「中臣鎌足」
文武王(626~681)
新羅の第30代王であり、第29代武烈王の長子である。
母・・・ここが重要で・・・金庾信の妹である。
つまり、金春秋と金庾信が蹴鞠で出会い、金春秋が金庾信の妹に惚れて求婚、そして産まれた子が文武王である。
ここから金春秋と金庾信の蹴鞠での出会いは625年ということになる。
乙巳の変の20年前の出来事である。
乙巳の変(645年)は、金春秋・金庾信が新羅で起こした比曇の乱(647年)の鎮圧と背景が酷似しているという説があり、考察してみたい。
ここで金庾信の解説を少ししておこう。
金庾信(595~673)、金春秋(603~661)より6つ年上である。
532年に新羅に併合された金官伽倻の王家の血を引いており、金庾信の妹が武烈王に嫁いで文明夫人となり、その長子が後の第30代の文武王となる。
金庾信自身も後に武烈王の三女を智炤夫人として娶っている。
647年、比曇の乱が起こる中、死んだ善徳女王の後、金春秋と共に真徳女王を立てて、これを補佐した。
真徳女王が死ぬと、金春秋を即位(654年)させた。
この善徳女王、日本では無名だが、韓国ではたいへん有名らしい。
ここで善徳女王(韓国ドラマ)について少し書いておく。
「善徳女王」は、2009年5月25日から2009年12月22日まで韓国MBCで放送されたテレビドラマで、朝鮮半島で初の女性統治者となった新羅第27代王・善徳女王の生涯をフィクションを交えて描いた時代劇である。
総制作費は250億ウォン(約20億円)で、韓国では最高視聴率が40%以上を記録。
2009年に韓国で放送されたテレビドラマで最も平均視聴率の高い作品となったということだ。
話を金庾信に戻そう。
「三国史記」によると642年、百済義慈王が新羅国境を越え、40余城を落とした。
新羅の善徳女王は、高句麗の淵蓋蘇文に使者として金春秋を送り、援軍を要請した。
しかし、高句麗は援軍の見返りに領土割譲を要求し、高句麗との同盟はならなかった。
翌643年、善徳女王は唐の太宗に援軍を要請した。
しかし、唐の太宗は「そなたの国は女を王としているから侮られるのだ。朕の親族の一人を遣わすから国王に迎えたらよい」といってきた。
善徳女王は退位を拒否し、唐に頼らず自前で百済と戦う事とした。
しかし、647年、「比曇の乱」が起こった。
金春秋・金庾信は比曇の乱を治めると再び唐に救援を求めた。
648年、金春秋は、唐と同盟を締結した。
しかしこの同盟はかなり唐優位の内容で、いわば新羅は唐の属国のような扱いとなった。
さて、ここで少し当時の高句麗の状況を解説をしよう。
当時の高句麗は、大将軍・淵蓋蘇文の統治であった。
『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)もしくは蓋金として現れる。
642年、淵蓋蘇文は、唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯ほか180人の穏健派貴族たちを弑害した。
宝蔵王を第28代王に立てて自ら大莫離支(てまくりじ:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就き、政権を掌握した。
しかし、安市城の城主だった楊萬春が淵蓋蘇文への権力集中を認めず抗議し、淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて安市城を攻撃した。
しかし、長期間の攻撃にもかかわらず安市城を占領することができなかった。
結局2人は妥協し、淵蓋蘇文は楊萬春の職権を、楊萬春は淵蓋蘇文を執政者として承認した。
この頃、高句麗は対外的に緊迫した情勢にあったが、淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋を監禁し、新羅と唐との交通路である党項城を占領した。
644年、新羅は唐に泣きつき、唐は高句麗に新羅と和解を提言した、しかし淵蓋蘇文は新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否した。
645年、これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、17万の大軍を率いて高句麗に侵入した。
(唐の高句麗出兵)
しかし、楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。
なお、その後4回に亘って唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んだ。
647年、金春秋は日本に来た。
日本書紀によると(大化三年647年の条)「春秋は姿顔美くして善みて談笑す」と記録されている。
しばらく倭国に滞在した後、金春秋は一旦帰国し唐へ向かった。
648年、金春秋は唐との同盟を締結した。
648年、唐の太宗は金春秋の秀でた容姿にうたれて手厚くもてなしたと唐の記録に残っている。
太宗は唐新羅同盟を約束したが、新羅は礼服や暦を中国の制度に改めて、人質として文王を唐に置差し出すこととなった。
