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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
92/105

1類「阿蘇家」 

明治2年(1869年)6月、版籍奉還によって公家と大名は新たな「華族」という族称を与えられた。

明治4年(1871年)10月には明治天皇から華族は全国民のうち貴重の地位にあるものだから、国民に先駆けて一致勤勉の努力をするようにという勅諭が下された。


これを受けて華族の団体である華族会館が設置されたものの、大規模な領域の領主として経済力もあった旧大名と、格式が高いが経済力に乏しい旧公家とは立場も大いに異なっていた。

そのため華族会館の運営方針を巡って争いが絶えず、宮内省は明治9年(1876年)3月、華族を華族掛の統制下に置くこととした。


5月には右大臣「岩倉具視」の発案で華族会館に部長局を設置し、華族を六つの部に分けて、それぞれ管轄下に置くこととした。

督部長には岩倉が就き、秩禄処分によって、華族が没落することを防ぐ目的があった。

この際各部の統制のために導入されたのが「宗族制」である。


これは全華族を先祖を同じくするグループ「宗族」に分け、宗族ごとに同じ先祖を祀ることによってその結合を図るというものであった。


明治9年8月26日宮内卿「徳大寺実則」(とくだいじさねつね)より宗族をまとめた『華族類別録』(かぞくるいべつろく)の仮編集版が下付された。

これは後に編集を加えられ、明治11年(1878年)10月に公刊された。


これによって華族は、神武天皇以降の天皇を先祖とする皇別(第一類から三十六類)、神武天皇以前の諸神を先祖とする神別(第三十七類から七十類)、渡来人を先祖とする外別(第七十一類から七十六類)に大別された。

これは『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)の皇別・神別・諸蕃の区分に従ったものである。


1878年(明治11年)『華族類別録』(かぞくるいべつろく)が公刊され、家系が歴代の天皇に繋がっている家が「皇別華族」、「ニギハヤヒ」「アメノホヒ」のようなニニギノミコト系ではないが先祖が天照大神である家系の末裔を「神別華族」、それ以外を「外別家族」と規定し、明治政府がお墨付きを与えた。

整理すると以下のようになる。

①神武天皇以降の天皇を先祖とする、皇別華族(第1類~36類)

②神武天皇以前の諸神を先祖とする、神別華族(第37類~70類)

③渡来人を先祖とする、外別華族(第71類~76類)


ここで、それぞれの家がどのようなグループに所属しているのか、皇別華族1類「阿蘇公」(あそこう)から順に考察してみたいと思う。


1類皇別「阿蘇公」(あそのきみ)

神武天皇 皇曾孫 速甕玉命裔 (じんむてんのう こうひそん はやみかたまのみこと えい)

従五位 阿蘇惟敦 肥後国阿蘇神社大宮司

(じゅうごい あそこれあつ ひごこくあそじんじゃだいぐうじ)


従五位じゅごいとは、日本の位階(いかい)における位のひとつ。

正五位の下、正六位の上に位する。

贈位の場合、贈従五位という。

近代以前の日本における位階制度では従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされていた。

また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。


阿蘇(あそ) 惟敦(これあつ)

(1830年-1893年)

江戸時代後期から明治時代にかけての阿蘇大宮司(第87代目)


現在、阿蘇家(あそけ)は代々男系一系で、

現当主・阿蘇治隆(はるたか)さんは92代阿蘇大宮司である。


『国造本紀』(こくぞうほんき)によれば、

10代崇神(すじん)天皇の時、

「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)の孫である「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)が、

