「郭務宗」
668年8月、卑列道(江原道安辺郡安辺)摠官・右威衛将軍であった「劉仁願」が失脚しチベットへ左遷された。
668年9月、700年続いた高句麗が唐・新羅連合にに滅ぼされた。
鶏林州大都督、新羅の文武王は、朝鮮半島全体を支配しようと唐に反発し、高句麗復興運動を支援する。
670年3月、高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃し、唐・新羅戦争が始まった。
また、新羅は高句麗の「安勝」を高句麗王にした。
壬申の乱の本当の原因は、この朝鮮半島の情勢の変化にあったのではないのだろうか。
663年の白村江の大敗の後、中大兄皇子と中臣鎌足は、当然、唐との和平工作に苦心した。
まず最初の難関は664年の郭務宗の1回目の来訪であった。
時期的にみて、この訪問は明らかに戦勝国である唐からの降伏勧告のようなものであっただろう。
このとき中大兄皇子は唐からの使者である郭務宗を、百済鎮将、劉仁願の私使だという理由で京へいれなかった。
唐よりの正式な使者でない限り和平協議には応じない姿勢を示したわけだ。
郭務宗は筑紫より先には入れなかった。
必然的に大和朝廷は唐への防御を固めねばならなかった。
この頃、防衛施設が数多く作られている。
大野城や長門の山城、大宰府には全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造という巨大な水城を建設した。
665年8月、答㶱春初らにより長門国に城が築かれ、筑紫国では憶礼福留らにより大野城・基肄城も築いていると、日本書紀にある。
翌665年(麟徳2年、天智4年)唐は3人の将軍を派遣した。
朝散大夫(従五品下)沂州(現在の山東省臨沂市)の司馬上柱国である「劉徳高」と「郭務悰」「禰軍」(元百済の将軍)を含む総勢254人の使節団である。
ここで、「禰軍」(でいぐん)について解説したい。
興味深い記事を一つ紹介します。
朝日新聞(2011年10月23日)のネット記事です。
「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。
墓誌は678年の作と考えられるとしている。
日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きな謎。
大宝律令(701年)からとの見方が有力だが、墓誌が本物なら更に遡ることになる。
・・・祢軍という百済人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
日本は663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は「日本餘?據扶桑以逋誅」と記述している。
「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。」
・・・・・・
「海外国記」によると、665年に来訪した「禰軍」は百済の元将軍であり、肩書きは「佐平」である。「佐平」は「百済」の最高位の官職です。
「海外国記」は残念ながら失われているが、9世紀末に藤原佐世の撰した日本国現在書目録の土地家の部に海外記40巻、13,4世紀のころになった本朝書籍目録の地理の部に海外国記40巻(天平5(733)年、春文撰)とあるのと同じ書物と見られている。
『日本書紀』の記事によれば禰軍は「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」となっている。
これは「唐」の官職である。
即ち、百済滅亡後、禰軍は唐に下り、百済から日本へ逃げた百済の王族達を捕まえに、大和朝廷へ来たのだろうと思われます。
678年、禰軍は死亡し西安に葬られた。
そしてその墓石に、最古の「日本」という文字が使われていました。
それでは、郭務宗の2回目の訪問(665年)の年表の続きだが・・・
7月28日に対馬に到着、
9月20日に筑紫に到着、
9月22日に表函を進上した。
10月、朝廷は盛大に菟道で閲兵を行い、
11月、朝廷より饗応を受け、
12月、朝廷より物を賜り、郭務宗は帰国した。
この頃築かれた大規模な山城は唐国に対する大和朝廷のデモンストレーションであったとみられている。
この郭務宗2回目の来朝は、唐の高宗の泰山封禅(666年)に参加する遣唐使を乗せて、唐へ帰っている。
劉徳高ら一行が帰国するとき、守大石・坂合部磐積らが第5次遣唐使として派遣されたと日本書紀に書かれている。
旧唐書の劉仁軌伝
麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。
麟徳2年(665年)に、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の4国の酋長を連行し、高宗は、甚だ悦んだ、とある。
坂合部磐積は667年の司馬法聡の「筑紫都督府」来訪時、帰ってきた。
665年、劉徳高は大友皇子の風貌を見て『この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず』と褒め称えた、と『懐風藻』にある。
『此皇子。風骨不似世間人。實非此國之分』
『皇太子者。淡海帝之長子也。魁岸奇偉。風範弘深。眼中精耀。顧盼煒燁。唐使劉徳高。見而異曰』
・・・
皇太子は淡海帝の長子なり。
逞ましく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る目もとは美しかった。
668年1月、中大兄皇子は天皇に即位した。
670年3月、朝鮮半島で新羅と唐の戦争が始まった。
669年(天智天皇8年)、郭務悰らが2,000人あまりを率いて来朝した。
