「藤原氏」
藤原・・・この「氏」(うじ)を考察してみようと思う。
「氏」(うじ)は「姓」(せい)とも「名字・苗字」(みょうじ)とも言い、同じ意味で使う。
しかし「姓」(せい)は「姓」(かばね)とも読め、その場合は別々の意味を有した。
明治以降「氏」(うじ)は「姓」(せい)つまり「名字・苗字」として戸籍に記載・管理され、
現代ではほぼ同一の言葉として使われている。
しかし、明治時代まで、武家以外には「氏」(うじ)「姓」(せい)は無かったとされている。
正確には公的な場で名乗ること(苗字公称)が武士の特権とされていた。
農民などは私的な場以外で名乗ることが禁止(苗字公称の禁止)されていた。
近世の日本の百姓は皆「苗字」(みょうじ)を持っていたが、使用するのは武士の関わらない仲間同士の場面だけであった。
小川寺(小平市)の梵鐘の「寄進者名」が最古の庶民層の名前の資料として残っている。
この梵鐘は1686年(貞享3年)に鋳造され、
小川寺の檀家である小川村の百姓らが寄進したものであるが、
鐘の表面には寄進者名の農民らの「名字・苗字」が全て付されている。
農民は公的な場で「名字・苗字」を名乗ることが禁じられていたため、
武士以外の「名字・苗字」が記録に残されることが少なくなっているだけで、
武士以外も「名字・苗字」自体は私的に持っていたということだ。
江戸時代の1846年(弘化3年)時点で氷川神社(東京都中野区江古田)の造営奉納取立帳にも全村軒の戸主全員の「名字・苗字」が記載されている。
江戸から離れた現在の長野県松本平の南安曇郡の33村でも2345人中16人を除いて「名字・苗字」が記載されている。
1875年(明治8年)2月13日に太政官布告で全国民への「氏」の使用が義務化された。
1876年(明治9年)3月17日に太政官指令で「夫婦別氏(妻に実家の氏を名乗らせること)」(ふうふべつうじ)を国民すべてに適用することとした。
1898年(明治31年)に旧民法で「夫婦同氏」(ふうふどうし)とされた。
最近騒がれている「夫婦同氏」(ふうふどうし)は、明治31年以降の制度で、それ以前は「夫婦別姓」(ふうふべっせい)だった。。
「氏」(ウジ)・・・(朝廷が認めた血縁集団の区別を表す)
「姓」(カバネ)・・・(朝廷との関係を表す)
江戸以前は「氏」(うじ)と「姓」(かばね)は区別され、
朝廷の公式文書では、例えば、足利尊氏は「源朝臣尊氏」(みなもとのあそんたかうじ)と記されていた。
「源」(みなもと)が「氏」(うじ)で
「朝臣」(あそん)が「姓」(かばね)であった。
大和朝廷では「氏」(うじ)の組織を基にして、
それを「姓」(かばね)によって秩序づけた。
これが大和王権の支配制度であり。
684年(天武天皇13)に制定された「八色の姓」であった。
「八色の姓」(やくさのかばね)では皇室に近い血縁氏族を新姓の「真人」(まひと)とした。
第二位の「朝臣」(あそん)には「中臣」(なかとみ)(藤原氏)「石上」(いそのかみ)(物部氏)など、
畿内の最大級貴族をあてた。
第三位の「宿禰」(すくね)には「大伴」(おおとも)「佐伯」(さえき)など有力な連姓豪族。
第四位の「忌寸」(いみき)、
第五位の「道師」(みちのし)を置いて、
その下位に従来の上級の姓だった第六位「臣」(おみ)と第七位「連」(むらじ)を位置づけ、
第八位は「稲置」(いなぎ)であった。
このように「八色の姓」(やくさのかばね)によって「氏姓制度」(しせいせいど)は再編成され天皇の側近体制が成立した。
※「氏姓制度」とは、日本古代の族制的な身分制度で、 中央や地方の豪族に,その国家機構における役割や社会的な地位に応じて,朝廷から「氏」(うじ)と「姓」(かばね)とを与え,豪族はそれを世襲した(氏と姓とを含めて姓と称することもある)。
その後、奈良・平安時代を通じて多くの氏族が「朝臣」(あそん)姓を求めた。
「朝臣」(あそん)を名のる氏族数が増加した。
「氏姓制度」(しせいせいど)が機能しなくなった。
「尊称」として「姓」(かばね)の一部が生き続けた。
古代は「氏」の後に格助詞「の」を入れて読み、
この「の」は、帰属を表した。
例えば
「蘇我馬子」ならば、
「蘇我氏」「の」馬子、
「源頼朝」(みなもとのよりとも)ならば、
「源氏」「の」「頼朝」、
という意味となる。
また、「氏」の呼称は男系祖先を同じくする血縁集団に基づいて名乗るものであり、
婚姻によって本来所属していた家族集団とは違う「氏」に属する家族集団に移ったとしても、
変えることはできなかった。
このように昔は「氏」(うじ)は、朝廷が認めた血縁集団の区別を表し、
「姓」(かばね)は、朝廷との関係を表すと区別されていた。
朝廷の公式文書では「足利尊氏」は「源朝臣尊氏」と記し、
「源」が氏で、「朝臣」が姓であった。
