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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
81/105

「継体天皇」の謎


皇統を語る上で大事な第26代・継体天皇です。

【華族類別録】では、

1類・・・・・・・神武天皇、

2類・・・・・・・7代孝霊天皇、

3類・・・・・・・8代孝元天皇

4類・・・・・・・8代孝元天皇

5類・・・・・・・8代孝元天皇、

6類・・・・・・・11代垂仁天皇、

7類・・・・・・・28代宣化天皇、

華族類別録に26代継体天皇の氏族は存在してません。

28代宣化天皇は26代継体天皇の第二皇子で、

母は尾張目子媛おわりのめのこひめ)安閑天皇の同母弟となります。

皇統が「継体天皇」の前に、変わった可能性について、

万世一系の伝統を堅持する学術的には否認されています。

つまりあくまで傍系としてるのです。

『記紀』によれば、

「継体天皇」は「応神天皇」の5世孫であります。

皇室の場合は起点の天皇を数えない(0世)とするので、5世孫は、起点と5世の間に4人いる、すなわち来孫、自分から5代後の子孫である。

その彼が、越前国を治めていたとなっています。

系図を書くとこうなります。

▪凡牟都和希王(ほむた(つ)わけのおおきみ)(=応神天皇)

若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)

大郎子(おおいらつこ)(=富富等王)(おおほどのおおきみ)

乎非王(おいのおおきみ・おいのみこ)

汙斯王(うしのおおきみ)(=彦主人王)(ひこうしおう)

乎富等大公王(をほどのおおきみ)(=継体天皇)

5世孫ということもあり、本来は皇位を継ぐ立場ではなかったのですが、

四従兄弟にあたる第25代「武烈天皇」(ぶれつてんのう)が後嗣を残さずして崩御したため、

「大伴金村」「物部麁鹿火」などの推戴すいたいを受けて即位しました。

先帝とは10親等離れた天皇です。

戦後、天皇研究のタブーが解かれると、

5世王というその特異な出自と、

即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になりました。

その議論の中で特に重要なのが、

継体天皇は神武天皇の流れとは無関係な地方豪族で、

実力で大王位を簒奪して天皇となったとする説です。

傍系王族の出身という『記紀』の記述に対して現在も議論が続いてます。

記紀では、

第15代応神天皇の第五皇子稚野毛二派皇子わかぬけふたまたのみこ)が、

高祖父(4世代前の祖父)であり、

25代武烈天皇から系譜をたどると継体天皇は10親等離れた皇位継承となります。

先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、

越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされている。

『日本書紀』はその系図一巻が失われたために、

正確な系譜が書けず『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって、

辛うじて状況を知ることが出来る。

特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。

『記紀』の記述を信用するならば、

「継体」を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。

しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、

継体はそれまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖であるとする説が提唱されるようになった。

代表的な研究者である水野祐によれば、

いわゆる万世一系は否定され、

出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、

この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と歴史学上呼称される。

一方で、その出自を近江国坂田郡を本拠とする息長氏に求める説もある。

その根拠としては息長氏が応神天皇の孫の意富富杼王を祖とする皇別氏族で、

後の天武朝には八色の姓の最高位を賜るなど朝廷から格別な待遇を受けた氏族であり、

継体自身も妃の一人を息長氏から迎えていることなどがあげられる。

いずれにしても決め手となるような史料はなく「継体」の出自に関しては結論は出ていない。

また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で、

そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出たわけである。

「継体」が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、

大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、

それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える。

しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、

継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、

もしも反乱による武力闘争があったのであれば、

大和遷都の翌年に起こった筑紫君磐井の乱のように『記紀』に記されていないのは不自然である。

一方で、継体が育ったとされる越前、

生まれた土地とされる近江、

宮があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は、

日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、

継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景には、

こうした交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、

本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある。

水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、

その中心となった氏族を葛城氏と推測している。

その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、

以降の時代に目立った活動が見られないこと、

6世紀後半には拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。

さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、

葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、

この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている。

また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、継体の大和入りを実現させたとしている。

大和入りの翌年に勃発した磐井の乱は、

継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、

この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している。

『日本書紀』には武烈天皇の悪虐非道の行いの数々と共に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪いことをしきりに行い、一つも良いことを行わなかった)」と、暴君として描かれている。

