「久邇朝融」(くに あさあきら)の闇
今回も森暢平さんのサンデー毎日の記事です。
旧宮家皇族の皇籍取得が、いかに危ないか、旧皇族の不祥事を見るのが一番なので、丸々使わせてもらいます。
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「東久邇稔彦」(ひがしくにのみやなるひこ)を例に、
旧宮家皇族が戦後、決してクリーンな暮らしをしていなかった事実を2回にわたり見てきた。
だが、国民に誇れない闇がある旧皇族はほかにもいる。
今回は、カネと女性にダーティーだった久邇朝融の例を検討する。
(一部敬称略)
戦後、皇籍離脱した旧宮家皇族には、
莫大な財産を一気に失ったイメージがつきまとう。
「(戦災で)御殿もなくなった元皇族は、混乱する社会のなかで漂った」
(髙橋紘『人間 昭和天皇』下巻)と悲哀が強調される。
たしかに、1946(昭和21)年5月21日、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「皇族の財産上の特権剝奪に関する覚書」で、
経済的恩恵のほとんどが奪われた。
財産税も過酷であった。
1947年、多額の資産を持つ国民に課された富裕税である。
評価額のおおむね8割を国庫に納める必要があり、
多くの宮家が別荘や古美術品を手放した。
しかし「旧宮家=清貧」というイメージは、虚像である。
旧皇族は決して、庶民と同じくひもじい暮らしをしていたわけではない。
多くの使用人を使い、複数の自動車を所有するリッチな生活を維持していた。
なぜそんなことができたのか。
皇籍離脱に際して莫大な一時金が支払われたほかに、
一部の旧宮家だけに許されたのが、
国有地の「縁故払下げ」という極秘の方法であった。
今回は「カネ」「女性」で昭和天皇を悩ませ続けた「久邇朝融」(くにあさあきら)(1901~1959年)の
生きざまを紹介する。
ダンディーな「朝融」(あさあきら)は女性にもてた。
今ならばイケメン皇族と騒がれたであろう。
そして、しばしば女性で問題を起こす。
最初は、婚約破棄である。
朝融は1917(大正6年)旧姫路藩主家の「酒井菊子」と婚約の内約をする。
当時、16歳。
明治の皇室典範では、皇族に婚姻の自由はなく、
結婚するには天皇の許可(勅許)が必要だった。
「朝融」は、大正天皇の勅許の内許を得ていた。
内許はいわば天皇の「結婚命令」でもある。
しかし「朝融」(あさあきら)は23歳になった7年後、
婚約を破棄したくなったようだ。
菊子には「節操に関する疑い」がある(『倉富勇三郎日記』24年2月3日条)と難癖をつけた。
他の男性との噂があるということだ。
ただ、根拠はなく「酒井家の娘は何となく厭やと云う気」(『倉富日記』2月22日条)
が起きたようだ。
天皇の命令に反した婚約破棄は前例がない。
摂政「裕仁」(ひろひと)は11月16日「朝融」(あさあきら)の父「久邇宮邦彦」(くによし)を訓戒とする。
事実上は「朝融」(あさあきら)への厳重注意である。
「朝融」(あさあきら)は翌25年に、
伏見宮知子(当時17歳)と結婚する。
しかし、3年後、鎌倉に単身赴任中、
妻のいないすきに、侍女に手をつけ妊娠させた(「倉富日記」1928年6月29日条)。
「ご落胤」の性別など詳しくは分からない。
ただ「朝融」の三女、通子は戦後、
「(父は)いろんな女性に、一ダースではきかないほど、ご落胤を生ませている」
(『女性自身』1979年11月1日号)と暴露するから「ご落胤」はほかにもいたのであろう。
「朝融」(あさあきら)は父を早くに亡くし、
27歳の若さで宮家当主となる。
男子3人、女子5人に恵まれメディアでは家庭円満が強調された。
戦艦砲術長として活躍し、最後は海軍中将まで昇進する。
しかし、私生活での「朝融」(あさあきら)は、女性にだらしなく、家庭人としては失格だった。
1945(昭和20)年8月の敗戦時、朝融は44歳。
宮家皇族たちは一国民として生きる術を考えなければならなかった。
朝融自身「喰えなくなつたら自動車の運転手でもなんでもする」
