「天武天皇」の謎
万世一系の皇位継承の伝統を守るためには、
華族制度を再建するのが一番いいのではないかと考えている。
ただし一定条件があります。
戦前と同じような華族制度であってはならない。
あくまでも歴代天皇を父系にもつ宗族というのが華族になれる唯一の基準です。
神武天皇のy遺伝子を守るための制度です。
世界で唯一の男系継承による万世一系の天皇を持つ日本、
この伝統を後世にまで受け継がせるためには、
憲法改正しても華族を復活させるべくでしょう。
1947年5月3日
「法の下の平等」「貴族制度の禁止」「栄典への特権付与否定」(第14条)
を定めた日本国憲法の施行により華族は廃止されました。
しかし当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認めるが、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない」(補則第97条)と存命の華族一代の間は、その栄爵を認める形になっていました。
しかも昭和天皇は「堂上華族」だけは今後も存置したい意向であり、
幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言していたそうです。
自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せ、
「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」
「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」
という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われました。
しかしながら岩田宙造司法大臣から
「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは、内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された、というのが、華族制度廃止のいきさつです。
このような先人達の経緯を重要視するなら、
安易に華族を復活させるわけにはいきません。
そこで昭和天皇がこだわった「堂上家」などにはとらわれないで、
父系に天皇を持つ宗族のみを皇位継承の伝統を守るためだけに皇位継承順位を付けて、
他の国民と差別する制度を作るべきだと思うわけです。
もちろん新宮家にこだわる必要はありません、
大事なのは「y遺伝子」これだけに拘って差別を復活させるべきだと思うのです。
ところで「堂上家」とは(とうしょうけ、どうじょうけ)どんな存在であったのか、
ちょっと調べてみようと思います。
広義では公卿になることが出来るのは
「摂家」「清華家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」であり、
その総称が「堂上家」となってます。
しかし狭義では、
「羽林家」以下を指し「平堂上」と呼ばれ区別されてるらしい。
御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄が
「堂上家」であり、公卿になれる家柄であった。
では、公卿とは何であるか?
公家の中でも、
日本の律令の規定に基づく、太政官の最高幹部として、国政を担う職位が「公卿」である。
すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら
(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を指す用語が
「公卿」であり、平安時代に「公卿」と呼ばれるようになったとのことである。
「公」は大臣、「卿」は参事または三位以上の廷臣を意味するらしい。
京都御所に仕える「上・中級廷臣」を「上級貴族」とも呼ぶらしい。
上記以外の中流・下級貴族は地下家(地下人)と呼ばれ、
江戸時代末期には「公卿」は「137家」があったらしい。
平安時代中期に昇殿の制が始まり、
院政期には公卿となることが出来る家柄が固定されるようになった。
公家の中で昇殿を許される家柄とこれを許されない家柄。
公卿になれる家柄となれない家柄に分かれた。
前者を「堂上家」。
後者を「地下家」とした。
一般的に「公卿」になると昇殿が許されたが、まれに「地下家」の公卿も存在したらしい。
南北朝時代以降「堂上家」の中に、天皇との親疎により内々・外様の区別が出来た。
出勤した時の御所内の詰め所も異なり、天皇から受ける処遇も違った。
安土桃山時代の天正年間(1573年 – 1591年)までに成立していた64家を「旧家」。
それ以降新規に設立された家(73家)を「新家」と区分している。
1884年(明治17年)7月7日「平堂上」のうち、大納言まで宣任の例が多い家が「伯爵」。
それ以外は「子爵」に叙せられた。
華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して廃止され、貴族院も衆議院で可決された原案通り廃止された。
小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は「1011家」であった。
華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更し、2021年(令和3年)現在も旧・華族の親睦の中心となっている。
華族の話はここまでです。
さて、第40代・天武天皇について考察していこうと思います。
第8類皇別 清原朝臣
第9類皇別 中原朝臣
どちらも天武天皇の妃新田部皇女の第六皇子(舎人親王)(676-735)の系譜です。
天武天皇には皇后に有名な鸕野讃良皇女以外に、
3人の后、3人の夫人、3人の嬪がおり、それぞれに皇子もしくは皇女がいた。
有名な額田王は3人の嬪の中の一人である。
嬪とは、後宮において妃・夫人の下位を占める身位。
三位以上の夫人に対し、四位・五位の者をあて、定員は4人とする。
さて、ここで額田王について少し考察したい。
額田王は絶世の美女だったと言われている。
しかし、日本書紀においては下記の一文しか記述がない。
「天皇初め鏡王の女額田姫王を娶りて十市皇女を産む」
額田王には12の短歌長歌が残っており、大化の改新の時に15才であった。
天武天皇の一つ年下である。
