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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
98/105

6類「壬生家」①

華族類別録6類について考察しようと思ったら、

6類皇別は11代「垂仁天皇」(すいにんてんのう)が始祖になっている事に気がついた。

10代崇神(すじん)天皇は飛ばされてるわけだ。

ゆえに「華族類別録」に10代崇神天皇は出てこない。

あの「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)という神武(じんむ)天皇と同じ呼び名の、

実在した可能性のある最初の天皇と多くの学者に言われてもいる「崇神天皇」が

「華族類別録」に出てこない。

あの崇神(すじん)天皇の後裔が「華族類別録」に載っていない・・・

あの崇神(すじん)天皇の後裔が華族になれなかった・・・

なんとも違和感ありありである。

ちなみに「神武天皇」(じんむてんのう)は

「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)『日本書紀』

と表記するので「崇神天皇」の「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)とは、

同じ呼び方でもちょっとニュアンスが違う。


さて、「華族類別録1類~6類」までの始祖を見ていくと、

1類が、初代「神武天皇」(じんむてんのう)、

2類が、7代「孝霊天皇」(こうれいてんのう)、

3類、4類、5類が、8代「孝元天皇」(こうげんてんのう)、

6類は、11代「垂仁天皇」(すいにんてんのう)である。

・・・少し天皇を飛ばしすぎではないか・・・


「華族類別録」が6類までで飛ばした天皇は、

2代「綏靖天皇」(すいぜいてんのう)

3代「安寧天皇」(あんねいてんのう)

4代「懿徳天皇」(いとくてんのう)

5代「孝昭天皇」(こうしょうてんのう)

6代「孝安天皇」(こうあんてんのう)

9代「開化天皇」(かいかてんのう)

10代「崇神天皇」(すじんてんのう)

と、7人にものぼる。

確かに「欠史八代」を含む古代の天皇部分ではあるが、

それでも飛ばされた天皇たちにも後裔は残っている。

ちなみに崇神(すじん)天皇の後裔を少し調べてみると、

10代崇神(ずじん)天皇には「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)という皇子がいて、

系譜がちゃんと現代までも伸びていた。

「遠津年魚眼眼妙媛」(とおつあゆめまぐわしひめ)という妃との間に生まれた

「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)は、

『日本書紀』では「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)「豊城命」(とよきいりのみこと)、

『古事記』では「豊木入日子命」(とよきいりのみこと)と表記され、

東国の治定にあたったとされている。


「上毛野君」(かみつけのきみ/かみつけぬきみ)や

「下毛野君」(しもつけのきみ/しもつけぬきみ)の始祖とされており、

『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)では、

「上毛野氏」(かみつけのうじ/かみつけぬうじ)後裔氏族として、

「上毛野朝臣」(かみつけのあそん)、

「下毛野朝臣」(しもつけのあそん)、

「佐味朝臣」(さみのあそん)、

「大野朝臣」(おおののあそん)、

「池田朝臣」(いけだのあそん)、

「住江朝臣」(すみのえのあそん)

「池原朝臣」(いけはらのあそん)

「車持公」(くるまもちのきみ)

「垂水公」(たるみのきみ)

「田辺史」(たなべのふびと)

「佐自努公」(さじののきみ)

「佐代公」(さてのきみ)

「珍県主」(ちぬあがたぬし)

「登美首」(とみのおびと)

「茨木造」(うまらきのみやつこ)

「大網公」(おおよさみのきみ)

「桑原公」(くわばらのきみ)

「川合公」(かわいのきみ)

「垂水史」(たるみのふびと)

「商長首」(あきおさのおびと)

「吉弥候部」(きみこべ)

「広来津公」(ひろきつのきみ)

「止美連」(とみのむらじ)

「村挙首」(むらげのおびと)

「下養公」(しもかいのきみ)

「韓矢田部造」(からやたべのみやつこ)

「林挙首」(はやしげのおびと)

など諸氏族が記されている。

(詳細は「上毛野氏#氏族」参照)


このような大きな勢力を持つ「上毛野氏」(かみつけのうじ/かみつけぬうじ)流の末裔が、

何故、明治期に華族になれなかったのか?

・・・非常に気になる。

名の「上毛野」(かみつけの/かみつけぬ)に見えるように、

彼らは古代に上毛野(かみつけの)地域(現・群馬県)を拠点とした豪族である。

「毛野(けの/けぬ)」とは古代の群馬県・栃木県周辺を指す地域名称で、

大化以後には毛野(けの)出身の氏族として「東国六腹朝臣」(あづまのくにむつはらのあそみ)

という「グループ名」もあった。

上毛野朝臣(かみつけののあそん)(上毛野氏)

下毛野朝臣(しもつけののあそん)(下毛野氏)

大野朝臣(おおののあそん)(大野氏)

池田朝臣(いけだのあそん)(池田氏)

佐味朝臣(さみのあそん)(佐味氏)

車持朝臣(くるまもちのあそん)(車持氏)

これら6氏が、朝廷の中級貴族東国グループ「東国六腹朝臣」(あずまのくにむつはらのあそみ)

として活躍を見せていた。

『日本三代実録』元慶元年(877年)12月25日条では

「上毛野」(かみつけの)

「大野」(おおの)

「池田」(いけだ)

「佐味」(さみ)

「車持朝臣」(くるまもちのあそみ)

崇神(すじん)天皇の後裔として同祖だと記載されている。

なにゆえ「上毛野氏」(かみつけのし)の後裔が華族類別録で宗族を形成できなかったのか?

