「大友皇子」
華族類別録において、
8類、皇別清原氏、
9類、皇別中原氏、を末裔に持つ第40代・天武天皇。
この天皇について、深く考察していきたいと思う。
第40代・天武天皇、この天皇は日本の歴代最も重要な天皇だろう。
第一に天武天皇は「日本書紀」の編纂を命じた天皇である。
現在、私たちが古代日本について知識を得られるのは、この日本書紀のお陰である。
言うなれば、日本の歴史はこの天武天皇が創作したといっても過言ではないのである。
ここで、日本書紀について少し考えてみよう。
日本書紀は我が国唯一の古代日本について書かれた正当な歴史書である。
そして、日本書紀には歴代天皇が、神武から持統まで全て登場している。
初代・神武天皇から代41代持統天皇までとは言っても、
第39代弘文天皇は明治に諡が付けられたので日本書紀には巻として割り当てられてはいない。
しかし、何故か一人一巻というわけではない。
日本書紀は全部で30巻しかないのだ。
つまり、一人一巻未満の割り当てなのである。
それではどの天皇が、日本書紀のどの巻に記述してあるのか書き出してみよう。
初代.神武天皇3巻
第2代.綏靖天皇4巻
第3代.安寧天皇4巻
第4代.懿徳天皇4巻
第5代.孝昭天皇4巻
第6代.孝安天皇4巻
第7代.孝霊天皇4巻
第8代.孝元天皇4巻
第9代.開化天皇4巻
第10代.崇神天皇5巻
第11代.垂仁天皇6巻
第12代.景行天皇7巻
第13代.成務天皇7巻
第14代.仲哀天皇8巻
神功皇后9巻
第15代.応神天皇10巻
第16代.仁徳天皇11巻
第17代.履中天皇12巻
第18代.反正天皇12巻
第19代.允恭天皇13巻
第20代.安康天皇13巻
第21代.雄略天皇14巻
第22代.清寧天皇15巻
第23代.顕宗天皇15巻
第24代.仁賢天皇15巻
第25代.武烈天皇16巻
第26代.継体天皇17巻
第27代.安閑天皇18巻
第28代.宣化天皇18巻
第29代.欽明天皇19巻
第30代.敏達天皇20巻
第31代.用明天皇21巻
第32代.崇峻天皇21巻
第33代.推古天皇22巻
第34代.舒明天皇23巻
第35代.皇極天皇24巻
第36代.孝徳天皇25巻
第37代.斉明天皇26巻
第38代.天智天皇27巻
第39代.弘文天皇
第40代.天武天皇28巻、29巻
第41代.持統天皇30巻
これを見ると、日本書紀第4巻には第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、
なんと8人の天皇がまとめて記述してある。
このため欠史八代といって、
実際にはいなかったのではとか言われている。
また神功皇后は実存を疑問視する声もあるが、
天皇に即位していないのに第9巻を一人占めしている。
第39代弘文天皇は1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ歴代天皇に列せられたが、
実際に大王に即位したかどうか定かではなく、日本書紀にも弘文天皇の巻はない。
そして天武天皇は28巻と29巻の二巻を一人で独占している。
さて、天智天皇→弘文天皇→天武天皇の間の流れの中で、
大友皇子こと弘文天皇についての扱いが問題である。
この時代の政局を眺めると、
どうしても大友皇子は唐の傀儡ではなかったのかと疑いを持ってしまう。
それにはいくつか理由がある。
まずは先に指摘した「資治通鑑」で劉仁軌が倭国を統治してたという話だ。
そして「懐風藻」における記述。
劉徳高の大友皇子に対する記述が、
唐による倭国統治を疑わせるのだ。
わが国最古の漢詩集『懐風藻』に淡海朝大友皇の五言絶句言2首が収められている。
その前書きに大友皇子は唐の影響を受けた漢詩を若くして会得し造詣が深かったと書かれている。
そして、当時大津京を訪れ宴席を共にした唐の使者「劉徳高」が大友皇子について「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」と絶賛している。
唐の使者「劉徳高」は大友皇子が大変気に入っていたようである。
当然、次の天皇には大友皇子を考えていたであろう。
この「懐風藻」は751年に完成した日本最古の漢詩集であり、
編者が大友皇子の曾孫である淡海三船である。
ゆえに公平な評価であるとは断言しがたいが、
そこは日本書紀だって編者は天武天皇の皇子の舎人親王であり懐風藻と変わらない。
つまり日本書紀も懐風藻も似たような信憑性であるという事だ。