初代「阿蘇国造」(あそのくにのみやつこ)に任じられた。


※『国造本紀』(こくぞうほんき)とは『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)の巻第10。

全国135の国造(国司や重複を含む)について、

それぞれの設置時期や被任命者が列記してあります。

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)は日本の史書であり、

神道における神典で『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいい、

聖徳太子の(せん)という序文を有するゆえ、

平安初期につくられた偽書とされている。

しかしながら、そのなかの巻第3「天神本紀」の一部、

巻第5の「天孫本紀」、それに「国造本紀」は、

他のいずれの文献にもみえない独自の所伝を載せていて注目されている。


『国造本紀』(こくぞうほんき)は、

大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下全国で135余りの国造を列挙し、

それぞれに「国造任命時代」「初代国造名」を簡単に記している。


それらのなかには「和泉」(いずみ)「摂津」(せっつ)「丹後」(たんご)「美作」(みまさか)など、

後世の国司を記載したところもある。


また「无邪志」(むさし)と「胸刺」(むさし)、

「加我」(かが)と「加冝」(かが)など紛らわしいものもある。


しかし、概して信用できる古伝によっていると思われ古代史研究の貴重な史料となっている。


「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)は、

父「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)の意志を継ぎ、

農耕を広めて畜産・植林等にも力を尽くした。

母は「阿蘇都媛」(あそつひめ)

「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)は、

7代孝霊(こうれい)天皇9年勅により「阿蘇神社」を創建した。


阿蘇神社あそ じんじゃは、日本の九州中央部、熊本県阿蘇市にある神社。

古くは「阿蘓神社」とも記した(銘板が現存する)。


主祭神・「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)

「阿蘇都比咩命」(あそつひめのみこと)・ほか10柱

社格等・式内社(名神大1社、小1社)・肥後国一宮・旧官幣大社・別表神社

創建・(伝)第7代孝霊(こうれい)天皇9年

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社である。

古代からの有力氏族である「阿蘇氏」(あそし)が大宮司を務め、


『古事記』によれば、

神武(じんむ)天皇の皇子「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)は阿蘇氏(あそし)の始祖である。

「神八井耳命」の(カバネ)は「君」(きみ)

「君・公」(きみ)は、ヤマト政権のかばねの一つ。

元々は豪族の尊称である「首長」(しゅちょう)の意味である。


本来「君」と「公」は別のものであり

「君」の大部分は中小豪族で330あまりの氏族が数え上げられ、

「三輪君」(みわのきみ)「犬上君」(いぬがみのきみ)など畿内及びその周囲に多い。


地方豪族にも授けられ関東の「上毛野君」(かみつけぬのきみ)

「下毛野君」(しもつけぬのきみ)

九州の「筑紫君」(つくしのきみ)

「筑紫火君」(つくしのひのきみ)などがあげられる。

8世紀以降になると、

「蝦夷」(えぞ)「隼人」(はやと)の首長にも与えられたという。


「公」(きみ)は主として

「息長公」(おきながのきみ)

「多治比公」(たじひのきみ)

「当麻公」(たいまのきみ)など、

応神天皇以後、あるいは 継体天皇以降の 皇族の後裔と称する皇親氏族に与えられた。


「阿蘇君」(あそのきみ)とは、古墳時代、阿蘇谷東北部を根拠地として阿蘇盆地全域に勢力を伸張し、律令時代に阿蘇神社の神主家となった豪族です。

同地方の人々は早くから阿蘇火山を火神として崇拝していたと思われ、従ってこの地方の有力者は司祭者的性格を濃厚に保持し続けました。


延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社しきないしゃ式社しきしゃといい、一種の社格となっています。

延長5年(927年)にまとめられました。


延喜式内社肥後国四座のうち「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)神社、「阿蘇都比咩」(あそつひめ)神社、国造神社の三座までが阿蘇谷東北部に鎮座しており、特に前者は中央にも重んじられて阿蘇大社となり、現在に至っています。


