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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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アキラとヨシコト 



① <アキラ> 

アキラは初代山階宮で、正式には山階宮晃親王と言います。

アキラは父が伏見宮邦家、1816年生まれの第一王子である。

明治維新の時、アキラは既に48歳であった。

父・邦家が13歳で作った子だったゆえ、

最初は父を祖父の伏見宮貞敬親王ということにして皇統譜に記載した。

つまり伏見宮貞敬の第八王子となっていた。

しかし、1889年、73歳の時、明治皇室典範が制定され、皇位継承順位が父・貞敬のままでは、自分の皇位継承順位が低くなるため、正式に伏見宮邦家の第一王子と修正した。

アキラは奔放な性格であった。

1841年、25歳のとき、二歳年下の叔母、幾佐宮隆子女王と出奔し、仁孝天皇を激怒させた。

光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位が停止され、伏見宮家からも追放された。

1856年、40歳のとき、蟄居が解かれ、

1863年還俗が許される。

1853年、ペリーが浦賀に来航し、

1854年に日米和親条約締結が締結された。

蟄居中のアキラは京都で幕末の政争をただ眺めているしかなかったが、西洋事情に興味を持ち、勉強したらしい。

当時の宮中において孝明天皇は頑迷な攘夷論者であり、その天皇に対して意見できる影響力を有していたのは中川宮であった。

そして彼も、同様に強硬な攘夷論者であった、

そんな時、密かに開国策へ転換していた薩摩藩にとって、

皇族でありながら西洋事情に明るいアキラは好都合であった。

薩摩藩では孝明天皇を説得しようにも、その手段が無かったからだ。

薩摩藩の情報将校として京都で活動していた高崎佐太郎(のちの高崎正風)が、

罰を受けて皇族身分を剥奪されているが、外国の事情に通じ、

しかも開国論者である僧侶・アキラがいるという話を聞きつけ、勧修寺を訪問。

孝明天皇説得のパイプ役として使えると判断し、島津久光に進言した。

久光は松平春嶽、伊達宗城を巻き込んで、宮中工作に乗り出した。

まず、アキラの還俗と、皇族身分の回復を働きかけ、実現させた。

1864年、宮中工作は成功し、アキラは孝明天皇の猶子となり、山階宮を賜った。

孝明天皇は実はアキラの皇族復帰には反対だったのだが、

この工作が行われていたタイミングは、蛤御門の変の直後で、

天皇は薩摩藩の意向には反対しずらい状況にあった。

蛤御門の変を受けての長州藩討伐を論じた廟議(びょうぎ)を皮切りに、

山階宮の政治活動はスタートした。

還俗した経緯から明らかなように、アキラのスタンスは開国論であった。

孝明天皇、中川宮、中山大納言という攘夷派とは意見が合わず、

溝はじわじわと広がっていった。

そんな中で、孝明天皇を激怒させる事件が発生する。

22人の公卿が参内し、長州征伐の停止と、朝政改革の実行を迫った事件だ。

いわゆる「廷臣二十二諸侯列参事件」である。

孝明天皇はこの事件を叛逆と受け止め、

22人を処分し、参内に参加していなかった山階宮にも蟄居を命じた。

アキラの背後での関与を疑ったからである。

せっかく復飾しながら、アキラは再び活動の自由を奪われてしまった。

ところがその2ヶ月後、孝明天皇が崩御した。

この死には様々な謎があるが、それは置いといて、

山階宮は蟄居を解かれた。

そして、外国事務総督という重職に任じられた。

当時、外国人に会うことに抵抗が無かった皇族は山階宮だけであったというのが抜擢の理由らしい。

アキラはロッシュやパークスと面会し、

パークス襲撃事件に際しては明治天皇の名代として頭を下げた。

明治天皇が初めてロッシュやパークスの拝謁を受けた際、

天皇の勅語を彼らに伝えたのはアキラであった。

1868年、維新後、議定・外国事務総督に就き、外国事務局督、明治政府の外交トップとなる。

その直前に発生した堺事件の後始末のため、フランス艦に謝罪に赴いている。

1886年に大勲位菊花大綬章を受ける。

1890年2月、貴族院皇族議員に就任。

1898年2月17日、83歳で薨去した。

茶の湯を嗜み、

自作の竹花入などが複数現存している。

アキラは自分の葬儀を帰依していた仏教式で行うよう遺言を残していたが、

明治維新以降の皇室の葬祭は古式に基づくもので仏教式で行うのは混乱を招くとする政府は拒絶。

このとき田中光顕宮内大臣は皇族に信教の自由はないと述べている。

王子に「菊麿王」がいる。

菊麿王は山階宮を継ぎ2代目となった。




② <ヨシコト>

ヨシコトは聖護院宮嘉言といい、

1821年に生まれの伏見宮邦家の第2王子である。

アキラより5歳年下で、明治維新の時は47歳であった。

1831年、聖護院で出家し、雄仁法親王と名乗ったが、

同年、光格天皇の猶子となり、

1832年、親王宣下を受けて、嘉言と命名された。

1868年、聖護院宮を称して還俗し、再びヨシコトと名乗る。

1868年、海軍総督等を務める。

嘉言親王の死後は、

異母弟で同じく聖護院に入っていた邦家の代13王子・サトナリが、

継嗣として2代目・聖護院宮の宮号を継承した。

サトナリは旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称した。

ヨシコト・サトナリ両親王は、共に子に恵まれず、

二人の兄弟であった元輪王寺門跡の邦家の第9王子・ヨシヒサが2代目・北白川宮家を継承した。

ヨシヒサの第一王子が竹田宮恒久王だ。

ツネヒサにより北白川宮はナルヒサ→ナガヒサ→ミチヒサ、と2018年まで続いたが、

ミチヒサの代で女児3人しか産まれず、北白川家は断絶した。


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