「白村江の戦い」
さて、白村江の戦いを書くに当たって、こだわりたい事があります。
それは、白村江の戦いの後、九州北部は一時期、唐に占領されていたのではないか、との疑いのことです。
この事は「日本書紀」には直接的には書かれてはいないのですが、十分それを匂わせる記述があります。
それでは年表を見ながら説明していきたいと思います。
660年、唐が百済を滅ぼし、朝鮮半島に熊津都督府など5都督府を置く。
663年、新羅に鶏林都督府を置く。都督は新羅文武王が任じられる。
663年、白村江の海戦。
664年、郭務悰が百済の鎮将劉仁願により第一回目の使者として筑紫に来訪。
664年、12月、郭務宗、筑紫以上に進めずに帰国。
665年、9月 劉徳高・百済禰軍・郭務悰ら245人来訪。
大津で閲兵式を閲覧、宴のもてなしを受ける。
665年、12月、劉徳高ら帰国。
666年、10月、高宗の泰山封禅に劉仁軌が半島及び倭の酋長らを従え参列。
667年、11月、劉仁願、司馬法聡らを「筑紫都督府」へ遣わす。
668年、1月 天智天皇即位。
669年、郭務悰664年、665年に続いて3回目の来訪。
671年、1月 劉仁願が李守真らを来訪させる。
671年、7月李守真と百済の使人ら帰国。
671年、11月郭務悰4回目来訪、六百人と沙宅孫登ら千四百人。
672年、3月郭務悰に天皇崩御を告げる。
672年、5月30日 郭務悰帰国。
672年、6月壬申の乱
ここで、白村江の戦い後における、唐の使いの重要人物を述べておく。
郭務宗
劉仁軌
劉仁願
劉徳高
である。
まず上の年表の667年、日本に「筑紫都督府」なるものがあったとある。
これは「日本書紀」巻27天智天皇にある。
日本書紀 巻第二十七 天智天皇
(天智六年・六六七年)十一月九日、百済の鎮将劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。
「都督府」は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度である。
高句麗と百済が滅亡すると、
旧高句麗に「安東都護府」
旧百済に「熊津都督府」
新羅に「鶏林州都督府」(けいりんしゅう)を設置している。
さて、それでは「郭務宗」の1回目の来訪について考察したい。
唐の百済鎮将「劉仁願」(りゅうじんがん)の命で、664年5月に「郭務宗」は来訪したが、京には入れず、同年12月に帰国した。
『日本書紀』では、郭務宗1回目の来訪は664年(麟徳元年、天智天皇3年5月)
百済の鎮将劉仁願により朝散大夫の郭務悰らが派遣され、表函と献物をたてまつった・・・とある。
それから5か月後の664年(天智天皇3年10月)に、郭務悰らを送り出す勅が発令され、同じ日に中臣鎌足が、僧侶の智祥を派遣して、貢物を郭務悰に与えている。
その3日後、智祥は郭務悰らに饗応されて、同年12月に郭務宗は帰っていった・・・とある。
『善隣国宝記』に引用された『海外国記』では、664年(天智天皇3年)の4月に郭務悰ら30人、百済の佐平である禰軍ら100人あまりが対馬に到着し、倭国側からは大山中の采女通、僧侶の智弁らが対応に遣わされたとある。
同年9月に津守吉祥、伊吉博徳、智弁らが筑紫大宰の言葉として「客人たちのもってきた書状を見ると、天子(唐の皇帝)からの使いではなく、百済の鎮将劉仁願の私使であることが分かったので、朝廷には奏上しなかった」とあり、使節団は入京を許されなかった・・・となっている。
なお、郭務悰はこの時、劉仁願からの「牒書」を携えていたことも記されている。
また、彼の役職は「上柱国」とも記されている。
この日本側の記述では、白村江の戦いで大敗北した大和朝廷ではあるが、太宰府までしか唐の使者、国務宗を入れなかったということになる。
ちょっと不自然ではある。
ゆえに、多くの仮説が立っている。
665年、郭務宗は2回目の来訪を果たす。
『日本書紀』の記述はこうある。
翌665年(麟徳2年、天智4年)、唐より、朝散大夫(従五品下)沂州(現在の山東省臨沂市)の司馬上柱国である劉徳高、前年(664年)に博多を訪れた唐の郭務悰、唐に帰順した百済の将で佐平の禰軍らが派遣された。
合計254人からなる大使節団であった。
7月28日に対馬に到着。
9月20日に筑紫に到着。
9月22日に表函を進上した。
1回目の来訪とは異なり、2回目の来訪では、入京を許され、
10月宇治にて閲兵式を閲覧、
11月宴で歓待。
12月帰国。
さて郭務宗ですが、日本書紀によれば、計4回日本にやって来てます。
1回目664年
2回目665年
3回目669年
4回目671年
の4回です。
そして、
1回目は、劉仁願の使いとして九州にやって来ます。
2回目は、劉得高と一緒に京都まで来ます。
3回目は、2000人引き連れてきます。
