「壬申の乱」
さて、ここで、九州筑紫は一時期唐の占領を受けていたかどうかは、置いといて、天武天皇の事を考えていきたいと思います。
そもそも何故、現代の皇位継承問題考察が、
天武天皇に通じてるのかと言えば、
ひとえに華族類別録における皇別華族、
第8類、澤家、舟橋家、伏原家、平野家の4家、
第9類、藤堂家2家が天武天皇の末裔にあたるからです。
天武天皇に問題がなければ、
これらの家にも皇位継承の権利が生じてもいいと考えます。
天武天皇を祖とする第8類・第9類の宗族であるこの6家が、
どれだけ皇位継承に相応しいか考察しているわけです。
さて、白村江の戦いの後、敵将劉仁軌が九州に筑紫都督府を置いて、
兵を常駐させていたであろうことは『資治通鑑』の記述を根拠とする事がわかった。
しかし、ここから、天智と天武は骨肉の争いをすることになる。
有名な『壬申の乱』西暦672年7月24日 – 西暦672年8月21日である。
まず時期的に、郭務宗が4回目の来朝を終え、
帰国した(672年5月)1か月後に起こっている。
これが様々な解釈、疑いを生じさせる。
里中満智子の漫画を読み込んで、
どんな真相なのか見極めなければならない。
まずは天智の嫡男である大友皇子を討った天智の弟大海人皇子は、
反郭務宗だったのではと推測する。
これは唐からの独立戦争だったと仮定する。
さて「壬申の乱」(672年)、最重要キーワードは以下の4人。
①大海人皇子
②中大兄皇子
③大友皇子
④斎明天皇
次に、準主役が4人。
⑤孝徳天皇
⑥額田王
⑦中臣鎌足
⑧う野讚良
勿論これらの人物以外にも多くの人物が登場するが、
これら8人に絞れば壬申の乱の流れがよく分かる。
それでは壬申の乱について解説していきたい。
そもそもこの乱は皇位継承をめぐって、
天智天皇の嫡男である大友皇子と、
天智天皇の実弟である大海人皇子の争いであった。
ここで押さえておきたいのが、
中大兄皇子と大海人皇子2人の年の差である。
資料によってまちまちであるが、
日本書紀によれば5歳差。
「乙己の変」(645年)の時、
中大兄皇子が20歳、大海人皇子15歳であった。
因みに中大兄皇子が後の天智天皇で、
大海人皇子が後の天武天皇である。
さて天智天皇の太子大友皇子に対し、
皇弟大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した「壬申の乱」であるが、
結果は反乱者である大海人皇子が勝利するという日本では例を見ない結果となった。
「壬申の乱」の由来は天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
667年3月19日、中大兄皇子は都を近江大津(近江大津宮)へ移した。
668年1月、中大兄皇子は即位して「天智天皇」となった。
671年11月23日、自身の皇子である大友皇子を「太政大臣」につけた。
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は暗殺を恐れ大友皇子を皇太子として推挙し、
自ら出家を申し出て、吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下った。
672年1月7日、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。
大友皇子24歳。
ここで唐の動きであるが、
劉仁軌の配下と思われる「李守真」という人物が日本書紀に登場する。
李守真の名前は大陸側の史料には見えない。
《671年(咸亨2年、天智天皇10年1月13日)
百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して、表上る
同年7月11日
唐人李守真等、百済の使人等、並に罷り帰りぬ》
つまり671年李守真が倭国に派遣され、
博多に滞在し百済の使人とともに帰国した。
このとき既に劉仁願は失脚しチベットに左遷されている。
わずか4か月後に唐の郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1,400人、
船47隻の大船団が比知島に現れ対馬国司は大宰府に急変を伝えている。
筑紫は唐軍兵2000人の駐留で深刻な問題となった。
この船団の中に、
道久筑紫薩夜麻ら白村江の戦いで捕虜になったと思われる倭人も含まれていた。
・大友皇子が太政大臣に任命されたのが(天智10年10月17日)
・郭務宗4回目の来朝が(天智10年11月2日)
・天智天皇崩御が(天智10年12月3日)
・郭務宗帰国(天武元年5月17日)
・壬申の乱(天武元年6月24日〜7月23日)
(ユリウス暦672年7月24日〜8月21日)
大友皇子が太政大臣に任命されて、
すぐ郭務宗がやって来て、
1ヶ月後に天智天皇が死んだ。
その後、郭務宗は5ヶ月間日本に居座った。
郭務宗が帰って、38日後に壬申の乱が起こった。
どうも壬申の乱は郭務宗と関係があるような気がしてならない。
天智天皇崩御の知らせは672年郭務悰に伝達され、
郭務悰は哀悼の意を表し、喪服を着て、東に向かって拝んだ。
