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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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「東久邇稔彦」(ひがしくに なるひこ)の闇


週刊文春に皇位継承問題について特集が書いてありました。

眞子さんと小室圭さんの結婚問題が、

悠仁親王に悪影響を与えているのではないか、と危惧した記事でした。

そこで語られていた有識者会議における皇位継承問題についての解説で、

私が注目する一節がありました。

その箇所が、私の危惧の全てであると言っても過言ではないでしょう。

以下がその文章です。

『有識者会議では皇位継承問題について、女系天皇を認めるか、男系の男子に養子に入っていただくかで、意見が割れている。いわゆる旧宮家といわれる家には20歳以下の男子が現在10人いらっしゃる。ただ一般国民である旧宮家の男子に皇室に入って頂くにしても、そうすんなりと話が進むかどうか懸念される』

『天皇家には菊栄親睦会という集まりがあり、旧皇室の方も参加されており、親戚づきあいされているのだから、さほど問題はないと考えている』

この文章には問題点が二つあります。

一つは、旧宮家の男子が天皇家に養子に入って、馴染めるのかどうかが問題なのではなく、

なぜ皇族以外の男系男子といえば旧宮家に限定されて議論が進んでいるのかということが一つ。

そしてもう一つが、菊栄親睦会という集まりは、2014年5月以来7年以上も開かれておらず、旧皇室と天皇家の間に、さほど強い交流があるとは思えないというところです。

そうでないと、以前は年2回も開かれていた菊栄親睦会が、

直近7年以上も開かれていないことの説明がつきません。

そういう意味で、この週刊文春の記事は、国民をミスリードしてると言わざるを得ない。

竹田恒泰が河野太郎の女系容認発言を批判したユーチューブがいまでもネットで見られるのですが、

そのときの彼の言葉が私は忘れられない。

竹田恒泰は河野太郎が「旧宮家は600年も前に天皇家と男系が別れている」といった発言を取り上げて

「なに寝ぼけたこと言ってるのか、そもそもコッチが本物で、別れたのはアッチの方なんですから」・・・と言いました。

この意味わかりますか?

「竹田宮」は1906年3月31日「北白川宮能久親王」の第1王子「北白川恒久王」が創立した宮家です。

「北白川宮能久親王」は「伏見宮邦家」の第9王子です。

つまり「竹田家初代」の「竹田宮恒久王」は「伏見宮邦家」(ふしみのみやくにいえ)の孫なのです。

要するに竹田恒泰がコッチとか、アッチといったのは、

コッチが「伏見宮家」

アッチは「天皇家」のことです。

「伏見宮家」は「祟光流」で

「天皇家」は「後光厳流」の血統を引いているのです。

二つの流派は「光厳天皇」で統合するのですが、

残念なことに「祟光天皇」は「後光厳天皇」の実兄なのです。

つまり、「伏見宮家」の方が兄ですから、「嫡流」と言えないこともないわけです。

つまり、竹田恒泰は天皇家を見下しているから、

河野太郎に伏見宮が天皇家の分家扱いされた「600年も前に別れた男系」

というフレーズがカチンと来たわけです。

私は竹田恒泰の主張が間違っているとは言いません。

ただし、日本人のほとんどが尊敬してるのは、天皇家の方です。

伏見宮が、仮に本家筋に当たろうが、

そんなことは関係ないのです。

たとえ本家でも「伏見宮」を「天皇家」同様に拝むことは、私にはできません。


旧宮家はGHQにより「皇籍離脱」させられたと主張する向きがあるが本当だろうか?

アサヒコの第9王子に東久邇稔彦という人物がいる。

邦家の孫だ。

戦後2ヶ月間だが首相を勤めた人物だ。

その東久邇宮稔彦ことナルヒコが報知新聞や毎日新聞に皇籍離脱の動機を語った記事がある。

「首相辞任後、考え抜いた末、臣下としての責任から、皇籍降下の決意を固め、数日前に勅許を仰ぐため、宮内大臣にその旨を表明した」

(1945年11月9日読売報知)

「陛下と国民との関係を、真に正しく結ぶことが、私の念願であり、これこそが、日本本来の姿だと信じている。従って、今日、宮中関係の思いきった改革が必要で、そのためには、皇族の範囲を極めて小範囲に限定すべきで、たとえば秩父宮、高松宮、三笠宮のように、陛下の御肉親のみに限定して、その他の皇族は、臣籍に降り、一国民として仕へ奉るのがよいと思う」

(1945年11月10日毎日新聞)

これらの記事からわかるように、

ナルヒコは、敗戦責任を自覚し皇室改革の必要性を述べていた。

ナルヒコの皇籍離脱は自身が考えた上での行動であったとも述べている。

そして直宮家でない宮家は全て皇室を離れるべきだと提言している。

ただナルヒコ自身は庶子であり、

他の皇族と考えが違うのだともいえる。

まずナルヒコは、在仏当時から皇籍離脱を希望していた。

帰国直後、宮家顧問の倉富勇三郎枢密院議長に次のように話している。

「自分らのように皇室との『続柄疎遠』なる者が皇族としているのは条理においても、実際においても良くない」(「倉富日記」1927年4月1日条)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ナルヒコの父「久邇宮朝彦」には、

