3類「倉橋家」「阿部家」「秋田家」「土御門家」「安藤家」
3類皇別「安部朝臣」(あべのあそん)
「孝元天皇皇子大彦命六代雉子裔」
(こうげんてんのうみこ おおひこのみこと ろくだいきじえい)
従三位「倉橋泰顕」(くらはしやすあき) 半家
従五位「阿部正恒」(あべまさつね) 上総 佐貫藩 譜代雁間一万六千石
従五位「阿部正桓」(あべまさつね) 備後 福山藩 譜代帝鑑間十一万石
従五位「秋田映季」(あきたあきすえ) 磐城 三春藩 外様帝鑑間五万石
従五位「阿部正功」(あべまさこと) 磐城 棚倉藩 譜代雁間十万石
従五位「土御門晴栄」(つちみかどはれなが) 半家
従五位「安藤直行」(あんどうなおゆき) 紀伊 田邊藩 譜代無席三万八千八百石
従五位「安藤信守」(あんどうのぶもり) 磐城 磐城平藩 譜代雁間五万石
「朝臣」(あそん)とは「姓」(かばね)であり、
わが国の上代(古代と同義)で、氏族の尊卑を表すための階級的称号である。
「八色の姓」(やくさのかばね)とは、
天武天皇一三年(六八四年)に従来の姓制度を改め定められた八種類の「姓」
①「真人」(まひと)、
②「朝臣」(あそみ、あそん)、
③「宿禰」(すくね)、
④「忌寸」(いみき)、
⑤「道師」(みちのし)、
⑥「臣」(おみ)、
⑦「連」(むらじ)、
⑧「稲置」(いなぎ)・・・の8姓。
「八色の姓」(やくさのかばね)で新たに作られた
上から2番目の「姓」(かばね)が「朝臣」(あそん)である。
一番上「真人」(まひと)は主に皇族に与えられ、
皇族以外の臣下の中では「朝臣」(あそん)は一番上の地位にあたる。
従来の「姓」(かばね)である
「臣」(おみ)
「連」(むらじ)
「首」(おびと)
「直」(あたい)
に比べ、
「朝臣」(あそん)はその上位に位置する姓です。
ちなみに「八色の姓」(やしきのかばね)では
「連」(むらじ)姓を持つ氏族には「宿禰」(すくね)姓が与えられました。
「孝元天皇皇子大彦命六代雉子裔」(こうげんてんのうみこおおひこのみことろくだいきじえい)は、
8代孝元天皇の皇子「大彦命」(おおひこのみこと)の6代孫が「雉子」(きじ)になる。
「雉子」(きじ)という人物は「大彦命」(おおひこのみこと)の6世代下ということです。
※「公卿」(くぎょう)の系図を知るのに
「公卿類別譜」(くぎょうるいべつふ)なる資料があります。
ネットで簡単に検索できるのですが、
安倍氏の公卿類別譜に
備後福山の安倍家の系図があります。
これによると、
孝元天皇→
①大毘古命→
②武沼河別命→
③豊韓別命→
④雷別命→
⑤阿加古宿禰臣→
⑥雉子臣、と系図が伸びております。
これで見ると「雉子」は孝元天皇より6世代下であり、
「大毘古」から見ると5世代下、
すなわち「大彦命六代雉子裔」→「大彦命五代雉子裔」とならなければいけません。
おそらく備後福山の安倍家の系図に誤りがあるのでしょう。
※大毘古命は「古事記」において使われる表記で
『日本書紀』では「大彦命」(おおひこのみこと)
『古事記』では「大毘古命」(おおびこのみこと)と表記されています。
※武渟川別(たけぬなかわわけ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古墳時代の皇族。
『日本書紀』では「武渟川別・武渟河別」(たけぬなかわわけ)と表記され、
『古事記』では「建沼河別命」(たけぬなかわわけのみこと)と表記されています。
第8代孝元天皇皇子である大彦命の子が
「武渟川別」(たけぬなかわわけ)です。
「阿倍臣」(あへのおみ)の祖となっております。
「武渟川」(たけぬなかわわけ)は四道将軍の1人として東海に派遣され、
垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられました。
『日本書紀』によると、崇神天皇10年9月9日条で、
北陸に派遣されたのが「大彦命」(おおひこのみこと)とあります。
東海に派遣されるたのが「武渟川別」(たけぬなかわわけ)、
西道に派遣されたのが「吉備津彦命」(きびつひこのみこと)、
丹波に派遣されたのが「丹波道主命」(たんばのみちぬしのみこと)、
彼らを「四道将軍」と称しています。
同書崇神天皇9月27日条では、大彦命は、
