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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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「藤原鎌足」

皇位継承問題について、何故、皇別摂家の男系男子は、皇位継承候補に上がらないのだろう。


日本の右翼保守界隈において、天皇の皇位継承条件について最も重要な点は、男系かどうかだと思うのだが・・・どういうわけか正真正銘、男系男子であるにもかかわらず、皇別摂家の男子は、日本の右翼保守界隈の人達から、とても冷淡な扱いを受けている・・・つまり皇別摂家の男系男子が日本には多数存在しているということが広まることは、右翼界隈にとっては迷惑なように見えるのである。


見ていると、どうやら日本の右翼は、旧宮家の皇室復帰を望んではいるが、男系男子ならば誰でもいいというわけではないらしい。

天皇の流派が変わるのは結構であるが、たとえ男系男子であっても、旧宮家以外ではダメだということだ。

つまり彼らにとって、皇室は、現宮家か旧宮家に引き継がれることが大切なのであって、男系維持というのは、じつはさほど大きな問題ではないというのが本音のようなのだ。


では何故、日本の右翼は、皇別摂家(旧五摂家)の男系男子による皇位継承を望まないのだろうか?


私なりに考えてみると、それは皇別摂家の先祖が藤原氏だから・・・ではないだろうか。

藤原氏の何が問題なのか?

藤原氏の祖は中臣鎌足である。

中臣鎌足は「豊璋」(ほうしょう)であったという有力な説がある。

「豊璋」(ほうしょう)は百済の王子であった。

正式には「扶余 豊璋」(ふよほうしょう)。

百済最後の王である「義慈王」の王子で、当時大和の地に人質として来日していた。


白村江の戦いでは、中大兄皇子と一緒に戦ったのだが、白村江の後、高句麗に敗走し、唐に捕まったと言われている。

信じがたいことに、日本の保守層は、たとえ男系男子でも、元朝鮮人の子孫が皇位継承するには、問題ありと思っているのだろう。

考えてみれば、右翼から出る皇位継承問題の解決案で、何故か旧宮家以外の男系男子を養子にという案は出たことがない。

日本には今でも多くの男系男子が市井にて生活している。

にも関わらず「皇別摂家」などからの男系男子を養子に迎え入れるという案は、全く出てこないのだ。


世界に類を見ない2,680年にも及ぶ万世一系の天皇制度において、

少しでも男系の血は現皇室に近くて濃い方がいいに決まっている。

なのに、あえて伏見宮系という現皇室からは600年も遠い男系を選ぼうとする理由は何か?

それは、旧宮家だからか・・・たとえ男系の血が遠くて薄くとも、そんなことは関係なく、戦前の華やかな皇族としての生活を取り戻したいと考える旧宮家の利害関係者が、自身の欲望を隠して男系男子の維持という建前を武器に復権を企んでいるように思えてならない。