興味あるところだが、考察すると長くなりそうなので、とりあえず先に進む。


「華族類別録」では6類は以下のように記載してある。


6類皇別「小槻宿禰」(おつき/おづきのすくね)

「垂仁天皇皇子 於知別命 後 今雄 裔」

(すいにんてんのう みこ おちわけのみことあと いまお えい)

従三位「壬生輔世」(みぶすけよ)「官務」(かんむ)


「従三位」とは位階のことであり、

33代推古(すいこ)天皇の時代、

聖徳太子が603年冠位十二階に定め、

それ以後、大宝令(701年)、

これを改定した養老令(757年)と、

位階制が改編されながら続く。

皇族の親王は、

一品(いっぽん)から四品(しほん)までの四階、

諸王は、

正一位から従五位下まで一四階、

臣下は、

正一位から少初位下(しょうそいげ)まで三〇階となった。

明治22年(1889)以後は一位から八位までの正・従合わせて一六階となり、

第二次大戦以降は故人にのみ与えられるようになった。


「壬生輔世」(みぶすけよ)の「壬生家」(みぶけ)は、

「小槻氏」(おつき/おづきしし)嫡流の「地下家」(じげけ)で、

「小槻隆職」(おづきのたかもと)を祖とし、

南北朝時代頃から「壬生」(みぶ)を称し、

「大夫史」(たいふのし)を世襲し、

「官務家」(かんむけ)と呼ばれた貴族である。


※「大夫史」(たいふのし)とは「太政官弁務局」(だじょうかんべんむきょく)の実務のトップ。

「太政官弁官局」(だじょうかんべんむきょく)の「左大史」(さだいし)として責任者になると

「官務」(かんむ)と称し、

その人の家が世襲すると「官務家」(かんむけ)と称される。

代々「小槻家」(おづきけ)はその「官務家」であった。


※「地下家」(じげけ)とは、昇殿が許されない家格の公家。

※「史」(ふびと)とは、「太政官」(だじょうかん)の「弁官」(おおともい)。

※「弁官」(おおともい)とは「太政官」(だじょうかん)事務局の職員。

※「太政官」(だじょうかん)とは、令制で、国政の最高機関。

※「左大史」(さだいし)とは「太政官左弁官局」の主典、正六位上相当の官、定員二人。


「小槻」(おづき)氏は中世より「太政官弁官局」(だじょうかんべんむきょく)において諸記録を司り、

「大夫史」(たいふのし)と、

「算博士」(さんはかせ)を世襲した。

代々弁官局を取り仕切る官務職に就いたため「官務家」(かんむけ)と呼ばれた。


平安時代「小槻政重」(おづきのまさしげ)の三人の子の

「小槻師経」(おづきのもろつね)

「小槻永業」(おづきのながなり)

「小槻隆職」(おづきのたかもと)らは、

皆「官務」となったが、

「永業」(ながなり)流が「算博士」(さんはかせ)を、

「隆職」(たかもと)流が「官務」を相続することと決められた。

しかし文治元年(1185年)