この記事の背景には、血縁関係が薄く本来は皇位継承の立場に無い継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたのではないか?とする説がある。

同様に『日本書紀』による倭彦王の記事も実在の可能性の低い仲哀天皇の後裔であり、かつ名前も「ヤマト

ヒコ」という普通名詞であることから伝承性の強い人物とされる。

この伝承には、仲哀天皇(第14代)五世孫という倭彦王を持ち出すことによって、仁徳天皇(第16代)から武烈天皇(第25代)の断絶を確定するとともに、迎えの使者を見て逃げ出す臆病な倭彦王と、堂々とした威厳ある態度で使者を迎えた大王にふさわしい男大迹王と対比することによって、応神天皇(第15代)五世孫という継体天皇の正統性を確立する意図があったとされる。

一方、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。

継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合で、王統は一つに固定されていなかったという意味であり、武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。

既述の通り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。

すなわち『上宮記』逸文が載っている『釈日本紀』には「上宮記曰一伝」という記述があるが『上宮記』の作者は別史料を引用しており、それにはさらに古い資料に基づいた系譜が載っていたとされていることを根拠とする。

仮に継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である。

それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。

26代継体天皇をもっと掘り下げます。

日本の王朝が代わってる可能性があるからです。

日本書紀によれば継体天皇はいみな男大迹王おほどのおおきみといい、

彦主人王ひこうしおう振媛ふるひめとの間に生まれたとされています。

彦主人王(ひこうしおう)は15代応神天皇の玄孫(4世孫)で、

妃は11代垂仁(すいにん)天皇7世孫の振媛(ふりひめ、布利比弥命)、

その間の子が継体天皇だそうです。

近江国高島郡三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)を本拠にした、

地方豪族であった彦主人王(ひこうしおう)が亡くなると、

母(振姫)の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市丸岡町あたり)で育てられ、

長じて5世紀末の越前地方を統治していたとなっています。

507年に崩御した25代武烈天皇には跡継ぎがいなかったため、

大伴金村おおとものかなむららが協議し、

まずは丹波国にいた14代仲哀(ちゅうあい)天皇5代目孫倭彦王やまとひこおおきみを、

天皇に迎えることにしました。

しかし倭彦王(やまとひこおおきみ)は迎えの兵士を見て、

自分を討伐にやってきたと勘違いし姿をくらましてしまった。

そこで越前にいた15代応神天皇5代目孫にあたる男大迹王(おほどのおおきみ)を、

推挙したというわけです。

最初は男大迹王(おほどのおおきみ)も金村らに対して疑いをもっていたため、

河内馬飼首荒籠かわちのうまかいのおびとあらこに使いを出して確かめさせたところ、

本意だということが分かり即位を決意したとなっています。

河内国交野郡にあった樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で、

天皇に即位するが、この時、男大迹王(おほどのおおきみ)はすでに57歳でした。

24代仁賢天皇の皇女で武烈天皇の妹である手白香皇女たしらかのひめみこを皇后に迎え、

血統の薄さを母系で補おうとしましたが、

継体天皇6年(512年)朝鮮半島の任那4県に対して、

百済の割譲要求を飲まざるを得ないなど政治的困難が続きました。

継体天皇21年(527)筑紫国造磐井つくしのくにのみやつこいわいの乱が勃発。

磐井は朝鮮半島との交易を通じて勢力を広め、

新羅に兵を送ろうとする朝廷に対して進路を妨害しようとしました。

継体天皇は大連の大伴金村に命じ、

物部麁鹿火もののべのあらかいを九州に派遣し、

これを制圧しました。

継体天皇は樟葉宮での即位後、

山城国筒城宮つつきのみや

弟国宮おとくにのみやを経て、

20年後にして大和の磐余玉穂宮いわれのたまほのみやに遷り、

ようやく大和入りを果たしました。

そしてその5年後、82歳で崩御。

日本書紀には三島藍野陵(みしまあいののみささぎ:大阪府茨木市大田茶臼山古墳)