前にもここで詳しく書いているが、

旧宮家と現在の皇室の男系は伏見宮貞成(さだふさ)まで遡って初めて統合する。

伏見宮3代当主貞成(さだふさ)親王は、伏見宮初代栄仁(よしひと)親王の王子であった。

栄仁(よしひと)親王は北朝第3代・崇光天皇の第一皇子、すなわち嫡子である。


伏見宮貞成の第1王子彦仁(ひこひと)が天皇家に養子に入って、

1,428年に第102代後花園天皇となった。

その実弟の貞常(さだつね)が伏見宮を継いだ。

旧宮家はいずれもこの子孫である。


天皇家は伏見宮の嫡子彦仁(ひこひと)の子孫であり、

伏見宮は次男貞常(さだつね)の子孫である。

およそ600年前に分かれた傍系と直系の争い、それが今日の皇位継承問題の本質なのである。


時代は流れ、伏見宮貞常(さだつね)から下ること16世代、第20・23代伏見宮当主邦家が新宮家を続々と作った。

旧宮家の男子は全て伏見宮邦家の子か孫が初代である。


伏見宮邦家(くにいえ)の説明をしよう。


伏見宮邦家親王ふしみのみや くにいえしんのうは、江戸時代から明治初期の、日本の皇族。

伏見宮第20代および第23代当主。

伏見宮貞敬(さだよし)親王の第1王男子。

幼称は睦宮まさのみや

直系尊属の天皇から見た続柄は、

男系では北朝第3代崇光天皇の14世孫、

女系では霊元(れいげん)天皇の来孫にあたる。

父の貞敬(さだよし)親王は皇位継承候補として名が挙がったことがある。


1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族11宮家全ての最近共通祖先であり、

第125代天皇明仁(あきひと)の母方の高祖父にあたる。

※昭和天皇后・香淳皇后の曽祖父

出生・享和2年10月24日(1802年11月19日)

死去・明治5年8月5日(1872年9月7日)(69歳没)


配偶者

①鷹司景子(妃)

②藤木寿子(女房)

③上野寿野(女房)

④鳥居小路信子(女房)

⑤中村杣(女房)

⑥古山千恵(女房)

⑦近藤加寿尾(女房)

⑧堀内信子(女房)

⑨木村世牟子(女房)

⑩伊丹吉子(女房)

子女

①「山階宮晃親王」(やましなのみやあきらしんのう)

②「聖護院宮嘉言親王」(しょうごいんのみやよしことしんのう)

③「譲仁入道親王」(じょうにんにゅうどうしんのう)

④「久邇宮朝彦親王」(くにのみやあさひこしんのう)

⑤「伏見宮貞教親王」(ふしみのみやさだのりしんのう)

⑥「小松宮彰仁親王」(こまつのみやあきひとしんのう)

⑦「北白川宮能久親王」(きたしらかわのみやよしひさしんのう)

⑧「華頂宮博経親王」(かちょうのみやひろつねしんのう)

⑨「北白川宮智成親王」(きたしらかわのみやさとなりしんのう)

⑩「伏見宮貞愛親王」(ふしみのみやさだなるしんのう)

⑪「清棲家教」(きよすいえのり)

⑫「閑院宮載仁親王」(かんいんのみやことひとしんのう)

⑬「東伏見宮依仁親王」(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)

「恒子女王」(ひさこじょおう)

「順子女王」(じゅんこ・よりこじょう)

「久我誓円」(こがせいえん)

「和子女王」(ともこじょおう)

「碌子女王」(ろくこじょう)

「文秀女王」(ぶんしゅうじょう)

「則子女王」(のりこじょう)

「村雲日栄」(むらくもにちえい)

「貴子女王」(たかこじょう)

父親

「伏見宮貞敬親王」(ふしみのみやさだよししんのう)

母親

「藤原誠子」(ふじわらともこ)