古代から中世平安時代に入り「姓」(せい)「氏」(うじ)が曖昧になった。
一般には「姓」(せい)は「氏」(うじ)を指し、
意味は同じとなった。
例えば「源姓」は「源氏」を意味するようになった。
そして、貴族や武士では「血縁集団」(同じ氏に属する者)から、
分かれた新たな「家族集団」(同じ家名に属する者)が発達した。
「氏族」と「家族」を区別するため、
地名を用いて「家名」「苗字」「名字」を自ら作って名乗るようになった。
例えば、足利尊氏は、「氏」の「源」を使った場合は「源尊氏」で、
「名字」「苗字」「家名」の「足利」を使った場合は「足利尊氏」となる。
明治時代においては、
まず1870年に、それまで身分的特権性を有していた「苗字」を、
平民も自由に公称できるようになり「平民苗字許容令」(へいみんみょうじきょようれい)を発布、
「家名・苗字・名字」のことを「氏」(うじ)と呼ぶようになった。
本来の「氏」(うじ)は「本姓」(ほんせい)と呼ぶようになった。
本来の「氏」(うじ)という意味である。
明治時代以降は家族集団名である「名字・苗字・家名」のことを「氏」(うじ)と呼ぶ。
これと区別の目的で「本姓」(ほんせい)が用いられるようになった。
1872年に「壬申戸籍」(じんしんこせき)が編纂された際、
戸主の届出によって、戸籍へ登録する「氏」(うじ)が定められた。
それまで、朝廷で編纂される職員録には
「本姓と諱」が用いられてきた。
明治4年4月の職員録では例えば
「右大臣 従一位 藤原 朝臣 實美三条」のように「氏姓諱」の下に小文字で苗字が記されていた。
同年12月の諸官省官員録では「太政大臣 従一位 三條實美」のように表記されるように変わった。
多くの戸主は「籍」(せき)への登録は「苗字と名」となった。
広く知られている例では
「越智宿禰博文」(おちのすくねひろふみ)→「伊藤博文」(いとうひろふみ)、
「菅原朝臣重信」(すがわらのあそんしげのぶ)→「大隈重信」(おおくましげのぶ)、
「源朝臣直正」(みなもとのあそんなおまさ)→(なべしまなおまさ)「鍋島直正」、
「藤原朝臣利通」(ふじわらのあそんとしみちょ)→「大久保利通」(おおくぼとしみち)、
「藤原朝臣永敏」(ふじわらのあそんながとし)→「大村益次郎」(おおむらますじろう)、
と登録した。
その後も伝統的に旧来の「氏」(うじ)を用いる場面は皆無ではないが、
この壬申戸籍以降、
国家が公的な場面で旧来の「藤原朝臣○○」などの名称を用いることはなくなり、
この「壬申戸籍」(じんしんこせき)によって、
伝統的な「氏姓」(ウジカバネ)制度の用法は事実上ほぼ途絶した。
のち日本国民全てを戸籍により把握する必要が発生したことや、
事務上の要請もあったことなどから、
1875年に、全ての国民に「苗字」(みょうじ)の公称が義務づけられることになる。
(平民苗字必称義務令)。
その際、妻は生家の「苗字」(みょうじ)を称すべきか、
夫のそれを称すべきかが問題となったが、
1876年の太政官指令では前者(妻の生家)とする通達がなされた。
これに対しては、
庶民の生活実態に合わないなどの理由(社会生活上、嫁ぎ先の苗字を使うことがあった)で、
地方から疑問や批判も出た。
その後、不平等条約の解消の一環として民法典の編纂がその頃始まった。
主にフランス法とイタリア法が参考にされたが、
フランスは「夫婦別氏」(ふうふべつうじ)、
イタリアが「夫婦同氏」(ふうふどうし)であった。
夫婦単位で妻が夫の苗字を名乗る夫婦同氏制が草案の段階で採用され、
家制度の採用により夫婦単位ではなく家単位とするよう修正されて、
1890年に公布された旧民法において「夫婦同氏」(ふうふどうし)の制度が確立した
(この旧民法において、法令上は「氏」で呼称が統一される)。
これは民法典論争により施行延期になったが、
「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」という条文はそのまま受け継がれた
(旧民法人事編243条2項、明治民法746条)。
なお、第二次世界大戦後、
旧来の家制度は日本国憲法の理念と相容れなかったことから廃止されたため、
新たに「氏」(うじ)の法的性格をどのように考えるかが民法学上の論点となり、
その中には血縁関係から完全に離れて純粋に個人の呼称だとする学説もある。
「氏」(うじ)は「名」(な)とともに「氏名」を構成する。
現行の戸籍法によれば、戸籍には戸籍内の各人について「氏名」を記載することとされている
(戸籍法第13条第1号)。
1947年(昭和22年)の民法改正後の現行法下での「氏」(うじ)の法的性格については、
血縁や家族を背景としているとみる説(血縁団体名称説や家族共同体名称説)があるのに対して、
何らかの集団を背後に予定しなければならない根拠はないとして、