阿蘇地方が大和朝廷の支配下に入ったのは4世紀後半ごろで、その服属形態は県の献上だと思われます。

同時にこの地方の有力者は県主あがたぬしに任じられ、畿内型の前方後円墳築造が開始されています。

その後、盆地内の開発は次第に南郷谷へも伸展し、日下部の設置も行われました。

6世紀に入り「阿蘇君」(あそのきみ)一族が国造に任命されたころまでには阿蘇盆地は全域同氏の勢力下に置かれていました。

6世紀後半の築造とされる上御倉、下御倉両古墳は直径30mの巨石墳です。


大和政権の王が大王おおきみと称するようになると

「君」(きみ)「公」(きみ)は「姓」(かばね)として位置づけられるようになり、

「大王」(おおきみ)はその大なるものとして豪族を超越するものへと発展していきました。


天武天皇13年10月(684年)に「八色の姓」が制定され、

その日のうちに「公」(きみ)氏族は、

最高位の「真人」(まひと)を「賜姓」(しせい)されました。


また11月には「君」(きみ)氏族の一部が、

「臣」(おみ)氏族とともに「朝臣」(あそん)に改姓させられたが、

「君」(きみ)のまま据え置かれたものも多かったという事です。

天平宝字3年(759年)「君」(きみ)も「公」(きみ)(かばね)と表記するように定められた。


「華族類別録76類」のうち「公」(きみ)の(かばね)は1類「皇別阿蘇公」のみであり、同祖と思われる

意富(おお)氏(姓は臣)

「火」(ひ)氏(姓は君)

「大分」(おおいた)氏(姓は君)などがあり、

これについて太田亮は「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)の後裔(こうえい)

九州に多く存在していることから、

神武(じんむ)天皇が本拠地を近畿地方に移したのち、

元の本拠であった九州を「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)に与え、

その子孫が各地で繁栄したためであるとしています。


それでは「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)と、

その父「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)について考察したいと思う。


「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)と

「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)の関係はハッキリしません。

実子、孫、5世孫、11世孫、と以下のような5説が並立しています。


第1説、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神八井耳命の第5子 (阿蘇郡誌)

第2説、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神八井耳命の第6子 (阿蘇郡誌)

第3説、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神八井耳命の孫 (先代旧持事本紀)

第4説、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神八井耳命の5世孫 (阿蘇郡誌)

第5説、健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神八井耳命の11世孫 (諏訪系図)、


しかし、「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)と

神武(じんむ)天皇との関係はハッキリしており、

神武(じんむ)天皇と「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめたたらいすずひめのみこと)との第2皇子が、

「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)である。


神武(じんむ)天皇には2人の妃がいて、

1人が「吾平津媛」(あいらつひめ)、

もう1人が「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめたたらいすずひめ の みこと)です。


『日本書紀』では「吾平津媛」(あいらつひめ)の表記で、

『古事記』では「阿比良比売」(あいらつひめ)と表記され、

日向国吾田邑あたのむら出身とされています。

『古事記』によると「吾平津媛」(あいらつひめ)の兄は「阿多之小椅君」(あたのおばしのきみ)と表記され『古代豪族系図集覧』では「火闌降命」(ほのすそりのみこと)(海幸彦)の娘となっています。


第1皇子「手研耳命」(たぎしみみのみこと)は

『古事記』では「多芸志美美命」(たぎしみみのみこと)と表記され

神武(じんむ)天皇崩後、

皇太子「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)に対する反逆を起こし殺害された。


『古事記』ではもう1人皇子がおり「岐須美美命」(きすみみのみこと)というが、特に記述はない。


『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめたたらいすずひめのみこと)、

『古事記』では「富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売」(ひめたたらいすずひめのみこと)と表記されている。

『日本書紀』では「事代主神」の娘、

『古事記』では「大物主神」の娘となっています。


『古事記』では第一皇子「日子八井耳命」(ひこやいみみのみこと)が存在しますが、

『先代旧事本紀』では「彦八井命」(ひこやいみみのみこと)と表記され、

『日本書紀』には存在事態がありません。

『古事記』等にも特に事績に関する記述はない。


『古事記』『日本書紀』とも、第2皇子「神八井耳命・神八井命」(かんやいみみのみこと)であり、

「多氏」(おおし)

「火氏」(ひし)

「阿蘇氏」(あそし)

