6類「壬生家」②
華族類別録6類
皇別「小槻宿禰」(おつきのすくね)
「垂仁天皇皇子於知別命後今雄裔」
(すいにんてんのうみこ おちのわけのみこと のちのいまおのすえ)
従三位「壬生輔世」(みぶすけよ)官務
について考察している。
ここで述べられている「今雄」(いまお)とは「阿保今雄」(あぼのいまお)の事である。
「阿保今雄」(あぼ/あほ の いまお)は平安時代の貴族で当初「小槻山」(おつきやま)姓であり、
「小槻山君」(おつきやまのきみ)と名乗っていたが「阿保朝臣」(あぼのあそん)を賜与された。
「阿保今雄」(あぼのいまお)の子「小槻当平」(おつきのまさひら)は「小槻宿禰」(おつきのすくね)に
改姓し「官務家」として発展した。
「小槻今雄」(おつきのいまお)や「今雄宿禰」(いまおのすくね)とも記され、
「当平」(まさひら)と「糸平」(いとひら)が姓を「朝臣」(あそん)から格下の「宿禰」(すくね)に落とした理由は定かでない。
彼らが「今雄」(いまお)の実子ではなかったのではないかとする説がある。
「小槻山君」(おつきやまのきみ)は近江国栗太郡(現滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族で、仁寿元年(851年)「今雄」(いまお)は雄琴・苗鹿の地を拝領し所領とした。
雄琴の地名は、今雄の邸宅から琴の音がよく聞こえたためとされる。
貞観5年(863年)苗鹿の地に法光寺を創建した(一説には、それ以前に最澄の開基ともされる)。
貞観15年(873年)正六位上・左少史・算博士である際、弟の有緒らと共に平安京左京四条三坊に居を移した。
貞観17年(875年)有緒や従兄弟の良眞と共に「阿保朝臣」(あぼのあそん)姓を賜与され改姓した。
「今雄」(いまお)らは「算道」を習得することにより太政官の「史」(ふびと)の官職を得て中央への進出を果たしたものと考えられる。
当時「算道」は9世紀初頭から衰退が進んで大学寮4道のうち最下位に位置し、
地方教育機関・国学に入るべき地方豪族にも道が開かれていた。
また「史」(ふびと)は太政官事務部門の少納言局・左右弁官局のうち弁官局に属する職で、
任じられる家は「地下家」(じげけ)であったが、
太政官文書管理・諸国庶務を務めることで朝廷に仕えることができた。
なお、この「算博士・史」(さんはかせ・ふびと)の職は、
「今雄」の子「阿保経覧」(あぼのつねみ)
「小槻当平」(おつきのまさひら)「小槻糸平」(おづきのいとひら)も歴任し、
その後は「当平」(まさひら)の子孫に継承されて
「小槻氏」(おづきし)は「官務家」として発展した。
元慶元年(877年)までに外従五位下・但馬介に叙任され、
元慶3年(879年)には従五位下(この時の官職は勘解由次官・算博士・但馬介)に叙爵している。
元慶8年(884年)7月7日に没する。
子の「当平」(まさひら)により大津市「雄琴神社」(おごとじんじゃ)に「今雄宿禰命」(いまおのすくねのみこと)として祀られる。
11代垂仁天皇の皇子
「於知別命」(おちわけのみこと)を祖とする皇別氏族である。
「祖別命」(おおじわけのみこと/おおぢわけのみこと、生没年不詳)ともいう。
記紀等に伝わる古代日本の皇族であるが
『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。
表記は次のように文書によって異なる。
落別王『古事記』
祖別命(おおじわけ/おおぢわけ)『日本書紀』『先代旧事本紀』「天皇本紀」
於知別命『新撰姓氏録』
意知別命『先代旧事本紀』「国造本紀」
第11代垂仁天皇と、
「山背大国不遅」(やましろのおおくにのふち)(山代大国之淵)
娘の「苅幡戸辺」(かりはたとべ)(苅羽田刀弁)との間に生まれた皇子である。
同母弟には「五十日足彦命」(いかたらしひこ)(五十日帯日子王)、
「胆武別命」(いたけるわけ)(伊登志別王<いとしわけ>)がいる。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」では命を産んだ垂仁天皇の妃を
「丹波道主王」(たんばのみちぬしのみこと/たにはのみちぬしのみこと)娘の
「真砥野媛」(まとのひめ)とし、
同母兄に「磐撞別命」(いわつくわけのみこと)(記紀では異母兄弟)があると異伝を記す。
また「国造本紀」では、
三世孫として「武伊賀都別命」(たけいがつわけのみこと)の名を伝える。
「祖別命」(おおじわけのみこと)の子孫について、
『古事記』では「小月之山君」(おつきのやまのきみ)「三川之衣君」(みかわのころものきみ)
『新撰姓氏録』では「小槻臣」(おつきのおみ)が記される。
「小月山君」(小槻山君)(おつきのやまのきみ)について。
近江国栗太郡(現・滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点としたとされる豪族。
当地には、氏神として小槻神社や小槻大社が残っている。
『新撰姓氏録』(815年)にある「小槻臣」(おつきのおみ)もこの一族とされている。
史書によれば、873年に拠点を京に移して「阿保朝臣(阿保氏)」(あぼのあそん)のち