純粋に個人の名称であるとする説(個人呼称説)や、
多元的に捉えるべきとする多元的性格説等もあり、
「氏」(うじ)の法的性格については見解が分かれている。
(個人呼称説が民法学上の通説であるとされるが、近時、現実の家族共同生活をする個人に共通する呼称としての性格を併せもっているとの見解が有力になっているとされる)。
既述のように1898年(明治31年)に公布された民法では「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」と規定されていた(明治民法746条)。
しかし、第二次世界大戦後における家族法の大改正の際、旧来の家制度は日本国憲法の理念と相容れなかったことから廃止された。
「氏」(うじ)の制度については存続したが、
社会習俗上はともかく法制度上は家という拠所を失ったため、
その法的性格をどのように考えるかが問題となった。
現行法上の氏の法的性格については、
・「個人呼称説」(氏は純粋に各人の同一性を識別するための個人の呼称であるとする説)
・「血縁団体名称説」(血統名説とも。氏は各人の属する血縁団体(血縁)の名称であるとする説)
・「家族共同体名称説」(家族共同態名説とも。氏は各人の属する家族(家族共同体・家族共同態)の名称であるとする説)
・「同籍者集団名称説」(同籍者名説とも。氏は戸籍編製の基準となる同籍者集団の名称であるとする説)
・「多元的性格説」(氏の法的性格について多元的に理解すべきとする説)
など見解は多岐に分かれている。
このうち「個人呼称説」が現在の民法学上の通説であるとされるが、
近時、氏には人の同一性を明らかにするとともに、
現実の家族共同生活をする個人に共通する呼称としての性格を併せもっているとの見解が有力になっている。
現行法上、氏の異同は原則として実体的権利関係を伴わないものとされる
(復氏と姻族関係には互いにつながりはないこと、父の認知が直ちに子の氏に影響を与えることはないこと、氏の異同は扶養義務や相続権に影響しないことなど)。
ただし、例外的に祭祀財産の承継と戸籍の編製については氏を基準としている。
さて「藤原氏」であるが、
「藤原朝臣」(ふじわらのあそん)・・・「朝臣」(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓で、上から二番目に相当する。
上から一番目の真人は、主に皇族に与えられたため、
皇族以外の臣下の中で事実上、最も上の地位にあたる。
古くは「あそみ」と読み、阿曽美や旦臣とも書いた。
「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)が歴史に登場した頃、
「蘇我氏」(そがし)が国家改革を妨害し、
天皇家をないがしろにした逆臣であり、
大化改新で「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)と「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)とが、
一大改革を成し遂げたとなっている。
しかし、実は国家改革を推し進めようとしたのが「蘇我氏」であり、
その改革を換骨奪胎し結局改革の旨みを独り占めしたのが、
「藤原氏」ではなかったか、との説もある。
「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)をその源流とする「藤原一族」とは、
果たしていかなる存在であったのか。
奈良時代から平安時代にかけては多くの豪族が「藤原氏」(ふじわらし)に抹殺されてきた。
並みいる豪族を打ち倒し、いつのまにか日本のほとんどの土地を我が物としていった「藤原氏」。
「藤原氏」がそこまで大きくなった謎に迫ろうと思う。
「藤原氏」(ふじわらし)
家紋・・・下がり藤
始祖・・・「天児屋命」(あめのこやねのみこと)
出自・・・「中臣氏」(なかとみし)
氏祖・・・「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)
種別・・・神別(天神)
本貫・・・大和国高市郡藤原
著名な人物
「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)
「藤原不比等」(ふじわらのふひと)
「藤原冬嗣」(ふじわらのふゆつぐ)
「藤原仲麻呂」(ふじわらのなかまろ)
「藤原道隆」(ふじわらのみちたか)
「藤原道長」(ふじわらのみちなが)
「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)
など・・・
後裔・・・「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の4人の子