伏見宮(ふしみのみや)神武(じんむ)天皇とy遺伝子で繋がっている。

ゆえに、皇位継承が伏見宮家の男系男子に継承されるなら、万世一系の伝統は守られることになる。

もし日本に残っている天皇の男系が伏見宮だけなら、国民の理解は得られるでしょう。

しかし、より男系血縁の近い男子が100人以上いる場合、何故、優先的に皇位継承者候補が旧宮家から選ばれるのか、合理的な説明がなされなければならないはずである。


本来、皇室が今後も万世一系で皇位を継承させたいならば、

最も血縁の近い男系男子が養子候補1位に選ばれるべきです。

伏見宮より近い男系男子がいっぱいいるのに、伏見宮の男子が当然のように養子候補に上がるのか納得いく説明が必要でしょう。


皇別摂家の男系男子は旧宮家の男系男子よりも男系が濃い。

しかしなぜか天皇家の養子に迎えたくない勢力が右翼にいる。

その理由を想像してみると、もしかしたら、皇別摂家は藤原氏の系譜だからではないのだろうか・・・


現在、日本には「皇別摂家」といわれている家系が3つあります。

「五摂家」のうち「近衛家」「鷹司家」「一条家」です。

因みに五摂家とは藤原氏の嫡流で、摂政・関白に昇任することができた「近衛家」「九条家」「鷹司家」「一条家」「二条家」の五家の事です

「近衛家」「鷹司家」「一条家」には、それぞれ、賜姓降下した皇子が養子に入って、家を継いでいるのです。


「近衛家」には1599年、後陽成天皇の第四皇子が養子に入り。

「一条家」には1609年、後陽成天皇の第九皇子が養子に入り。

「鷹司家」には1743年、東山天皇の第六皇子、閑院宮直仁親王の第四皇子が養子に入っています。


この三家とも本家は男子が断絶し養子を入れてしまったが、分家、あるいはこうした家から養子に迎えられた先で男系が続いている。


ここが無視されて旧宮家の男系男子ばかりが天皇家の養子候補に上がるのが、どうしても理解できない。

伏見宮が天皇家の分家となって別れたのは、1428年、伏見宮の嫡男、伏見宮彦仁が後花園天皇となって即位したときゆえ「近衛家」「一条家」「鷹司家」より、100年以上も古い。

それだけ男系の血が薄いということです。


なんで男系男子養子案で、旧宮家の男系男子ばかりが皇位継承者としての養子候補に上がるのでしょうか?


血統的には「近衛家」「一条家」「鷹司家」の方が男系男子の血は濃いではないか。


そこで、一つの事実が浮かび上がってくる、五摂家は藤原氏系であるという事実が。


それが問題なのでしょうか。


どうして、藤原氏系では皇位継承できないのか?

そこで、思い付いた理由が、藤原氏の始祖である中臣鎌足が朝鮮半島出身の渡来人だから、それが原因じゃないかということです。


さて、その藤原氏・・・つまり中臣鎌足ですが、日本書紀に最初に登場したのは、巻24皇極(こうぎょく)天皇の条です。

このときの記述が実に怪しい。

皇極(こうぎょく)天皇3年の正月、

中臣鎌足は神官の話を断ったという話が唐突に出てくる。

そして「軽皇子」(かるのみこ)と中臣鎌足が仲が良いという話へと繋がり、

中大兄皇子との蹴鞠(けまり)での出会いへと話しは流れます。

「軽皇子」(かるのみこ)は第36代孝徳(こうとく)天皇(在位:645年~654年)

不思議なのは「乙巳の変」(いっしのへん)後、何故か中大兄皇子は天皇に即位せず

「軽皇子」(かるのみこ)が即位している。

つまり「乙巳の変」(いっしのへん)の黒幕は「軽皇子」(かるのみこ)「孝徳(こうとく)天皇」だったのではないか・・・という話の流れになっている。

中臣鎌足は軽皇子(孝徳天皇)と仲がよかった、ゆえに実行犯を買って出た、なぜなら中臣鎌足も中大兄皇子は親百済であった。

何故か、それは「中臣鎌足」が「豊璋」だったから・・・という推測が立つ流れになっているから・・・

ゆえに、百済を助けるため、軽皇子をそそのかし親唐の蘇我氏を討った・・・

更に当時、唐からの倭への外圧もあった。

唐から大和朝廷に外圧がかかった。

35代皇極(こうぎょく)天皇は「乙巳の変」(いっしのへん)後、一旦、譲位した理由は、

唐からの女帝を代えろという圧力があったと想像される。

643年に唐の太宗(たいそう)は「新羅」(しらぎ)に対して、女帝を止めろといっている。

「国女君,故為レ鄰侮,我以二宗室一,主二而国一」という提案をしている。

(『新唐書』高句麗伝)。


これは「新羅」(しらぎ・しんら)が対高句麗戦において、唐の太宗に援軍を願い出たとき、太宗が新羅(しらぎ)女王を廃し、唐王族を王としたら援軍を出してやろうと出した交換条件です。