この郭務宗3回目の来訪の意味がよくわからない。
日本書紀には単に「唐は郭務宗ら2000人を派遣した」としか書かれていない。
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。
是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江国蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。
(即位8年)12月に大蔵(オオクラ=近江宮内の大蔵)が火災に会いました。
この冬に高安城を作って、畿内の田税を収めました。この時代に斑鳩寺が火災に遭いました。
この年、小錦中の河内直鯨たちを大唐に使者として派遣しました。また、佐平の余自信・佐平の鬼室集斯たち男女700人余りを近江国の蒲生郡に移して居らせました。また大唐は郭務悰など2000人余りを派遣しました。
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この3回目の来訪の目的は、唐からの和平の提案ではなかったのかと、カニ太郎は思っている。
故に、2000人もの人数は大半が白村江での捕虜だったのではないか。
捕虜の返還を条件に、朝鮮半島での新羅の蜂起には加担するなとの要請ではなかったかと思う。
671年、郭務宗4回目の来朝があった。
前回が669年12月で、今回が701年11月である。
この短期間に2度の来朝で、しかもどちらも2000人規模である。
新羅の蜂起が700年であるから、やはり唐との和平の成立による捕虜返還だと思って間違いないだろう。
日本書紀巻27天智天皇にこうある。
十一月甲午朔癸卯、對馬国司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐国使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」
(即位10年)11月10日。対馬国司は使者を筑紫太宰府に派遣して言いました。
「月が生まれて2日に、沙門の道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の4人は唐から来て言いました。
『唐国の使者の郭務悰たち600人、送迎の使者の沙宅孫登など1400人、合わせて2000人が船74隻に乗って、一緒に比智嶋(ヒチシマ=朝鮮の巨済島西南?)に停泊して、語り合って言いました。
今、我らの人と船は数が多い、忽然とあの土地に到着すれば、おそらくは、あの土地の防人は驚いて、射て戦うだろうと言う。そこで道久たちを派遣して、あらかじめ朝廷に伺う心を陳情しよう』と言いました」
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この郭務宗の4回目の来朝で、筑紫君薩野馬「筑紫君」という人物が重要である。
氏姓からすると、継体天皇21年(527年)に大和政権に叛逆した、筑紫君磐井の系譜を引いていると想定される。
この筑紫君というのは倭国の王ではないのかという説もあるが、カニ太郎はその説はとらない。
倭国王説では有名な九州王朝説というのがある。
つまり筑紫君というのは倭国の王で、白村江へ出兵したのは大半が九州の豪族であり、大和朝廷の近畿兵は少なかったという説だ。
カニ太郎は、筑紫君というのは只の豪族の長であったのだろうとは思っているが、九州王朝を支持する気にはなれない。
更に唐は百済領内の避難民を倭国へ護送もしているので、総勢2000人になったのだと思う。
669年と671年の郭務宗の3回目4回目の来訪は、朝鮮半島での唐・新羅の対立ゆえの結果であろう。
唐から倭国へ捕虜が返還され、和平が急がれたというのが真相だと思う。
さて、大和朝廷と唐との関係は、以上のような事象から読み解くと、670年の唐・新羅戦争を境に、大きく良好になったように思える。
さて、それでは、天智と天武の関係はどうだったのだろう。
こちらの方にも色々大きな疑問がある。
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まず天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、天智天皇が百済系で、天武天皇が新羅系だったのではないか、と言う説がある。
確かに大和朝廷が百済復興のために、当時大和に預けられてた扶余豊璋を立てて大船団を白村江へ派兵したのは、中大兄皇子の側近には、中臣鎌足のような百済系が多く・・・(この事は後にちゃんと説明する)百済最後の王義慈王の王子、扶余豊璋らの熱心な懇願の結果だと考えれば合点がいく。
更に極端な説に中大兄皇子が百済系だったというのもある。
つまり扶余豊璋=中大兄皇子だという。
中大兄皇子が百済復興にやたら熱心だったのは、
中臣鎌足の功績が大きいと思っている。
中臣鎌足百済系説を取っている。
中臣鎌足の墓、阿武山古墳の作りが朝鮮式だったのは有名な話である。
また、副葬品等に関しても重大な事実がある、まあそれは後ほど解説するとして。
壬申の乱は中大兄皇子、中臣鎌足ら親百済系と、蘇我氏ら親新羅系の争いだったと仮定すれば、一定の説得力はあるが、天武天皇が新羅系だったというのにはちょっと無理があると思う。
天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺には、天武以後称徳女帝までの8代7人の天武系の天皇の位牌が無いという。
この事をもって、天武天皇は実は新羅の皇子だったので、天皇の菩提寺である泉湧寺には、天武天皇系の位牌がないのだ、という説を唱える人がいる。