我々は、どの資料に重きをおくかで、資料の取捨選択をせねばならないということだ。
それでは、日本書紀と懐風藻を元に、この時代の推理を組み立てたいと思う。
「懐風藻」には、皇子の2首の論評・講釈を含めて、次のような前書きが載せてある。
大友皇子は天智天皇の第一皇子である。
逞ましく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、目はあざやかに輝いて、振るかえる目もとは美しかった。
唐からの使者、劉徳高は一目見て、並外れた偉い人物と見てこういった。
「この皇子の風采・骨柄をみると世間並みの人ではない。日本の国などに生きる人ではない」と。
皇子はある夜、夢を見た。
天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げもって、皇子に奉った。
すると、ふと誰かが腋の下の方に現われて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。
驚いて目を覚まし怪しさのあまりに内大臣「藤原鎌足」に事細かに、この旨をお話になった。
内大臣は歎きながら、
「恐らく天智天皇崩御ののちに、悪賢い者が皇位の隙をねらうでしょう。しかし私は普段申し上げておりました。『どうしてこんな事が起こり得まし ょう』と。
私はこう聞いております。天の道は人に対して公平であり、善を行うものだけを助けるのです。
どうか大王さま、徳を積まれますようお努めください。災害変異などご心配に及びません。
私に娘がおります。どうか後宮に召し入れて妻にし、身の廻りのお世話を命じて下さい」と申し上げた。
・・・・・・・
ここまでの記述で、最も重要なことは、665年に来訪した劉徳高が、
大友皇子を「風格といい器量といい、並外れた大人物だ」と大いに褒めたということだ。
665年当時大友皇子は18歳である。
そして劉徳高は戦勝国である唐からの使者だ。
もう一つ重要な事実は、大友皇子が中臣鎌足に相談してるという事。
そして中臣鎌足は「皇位を盗む悪賢い者」がいると助言したという事。
これ即ち「悪賢い者」=「大海人皇子」であろうと書かれているということだ。
懐風藻では中臣鎌足は大海人皇子を皇位を簒奪する悪賢い奴だと見ていたと書かれている。
665年「劉徳高」「郭務宗」は総勢254人で来訪してきたと日本書紀巻27天智天皇に書いてある。
秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道。十一月己巳朔辛巳、饗賜劉德高等。十二月戊戌朔辛亥、賜物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。是歲、遣小錦守君大石等於大唐、云々。等謂、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎。
現代語訳・・・
(即位4年)秋8月。
達率の答㶱春初を派遣して、城を長門国に築かせました。
達率の憶礼福留・達率の四比福夫を筑紫国へ派遣して、大野と椽の二つの城を築かせました。
耽羅(タムラ=済州島)は使者を派遣して来朝しました。
9月23日。唐国は、朝散大夫の沂州の司馬上柱国の劉徳高等を派遣しました。
「等」というのは右戎衞郎将上柱国の百濟禰軍・朝散大夫柱国の郭務悰のことを言います。
総人数254人。
7月28日に対馬に到着しました。9月20日に筑紫に到着しました。9月22日に表函を奉りました。
冬10月11日。菟道(ウジ=現在の京都府宇治市)で大規模な検閲をしました。
11月13日。劉徳高たちと宴会をしました。
12月14日。品物を劉德高たちに与えました。
この月に劉德高は帰りました。
この年、小錦守君大石等を大唐に派遣した。云々。
等というのは小山の坂合部連石積・大乙の吉士岐弥・吉士針間を言います。
唐の使者を送迎したのかもしれない。
・・・・・・・・・・・
この665年9月23日の来訪は、白村江からわずか2年後である。
劉徳高らは宇治で大規模な閲兵式を閲覧し、宴会で歓待されている。
前年664年の郭務宗の来訪のときとは大違いである。
前年、郭務宗は筑紫から先へは入れなかった。
それと比べると、665年のこの歓待ぶりは異常である。
恐らく、劉徳高が持参した表函が唐の正式な書であったのだろう。
何かしらの唐との協約が成立したような気がする。
日本書紀によれば翌666年に高句麗からも使者があった。
