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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
91/105

「藤原不比等」

「藤原不比等」(ふじわらのふひと)は、

飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿(くぎょう)・政治家であり、

誕生は斉明(さいめい)天皇5年(659年)、

死没は養老4年8月3日(720年9月9日)、

40代天武(てんむ)天皇→

41代持統(じとう)天皇→

42代文武(もんむ)天皇→

43代元明(げんめい)天皇→

44代元正(げんしょう)天皇、

と生涯5人の天皇に仕えた。


父・「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)

母・「与志古娘」(よしこのいらつめ)


兄弟・「定恵」(じょうえ・じょうけい)

「氷上娘」(ひかみのいつらめ)

「五百重娘」(いおえのいつらめ)

「耳面刀自」(みみもとじ)

「斗売娘」(とめのいらつめ)


妻・「蘇我娼子」(そがのしょうし・そがのまさこ)

「五百重娘」(いおえのいらつめ)

「賀茂比売」(かもひめ)

「県犬養三千代」(あがたのいぬかいのみちよ)


子・「武智麻呂」(むちまろ)

「房前」(ふささき)

「宇合」(うまかい)

「麻呂」(まろ)

「宮子」(みやこ)

「長娥子」(ながこ)

「光明子」(こうみょうし)

「多比能」(たびの)


「藤原不比等」(ふじわらのふひと)は持統(じとう)天皇に仕え、

大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、

元明(げんめい)天皇の擁立に貢献した、と言われている。


『興福寺縁起』(こうふくじえんぎ)

『大鏡』(おおかがみ)

『公卿補任』(くぎょうぶにん)

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)では、

天智(てんち)天皇の落胤(らくいん)と記されている。

名を「史」(ふひと)と記す文献もある。


「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)の次男として生まれたため、

少年時代はまだ「中臣氏」(なかとみうじ)を名乗っていた。

11歳の時、父・「鎌足」(かまたり)が死去。

「鎌足」(かまたり)が亡くなる直前に

「藤原氏」(ふじわらうじ)に改姓した際に「不比等」(ふひと)がこれを継承している(通説)


父の生前の関係から「近江朝」(おうみちょう)に近い立場にいたが

「壬申の乱」(じんしんのらん)の時は、

数えで13歳であったために何の関与もせず

「近江朝」(おうみちょう)に対する処罰の対象にも

「天武朝」(てんむちょう)に対する功績の対象にも入らなかった。


だが「中臣金」(なかとみのかね)(中臣鎌足の従兄弟)(壬申の乱により処刑)