「科野国造」(しなぬのくにのみやつこ)等の祖となっている。


『古事記』『日本書紀』ともに、

第3皇子「神渟名川耳尊・神渟名川尊・渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)であり、

『古事記』では「神沼河耳命」(かんぬなかわみみのみこと)と表記されている。

末裔豪族「多氏」(おおし/おおうじ/おほし)は、

「多」(おお)を氏の名とする氏族で、日本最古の「皇別氏族」とされる。


「太」(おお)

「大」(おお)

「意富」(おお)

「飯富」(おお)

「於保」(おお)とも記され、九州と畿内に系譜を伝える奈良時代から続く楽家の一つである。

「神楽歌」(かぐらうた)と「舞楽」(ぶがく)を父子相伝した「皇別氏族」屈指の古族である。


『古事記』によると、

古族「多氏」(おおし)の子孫は、

▪中央豪族で繁栄した系統・・・

・「多朝臣」(おおのあそん)

・「意富臣」(おおおみ)

・「小子部連」(ちいさこべのむらじ)

・「坂合部連」(さかいべのむらじ)などがある。


▪九州を中心に繁栄した系統として、

・「火君・火国造」(ひのきみ・ひのくにのみやつこ)、

・「大分君・大分国造」(おおいたのきみ・おおいたのくにのみやつこ)、

・「阿蘇君・阿蘇国造」(あそのきみ・あそのくにのみやつこ)、

・「筑紫三家連」(つくしのみやけのむらじ)、

・「雀部臣」(ささべのおみ)、

・「雀部造」(ささべのみやつこ)、

・「小長谷造」(おはつせのみやつこ)、

・「伊余國造」(いよのくにのみやつこ)などがある。


『古事記』によると「大分君」(おおいたのきみ)は、

神武(じんむ)天皇の御子「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)の第二子で、

「火君」(ひのきみ)

「阿蘇君」(あそのきみ)

「筑紫連三潴」(つくしのむらじみずま)と兄弟とある。


▪東国に繁栄した系統として、

・「科野国造」(しなぬのくにのみやつこ)

・「道奧石城國造」(みちのくのいわきのくにのみやつこ)

・「常道仲國造」(ひたちのなかのくにのみやつこ)

・「長狭国造」(ながさのくにのみやつこ)

・「伊勢船木直」(いせのふなぎのあたい)

・「尾張丹波臣」(おわりのにわのおみ)「丹羽県主」(にわのあがたぬし)

・「嶋田臣」(しまだのおみ)などがある。


「多氏」(おおし)のうち畿内の本流一族は、

大和国十市郡(とおちぐん)飫富郷(おふごう)(現奈良県橿原市)に住み、

支流の「都祁直」(つけのあたい)は同国山辺郡都祁郷(つげごう)に勢力を持った。

『古事記』の編者である「太安万侶」(おうのやすまろ)もこの一族である。


地方に繁栄した「多氏」(おおし)の後裔で有名なものに、

西国の系統では「阿蘇国造」(あそのくにのみやつこ)の後裔、

阿蘇神社神主家の「阿蘇氏」(あそし)がある。


「阿蘇氏」(あそし)の祖は一般に「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)であるが、

「敷桁彦命」(しきたなひこのみこと)の子とされる「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)との説もある。

『日本書紀』には景行(けいこう)天皇の親征に、

子孫の「阿蘇都彦」(あそつひこ)(美穂主命)が登場する。


その後裔は「阿蘇氏」(あそし)となったが、

その本流はのちに断絶し、

傍流の「宇治部公」(うじべのきみ)が継承した。

現在の「阿蘇氏」(あそし)は「宇治部公」(うじべのきみ)の系統である。


東国の系統では「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)の、

4世孫である「武五百建命」(たけいおたけのみこと)が、

「科野国造」(しなぬのくにのみやつこ)に任じられ、

その末裔の「金弓君」(かなゆみのきみ)は、

29代欽明(きんめい)天皇に仕え、

「金刺舎人」(かなさしのとねり)の(かばね)を賜り、

「目古君」(めこのきみ)は30代敏達(びんたつ)天皇に仕え、

「他田舎人」(おさだとねり)の姓を賜った。

子孫は「諏訪神党」(すわしんとう)の祖先となったという。


「諏訪神党」は、諏訪明神の直系の末裔(現人神)であり、諏訪神社上社大祝(おおほうり)家の諏訪氏(諏方氏)、また神氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団、または氏族団のことで、諏訪明神は諏訪大社の祭神「タケミナカタ」