に葬られたとされています。

さて以上が一般的な継体天皇像なのですが、他にも、いろいろ説があります。

その中でももっとも面白いのが、

邪馬台国は越前だったという説です。

継体天皇は邪馬台国の王であり、

奈良盆地の天皇家を征服したらしいのです。

26代継体天皇について、

古事記と日本書紀では微妙に違っています。

日本書紀の継体天皇では、

まず25代武烈天皇が大変悪い天皇として書かれています。

王朝が代わるとき、

その先代の王が暴君であると記録されるケースが多い。

ゆえに日本書紀においても、

25代武烈天皇は暴君であると記録されているのではないかと思われています。

武烈天皇は若い頃、

恋に破れてひどい女性不信に陥り、

女性に対しては悪逆非道の限りをつくした。

妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、

女を裸にして馬と交尾させたり、

そのため一生を独身で過ごすはめになり当然一子ももうけることがなかった。

即位から8年で武烈天皇は崩御し世継ぎがいないため王朝断絶の危機に陥った。

重臣達は合議を開き、

大連おおむらじ大伴金村おおとものかなむらは、

丹波の国桑田郡(現京都府北桑田郡・亀岡市あたり)にいる、

仲哀天皇五世孫倭彦王やまとひこのおほきみを迎えて皇位につかせようとしたが、

王は整列して行進してくる兵士を見て狼狽し山中に逃げ去ってしまいました。

そこで金村は物部鹿鹿火もののべのあらかひ大連、

許勢男人こせのおびと大臣らと協議して、

今度は越前の国三国(現福井県坂井郡三国町あたり)にいる、

応神天皇五世の孫である男大迹おおど王(後の継体天皇)を迎える事にした。

男大迹王(おおどおう)は応神天皇の五世の孫彦主人ひこうし王の子で、

母振媛ふりひめは垂仁天皇の七世の孫でした。

振媛は近江の国高島郡三尾(みお)の出身で、

琵琶湖西岸の中央部に位置し安曇川(あどがわ)によって開けた平野部が故郷でした。

この振媛を迎えて妻にしたのが、

越前の国三国の坂中井さかない彦主人王(ひこうしおう)です。

男大迹王が生まれてすぐに彦主人王は崩かったので、

振媛は子を連れて高向たかむこに隠棲する事になった。

男大迹王(おおどおう)は、大伴金村らが皇位継承の要請に来るまでここに住み、

既に57歳になっており多くの妃、子達に囲まれて暮らしていた。

男大迹王(おおどおう)ははじめ皇位継承の要請をなかなか受け入れなかったので、

金村らは北河内一帯を基盤とする王の知人、

河内馬飼首荒籠かわちのうまかいのおびとあらこを説得役に越前へ使わし、

ようやく王もこれを聞き入れ、

やがて507年2月4日に樟葉宮(くずはのみや:現大阪府枚方市楠葉)で即位しました。

5年間樟葉宮(くずはのみや)で過ごした後、

都を山背国の筒城(つつき:現京都府京田辺市)に移し、

更に6年後には同じく山背国の弟国(乙訓:おとくに:現大阪府高槻市から京都府長岡京市にかけてのあたり)に遷都します。

更に8年たって、ようやく大和の国磐余いわれ玉穂宮たまほのみやに入りました。

このように、

樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮、と遷都を繰り返した事が、

当時、大和には継体天皇に対抗する勢力がいたのではないかと言われています。

そしてそれは継体天皇が正当な皇位継承者ではなかったからではないか、

とも疑われている原因の一つでもあります。

継体天皇の皇位継承を研究する事によって、

天皇の万世一系による継承の伝統を、

もっと緩いものに変更できないものかと思うのです。

さて『日本書紀』によれば、

応神天皇5世の孫である継体天皇の父は彦主人王(ひこうしおう)