「官務」である「小槻隆職」(おづきのたかもと)が解任された。

「後白河院」(ごしらかわいん)と「源義経」(みなもとのよしつね)による、

「源頼朝」(みなもとのよりとも)追討の「院宣」(いんぜん)に関わったのだ。

「官務」は「小槻永業」(おづきのながなり)の子の「小槻広房」(おづきのひろふさ)が継ぐこととなった。

けれども建久2年(1191年)に「後白河院」(ごしらかわいん)の指示で、

「小槻隆職」(おづきのたかもと)が復職した。

ゆえに「小槻広房」(おづきのひろふさ)は「官務」の地位を失った。


その後「隆職」(たかもと)が危篤に陥ると

「広房」(ひろふさ)は「隆職」(たかもと)の子「国宗」(くにむね)と後継を争ったが、

「官務」(かんむ)には「隆職」(たかもと)の子「国宗」(くにむね)が就いた。

「国宗」(くにむね)の死去後、

次の「官務」では「広房」(ひろふさ)流が返り咲き、

「広房」(ひろふさ)の孫「季継」(すえつぐ)が就いた。

「季継」(すえつぐ)は、

朝廷の権力者「九条道家」(くじょうみちいえ)と深い関わりを持ち、

21年間に渡って在職し、

「隆職」(たかもと)流に押されがちだった「広房」(ひろふさ)流の地位は向上した。

それ以後「小槻氏」(おづきし)は

「隆職」(たかもと)流と「広房」(ひろふさ)流とに分かれ、

「算博士」(さんはかせ)は「広房」流が相続するものの、

「官務」(かんむ)は両流が対等の立場から争い合うこととなる。

また、他の役職としても、

壬生家は修理東大寺大仏長官(または造東大寺次官)・主殿頭(とのものかみ)を継承した。


南北朝時代に入る頃、両流は邸宅の場所にちなみ、

「隆職」(たかもと)流は「壬生家」(みぶけ)

「広房」(ひろふさ)流は「大宮家」(おおみやけ)と呼ばれていた。

この時期公家全体が経済的に苦境を迎え、

両家はそれぞれ権力を持った公家や武家に取り入り、

「壬生家」(晨照、晴富、雅久)

「大宮家」(長興、時元)の争いは訴訟の頻発するほどのものとなる。


応仁元年(1467年)から応仁の乱が始まると、

争いに巻き込まれ「大宮家」(おおみやけ)の官文庫が焼失、

「大宮家」(おおみやけ)は「史」(ふびと)の職に支障をきたすようになる。

そして「大宮家」(おおみやけ)は経済的に逼迫し、

地方の大名を頼って下向せざるを得なくなる。

元亀3年(1573年)「壬生朝芳」(みぶあさふさ)に、

大宮家継承を命じる「女房奉書」(にょうぼうほうしょ)が下され、

「大宮家」(おおみやけ)は断絶することになり、

以後は「壬生家」(みぶけ)が単独で「官務」を継承し、

「大宮家」(おおみやけ)世職の「算博士」(さんはかせ)も受け継いだ。


中世から続く官務の「壬生家」(みぶけ)と

局務の「押小路家」(おしこうじけ)(中原氏嫡流)の「両局」に加え、

近世になるとこれに「出納」(すいとう)の「平田家」(中原氏庶流)が加わり、

それぞれ「官方」「外記方」(げきがた)「出納方」という3家体制となる。


そのきっかけは江戸開幕後朝廷儀式が再興され始め、

それに伴い「壬生家」(みぶけ)「押小路家」(おしのこうじけ)の両局が、

地下官人を続々と登用し始めたことによる。

地下官人の登用の一環として

「虫鹿亮昭」(むしか すけじろうあき)(大宮家庶流)

「村田亮春」(むらた あきはる)が

「壬生孝亮」(みぶ たかすけ)の猶子となった。

中でも村田家は右大史を継承する家柄となる。

これは両局が多くの職務を担当し、

それに付属する所領によって経済的に余裕があったためである。

朝廷を手中に収めたい幕府側にとってこの独自の活動は意向に反し、

牽制のために「平田家」を両局と同じ地位にまで上げ抑制しようとした。

これに「壬生家」は反発し争論となるが、

当主「壬生孝亮」(みぶたかすけ)の失脚により認めざるを得ず、

家格では「平田家」は両局から一歩引くという形で収束する。


これら3家は近世地下官人の3階層(催官人・並官人・下官人)のうち

「催官人」を組織し「三催」と呼ばれ、

俗に「地下官人之棟梁」とみなされて「明治維新」まで朝廷に仕えた。

「壬生家」の家格は「地下家」だったが、

江戸時代後期には「知音」・「以寧」が従三位に叙されている。


「壬生孝亮」(みぶたかすけ)は徳川家康の征夷大将軍就任の際、

宣旨の入った箱を捧げている。


また幕末には、日米修好通商条約勅許に対して公卿らが行った

「廷臣八十八卿列参事件」(ていしんはちじゅうはっきょうれっさんじけん)の際、

官務壬生輔世(すけよ)」は「出納平田職修(もとさね)」と共に、

地下官人97名による条約案撤回を求める意見書を提出している。


「壬生家」(みぶけ)は「地下家」(じげけ)ではあるものの筆頭格だったことから、

「堂上家」(どうじょうけ)に准じて「押小路家」(おしのこうじけ)とともに華族に列し、

明治3年(1870年)「壬生輔世」(みぶすけよ)が終身華族に、

次いで明治9年(1876年)永代華族となった。

そして明治17年(1884年)には、子「壬生桄夫」(みぶこうふ)が男爵に叙せられた。

なお「平田家」やその他の「史一族」は「士族」となった。


士族しぞくは、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。法律上平民と比しての特権はなかったが、戸籍に表示された[1]。第二次世界大戦後1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により士族は他の身分とともに廃止された。戸籍の記載事項としての廃止は、1947年12月22日公布、1948年1月1日施行の戸籍法により行われた。

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