(時事通信「日刊時事解説版」1947年10月28日)と心意気を語った。
しかし、実際に会社員となったり、自ら会社を経営したことはない。
一方で、敗戦後も20人前後の使用人を使い続けた。
人件費はむろん宮家持ちである。
キャデラックなど自動車3台も維持した。
どのようなからくりで宮家財政を運営したのだろうか。
各宮家は47年、財産税納付のために資産を申告する。
久邇宮家は704万8000円だった。
今の価値にすると約3億5000万円になる。
意外に少ないようにも思えるが、
渋谷区宮代町(現・広尾4丁目)の本邸敷地(約6万8000平方㍍)は、
天皇の土地(御料地)を借りており、財産に含まれないためである。
課された財産税は535万2000円(現在価値で約2億7000万円)。
ここで「朝融」(あさあきら)は宮代町の本邸を「売却」することで現金を得る。
売却先は映画会社、大映の事実上のオーナー「永田雅一」である。
価格は770万円(現在価値で約3億8500万円)。
土地は戦前の御料地であり、
戦後は皇室(天皇家)から物納され大蔵省管理の国有地になっていた。
だから「朝融」(あさあきら)が勝手に処分できない。
おそらく、邸宅を売る名目であっただろう。
建物は私有だから、売却は可能だ。
ただ、高額すぎる。
将来、国が大映に廉価で払い下げることを含んだ売却だと考えられる。
グレーな土地取引だ。
さらに言えば、1947年10月の皇籍離脱に際し、
久邇家は839万3000円(現在価値で約4億2000万円)を得た。
これらを足し引きすると、資産は1778万9000円(約9億円)となり、
資産申告時より2.5倍も増えた。焼け太りに等しい。
朝融はこの年、妻知子(享年40)を亡くした(死産と言われる)。
戦前に結婚した長女を除くと、20歳から3歳までの7人の子と暮らした。
本邸売却後は、渋谷区常磐松町(現・渋谷4丁目)にあり、
もともと母俔子が暮らした別邸(やはり国有地)に転居した。
今の常陸宮邸の道路をはさんだ北側である。
1335平方㍍と宮邸の規模は縮小したが、やはり使用人の数は維持した。
大映の「永田」は、旧久邇宮本邸を賓客接待の迎賓館にしたかったようだ。
しかし、聖心女子学院が女子大を開設するための場所を探しているのを知り、
「権利」を聖心に売却した。
のち美智子上皇后の母校となる聖心女子大は久邇宮本邸のあった場所に48年4月に開学する。
その聖心は1951年、この土地の払下げを受ける。
ほとんどの土地が8月、国から直接払下げられた。
しかし、2万1319平方㍍については一度「朝融」(あさあきら)に縁故払下げがなされたのちの
10月17日、朝融から聖心に転売された。
朝融は差額を儲けた。
同時期、暫定的に住んでいた常磐松町の国有地も利益目的で転売した。
当時の宮内庁長官、田島道治の『拝謁記』および法務局渋谷出張所の土地台帳によれば、
1950年12月に縁故払下げによって、朝融の私有に変わったあと、
1951年秋、造船会社「飯野海運」社長の俣野健輔に売却された。
売却額は1350万円。
「朝融」は、縁故払下げを受けた宮代町、常磐松町の二つの土地で利益をあげた。
ほかにも、横山大観の襖絵、
光格天皇の御宸翰(手紙)などの美術品も同じ時期に売却した。
不動産を合わせ2200万円(『拝謁記』1952年1月11日条)の利益をあげたのである。
今の価値で約4億円となる。
朝融は再び資産を増やした。
なぜ「朝融」(あさあきら)は巨額の利益を得られたのだろう。
それは「久邇家」が「香淳皇后」(良子)の実家だからであろう。
田島は、昭和天皇に対し、「皇后様の御里方は何とか致さなければと存じます」と、
経済支援する考えをはっきり示している(『拝謁記』1950年6月17日条)。
戦前、大蔵大臣を務めた「結城豊太郎」「青木一男」らが久邇家の経済顧問となり、
宮内庁と連絡をとりながら、大蔵省に縁故払下げを働き掛けたと考えられる。
不透明であるが、報じたメディアはなかった。
「朝融」は戦後、名義貸しビジネスで生計を立てようとしたが、うまくいかなかった。