その途中の和珥坂(または山背の平坂)で、
不吉な歌を詠う少女に会ったため、引き返して天皇にこのことを報告しました。
倭迹迹日百襲媛命の占いによって、
武埴安彦命と、
その妻の吾田媛の謀反が発覚しました。
※『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととひももそひめのみこと)、
『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売」(やまととももそびめ)と表記され、
この人物は卑弥呼とする説もあります。
果たして実際に謀反が起こると、
「五十狭芹彦命」(いさぜりひこのみこと)(吉備津彦命の別名)が、
「吾田媛」(あたひめ)を、
「大彦命」(おおひこのみこと)と「彦国葺」(ひこくにふくのみこと)が
「武埴安彦」(たけはにやすひこ)を討ち鎮圧しました。
その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、
崇神天皇11年4月28日に平定を報告したとなっております。
『古事記』でも「建波邇安王」(武埴安彦命)(たけはにやすひこのみこと)の鎮圧においては、
同様の説話を記しています。
『古事記』によると、
四道将軍としての4人の派遣ではないが、
崇神天皇の時に「大毘古命」(大彦命)(おおびこのみこと)は
「高志道」(こしどう)、
「建沼河別命」(たけぬなかわわけのみこと)は
「東方十二道」に派遣され
「大毘古命」(おおひこのみこと)と「建沼河別命」(たけぬななかわけのみこと)が、
現在の会津で出会ったゆえ、
「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝えています。
なお『新撰姓氏録』河内国皇別難波忌寸条では、
崇神天皇の時に大彦命が、
蝦夷平定に向かった際、
「大彦命」(おおびこのみこと)は兎田墨坂(うだのすみさか:現・奈良県宇陀市榛原萩原)で、
嬰児を拾って育て「得彦宿禰」と名付けたと伝えています。
『日本書紀』では「大彦命」は、8代孝元天皇と「欝色雄命」(うつしこおのみこと)の妹で皇后の「欝色謎命・内色許売命」(うつしこめのみこと)との間に生まれた第1皇子である。
阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖で、
『古事記』では「建沼河別命」(武渟川別)を「阿倍臣」等の祖、
「比古伊那許志別命」を「膳臣」(かしわでのおみ)の祖に位置づけている。
同母兄弟として、
・開化天皇(第9代)、
・少彦男心命、
・少名日子建猪心命、
・倭迹迹姫命※古事記では記載なし。
子として『日本書紀』では、
「御間城姫・御真津比売命」(みまきひめ)第10代崇神天皇皇后
「武渟川別・建沼河別命」(たけぬなかわわけのみこと)
『古事記』では加えて「比古伊那許志別命」(ひこいなごしわけのみこと)の名が見える。
「御間城姫」(みまきひめ)は垂仁天皇(第11代)の生母であり「大彦命」(おおひこ)はその外祖父になる。
伝承
葛木坐火雷神社に伝わる旧記によれば、
「武埴安彦命」(たけはにやすひこのみこと)討伐の際に
「天火明命」(あまのほあかりのみこと)の末裔の
「笛吹連櫂子」(ふえふきのむらじのかじこ)を率いたという。
※『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、
平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
京および畿内に住む1182氏を、
その出自により「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、
その祖先を明らかにし、氏名の由来・分岐の様子などを記述するものである。
主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。
目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、
所々にその残滓が認められるとともに、
若干の逸文が知られている。
なお、本書の対象とする範囲は