「藤原南家」(ふじわらなんけ)「長男・藤原武智麻呂」(ふじわらのむちまろ)
「藤原北家」(ふじわらほっけ)「次男・藤原房前」(ふじわらのふささき)
「藤原式家」(ふじわらしきけ)「三男・藤原宇合」(ふじわらのうまかい)
「藤原京家」(ふじわらきょうけ)「四男・藤原麻呂」(ふじわらのまろ)
「姓」(カバネ)は「朝臣」(あそん)。
略称は藤氏。
飛鳥時代の「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)を祖とする「神別氏族」で姓の代表的なものの一つとして「源氏」「平氏」「橘氏」とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭名門氏族である。
「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の代に認められたと言われている。
鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく「天児屋命」(あめのこやねのみこと)とされている。
奈良時代に「南家」(なんけ)「北家」(ほっけ)「式家」(しきけ)「京家」(きょうけ)、の四家に分かれ、平安時代には「北家」が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。
「北家」(ほっけ)の中でも権勢を誇った「藤原道長」(ふじわらのみちなが)の嫡流子孫(摂家)は院政期以降も摂政・関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格を保った。
藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、
鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの、
苗字に相当する家名(家格)を名のり、
公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。
これらをあわせると朝廷における比率は圧倒的であり、
地方に散った後裔などもふくめ、
日本においては皇室(およびその流れを汲む源平など)に次いで、
大きな広がりと歴史を持つ家系であるとなる。
江戸時代の朝廷において、
大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原氏である。
残り3家系が源氏である。
「徳川」をはじめとした主要武家の多くも「源平」や「藤原流」を称していることを併せると、
「皇統」と「藤原氏」の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界であった。
「藤原氏」の祖である「中臣鎌足」は、
「中大兄皇子」とともに「乙巳の変」(いっしのへん)から「大化の改新」に至る諸改革に携わった。
その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から「藤原朝臣姓」を与えられたとされる。
「藤原」の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ。
通説では「鎌足」の子である「不比等」がその「姓」を引き継ぎ、
以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。
他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、
後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説もある。
この見解は、鎌足の死後、中臣氏を率いた右大臣「中臣金」(なかとみのかね)が「壬申の乱」で「大友皇子」(おおとものみこ)「弘文天皇」方に加勢したゆえ、
「大友皇子」の敗北後、「中臣金」(なかとみのかね)は処刑されている。
それゆえ、乱とは無関係であろうと「鎌足流」も一時衰亡したとおもわれるからである。
天武天皇13年(684年)に「八色の姓」が定められた際には、
「朝臣」(あそん)を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場していない。
「鎌足」の嫡男である「不比等」を含めた「鎌足」の一族は「中臣連」(なかとみのむらじ)(後に朝臣)と名乗っていたらしい。
『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(685年)9月以前に、
鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられ、