有名なところでは「久邇香水」がある。
東京・立川の「オパレスク化粧料本舗」が1948年ごろから売り出した。
「久邇」をブランド化した香水である。
派手な宣伝で一躍話題になったが「朝融」が利益を得られたわけではない。
ちなみに、久邇香水はその後、何度も販売の権利が譲渡され、
今も福岡市の会社によって製造されている。
また、青森県でサラブレッド馬を育成する「東北牧場」の会長になったり、
銀座のダンスホール(キャバレー)のメリーゴールド、
神田のクラブパールに出資したとされる。
しかし、これも名前を利用されただけであった。
「朝融」としては観光業にかかわりたいと考えた。
「日本観光施設」の相談役となり、地域観光の助言をしたこともある。
ただし、事業が成功したわけではない。
ほとんど収入はなく、倍になったはずの「9億円」が底をつき始めた。
こうした事態を受け、宮内庁は50年ごろから、久邇家財政の立て直しに介入する。
まず土地転売により資産を増やし、新宿区西落合に新しい家を購入させた。
そして経済顧問によって「宮家再建計画」が立てられた。
家購入後に残った1200万円を運用するなどして、
年270万円(現在価値で5400万円)の収入を確保する計画である。
だが、せっかくの計画を無にするように「朝融」は依然、天皇を困らせることばかりしていた。
近寄る企業からの接待が頻繁にあり、田島からは「無銭飲食」が疑われた。
(『拝謁記』1951年8月28日条)。
1952年2月には、貿易会社を経営するムルチというインド人の犯罪をもみ消すために、
東京地検検事正に贈物をし、税関職員を饗応した。
カネをもらって、もみ消し運動をしたのである。
最大の問題はやはり「女性」であった。
雑誌には、元ミス日本でメリーゴールドのダンサーだった後藤綾子、
大映スターの相馬千恵子とのロマンスが書きたてられた。
「久邇宮朝融に処女を捧げた運命の椿姫」(『青春タイムス』50年7月号)と、
センセーショナルな記事が大きな話題になったこともある。
むろん、真偽は分からないし、夫人を亡くしたので不倫ではない。
『拝謁記』には、宮内庁長官「田島」の言葉として
「新橋とか赤坂とかの若い芸者を沢山御承知」(1952年2月5日条)、
「御自分の享楽の為のみでお金とか女とかいふ事のみで…」(同2月20日条)
と呆れ気味の言葉が多く出てくる。
昭和天皇も「余りお金があれば又女の方へといふ事にならう」(51年8月17日条)、
「久邇さんは婦人がおすき」(1952年2月26日条)などと応じた。
「朝融」(あさあきら)は1953年初め、赤坂の芸者を身請けして、東京・中野に囲った。
そのために200万円(現在価値で約4000万円)を借りた。
子育ては使用人たちに任せ、外で女性と遊んでいたのである。
その他、使途は不明だが、1000万円(現在価値で約2億円)の手形3通を振り出し、
側近らが取り戻すのに必死になった騒ぎまであった。
問題の数々に、昭和天皇も「禁治産にでもしなければいかぬか」(『拝謁記』52年2月4日条)と嘆く。
田島は、皇族たちでつくる「菊栄親睦会」からの除名も考えたが、
本人の自覚がないので意味がないと愚痴を述べた(『拝謁記』1951年8月28日条)。
婚約者を切り捨て、皇族女性と結婚したあとも侍女に手を付け、
さらには芸能界、花柳界で「女道楽」に励んでいた朝融。
それでいて夫人には8人の子を産ませ、3人の男子を確保した。
「久邇家」の男系維持は、夫人の犠牲のうえに成り立っていた。
旧皇族はいつでも皇室に戻る気持ちがあったと信じる人たちがいる。
それが本当ならば「朝融」がこんなに女性やカネにうつつを抜かすわけがない。
皇室が民間から妃をとるとき、少なくとも3代前に遡って品行を調査する。
「朝融」のような不品行な先祖を持つ妃候補がいたら、
たちまちリストから外れるであろう。
「旧宮家養子案」を主張する人たちは、
朝融の子孫にも、未婚の男性が数人いると強調する。
だが、彼らが皇室に戻るとしたら「朝融」の不品行はどう評価されるのだろうか。
(以下次号)
(成城大教授 森暢平)