4回目も、2000人引き連れてきます。
ここで重要なのは『郭務宗』『劉得高』は唐の歴史書には1度も名前が出てきていないということです。
『劉仁願』は唐の歴史書に登場します。
しかし668年に失脚しチベットへ左遷されています。
ゆえに3回目669年の郭務宗の来訪、
669年李守真の来訪、
671年郭務宗4回目の来訪は、劉仁願の使節ではないということだ。
しかし、日本書紀では「劉仁願」の使者となっている。
ここに大きな疑問がある。
誰の使いできたのでしょうか。
『劉仁軌』だとすれば納得ですが、何故日本書紀で間違ったのかわかりません。
『日本書紀』巻第二十七 天智天皇
(天智六年・六六七年)十一月九日、百済の鎮将劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。
・・・とあります。
『劉仁願』がチベットへ左遷されるのは668年ですから、667年の来訪は『劉仁願』の使者でしょう。「劉仁願」はこの時、百済の鎮将だった。
そしてこのとき九州の筑紫都督府に熊津都督府から熊山県令上柱国司馬法聡を使いとして送っているわけです。
郭務宗を調べるに当たって、この667年の「筑紫都督府」の記述が非常に重要になります。
日本書紀 巻第二十七 天智天皇
天智天皇六年十一月丁巳朔乙丑、百濟鎮將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府
↓
(天智六年・六六七年)十一月九日、百済の鎮将劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。
↓
天智天皇6年(667年)11月9日、百済の鎮将・劉仁願は、熊津都督府の県令・司馬の法聡らを遣わして、境部連石積らを、筑紫都督府に送ってきた。
ここで大事なのが、日本書紀では、この後直ぐ、中大兄皇子が天皇に即位してるのです。
667年3月:天智天皇は、大津に遷都。
667年11月:法聡「筑紫都督府」来訪。
668年1月3日:天智天皇が即位。
と『日本書紀』巻27にはあります。
667年11月に劉仁願が筑紫都督府に境部連石積を送ったとき、中大兄皇子が大津に遷都した後です。
そして、翌年1月に中大兄皇子は天皇に即位したわけです。
何故、法聡は大津宮でなく筑紫都督府に行ったのでしょうか。
この境部連石積は坂合部 磐積(さかいべ の いわつみ)とも書き、飛鳥時代の貴族で、名は石積(磐積)、姓は連のち宿禰、冠位は大山下である。
孝徳朝の白雉4年(653年)に大使・吉士長丹、副使・吉士駒、学問僧の道昭、定恵などと共に第二次遣唐使に学生として参加していた。
その後、一旦帰国し、天智天皇4年(665年)12月、同年9月に訪日した劉徳高らを送迎する守大石を大使とする第五次遣唐使に再び参加している。
667年に筑紫都督府に戻されたわけです。
その後、坂合部磐積は天武天皇10年(681年)食封として60戸を与えられる。
天武天皇11年(682年)『新字』1部44巻を天皇に命じられて作成。
天武天皇13年(684年)に制定された「八色の姓」により連姓から宿禰姓に改姓。
天武天皇14年(685年)宮処王・難波王・竹田王・三国友足・県犬養大伴・大伴御行 ・多品治 ・采女竹羅・中臣大島とともに、天皇から御衣袴を与えられている。
境部連石積は天武天皇に重用されたエリートであることがわかる。
唐の武将で百済の占領軍司令官であった劉仁願が、九州筑紫都督府に、大和王権の遣唐使であった「境部連石積」を667年11月送り届けた。
何故、大津宮へ送り届けなかったのか、誠に不思議である。
天智天皇の即位は668年1月。
665年、2回目の郭務宗来訪のとき、郭務宗は宇治で閲兵式を見ています。
これは中大兄皇子が郭務宗に見せたものです。
宴も催しています。
何故、667年の法聡の来訪は筑紫都督府までだったのか。
669年、郭務悰は3回目の訪訪をします。
このときは2,000人あまりを率いて来朝したと『日本書紀』に記されています。
671年に李守真というものが劉仁願の使いとして九州に来たと「日本書紀」にはあります。
このときは劉仁願は既にチベットに左遷(668年)されており、つじつまが合いません。
この時代の流れは非常に分かりにくい。
ちょっと時系列を整理してみた。
664年5月17日、郭務悰、来朝
664年12月12日、郭務悰、帰国
665年9月23日、郭務宗、劉徳高、来朝
665年12月14日、郭務宗、劉徳高、帰国
667年3月19日、中大兄皇子、近江大津宮へ遷都
667年11月9日、法聡、境部連石積、筑紫都督府へ来朝
668年1月3日、中大兄皇子、天智天皇となる、
668年 、劉仁願チベット左遷、
668年9月 、高句麗滅亡、
669年10月16日、藤原鎌足死去、
669年 、郭務悰、2000人引き連れて来朝