そして翌667年に中大兄皇子は大津宮に遷都した。
そして翌668年に中大兄皇子は天皇に即位し天智天皇となった。
そして翌668年に高句麗は唐・新羅連合軍に滅ぼされている。
白村江の戦いは僅か5年前663年である。
中大兄皇子と中臣鎌足は百済・高句麗の味方をして、唐・新羅と白村江で戦ったのだ。
その中大兄皇子と中臣鎌足が、僅か2年後665年劉徳高を歓待しているとなると、どう考えても倭国は唐、新羅と和平を結んだとしか考えられない。
つまり、百済・高句麗から手を引いたと考えられる。
667年「筑紫都督府」に使者があったと日本書紀に記述がある。
これについては前にも書いたが、再度、原文つきで解説しておこう。
十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。是月、築倭国高安城・讚吉国山田郡屋嶋城・對馬国金田城。潤十一月丁亥朔丁酉、以錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚、賜椽磨等。
現代語訳・・・
(即位6年)11月9日。
百済の鎮将(チンショウ=占領軍の将軍)の劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国の司馬(シバ=軍の位の名前)の法聡たちを派遣して、大山下の境部連石積たちを筑紫都督府に送りました。
11月13日。司馬法聡が帰りました。
小山下の伊吉連博徳・大乙下の笠臣諸石を送迎の使者としました。
この月に倭国の高安城(タカヤスノキ=奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境に遺構がある)、讚吉国の山田郡に屋嶋城(ヤシマノキ=香川県高松市屋島)・対馬国に金田城を築きました。
閏11月11日。
・錦十四匹・纈(ユハタ=絞り染の絹)十九匹
・緋二十四匹
・紺布二十四端
・桃染布五十八端
・斧二十六
・釤六十四
・刀子六十二枚、
を椽磨たちに与えました。
・・・・・・・・・・・・・
日本書紀、巻27天智天皇、に書かれているこの記述を吟味すると、
唐は九州筑紫に筑紫都督府を設置し、倭国に対する統治機関を置いていたのだろうと思われる。
統治範囲はわからないが現代における米軍基地のような存在だったようにも思える。
そして、この劉仁願の使節の筑紫都督府来訪のあと、同年中大兄皇子は大津で天皇に即位した事が日本書紀には書かれている。
この劉仁願の記述の直ぐあとである。
七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歲次丁卯三月卽位。)壬辰、宴群臣於內裏。戊申、送使博德等服命。
現代語訳・・・即位7年春1月3日。皇太子が天皇に即位しました。
(ある本によると、即位6年の丁卯年(667年)の3月に即位したと言います。)
1月7日。群臣と内裏で宴(トヨノアカリ=即位に祝いの宴会)しました。
1月23日。送迎の使者の博徳たちが服命(カエリコトモウス=仕事の報告)しました。
この記述の順番は、667年の筑紫都督府への劉仁願の使者の訪問が、中大兄皇子の天皇即位を許可したのだ、だから中大兄皇子は天皇へ即位したという解釈を生む、即ち大和朝廷が唐の属国であったのではという疑問を持たせる記述の順番なのである。
668年、天智天皇が即位する。
その後、高句麗は滅亡し、倭国にとって高句麗滅亡に匹敵する大事件が朝鮮半島で起こった。
それは、倭国の統治の最高責任者であったと思われる劉仁願の失脚である。
唐や朝鮮半島の資料に見られるのだ。
『新唐書』高麗伝および『資治通鑑』(唐紀17)の668年(総章元年)8月条によると、卑列道(江原道安辺郡安辺)摠官・右威衛将軍であった劉仁願は李勣による高句麗征討戦において、兵を逗留させたため、唐に召し返され、死罪を免れ、姚州に流罪にされたとある。
『三国史記』「新羅本紀」の文武王8年条によると、平壌戦の年(668年)の6月22日に、劉仁願が高句麗の漢城ほか2郡12城を落とした旨を知らせる使者を王に派遣し、王は返礼の使者を立てて、祝賀している。白村江の戦いまで唐兵1万に新羅は衣食を供給しており、劉仁願にはその恩義に報いる気持ちが強かったと想定され、「新羅本紀」文武王11年条によると、王は薛仁貴への返書の中で、劉仁願以下兵士に至るまで骨皮は漢地(唐)のものだとしても、血肉は新羅のものであると記している。
その後の劉仁願の消息は不明である。