をはじめとする鎌足の同族の有力者が「近江朝」(おうみちょう)の要人として、

処罰を受けたこともあって「天武朝」(てんむちょう)の初期には、

中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となった。


有力な後ろ盾を持たない「不比等」(ふひと)は

『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人(おおとねり)の登用制度によって、

出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。


「不比等」(ふひと)は、天武7、8年頃(678年頃)に

「蘇我連子」(そがのむらじこ)の娘「蘇我娼子」(そがのしょうし・まさこ)を嫡妻として迎えた。


これによって「不比等」(ふひと)は、

「大臣家」(だいじんけ)である「蘇我氏」(そがし)の尊貴性を、

自己の子孫の中に取り入れることができ、

「藤原氏」(ふじわらし)は「氏」(うじ)として成立したばかりであるにも関わらず、

「蘇我氏」(そがし)の地位を受け継ぐ「氏」(うじ)であることを支配者層に示すことができた。


「天武朝」(てんむちょう)の後期に入ると、

「不比等」(ふひと)は従兄弟の「中臣大嶋」(なかとみのおおしま)とともに、

「草壁皇子」(くさかべのみこ)に仕えたとみられている。


東大寺正倉院の宝物として、

『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」(くろづくりのかけはきのかたな)は、

「草壁皇子」(くさかべのみこ)から「不比等」(ふひと)に授けられた皇子の護り刀で、

後に皇子と不比等(ふひと)自身の共通の孫である、

45代聖武(しょうむ)天皇に譲られたと伝えられている。


『日本書紀』に「不比等」(ふひと)の名前が出るのは、

41代持統(じとう)天皇3年(689年)2月26日(己酉)に、

判事に任命されたのが初出で、

持統(じとう)天皇所生である「草壁皇子」(くさかべのみこ)に仕えていた縁と、

法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。

また、こうした経歴から、

「不比等」(ふひと)が「飛鳥浄御原令」(あすかきょみはらりょう)の編纂に、

参加していたとする説もある。


文武天皇元年(697年)には持統(じとう)天皇の譲位により、

即位した「草壁皇子」の息子「軽皇子」(かるのみこ)「文武(もんむ)天皇」の擁立に功績があり、

更に「大宝律令」(たいほうりつりょう)編纂において、

中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。


また「阿閇皇女」(あへいこうじょ)「元明(げんめい)天皇」付き女官で、

持統(じとう)末年頃に「不比等」(ふひと)と婚姻関係になったと考えられている

「橘三千代」(たちばなのみちよ)の力添えにより皇室との関係を深め、

文武(もんむ)天皇の即位直後には娘の「藤原宮子」(ふじわらのみやこ)が天皇の夫人となり、

藤原朝臣姓(ふじわらのあそんせい)の名乗りが「不比等」(ふひと)の子孫に限定され、

「藤原氏」=「不比等家」が成立している。


文武(もんむ)天皇2年(698年)には、

不比等(ふひと)の子孫のみが「藤原姓」(ふじわらせい)を名乗り、

太政官の官職に就くことができるとされた。


不比等の従兄弟たちは、

鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、

神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。

このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。


文武(もんむ)天皇と「宮子」(みやこ)の間には、

首皇子(おびとのおうじ)(聖武天皇)が生まれ、

さらに橘三千代との間の娘である「光明子」(こうみょうし)を聖武(しょうむ)天皇に嫁がせたが、

「光明子」(こうみょうし)は不比等の死後、

「不比等」(ふひと)の息子の「藤原四兄弟」の力によって皇后となり、

初の非皇族の人臣皇后の例となった。


「不比等」(ふひと)は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。

その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。

享年62。養老律令を実施したのは孫の「藤原仲麻呂」(ふじわらのなかまろ)の時である。


「不比等」(ふひと)とその息子の藤原四兄弟によって、

藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。


「天智天皇の皇胤説」・・・というのがある。

この説が重要なのは、もし「不比等」(ふひと)が天智(てんち)天皇のご落胤ならば、

今日の藤原氏の子孫達は、みんな皇統男子ということになる。

その場合「君臣の別」という概念が崩れるからである。


「不比等」(ふひと)は実は鎌足の子ではなく天智(てんち)天皇の落胤であるとの説がある。

『公卿補任』(くぎょうぶにん)の不比等の項には

「実は天智(てんち)天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、

『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、

「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」

と誓約の言葉を言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。

『帝王編年記』『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)などの記載も同様である。


平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、

『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子(くらもちのみこ)

のモデルは「不比等」(ふひと)とされている。


歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、

もし本当に皇胤であったとすれば、

後の異例とも言える不比等の出世が、

天武(てんむ)天皇・持統(じとう)天皇代に行われた皇親政治

(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)

の延長として考えることも可能になるとして支持する学者もいる。


また続けて先例として天智(てんち)天皇と鎌足の話が述べられているが、

ここでは天皇の子とされているのは

「不比等」(ふひと)ではなく「定恵」(じょうえ・じょうけい)である。

(『多武峯略記』(とうのみねりゃっき)には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。


姓名について


「不比等」(ふひと)という名前についても、

壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべ の ふひと おおすみ)

の家にしばらく匿われていたことと関連する説がある。


もっとも藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、

日本の外交責任者の地位にあり、

当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)

及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、

自分の長男(定恵)を僧侶として、

次男(不比等)を史として育てて、

将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、

皇胤説に否定的な見方もある。

また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、

田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、

これが不比等の推挙であると同時に、

田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 打ち切られたけど ふることふひと って漫画も不比等らくいん説だったなぁ
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