母は11代垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。

ただし応神から継体に至る中間4代の系譜について

『記紀』では省略されており正確にはわかっていなません。

辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)

に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来ます。

ただ日本書紀の系図1巻は紛失していて、信憑性が薄れます。

「上宮記」によると、継体天皇の系図は

凡牟都和希王(ほむた(つ)わけのおおきみ・応神天皇)

若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)

大郎子(おおいらつこ)(富富等王おおほどのおおきみ)

乎非王(おいのおおきみ・おいのみこ)

汙斯王(うしのおおきみ)(=彦主人王ひこうしおう)

乎富等大公王(をほどのおおきみ)(=継体天皇)

応神天皇―仁徳天皇―履中天皇―辺押磐皇子―仁賢天皇―武烈天皇

以上、武烈天皇と継体天皇の間は10親等であり、継体天皇は応神天皇の5世孫である。

『上宮記』逸文は近年、文体の分析によって、推古朝の遺文である可能性が指摘されています。

推古天皇は第33代の初の女性天皇であり、第29代欽明天皇の皇女で、欽明天皇は継体天皇の皇子であります。

ここで、重要なのは、『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は「上宮記」からで、「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用されている事です。

つまり『上宮記』は当時存在した別系統の某記に拠った史料であると言うこと・・・つまり日本書紀よりも上宮記の方が古いと言うことです

つまり、いつ、誰が書いたかも分からない「上宮記」の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているわけです。

逸文「上宮記」は系譜資料として・・・信憑性はあるのか?

皇統について詳しいはずの「日本書紀」や「帝紀」の編纂者ですら、分からなかった系譜が本当に正しいのか?

そこを、まず現代の日本の男系原理主義者はしっかり認識しておかねばならないと思います。

さて、日本書紀は720年、奈良時代に成立した日本の歴史書で、日本に伝存する最古の正史です。

神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述され、全30巻ある・・・しかし系図1巻が付属していたが失われている。

さて、15代応神天皇から見て、25代武烈天皇は5世孫です。

つまり25代武烈天皇から26代継体天皇への皇位継承は10親等も離れた皇位継承であるということです・・・しかし、実はもっと重要な事実を多くの現代人は見逃しています。

15代応神天皇から25代武烈天皇までの間に、9人もの天皇が即位しているという事実です。

当時は現代と違い一夫多妻制であった。

つまり、武烈天皇が一人の皇子も残さず死んでしまっても、どう考えても、沢山の男系男子が存在していたと思われると言うことだ。

つまり5世代も遡って継体天皇に皇位を継承しなくても、男系男子の従兄弟は、そこらじゅうにいたであろうと想像される。

なんといっても、その間に9人の天皇がいたのだから、この一夫多妻せいであった時代、従兄弟に大勢いたはずなのである。

ここで、15代応神天皇のあとの歴代天皇を見てみよう。

16代仁徳天皇(にんとく)

17代履中天皇(りちゅう)

18代反正天皇(はんぜい)

19代允恭天皇(いんぎょう)

20代安康天皇(あんこう)

21代雄略天皇(ゆうりゃく)

22代清寧天皇(せいねい)

23代顕宗天皇(けんぞう)

24代仁賢天皇(にんけん)

25代武烈天皇(ぶれつ)

どうだろう、当時はどの天皇も多くの妾を持っていた、当然、相当数の子供がいたはずである。

にもかかわらず、5世代、10代もの天皇を遡り、しかも越前に住んでいた男大迹王(おおどおう)(継体天皇)に皇位を継承させたということは、どう考えても不自然。

やはり男大迹王(おおどおう)が武力で王朝を奪ったと考える方が自然である。

想像を言えば、全く無縁ではないにしても、遠い皇統であったに違いない継体天皇による、王位簒奪だったのではないか・・・と、疑問を持たれても仕方がないと言うことだ。





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