その範囲が定められた、とするものである。
いずれにしても、当時「不比等」(ふひと)がまだ若かったこともあって、
不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、
鎌足の一族であった中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が、
不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている。
のちに不比等が成長して頭角を現すと、
藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制とするため、
文武天皇2年(698年)8月、
「鎌足」(かまたり)の嫡男である「不比等」(ふひと)の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。
なお「鎌足」(かまたり)の死は、
「庚午年籍」(こうごねんじゃく)が編纂されて全ての臣民が戸籍に登録される前年であるが、
藤原の姓の由来が大和国高市郡にもかかわらず、
戸籍上の「藤原朝臣」(ふじわらのあそん)は全て京戸として扱われている。
これは天智・天武両天皇の子孫である諸王及び諸氏と同じ待遇であった。
また、奈良時代には皇族が臣籍降下した際、
母の姓を受け継いで「藤原朝臣」(ふじわらのあそん)を「賜姓」(しせい)されることもあった。
「藤原弟貞」(ふじわらのおとさだ)(山背王、長屋王の子)「藤原仲麻呂」(ふじわらのなかまろ)の養子となった「石津王」(いしづおう)が該当する。
しかし「弟貞」(おとさだ)の子孫は「永原朝臣」(ながはらのあそん)を「賜姓」(しせい)されて「藤原氏」(ふじわらし)を称することはなくなり、
「石津王」(いしづおう)は「仲石伴」(なかのいわとも)と改名したとも伝えられるが、
いずれにせよ後裔は不明なため、皇孫の「藤原朝臣」(ふじわらのあそん)は残らなかった。
藤原氏分離後の中臣氏
中臣意美麻呂は中臣姓に復帰後に「不比等」(ふひと)の推薦で中納言となり、
その七男の「清麻呂」(きよまろ)は右大臣まで昇った。
そのため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」(おおなかとみあそん)と称されるようになった。
平安時代以降になると他の中臣氏も「大中臣氏」(おおなかとみうじ)を名乗るようになるが「清麻呂」(きよまろ)の系統が嫡流であることは変わらず「藤波家」(ふじなみけ)として堂上公家に列する。
持統天皇末年頃に少壮官僚であった「藤原不比等」(ふじわらのふひと)は、天武7、8年頃(678年頃)に「蘇我連子」(そがのむらじこ)の娘「蘇我娼子」(そがのしょうし・まさこ)を嫡妻として迎えた。
これによって「不比等」(ふひと)は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにも関わらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示した。
文武天皇元年(697年)8月には、持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)に不比等の娘の「藤原宮子」(ふじわらのみやこ)が夫人となっており、中央政界に台頭する。
これと同時に「藤原朝臣姓」(ふじわらあそんせい)の名乗りが「不比等」(ふひと)とその子孫に限定されており「不比等」(ふひと)は鎌足の後継者として認められて「藤原氏 = 不比等家」が成立する。
「藤原不比等」(ふじわらのふひと)は「下毛野古麻呂」(しもつけのこまろ)らとともに大宝律令と、それに続く養老律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。
さらに「宮子」(みやこ)が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、
皇子の後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、
天皇の姻戚としての地位を確立した。
文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる。
なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは「不比等」(ふひと)が天智天皇の御落胤であることを意味するとされる。
『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』にはその旨が明記される。




