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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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アサヒコ


③ <アサヒコ>

このアサヒコという人物、伏見宮邦家の11人の王子の中の第四王子なんだが、

ある意味、一番の出世頭だったかもしれない。

アサヒコこと久邇宮朝彦は1824年に生まれの久邇宮初代当主である。

明治維新の時は44歳であった。

アサヒコは明治維新後、旧徳川慶喜派と結びつこうとしたとの嫌疑で、

一時期、親王位を剥奪された過去がある。

つまり反明治政府なのである。

しかし、後に赦免され、久邇宮家の創設を許された。

明治政府は、アサヒコの反政府思想を警戒しながらも、

その過去は赦免したということだ。

アサヒコは、幕末には公武合体派の領袖として、朝廷内で大きな影響力を持っていた。

尊王攘夷派を排除するため、

孝明天皇の下では、大きな権力を振るっていた。

明治維新後、元号が「明治」となると、

アサヒコは徳川慶喜に密使を送るなどの陰謀を企てたとして嫌疑をかけられた。

この陰謀事件容疑は「配流事件」と呼ばれ、

アサヒコは親王位を剥奪され、

さらに広島藩の預かりとなり、

幽閉されるという罰を課せられた。

この事件の背景には、明治政府が、すでに隠居していた慶喜と、

朝彦親王が結びつくことを、強く警戒していたということを物語っている。

赦免された後、朝彦親王は伏見宮家に戻り、

明治8年(1875年)に久邇宮家の創設を許された。

その後、伊勢神宮の祭主(神職の最高位)に就任し、

明治24年(1891年)まで務めた。

これは仏教の元トップが神宮の祭主を務めるという異例の抜擢でした。

また、明治15年(1882年)には神官養成学校「神宮皇學館」を設立し、

神宮の運営にも深く関わった。

ここで、アサヒコが関わった中で、最も過激な政変「八月十八日の政変」

これの背景を考察してみよう。

文久三年(1863年)8月18日、

公武合体派の公卿が、会津藩・薩摩藩の武力を借りて、

過激な尊王攘夷派であった公卿と長州藩を京都から追い出したのが「八月十八日の政変」である。

アサヒコは若い頃、法親王という身分であった。

江戸時代、皇室とつながりの深い寺院の門主は、

特別な待遇を受けていたため、

相応の家格の人間が就く職となっていました。

その責を負う皇族を「法親王」と呼ぶ。

朝廷とは別の配属となったものの、

アサヒコは幼少より替えの効かない職を任されていたということだ。

≪興福寺・一条院時代≫

アサヒコは、興福寺や一乗院の僧侶であった

一乗院時代、のちにロシアとの条約交渉などで活躍する幕臣・川路聖謨が、

奈良奉行を務めていた時期。

アサヒコはこの川路と親交を深め、非常に強い信頼関係を築いていた。

川路の残した日記『寧府紀事』によれば、

アサヒコは仏教徒でありながら剃髪を嫌ったという。

のちに還俗し、朝廷に深く関わっていく心づもりを表しているのかもしれない。

功績としては、興福寺と東大寺のいさかいの仲立ちをしたという話もある。

≪青蓮院時代≫

28歳のころ、京都の青蓮院門主となったアサヒコは

・天台座主…天台宗の総監

・護持僧…天皇のために祈祷を行う僧

というふたつの要職を兼任することとなる。

仏教界のトップであり、天皇御用達の僧。

見るからにすさまじい地位なにだが、

この時期に天皇に近しい職を与えられたことは、

ある種不運ともいえる。

尊皇攘夷の朝廷と、リアルな開国派の板挟みにならねばならなかったからだ。

時局は日米修好通商条約の調印を巡って、

幕府と攘夷派公家、諸藩が大揉めに揉めていたころ。

結果として幕府は天皇の許可なく条約を結んでしまい、

天皇を擁護する立場のアサヒコとしては、

これを認めるわけにはいかなかった。

同時に浮上した将軍の後継問題に関しても、

幕府大老・井伊直弼が反対した一橋慶喜を候補として支持したため、

井伊と完全に対立することになった。

こうして1859年、攘夷派の諸藩や公家を対象とした幕府の政策「安政の大獄」において、

僧侶であるアサヒコまでもが謹慎を命じられてしまう。

幕府がアサヒコに下した刑は永蟄居という無期限の謹慎であった。

1860年、安政の大獄に反感を覚えた水戸藩士たちによって、

井伊直弼が暗殺された(桜田門外の変)。

1862年、ようやくアサヒコの、永蟄居が解かれ、

謹慎を解かれたアサヒコは還俗し、

朝廷にて国事御用掛という要職を任されることになった。

諸外国との交渉を巡る国難に際し、

臨時で作られたこの職は、

要するに孝明天皇の補佐役であった。

このころ、天皇は幕府と協力して、

諸外国との条約改正、

鎖国政策を推し進めていく「公武合体」の路線を望んでいた。

しかし、朝廷の大半を占めていたのは、武力による鎖国を目指す攘夷派。

同じ攘夷でも、

天皇が望むのは交渉による攘夷で、

武力行使を訴える攘夷派とは考えが食い違っていた。

そんな天皇の意を汲み、

アサヒコが主導したのが1863年の「八月十八日の政変」であった。

これによって朝廷内の攘夷派公家、

過激な攘夷を唱えていた長州藩士らが、京都から排斥された。

長州藩は八・十八政変の後、

アサヒコと会津藩主・松平容保を襲撃する計画を立てる。

その計画を練っていた密会場所を一網打尽にしたのが、

あの新撰組の池田屋事件である。

1964年、宮号を引っ越し先の屋敷のかやから「賀陽宮」に改め、公武合体派の重鎮として孝明天皇を補佐し、賀陽宮は家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。