九州方面に大族(おおぞく)が多く存在した理由については、

神武天皇が本拠地を近畿地方に移したのち、

元の本拠であった九州を「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)に与え、

その子孫が各地で繁栄したためとする説がある。


雅楽(ががく)御神楽(おかぐら)の始祖で、

「神八井耳命」(かむやいみみのみこと)の後裔とされる、

9世紀の「多自然麿」(おおのじねんまろ)の正確な系譜は不明だが、

その子孫は地下の楽人(がくにん)として代々宮廷に仕えた。

応仁の乱以降の混乱期には多忠宗らを経て、現代に至っている。


崇神(すじん)天皇の時代には

「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)の5世孫の「武恵賀前命」(たけえがさきのみこと)がおり、

「彦恵賀別命」(ひこえがわけのみこと)の子とされる。

13代成務(せいむ)天皇の時代には

「武恵賀前命」(たけえがさきのみこと)の孫の「仲津臣」(なかつのおみ)がおり

「仲津臣」(なかつのおみ)は「武弥依米命」の子とされる。

21代雄略(ゆうりゃく)天皇の時代には

「六世孫(仲津臣から数えるか)」の「蜾蠃」(すがる)がおり、

「多武敷」(おおのぶしき)の子、「多清眼」(おおのせいがん)の弟とされる。

40代天武(てんむ)天皇の時代には

「多清眼」(おおのせいがん)の11世孫の「小錦下」「多品治」がおり「多蒋敷」の子とされる。

また「品治」の子が「太安万侶」(おおのやすまろ)とされる。


「日本書紀」綏靖(すいぜい)天皇即位前紀によれば、

朝政の経験に長けていた庶兄の「手研耳命」(たぎしみみのみこと)は、

皇位に就くため弟の「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)を害そうとした。

この陰謀を知った「神八井耳」(かんやいみみ)「神渟名川耳」(かんぬなかわみみ)兄弟は、

己卯年11月に片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)

の大室に臥せっていた「手研耳」(たぎしみみ)を襲い、これを討った。

この際「神八井耳」(かんやいみみ)は手足が震えて矢を射ることができず、

代わりに「神渟名川耳」(かんぬなかわみみ)が射て殺したという。

神八井耳(かんやいみみ)はこの失態を深く恥じ弟に皇位をすすめ、

自分は天皇を助けて神祇(じんぎ)を掌ることとなった。

そして神八井耳(かんやいみみ)は綏靖天皇4年4月に薨去した。

「日本書紀」「古事記」においても同様の説話が記されている。


これを「手研耳の反逆」(タギシミミのはんぎゃく)という。


「神日本磐余彦尊」(かんやまといわれびこのみこと)は、

神武東征以前に日向国吾田邑(あがたむら)の「吾平津媛」(あひらつひめ)をめとり、

子「手研耳命」(たぎしみみのみこと)を得ていた。


しかし東征後「事代主神」(ことしろぬしのかみ)の娘「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめたたらいすずひめ)

を新たにめとり正妃とした。


「磐余彦尊」(いわれびこのみこと)は即位して神武(じんむ)天皇となると、

「五十鈴媛命」(いすずひめのみこと)は皇后とされ、

2人の間には「神八井耳命・神八井命」(かむやいみみのみこと)と

「神渟名川耳尊・渟名川耳尊・神渟名川尊」(かんぬなかわみみのみこと)の2皇子が生まれた。

神武天皇42年に神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)は立太子されて皇太子となった。


神武(じんむ)天皇は神武天皇76年に崩御し、

翌年9月12日に畝傍山(うねびやま)東北陵に葬られた。


皇太子「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)は特に心を喪葬の事に留めていた。

その庶兄である「手研耳命」(たぎしみみのみこと)は、

長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、

神武(じんむ)天皇の諒闇中(りょうあんちゅう)に二弟を害することをはかった。

これは神武(じんむ)天皇崩御より3年後のことである。


この年の11月「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみ)とその兄の「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)は、