643年、新羅の善徳女王(ソンドクじょおう)(27代)が唐に軍事援助を要請したが、女王を廃位し、唐の帝室から新王を受け入れる条件を提示され、これを拒否したと、三国史記に記してある。


当時「高句麗」(こうくり)の将軍・淵蓋蘇文えんがいそぶんは、

宝蔵ほうぞう王(28代)を擁立し、政権を奪取し、

高句麗の栄留えいりゅう王(27代)を殺害した(642年)。

唐は冊封国同士の争いを禁じていたため、

高句麗に新羅と和解するよう説得したが高句麗は従わなかった。


645年、唐の太宗は高句麗へ出兵したが撃退されました。

647年、新羅では唐に従う勢力が毗曇ひどんの乱を起こしたが、金春秋、金庾信に鎮圧された。


このような朝鮮半島の情勢を、皇極(こうぎょく)女帝はどう思って見てたのか。

唐太宗による高句麗親征(645年)、

百済領「任那」の新羅への返還命令(649年)、

倭国への新羅援助命令(654年)、

この頃、立て続けに大和朝廷は唐に外圧をかけられている。

とくに、654年の新羅への援助命令の年、

中大兄皇子は孝徳(こうとく)天皇を浪速宮に残して飛鳥へ移っている。

同年、孝徳(こうとく)天皇は失意のうちに崩御する。

孝徳(こうとく)天皇崩御と、唐・朝鮮情勢は無関係とは思えない。

高句麗は百済に接近し、

新羅は女王を廃位せよと唐から圧力をかけられ、

新羅は唐の属国に成り下り、唐・新羅同盟がなり高句麗を攻める。


このような国際情勢の中、欽明(きんめい)期以来の蘇我氏路線を継承したいのが蘇我入鹿。

これに対して、唐に迎合し、百済を助けたいのが中臣鎌足、中大兄皇子、軽皇子である。


これが乙巳の変の原因ではなかったか。

おそらく,大化の改新の中心たる軽皇子こと孝徳天皇は、

蘇我入鹿を惨殺し、男帝として即位したのだろう。


ここで当時の女帝について少し整理してみたい。

日本における皇極天皇の時代、新羅においては善徳女王、真徳女王の時代であった。


そして、最も無視できないのが唐の則天武后である。

少し纏めてみよう。


皇極・斉明天皇(642年~645年、655年~661年)

善徳女王(632年~647年)

真徳女王(647年~654年)

則天武后(624年~705年)


則天武后は利州都督武士彠と楊氏(楊達の娘)の間に624年に生まれた。

諱は照という。


生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の武照は父から高度な教育を与えられて育った。

しかし、12歳のときに父が死に、武照は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。


637年、太宗の後宮に入り才人(二十七世婦の一つ、正五品)となった。

名を媚と名付けられた。


ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。


こうした状況下で、太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。

太宗に殺害されることを恐れた武照は、李治を籠絡したとおぼしく、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。


太宗の崩御(649年)にともない、武照は出家することとなったが(25才)、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。


その頃の宮中は帝位を継いだ高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。


武照が昭儀(九嬪の一つ、正二品)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。


則天武后は624年生まれで、天智天皇より2歳年上である。

649年、則天武后25歳の時、太宗が死に、道教寺院に出家している。

655年、則天武后29歳の時、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとした。

宰相の韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。

655年、中書舎人の李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗・崔義玄・袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。

高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。


この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良、高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。

下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した。


655年10月13日(11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。

その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。


655年11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、処刑した。


武皇后は高宗に代わり、垂簾政治を行った。


660年、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。

663年、倭国・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白村江の戦いにも勝利した。

668年、高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)。


なんと、百済を滅ぼしたのも、白村江の戦いも、高句麗を滅ぼしたのも、全て則天武后の垂簾政治の時代であった。

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