その後、京都を奪回すべく、兵を率いて押し寄せた長州藩が、

御所の前で諸藩と交戦した禁門の変(蛤御門の変)

その報復に、幕府が決行したのが、2度にわたる長州征伐です。

この長州征伐の陣中で、

第14代将軍・徳川家茂が亡くなり、

長州征伐は終結。

さらに、その年末に孝明天皇が亡くなった。

話は少し逸れるが、

アサヒコがその諱をもらったのは、その八月十八日の政変の少し前であった。

公武合体派の領袖であったアサヒコは、

長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、

真木和泉らの画策によって西国鎮撫使として都から遠ざけられそうになった。

しかしアサヒコはこれを固辞し、

政敵であり長州派の有力者のひとりだった大宰帥、有栖川宮熾仁親王にその役目を譲った。

即時攘夷は難しいと内心考えていた孝明天皇は、

三条実美らの尊攘過激派が勝手に大和行幸の詔を出すとアサヒコを呼び、

よろしく対処せよと命じたため「朝彦命脈あるかぎりはその説を斥け、佐幕の議を唱えん」と答えた。

孝明天皇から内意を得たアサヒコは京都守護職を務める会津藩主、松平容保らと謀り、

八月十八未明に急遽参内し、長州勢を追い払う八月十八日の政変を断行した。

その論功行賞として「朝彦」の諱を賜った。


強い味方を失ったアサヒコとその仲間たちは、朝廷内で急激に力を失っていく。

会津とタッグを組んでいた薩摩は、

すでに会津を裏切り長州と同盟を結んでいた。

倒幕へと向かった薩長がアサヒコの代わりに用いたのが、

やはり、以前は公武合体(朝廷と幕府の協力体制)を主張していたはずの、

あの岩倉具視であった。

やがて慶応三年(1867年)12月9日の小御所会議で発せられた、

倒幕側のクーデター・王政復古の大号令にて、

有栖川宮熾仁親王が総裁に就任。

以後、アサヒコの出る幕はなくなる。

ここで、政情にあらがう事なく、万事をスルーするのは、やはり、下積みを味わった経験と、

皇族のおおらかさの両方を兼ね備えたアサヒコのなせるワザと言ったところでしょう。


日米修好通商条約の騒動からここまで、

アサヒコの行動は一貫していて、

天皇の意志に忠実だったことがわかります。

ただ、孝明天皇は1867年に崩御してしまい、

これによって再び過激な攘夷派の公家が復権します。

アサヒコら公武合体論者は求心力を失っていきました。

明治維新、日本は公武合体でなく、薩長による開国へ向かったのです。

1868年、明治新政府が成立。

アサヒコは、攘夷派からの恨みも相まって失脚し、

安芸国にて幽閉の身となってしまいます。

このとき、アサヒコは政府に背き、

第15代将軍・徳川慶喜と裏で通じていた罪に問われているのですが

証拠はありません。

攘夷派が幕府とその協力者に恨みを募らせ倒幕にいたり、

その流れを象徴するかのようにアサヒコを処した。

1872年、アサヒコは何故か謹慎解除となり皇族復帰します。

1875年、久邇宮家の創設が許されました。

この辺りの動きは、明治政府が伏見殿の威光に頼りたかった事情もあったようだ。

この2年後1877年、西南戦争が起こった。

世はまだ混乱の最中であったのだ。

廃仏毀釈の政策もあり、

神道の台頭と仏教との融和に、アサヒコを用いるのは最適だった。


アサヒコの活動において興味深いのは、神道と同時に、仏教も振興していた点である。

廃仏毀釈といえば、寺院の取り壊しなどが相次いだことから、

仏教弾圧のイメージをもつ人も多いが、アサヒコは

・奈良・興福寺復興を目指した興福会

・延暦寺復興を目指した崇叡会

の会長を務めるなど、弾圧とは正反対の行動を取っている。

1889年、アサヒコは伊勢神宮の式年遷宮において祭主として儀式を先導した。

神社に従事する神職の教育機関として、神宮皇學館を創設した。

廃仏毀釈は本来、仏教と神道の棲み分けを明確にしようというだけの政策。

仏教の弾圧は、政府の意図を勘違いした民衆によって行われた。

幕末期には攘夷を巡り、

世論と天皇の食い違いを正そうとし、

維新後もその姿勢は変わらず、

政策を正しくとらえ、世論との食い違いを正すべく奔走していた。

明治維新がなった後、

もともとの本籍であった伏見宮に戻り、

その後、明治八年(1875年)には新しい宮家・久邇宮を創設。

そこで、やっと名呼び名が久邇宮朝彦親王となる。

大胆でおおらかなアサヒコではあるが、

明治の世となった後も、長州へ屈する事はなかった。

新政府に入らないばかりか、生涯、東京に引っ越す事もなかった。

それでも、公家社会に隠然たる勢力を持ち続けるのは、

やはり、その人生経験によるものだろう。

アサヒコは9男・9女という子宝に恵まれ、

明治二十四年(1891年)、68歳でこの世を去った。

1890年、貴族院皇族議員に就任。

1891年、S状結腸潰瘍のため死去。


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