『大唐、郭務悰等二千余人を遣せり』(日本書紀)
郭務宗は664年,665年,669年,671年,と計4回来朝しているが、664年の1回目は筑紫都督府止まりで帰っている。
665年2回目は入京を許され、中大兄皇子は閲兵を披露している。
3回目は669年であり、2000人を引き連れている。
668年9月に高句麗が滅んでいる。
中大兄皇子は667年に近江大津宮へ遷都し、
668年に天智天皇に即位している。
668年劉仁願は左遷され、
668年高句麗が滅んでいる。
このパズルを組み合わせて、郭務宗の669年の2000人を引き連れての3回目の来朝の意味を考えねばならない。
カニ太郎は以前、この天智天皇、天武天皇の時代に注目するべきキーワードとして、郭務宗、劉仁願、劉仁軌、劉得高、4人をあげてた。
この中で、中国の歴史書に登場するのは劉仁願と劉仁軌の2人だけである。
ここで、劉仁軌のことについて考察してみたいと思います。
劉仁軌は白村江で倭の水軍を打ち破った唐の武将なのですが、唐の歴史書にも何度も登場する存在が確かな武将である。
カニ太郎がもっとも注目する文章は「資治通鑑」という宋時代の歴史書に載っています。
陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,
『陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
この劉仁軌の発言によって、九州は唐に占領された期間があったのではないかと疑れているのです。
倭国に占領軍を置いていたと言われる劉仁軌はどのような人物なのでしょう。
また、この『資治通鑑』とは、どんな書物なのでしょうか。
それでは、まず、劉仁軌から調べていきましょう。
生まれは602年。
若い頃は貧しく、学問好きであったという。
唐の建国後、武徳年間に息州参軍となり、のち陳倉県尉に転ずる。
折衝都尉の魯寧なる者が横暴であったため、これを鞭打って殺害した。
太宗に詰問されると「臣(私)が辱められたために殺しました」と臆せずに答えたことから、かえって太宗に気に入られ、咸陽県丞に任ぜられた。
給事中にまで昇るが、ために権臣の李義府に憎まれるようになり、青州刺史に左遷される。
660年の遼東征伐において漕運に失敗した罪を着せられ、59歳にして一兵卒に落とされた。
この年、蘇定方率いる唐軍が百済の都の泗沘城を攻め、配下の劉仁願が義慈王を捕らえる功績を挙げ、百済を滅亡させる。
661年に百済の遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み、守将の「劉仁願」を包囲した。
この際「劉仁軌」は自ら志願して検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く。
663年9月、百済残党を支援する倭の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。
さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
665年、高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭、4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。
668年、熊津道安撫大使兼浿江道総管となり、李勣に従って高句麗を平定。
金紫光禄大夫を拝し、太子左庶子同中書門下三品に進んだ。
674年には鶏林道大総管に任ぜられ、新羅の文武王を討って大勝し、675年には左僕射となって朝政に参画した。
684年、楽城郡公に封ぜられた。
685年、文昌左相同鳳閣鸞台三品として在職中に没した。
享年84。
諡は文献。
死後、開府儀同三司・并州大都督を贈られ、高宗の陵墓である乾陵に陪葬された。
以上が劉仁軌の経歴である。
大事なポイントは・・・
660年、百済を滅亡させた劉仁願は当時、劉仁軌の部下であったということ。
663年、白村江で倭の水軍400隻を焼き払ったのは、劉仁願ではなく劉仁軌であったということ。
665年、高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅(済州島)・倭、4国の首領を率いて参加したということである。
まず「郭務宗」は「劉仁願」の部下であり「劉仁願」は「劉仁軌」の部下であったということだ。
白村江の戦いのあと、倭国に対して交渉をした黒幕は、劉仁軌だったのではないだろうか。
665年に高宗の泰山での封禅に、耽羅、倭を百済、新羅の酋長と同等に率いて参加したということは重要である。
少なくとも、九州の一部は倭国として劉仁軌の支配下にあったのではないだろうか。