その上で、唐の皇帝の国書の書函と信物進上した。
その後、唐使らに大量の甲冑弓矢と絁1,673匹、
布2852端、綿666斤の贈物をし、
郭務宗は天武元年5月17日(672年5月30日)帰国した。
そして、約1ヶ月後、壬申の乱が勃発した。
大海人皇子は(天武天皇元年6月24日)(672年7月24日)に吉野を出立し反大友皇子の旗を上げた。
壬申の乱(ユリウス歴672年7月24日~8月21日)大友皇子が自害し終わる。
壬申の乱は天武による「唐」「郭務宗」からの独立戦争であるという仮説である。
35代皇極天皇→36代孝徳天皇→37代斎明天皇→38代天智天皇→39代弘文天皇→40代天武天皇
という皇位継承の流れの中で、
唐による統治があったと仮定すれば、
39代弘文天皇(大友皇子)が明治時代まで即位してなかった事の説明がつく。
天智天皇が死去(671年10月)(天智天皇10年9月)から、
壬申の乱(西暦672年7月24日 – 西暦672年8月21日)が終わるまでの11ヶ月、
そして天武天皇が即位する673年3月20日までの7ヶ月、
合わせて18ヶ月の間は倭国は半独立国であったということだ。
つまり大友皇子が即位されていた時代は唐の傀儡国家であった。
唐は周辺国に対して羈縻・冊封政策を取っていた。
倭国は後漢時代に冊封国とされていた過去がある。
羈縻は冊封よりは緩やかな統治方法である。
九州筑紫に筑紫都督府を置かれたということは、
唐の羈縻政策であったと思えば「筑紫都督府」も納得がいく。
『冊封』は、周辺民族・国家の首長に唐の官爵を与え、唐王朝の支配秩序に組み込むことだが、
『覊縻』は、現地の部族長に自治権を認め、その地域の異民族首長や有力者を唐王朝の統治長官として任命、間接的に統治する方法です。
その部族長を監視したり、外国が攻撃してきたときに対処するために「都護府(覊縻府)」を現地に設置します。
官制という面からみれば、この統治長官は唐の地方官制に組み込まれますが、異民族の伝統や社会はそのまま認めつつ統御することになります。
ゆえに大友皇子が唐の傀儡として天皇に即位した事は、唐では「劉仁軌」が「扶余隆」(百済最後の王である義慈王の太子)
を熊津都督に任命し百済の管理を命じた・・・程度の認識ではなかったのかと思う。
日本書紀では書かれなかった事もわかる気がする。
そう考えると、大友皇子を倒した「大海人皇子」は倭国を唐から取り戻した英雄と考える事が出きる。
当時、唐は「唐・新羅戦争」で倭国どころではなかった。「唐・新羅戦争」とは新羅の対唐戦争である。
最初、唐と新羅は同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。
しかし、唐は、百済の地に「熊津都督府」を、高句麗の地には「安東都護府」を設け、さらに新羅にも「鶏林州都督府」を設け、新羅の「文武王」自身も「鶏林州大都督」とさせられた。
このため唐と新羅は対立するようになった。
文武王は、高句麗遺民の高句麗復興運動を支援し、
670年3月、高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃し、戦争が始まった。
また、新羅は高句麗の安勝を高句麗王にし、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して、百済地域を占領した。
671年10月、百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の水軍に敗れた。
一方672年7月、唐軍と靺鞨軍が平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。
高句麗復興軍と新羅軍は、672年12月に白氷山で唐軍に敗れた。
673年には瓠瀘河でも唐軍に敗れ、高句麗復興運動は衰えた。新羅は674年に安勝を百済地域に設けた報徳国の王とした。
674年1月、唐の高宗は文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問を新羅王に冊封した。
文武王は、675年2月に謝罪使を派遣し、元の状態に戻った。
675年9月に新羅軍は、泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城戦闘でも李謹行の軍を破った。
さらに、676年11月、新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戦で薛仁貴の水軍を破る。
唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。
この結果、新羅が朝鮮半島の三国統一をした。新羅は、戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた
・・・というものだ。
新羅の文武王が唐を攻撃し出したのが670年3月。
時期的に「郭務宗」3回目の来訪の時期が669年であり、2000人で来訪している。
大量の捕虜を返還していると解釈されている。
唐の倭国に対する態度の軟化が見られる。