鎌倉時代に書かれた『本朝皇胤紹運禄』と、南北朝時代に書かれた『一代要記』の二つに、天武天皇の没年齢が65歳と書かれてあるが、
日本書紀に書かれている天武天皇の亡くなった年号=朱鳥元年(686年)から逆算して、生まれた年を割り出すと、天武天皇の生まれは推古三十年(622年)となり、兄の天智天皇より4歳年上という事になるらしい。
この事をもって、天武天皇(大海人皇子)は実は舒明天皇と皇極天皇の子ではなく、高向王と皇極天皇の間に生まれた漢皇子だという説を唱える人もいる。
高向王は用命天皇の孫であり、父は田目皇子だとされてるが、一説には用命天皇の嫡子で聖徳太子の兄弟だとの説もある。
その場合、天武天皇は蘇我氏の直系だという事になる。
つまり壬申の乱は乙巳の変の復讐戦だという話である。
もしくは天武天皇こそ、日本書紀に出てくる金多遂であるという人もいる。
金多遂は日本書紀の巻25孝徳天皇に登場する新羅の皇族で、金春秋の代わりに人質となったという以外はわかっていないが、新羅の皇子である金春秋の代わりであるということから分かるように、高貴な人物であったことは間違いない。
金春秋の実弟であった可能性もあり、そう考えると新羅の王の実弟だとなる。
大海人皇子が天智天皇の娘を4人も嫁にもらった理由になる。
また、壬申の乱で多くの豪族が天武天皇についた説明がつく。
因みに金春秋は百済を滅ぼし、29代新羅王武烈王となった。
唐・新羅に滅ぼされた百済王の皇子が豊璋である。
660年、唐・新羅連合が百済を滅ぼしたという知らせが、当時人質として大和にいた豊璋に届いた。
百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだけだったので、百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。
当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。
662年5月、斉明天皇は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。
豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。
663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流した。
やがて唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江で衝突した。
その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。
豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。
豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
これが豊璋のザクッとした解説だが、豊璋と中臣鎌足は同一人物だったという説もある。
いずれにせよ、何故、中大兄皇子はこんなに百済復興に熱心だったのか、理由は不明である。
天武天皇が金多遂だったという説に説得力があるのは、日本書紀で金多遂には37人もの従者がいて、彼らは才伎という技術者であったと書かれていることだ。
すなわち金多遂は人質とはいえない待遇であった。
金多遂と交換で新羅に帰った金春秋は百済を滅ぼし武烈王となった訳であるが、金多遂が金春秋の替わりの人質として預けられてたという以上、それなりの身分であったという事になる。
夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣、於小紫大伴長德連(字馬飼)授大紫爲右大臣。五月癸卯朔、遣小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等於新羅。是歲、新羅王、遣沙㖨部沙飡金多遂爲質、從者卅七人(僧一人・侍郎二人・丞一人・達官郎一人・中客五人・才伎十人・譯語一人・雜傔人十六人、幷卅七人也。)
現代語訳
(即位5年)夏4月20日。小紫の巨勢徳陀古臣に大紫を授けて、左大臣としました。小紫の大伴長徳連…
字名は馬飼といいます。
に大紫を授けて右大臣としました。
5月1日。小花下の三輪君色夫・大山上の掃部連角麻呂たちを新羅に派遣しました。
この年、新羅の王は沙㖨部の沙飡金多遂を派遣して人質としました。従者37人。
僧1人・侍郎2人・丞1人・達官郎1人・中客5人・才伎10人・訳語1人・様々な傔人(トモビト=従者)が16人。合わせて37人です。
・・・・・・・・・
もし金多遂が金春秋の実弟であるならば、背景的に見て金多遂の権力は強大であったはずである。
ゆえに、天武天皇=金多遂説は、一応説得力がある。
また乙巳の変(645年)は新羅における金春秋のクーデター(643年)と構図が酷使しているのも面白い・・・
これをもって、乙巳の変は実はなかったという人もいるくらいだw
唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)は、647年に金多遂とともに大和朝廷を訪れている。
日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」とあるが、金春秋は何らかの意図を持って来たはずである。
前年、高向玄理が新羅に訪問しているので、唐・新羅・大和朝廷の三国軍事同盟の成立を目指して交渉しにきたのであろうか・・・
金春秋は、日本滞在9ヶ月で帰国するが、金多遂が帰国したという記録はない。
ゆえに、天武天皇は金多遂だという説は、単なる空想の域をでない。