その後新羅は対百済戦にて攻撃に転じ、
660年、唐と共同で百済へ進軍、黄山伐の戦いで百済の将軍階伯を激戦の末に破り、
660年、百済を滅ぼした。
663年に白村江の戦いで倭と百済の残党勢力を排除。
668年に高句麗に出兵し(唐の高句麗出兵)、高句麗滅ぶ。
670年、唐新羅戦争勃発
673年、金庾信79歳で死去
因みに金春秋、金庾信も韓国で「大王の夢」という題名でドラマになっている。
2012.9.8~2013.6.9(全70話)/視聴率:平均11.3% 最高13.9%
「善徳女王」ほどの高視聴率は取れなかったらしい。
「日本書紀」皇極紀四年条の蹴鞠会は、朝鮮の「三国史記」新羅本紀・文武王条とよく似ている。
金春秋と金庾信との出会いは、蹴鞠会で春秋の衣の付け紐を破った金庾信が、春秋を自邸に招いたことに始まる。
そこで金春秋は金庾信の妹に惚れて文武王が生まれた(625年)
金春秋と金庾信の関係は、中大兄皇子と中臣鎌足の主従関係に似ている。
その出会いが、ともに蹴鞠会におけるアクシデントだというところがソックリだ。
新羅の高級官僚、比曇の乱だが、唐からの善徳女王退位の要求があった。
女帝退位を受け入れる勢力が唐と協力し比曇の乱を起こした。
時期的に日本も皇極天皇の治世で女王であった。
唐が新羅の女帝に難色を示したのが643年で、比曇の乱が647年である。
乙巳の変で皇極天皇が退位したのが645年である。
そっくりな事変が日本と朝鮮半島で同時期に起こっている。
当時、蹴鞠は日本に伝わっていなかったとの説もあり、
日本書紀における乙巳の変の記述は、かなり創作されている可能性がある。
さて、ここで乙巳の変の時代、日本と新羅の事例の類似性に対する考証は一旦終えることにする。
乙巳の変の考証は一旦置いといて、天武天皇の話に戻りたい。
ここで天武天皇は新羅系だから・・・という説について考えてみたい。
まず天皇の菩提寺「泉湧寺」には天武系の天皇の位牌がないという都市伝説のようなものを、しっかり解説してみたいと思う。
天皇家の菩提寺に泉湧寺というのがある。
ここにある天皇の位牌は天武天皇から昭和天皇までの位牌(85人)のうち53名だけである。
つまり天武以降32名も欠けている。
つまり泉湧寺に位牌がないのは、天武系の天皇だけというわけではない。
この事から、何故、天武天皇が新羅系だったとか・・・妄言が出てきたのだろう。
天武や天智に対する渡来系との妄言は無視していいのではないか・・・とカニ太郎は思う。
しかし、無視できないのが、中臣鎌足である。
阿武山古墳は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳で国の史跡に指定されている。
1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。
通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域が形成されていた。
墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。
内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺が日本で初めて発見された。
棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。
鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。
当初からこの古墳は、この地にゆかりの深い「藤原鎌足」が被葬者だとする見方があった。
これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた)。
1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。
1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。
しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると、被葬者は最上位クラスの人物であったとされる。
カニ太郎がビックリしたのは、この副葬品である玉枕の復元品の写真を見たときである。
見事な玉枕だ。
そして、金糸。
なんとこの金糸、長さが100m以上あるそうだ。
復元すると豪奢な織冠の形になるという。
こんな豪奢な玉枕と織帽を副葬品として埋葬される高貴な人で朝鮮式墓、死因が落馬・・・
これらの分析結果が鎌足(落馬後に死去)と一致することは明らかだ。
この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、それを授けられた人物は百済王子の余豊璋を除けば大織冠の鎌足しかいない。
中臣鎌足は669年10月、山科の御猟場に狩りに行き、馬上から転落して背中を強打した。
天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。
享年56であった。




