり、同時に妙な迫力がある。
それは、こんな他愛ない質問をしていても変わらない。
「そ、それなら小説の制作秘話なんかを、聞かせていただけませんか……!」
「制作秘話か。……ああ、ならこれを機会に一つ、僕の秘密を明かそうかな。君が一番好きだと言ってくれた世界の裏の魔法探偵、あれね、実はフィクションじゃないんだ」
「フィクションではないのですか?ということは……」
「うん、ノンフィクション」
そう言って立ち上がり、窓際まで歩いてきて止まったノワールは、片手に乗せていた婚姻届けの羊皮紙を空に放った。
まるで、梟を夜空に逃がすように。
そしてその羊皮紙は地に落ちていくことはせずに、翼があるかのように真っすぐに月に向かって翔けていった。
その光景を見て口をぽかんと開けることしかできないアリアに向かって、銀の髪の美しい青年は笑って言った。
「あれね、僕の事件簿だったりする」
こんな長いものを読んでくださってありがとうございました!お疲れ様でございました!
評価やブックマークや感想などいただけたらとても喜びます。