「京」左京・右京と「五畿内」に住む「姓氏」(せいし)に限られており、
また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。
なお、書名に「新撰」とつくのは、
企画倒れで終わった『氏族志』のやりなおしという意味であって、
『新撰姓氏録』以前に『姓氏録』なる書が存在していたわけではない。
全30巻が3冊の形状となっており、
30巻目の後に不掲載の姓氏の記録も添付されている(平氏、阿蘇氏など)。
全部で1182氏姓が記録され、
その出自により「皇別」「神別」「諸蕃」(しょばん)に3分類され、
さらに国別に「天神」「天孫」「地祇」(ちぎ)に分類されている。
【皇別】
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、
神武天皇以降、
天皇家から分かれた氏族のことで、
335氏が挙げられている。
代表的なものは「清原」「橘」「源」などがある。
「皇別氏族」は、さらに、
「皇親」(「真人」(まひと)の姓をもつ氏族)と
それ以外の姓をもつ氏族に分かれる。
【神別】
「神別」の姓氏とは、
神武天皇以前の神代に別れ、
あるいは生じた氏族のことで、
404氏が挙げられている。
「神別姓氏」は、さらに
「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が天孫降臨した際、
付き随った神々の子孫を「天神」とし、
「瓊瓊杵尊」から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、
「天孫降臨」以前から土着していた神々の子孫を「地祇」(ちぎ)、
として3分類している。
「天神」に分類された姓氏は「藤原」「大中臣」など246氏、
「天孫」は「尾張」「出雲」など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される)、
「地祇」(ちぎ)は「安曇」「弓削」など30氏がある。
【諸蕃】(しょばん)
「諸蕃」の「姓氏」(せいし)とは、
渡来人系の氏族の苗字のことで、
326氏が挙げられている。
諸蕃氏族は、さらに5分類され、
「百済」(くだら)として104氏、
「高麗」(こうらい)(高句麗を指す)として41氏、
「新羅」(しらぎ)として9氏、
「加羅」(から)として9氏、
「漢氏」(あやうじ)として163氏、
それぞれ挙げられる。
しかし「漢」(かん)も元々
「百済」(くだら)「高麗」(こうらい)「新羅」(しらぎ)「加羅」(から)に入れなかった半島系氏族であり、
権威を与えるため「坂上苅田麻呂」(さかのうえのかりたまろ)は
「東漢氏」(やまとのあうじ)の先祖である「阿知使主」(あちのおみ)を
「漢」から来たと創作した。
また、これらのどこにも属さない氏族として、
117氏が挙げられている。
天武天皇十三年十月一日「十三氏賜姓賜曰真人」つまり「真人」姓を13公へ与えた。
①守山公
②路公
③高橋公
④三国公
⑤当麻公(たいま/たぎまのきみ)
⑥茨城公
⑦丹比公
⑧猪名公
⑨坂田公
⑩羽田公
⑪息長公
⑫酒人公
⑬山道公
新撰姓氏録には以下の「皇別」が記されている。
「息長真人」(おきながのまひと)「山道真人」(やまぢのまひと)
「坂田酒人真人」(さかたさかひとのまひと)「八多真人」(はたのまひと)
「三国真人」(みくにのまひと)「路真人」(みちのまひと)
「守山真人」(もりやまのまひと)「甘南備真人」(かんなびのまひと)
「飛多真人」(ひたのまひと)「英多真人」(あがたのまひと)
「大宅真人」(おおやけのまひと)「大原真人」(おおはらのまひと)
「島根真人」「豊国真人」「山於真人」
「吉野真人」「桑田真人」「池上真人」「海上真人」「清原真人」
「香山真人」「登美真人」「蜷淵真人」「三島真人」「淡海真人」
「三園真人」「笠原真人」「高階真人」「氷上真人」「岡真人」
「息長丹生真人」「多治真人」「為名真人」「春日真人」「高額真人」
「当麻真人」「文室真人」「豊野真人」「酒人真人」「為奈真人」
源朝臣、中原朝臣、良岑朝臣、長岡朝臣、広根朝臣、
春原朝臣、三原朝臣、永原朝臣、橘朝臣、淡海朝臣、