「小槻宿禰(小槻氏)」(おづきのすくね)と改姓し、
官務家として活動した。
「三川衣君」(みかわのころものきみ)について。
三河国賀茂郡挙母郷(現・愛知県豊田市)を拠点としたとされる豪族。
当地には児ノ口社が残り、伝承を伝える。
関連して、
『古事記』では同じく垂仁天皇皇子の「大中津日子命」(おほなかつひこのみこと)の子孫として
「許呂母之別」(ころものわけ)の記載が見える。
「伊賀国造」(いがのくにのみやつこ)について。
伊賀国伊賀郡(現・三重県伊賀市一帯)を治めたと見られる国造。
『国造本紀』では、
第13代成務天皇の代に「意知別命」(おちわけのみこと)三世孫の
「武伊賀都別命」(たけいがつわけのみこと)が初代国造に任じられたとする。
ただし国造一族の氏姓は「伊賀臣」(いがのおみ)(第8代孝元天皇皇子の大彦命後裔)、
阿保君(第11代垂仁天皇皇子の息速別命後裔)などと推定されている。
平安時代から「小槻宿禰」(おづきのすくね)姓を称した。
ここからは既に解説した事の繰り返しになるが・・・纏めておこう。
・・・「小槻宿禰」(おづきのすくね)は平安時代から明治維新まで朝廷に仕えた下級公家の一族である。
「太政官弁官局」(だじょうかんべんかんきょく)における事務官人の家柄として
左大史を代々務め、
そのほかに算博士・主殿頭といった官職を世襲した。
一族の代表者である氏長者(小槻氏の場合「官長者」とも)は
弁官局の下級官人を取り仕切り「官務」(かんむ)と呼ばれた。
そのため小槻氏は「官務家」(かんむけ)とも呼ばれる。
地下家の筆頭格として地下官人全般を統率した。
地下家は、昇殿が許されない廷臣の家格のことで、江戸時代には約460余家あった。
官務を継承する嫡流は鎌倉時代に「壬生家」(みぶけ)と「大宮家」(おおみやけ)に分かれ、
戦国時代に大宮家が断絶した後は「壬生家」(みぶけ)が明治維新まで官務を継承した。
「小槻氏」(おづきうじ)の出自は11代・垂仁天皇皇子とされるが、
皇子の中で
「落別王」(おちわけのみこと)と
「息速別命」(いきはやわけのみこと)の2説がある。
・「落別王」(おちわけのみこと)説
垂仁天皇と妃「苅幡戸辺」(かりはたとべ)との間の皇子。
「落別王」(おちわけのみこと)のほか、
「祖別命」(おおじわけのみこと)
「於知別命」(おちわけのみこと)
「意知別命」(おちわけのみこと)とも記される。
『華族類別録』では「於知別命」となっている。
『古事記』では「落別王」(おちわけのみこと)は
「小月之山公」(おつきのやまのきみ)(小槻山君)の祖と記されており、
系図上はこの「小槻山君」が「小槻氏」につながる。
また『新撰姓氏録』では「於知別命之後也」と記されている。
・「息速別命」(いきはやわけのみこと)説
垂仁天皇と妃「薊瓊入媛」(あざみにいりひめ)との間の皇子。
「息速別命」(いきはやわけのみこと)のほか、
「伊許婆夜和気命」(いこばやわけのみこと)・
「池速別命」(いけはやわけのみこと)とも記される。
『日本三代実録』に「息速別命之後也」とあるほか、
維新後小槻氏嫡流の壬生家が提出した『壬生家譜』においても、
同様に「息速別命」(いきはやわけのみこと)の子孫としている。
しかしながら「息速別命」(いきはやわけのみこと)の子孫とすると系図がつながらず、
信憑性が薄い。
栗田寛は「息速別命」(いきはやわけのみこと)と記してあるのは、
後世の文献であることから転写の際の誤写であろうとしている。
のちに「阿保朝臣」(あぼのあそん)姓を得るため、
阿保氏の祖である「息速別命」(いきはやわけのみこと)を利用して仮冒したのではという説もある。
「落別王」(おちわけのみこと)子孫の「小槻山君」(おつきのやまのきみ)は古代、
近江国栗太郡(現 滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とした豪族であった。
貞観15年(873年)、後裔の「小槻山今雄」(おつきのやまのいまお)と有緒らが京に居を移す。
この際「今雄」(いまお)は「左少史兼算博士」(さしょうしけんさんはかせ)、
有緒は「主計寮算師」(しゅけいりょうさんし)の官職を得ている。
このことから「小槻山君」(おつきのやまのきみ)は「算道」(さんどう)を習得することにより、
「太政官」(だじょうかん)の「史」(ふびと)の官職を得、
中央への進出を果たしたものと考えられている。
「今雄」(いまお)は仁寿元年(851年)近江国滋賀郡(滋賀県大津市)雄琴の地を拝領し、
その後の一族の礎を築いたことによりこの地で小槻氏祖・今雄宿禰として雄琴神社に祀られ、
法光寺に墓が伝わっている。
当初は「小槻山姓」(おつきのやまのきみ)(小槻山君)を名乗っていたが、
のちに「阿保」(あぼ)姓(阿保朝臣)を賜与され改姓している。
しかしながら、子の小槻当平以降は「小槻宿禰」(おづきのすくね)に改姓し、
「小槻氏」(おづきし)は官務家として発展する。
そのため、一族の礎を築いた「今雄」(いまお)もまた
「小槻今雄」や「今雄宿禰」(いまおのすくね)とも記されている。