ひそかに(『古事記』によれば母の歌により)「手研耳命」(たぎしみみのみこと)の志を知って、

これを防いだ。


すなわち、山陵の事が終わるに至って「弓部稚彦・弓削部稚彦」(ゆげのわかひこ)には弓を、

「倭鍜部天津真浦」(やまとのかぬちべあまつまら)には「真麛鏃」(まかごのやさき)を、

矢部には()をつくらせた。


弓矢が完成するに及んで「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)は

「手研耳命」(たぎしみみのみこと)を射殺そうと思った。

二人は「手研耳命」(たぎしみみのみこと)が片丘の大窨おおむろの中に有り、

ひとり大床に臥せっているのに行き合った。

この時「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみ)は、

兄の「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)に

「今適たまたま其時なり。夫れ言こと密を尊び、言は宜よろしく慎むべし。故かれ我の陰謀本より預者無し。今日の事は、唯吾爾いましと自み行いたまはくのみ。吾当まさに先まず窨むろの戸を開あけむ。爾其れ射よ」

と言い「手研耳命」(たぎしみみのみこと)を射殺す役目を兄に与えた。

二人はむろに進入し「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみ)はその戸を突き開けた。

しかし「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)は手脚が戦慄し矢をいることができなかった。

この時「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみのみこと)は兄の所持していた弓矢をき取り、

「手研耳命」(たぎしみみのみこと)を射た。

一発目は胸にたり、二発目は背に中たってついに殺した。


「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)は恥じて

「神渟名川耳尊」(かんぬなかわみみ)に皇位を譲り、

「吾やつがれ是乃いましの兄このかみなれども、懦弱にして不能致果いしきなし。今汝いましみこと特に神武に挺し、自み元悪あだを誅つみなう。宜うべなるかな。汝の天位に光てり臨のぞみ以て皇祖の業つぎてを承うけむこと。吾は当まさに汝の輔たすけと為して神祇を奉典せむ」

と言って、皇位を継がず祭祀を行う意志を明らかにしたという。


翌年1月8日「神渟名川耳尊」は綏靖(すいぜい)天皇(第2代天皇)として即位し、

この年を綏靖(あんぜい)天皇元年とした。


「神八井耳命」(かんやいみみのみこと)は綏靖天皇4年4月に薨じ、

畝傍山(うねびやま)の北に葬られた。

「多氏」(おおし)(姓は臣)はその子孫とされる。


「阿蘇ペディア」という阿蘇の観光サイトに「ハヤミカタマノミコト」についての解説がにあります。


※「速甕玉命」(はやみかたまのみこと)

※「速甁玉命」(はやみかたまのみこと)

阿蘇神社から約6㎞の所に「国造神社」という神社があります。

「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)の御子である、

「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)を主神として、

お妃の「雨宮媛命」(あまみやひめのみこと)、

第2子の「高橋神」(たかはしのかみ)、

第3子の「火宮神・日宮神」(ひのみやのかみ)が祭られています。


「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)は農業の神として住民から大変親しまれています。


父の「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)とともに阿蘇の開拓に尽くしたといい、

田に水を引くことや牛馬の育成に努め、

農業を起こしたと伝えられているのです。


10代崇神(すじん)天皇(すじんてんのう)の時、

「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)は「阿蘇国造」(あそのくにのみやつこ)に任ぜられています。


国造(くにのみやつこ)というのは地方の長に当たる職のことで、

国造(くにのみやつこ)にゆかりの神社の神職(しんしょく)をさす言葉でもあります。


国造神社のすぐそばには、

「上御倉古墳」(かみのおくらこふん)