阿部朝臣、布勢朝臣、完人朝臣、高橋朝臣、許曽倍朝臣、
阿閉臣、竹田臣、名張臣、佐々貴山公、膳大伴部、
阿倍志斐連、石川朝臣、田口朝臣、桜井朝臣、紀朝臣、
角朝臣、坂本朝臣、林朝臣、道守朝臣、雀部朝臣、
生江臣、布師首、箭口朝臣、多朝臣、小子部宿祢、
吉備朝臣、下道朝臣、御使朝臣、犬上朝臣、坂田宿祢、
間人宿祢、新田部宿祢、大春日朝臣、小野朝臣、和安部朝臣、
和尓部宿祢、櫟井臣、和安部臣、葉栗臣。
吉田連、丸部、丈部、下毛野朝臣、上毛野朝臣、
池田朝臣、住吉朝臣、池原朝臣、上毛野坂本朝臣、車持公、
大網公、桑原公、川合公、垂水史、商長首、
吉弥侯部、甲能、葛城朝臣、稲城壬生公、小槻臣、
牟義公、守公、治田連、軽我孫、鴨県主、
八多朝臣、巨勢朝臣、巨勢斐太臣、平群朝臣、平群文室朝臣、
都保朝臣、高向朝臣、田中朝臣、小治田朝臣、川辺朝臣、
岸田朝臣、久米朝臣、御炊朝臣、玉手朝臣、掃守田首、
佐味朝臣、大野朝臣、垂水公、田辺史、ほか 。
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)では以下の多くの氏族が
「大彦命」(おおひこのみこと)後裔として記載されている。
・左京皇別 - 阿倍朝臣、布勢朝臣、完人朝臣、高橋朝臣、許曽倍朝臣、阿閉臣、竹田臣、名張臣、佐々貴山公、膳大伴部、阿倍志斐連
・右京皇別 - 若桜部朝臣、阿閉臣、伊賀臣、阿閉間人臣、他田広瀬朝臣、道公、音太部、会加臣、杖部造
・山城国皇別 - 阿閇臣
・大和国皇別 - 坂合部首
・摂津国皇別 - 高橋朝臣、佐々貴山君、久々智、坂合部、伊我水取、吉志、三宅人
・河内国皇別 - 阿閇朝臣、阿閇臣、日下連、大戸首、難波忌寸、難波
・和泉国皇別 - 膳臣、宇太臣、松原臣、他田、
《稲荷山古墳》(いなりやまこふん)について。
「大彦命」(おおひこのみこと)は『日本書紀』では「大彦命」(おおひこのみこと)、
『古事記』では「大毘古命」(おおびこのみこと)と表記されておりますが、
同一人物だと思われます。
また、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える
「意富比垝」(おほひこ・おおひこ)という説もあります。
稲荷山古墳出土鉄剣に見える
「意富比垝」(おおひこ)を「大彦命」(おおひこのみこと)に比定する説では、
「乎獲居臣」(おわけのおみ)を
「大彦命」(おおひこのみこと)の後裔を称する「阿倍氏」(あべうじ)か「膳氏」(かしわでうじ)ではないかと見る解釈が多い。
しかし、その後の時代、北武蔵で大きな勢力を築いていた
「壬生吉士」(みびきし)(難波吉士と同族)の可能性もあるとされている。
首都大学東京教授の川口勝康は
『稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の「乎獲居臣」(おわけのおみ)なる人物の系譜にみえる
上祖の「意富比垝」(おおひこ)は(オホヒコ)と読まれ、
記紀の「大彦命」(おおひこ)にあたる可能性が高い』としつつも、
その実在性には慎重で、
当時著名であった「大彦命」(おおひこのみこと)の東征説話を知った「乎獲居臣」(おわけのおみ)が、
その祖を「大彦命」(おおひこのみこと)に求めたものであろうと解説し、
京都大学名誉教授の岸俊男は、
『ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に「阿倍臣」(あべのおみ)や「膳臣」(かしわでのおみ)の始祖としてみえる孝元天皇の皇子「大彦命」(おおひこのみこと)とし、あるいは「杖刀人」(じょうとうにん)は「阿倍臣」(あべのおみ)に従属する「丈部」(はせつかべ)であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている』と解説する。
「華族類別録」では現在、以下8家が「大彦命」の末裔であるとされている。
従三位「倉橋泰顕」(くらはしやすあき)半家
従五位「阿部正恒」(あべまさつね) 上総 佐貫藩 譜代雁間一万六千石
従五位「阿部正桓」 備後 福山藩 譜代帝鑑間十一万石
従五位「秋田映季」 磐城 三春藩 外様帝鑑間五万石
従五位「阿部正功」 磐城 棚倉藩 譜代雁間十万石