天武天皇の初婚の相手であり、後に兄の妻になっている。
彼女は「大化の改新」「白村江の戦い」「壬申の乱」の時代を生きた人物であった。
額田王の生年月日ははっきりしない。
彼女は15才くらいのとき、宮廷歌人として日本史に登場してきます。
宮廷歌人というのは、歌作りを任務として宮廷に出仕する役人の事で、皇族の行幸・遊猟などに供奉して、それらを主宰する天皇や皇子への讃歌を詠んだり、皇族の葬礼に挽歌を奉ったりする人の事です。
額田王の出自は『日本書紀』には、鏡王の娘とある。
大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生む。
父の鏡王の事も他史料に見えないが「王」称から2世~5世の皇族(王族)とは推定される。
近江国野洲郡鏡里の豪族で「壬申の乱」の際に戦死したとされています。
額田王は女帝35代皇極天皇のお付きの女流歌人として宮廷に出仕するようになった。
歌の才能があったため、女帝の皇極天皇のお気に入りとなった、いうわけである。
皇極天皇は「重祚」・・・つまり2回天皇をやっている珍しい女性天皇です。
在位期間が下記のようになっている。
35代、皇極天皇:642年2月19日 – 645年7月12日
37代、斉明天皇:655年2月14日 – 661年8月24日
ここで皇極天皇と斉明天皇の退位が2つの政変に関係していることがわかる。
1つが645年『乙巳の変』
もう1つが663年『白村江の戦い』である。
つまり「大化の改新」である「乙巳の変」が起きたすぐ後、皇極天皇は譲位して上皇となり、孝徳天皇が即位します。
そして、655年、孝徳天皇が崩御すると、再び天皇となり、37代斉明天皇となったわけです。
そして、白村江の戦いに向かう途中、九州朝倉の地で死んだとされています。
「朝倉橘広庭宮」という地名が日本書紀に出てきます。
斎明天皇が遷都したと言われる場所です。
はっきりとした場所は不明ですが、恐らく福岡県朝倉町でしょう。
日本書紀の記述によると661年(斎明7年5月9日)に天皇は、
朝倉橘広庭宮に遷宮されています。
この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、
神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。
また、この宮の中に鬼火が現れました。
このせいで大舎人や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
5月23日に耽羅国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王が亡くなりました。
7月24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)
8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。
この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて、喪儀を見ていました。
人々は怪しみました。
10月7日に天皇の喪船は海路で帰って行きましたとあります。
このあたり、色々疑問な点が多い。
まず、中大兄皇子は斎明天皇が死んだというのに、
時期天皇に即位せず、白村江の戦いに突入している。
668年2月20日にやっと中大兄皇子は天智天皇となったが、斎明天皇が死んだのが661年7月24日なので、丸々6年半、日本には天皇がいなかった事になる。
また、中大兄皇子や大海人皇子は白村江の戦いに参加したのかどうか?
豊章は白村江で負けた後、高句麗に逃げたと日本書紀にはあるが、果たして本当か?
中臣鎌足は白村江の戦いに参加したのかどうか?
中臣鎌足と豊章が同一人物であるとの仮説は本当か?
阿生山古墳は本当に中臣鎌足の墓なのか?
そのような多くの疑問は、置いといて、ここでは少し「額田王」について考察したいと思う。
斉明天皇の側で、常に天皇の側で歌を詠んでいたのが「額田王」です。
額田王は斉明天皇の大のお気に入りで、二人の息子、つまり後の天智天皇と天武天皇の両方に嫁ぎました。
額田王のエピソードとして、白村江の戦いに向かう途中で歌った歌有名です。
661年正月、百済救援に向かう大和王朝の船団は難波津を出発し、瀬戸内海を経て、途中、四国伊予の熟田津で一時船団を休めていました。
甲板の上には、斉明女帝、中大兄皇子、大海人皇子、ウ野讃良皇女、中臣鎌足の姿がありました。
並み居る群臣たちを前に斉明女帝がおっしゃいます。
「船出にはちょうど良い時分になってきました。
出発を前に、誰か歌を詠んでくれる者はありませんか」
歌には何か霊的な力があると信じられていた時代、下手な歌でも詠んだら全体の士気にかかわります。万一帝のお怒りにでも触れたらと、誰もが目を伏せて名乗り出るものはありません。
「どうしました。誰も詠めぬのですか」
「では、僭越ながら私が」
一人の女官が歩み出ます。
額田王です。
斉明女帝のそばにいつも控えている女流歌人の額田王が歌った歌がこれです。
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今はこぎいでな
(意味)
熟田津で船に乗ろうとして月の出を待っていると、潮の流れもちょうどいい具合になってきた。
さあ今こそ漕ぎ出そうよ。
全軍の士気が上がること著しいものがあったそうで、この歌は大変な名作として語り継がれております。
また、両天皇が額田王をめぐっては、天武天皇と天智天皇の三角関係ではなかったのか、というエピソードもあります。
天智天皇が即位した天智七年(668年)の5月5日の節句の日に、琵琶湖の東岸の蒲生野の皇室ご料地で、盛大な「狩り」が開催され、額田王と大海人皇子が歌を詠み会います。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
「夕陽に染まる紫野を歩いていると、あなたが手を振ってくる。野原の番人に見られてしまう」
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも
「紫草のように綺麗な君が好きだから、もう人妻なのに、こんなに恋しい」
上の歌が額田王の歌で、下の歌がそれに返した大海人皇子の歌です。
万葉集に残るこの有名な歌が天智天皇を交えた3人の状況を表していると解釈できるわけです。