「下御倉古墳」(しものおくらこふん)という2つの横穴式古墳があります。


紀元600年頃にできたものといわれており、

この2つの古墳は「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)と、

「雨宮媛命」(あまみやひめのみこと)のお墓だと伝えられています。


この他にも手野から南西に当たる所に中通古墳群(なかどおりこふんぐん)があり、

10の古墳が田んぼの中に点在しています。

(かがみ)勾玉(まがたま)(つるぎ)埴輪(はにわ)土器(どき)などが出てきた古墳等もあり、古いものは紀元500年頃に造られたものと思われています。


残念なことに、これらの古墳の中でも一番大きな前方後円墳の長目塚(ながめづか)が、

河川改修の際、前方部が削り取られてしまいました。


全長111.5mあったものが改修により50m程無くなってしまいました。

改修前に調査された結果、周囲を含めると熊本県内で一番大きい前方後円墳だということが分かり、

35才位の女性と思われる人が葬られていました。

その時、鏡や玉類、太刀などが見つかり阿蘇神社に保管されています。


次に「オールクマモト」というサイトが「阿蘇家」(あそけ)について解説されています。


阿蘇家(あそけ)の祖は「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)としている。

「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)は阿蘇神社の御祭神「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)の子である。

「速瓶玉命」(はやみかたまのみこと)は「阿蘇國造」(あそのくにのみやつこ)として阿蘇神社を創建した。

命じたのは7代孝霊(こうれい)天皇である。


《阿蘇大明神の話》


むかし天照大神の孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が、

日本の国を治めるために日向の高千穂の峯におくだりになりました。


そして「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)から三代目の神武天皇が宮崎の港から舟出して

大和の国(奈良県)で日本の国をはじめてお治めになりました。


神武天皇は孫にあたる「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)に九州の地を治めるよう命じました。

阿蘇を開発した神として阿蘇神社の主神で「阿蘇大明神」ともいいます。


「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)は山城の国宇治郷(京都府宇治市)から瀬戸内海を渡り、

宮崎の港に着き、宮崎で祖父に当たる神武天皇が住まわれた跡に神武天皇の神霊を祀られました。

現在の宮崎神宮がその社で、宮崎神宮の古い記録に「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)のことが書かれています。


「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)は九州を治めるには九州の中央部に行く必要があると考えました。

海岸を北に進み、延岡から「五箇瀬川」(ごかせがわ)をさかのぼり、

高千穂そして草部くさかべ(阿蘇郡高森町)に着きました。

ここには伯父にあたる「草部吉見神」(くさかべよしみのかみ)が居られ、

たいへん喜んで「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)を迎えました。

ここで吉見神の娘「阿蘇都媛」(あそつひめ)と結婚します。


二人は火を噴く山、阿蘇一帯に新天地を求めて進みます。

その頃の阿蘇は阿蘇谷、南郷谷なんごうだにとも広々と水をたたえた大きな湖でした。

この湖の水を流し出して開拓しようと一大決心をしました。

先ず二重ふたえの峠のところを蹴破ろうとしましたが、二重になっていて壊れませんでした。

そこで立野たての(阿蘇郡長陽村立野)のスガルのところを蹴りますと、

山は音を立てて崩れ湖の水はどっと流れ出ました。

スガルとはスキマガアルを縮めた名前とも『すっかり』と穴が開いたからともいわれています。

また、蹴破った時の土くれが飛んできたのが、熊本市の小山戸島おやまとしまであり、

菊陽町の津久礼ツチクレであるともいわれます。

数鹿流がすがるがたき下野しものの狩りで追いつめられた鹿が

数匹流されたので名付けられました。


「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)は水がなくなった阿蘇谷と南郷谷を開拓し作物をつくり豊かな土地にしました。

「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)のお墓は阿蘇神社の桜門の東にある『一の神陵』で、

「阿蘇都媛」(あそつひめ)のお墓は『二の神陵』といわれています。

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