従五位「土御門晴栄」 半家
従五位「安藤直行」 紀伊 田邊藩 譜代無席三万八千八百石
従五位「安藤信守」 磐城 磐城平藩 譜代雁間五万石
『日本書紀』では「大彦命」(おおひこのみこと)の子供の記述はないのですが、
子孫の記述はあり、
①「阿倍臣」(あべのおみ)
②「膳臣」(かしわでのおみ)
③「阿閉臣」(あえのおみ)
④「狹々城山君」(ささきやまぎみ)
⑤「筑紫国造」(つくしのくにのみやつこ)
⑥「越国造」(こしのくにのみやつこ)
⑦「伊賀臣」(いがのおみ)
など七族の始祖とあります。
「大彦命」(おおひこのみこと)は10代崇神天皇の時代、
四道将軍として北陸へと派遣されるのですが、
その道中に不思議な少女と出会います。
少女は歌を歌います。
その歌は崇神天皇の危険を暗示していました。
武埴安彦命夫婦の反乱です。
どうやら「武埴安彦命」は山背から、
妻の吾田媛は大坂から攻め入るようです。
そこで崇神天皇は五十狹芹彦命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)に、
吾田媛を討たせ、武埴安彦を、大彦命と和珥臣の祖先の彦国葺に討たせることにしました。
この後の武埴安彦の戦いは、ほぼ彦国葺の手柄なので割愛。
活躍の意味
危険の知らせを受けるのが大彦であるというのは大きな問題です。
例えば天皇に強い霊威があるという考えがあるならば、
大彦ではなく崇神天皇に危機の知らせ…例えば垂仁天皇(11代)の時のサホビメの事件のように、天皇そのものに神託があってしかるべきでしょう。
それが大彦にあった…それが例え「少女から伝わった」という形であれ、大彦を通じて神託があったことは
大彦にこそ霊威があるという感覚があったからではないかと思います。
大彦は崇神天皇の皇后になる御間城姫の父親です。
ニニギは大山祇神の娘、コノハナサクヤヒメを娶って、山の神の加護を得ました。
山幸彦は綿津見の神の娘、豊玉姫を娶って海の神の加護を得ました。
神武天皇の東征の際、ナガスネヒコに敗北し、海で嵐に会った時、
稻飯命と三毛入野命が「私の母は海神なのに! どうして海でひどい目にあうのだ!」
と嘆いています。
崇神天皇の権力の根拠は御間城姫であり、
その父親の大彦である!
という感覚があったのではないかと思います。
もちろん、神武天皇以前は神話性が強くて、
10代後の崇神天皇の時代に同様の感覚があったかは怪しいし、
一緒に考えて良いのかも分からない。
埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)
には銘文があって、そこには表には
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
裏には
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
とある。
最初の「意富比垝」が「オオビコ」で「大彦」「大毘古命」と同一人物のことであるとされます。
この鉄剣の年代「辛亥年」とは471年、もしくは531年とされます。
おそらく471年でしょう。
471年の雄略天皇(21代)の治世で先祖が「大彦」であるとする人物「オワケ」が鉄剣を残した。
ここには系譜も書かれているのですが割愛。
崇神天皇の時代に大彦が四道将軍として北陸に赴き、また息子の武渟川別が東国に派遣されていることを考えても、大彦の子孫(と名乗る人物)が雄略天皇の時代にいても不思議じゃありません。
無論、「本当に」大彦の子孫かどうかは分かりません。
ポイントとしては、血筋を重んじる社会であり、大彦の子孫であることを鉄剣に金で記して残すべきと考えるほどに、「大彦の血筋」は価値があると考えていたということです。
「俺は大彦の子孫なんだぜ」と主張することに権力の根拠を感じられる社会だった
…つまり儒教的な感覚を持った社会が雄略天皇の時代の東国にあったということです。
東国はのちの時代においても異民族の跋扈する田舎扱いです。
それは鎌倉時代でもそうなんですから、
雄略天皇の時代もそうだったはず…というわけじゃなかったのではないかと。
少なくとも中央貴族が考えるよりは文化が行き渡っていたのではないかと思います。