下級公家である地下家や、

神社の神職である社家の娘が「家女房」として仕えたが、

正妻はいなかった。

1887年初頭「家女房」の一人「角田須賀子」(当時20歳)が妊娠した。

ほぼ同時に下級の侍女「寺尾宇多子」(当時22歳)をも妊娠させる。

「角田須賀子」が家女房であるのに対し

「寺尾宇多子」は側室で身分も高くない。

家女房「角田須賀子」の出産は10月2日であり。

側室「寺尾宇多子」の出産は9月下旬であった。

つまり側室の方が出産が早かった。

側室「寺尾宇多子」の子がナルヒコであり、

出産の遅かった家女房「角田須賀子」の子がヤスヒコ(朝香宮鳩彦)であった。

宮家は、先に生まれたナルヒコの方は、身分が低いことから、

ナルヒコをヤスヒコの後に生まれたことにして、

ヤスヒコは宮邸で養育され

ナルヒコは洛北の農家に里子に出された。

このような生い立ちがナルヒコに皇籍軽視の傾向を育てたようにも思える。

ただナルヒコは皇籍を貰えただけましである。

アサヒコ(久邇宮)と同じ時期、

ヨシヒサ(北白川宮)も下級侍女に子を産ませている。

ヨシヒサは下級侍女2人に各々男児を産ませる。

しかし、出生を隠し、宮家に仕える者に養育させた。

宮家は、男児たちが小学校に上がった段階でヨシヒサの実子であると出生を届け出る。

宮内省調査し認知したが、皇統譜には載せなかった。

誕生から年月を経たあとの「皇統譜」記載は「紊乱」の恐れがあるためらしい。

「紊乱」とは風紀・秩序が乱れることである。

結果として、

皇族とはせず、華族に列すると決した。

二荒ふたら芳之」(1889,3,22生)

「上野正雄」(1890,7,16生)の二人である。

ちなみに、ナルヒコ(1887,12,3生)である。

皇室典範は明治22年(1889年2月11日)に制定された法律であるため、

同じ庶子でも、

皇室典範制定前は「皇族」、

皇室典範制定後は「華族」、となる。

運で皇族になったりならなかったりするわけである。

またナルヒコは年8億円(現代換算)も貰い、

1920年から7年間もパリに滞在し、

度重なる帰国命令にも従わなかった上、

パリに隠し子のいた疑惑まである。

さらにナルヒコは帰国したあとも、

次々と愛人を作り、

子を作っている。

まあ、この辺りの事情は、森暢平のサンデー毎日の記事に詳しいので、

後程ナルヒコの解説を設けようと思う。

ただ、もうちょっと解説すると、

このナルヒコは女だけでなく、

金にもだらしない男であった。

ナルヒコが戦後、皇室用財産である「高輪南町御用邸」(東京都港区)に居座り続け、

立ち退きに絡み、1963年、京浜急行電鉄から当時の金額で4億5000万円の立ち退き料を貰っている。

さらにナルヒコは皇籍離脱後、

戦前に逮捕歴がある小原龍海という怪しげな僧侶と組んで、

新宿の闇市に「東久邇商店」という名の乾物商店を営業した。

1950年には「ひがしくに教」を開教して教祖となった。

ただ幸いなことに、この「ひがしくに教」は法務府が認めなかったらしい。

これらも、森暢平さんのサンデー毎日の記事に詳しいので、後程ちゃんと解説する。


ここから「森暢平」(もりようへい)さんの、サンデー毎日に掲載されていた記事

「社会学的皇室ウォッチング」を使わせていただきます。


皇位の女系継承を阻止するための「旧宮家養子案」が動き出した。

旧宮家にある男系男子を皇室の養子にできる皇室典範改正である。

自民党は昨年11月「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」を発足させ、検討を本格化させた。

同党は遠からず「旧宮家養子案」を軸にした結論を出す見通しだ。

だが、少し待ってほしい。

同案には甘い前提がある。

旧宮家の血を引く男系男子は全員、皇族になれるという想定だ。

この案を推進する人たちは、旧宮家皇族はすべて清廉だと考えている。

しかし、実際にはそうではない。

例えば、竹田家のある男性(竹田恒昭、竹田恒泰の従兄弟)は2015年、大麻取締法違反の疑いで逮捕され、

有罪判決を受けた。

この男性は戦後、皇籍離脱した父親(竹田恒治)を持つ。

「旧宮家養子案」では、この男性でも皇族に復帰できることになる。

宮内庁豊島岡墓地にある朝香宮家の墓地には十字架が立つ。

朝香家は戦後キリスト教信仰に切り替えたためだ。

信仰の自由があるから、もちろん容認される。

だが、仮に一般国民が受け入れがたい新興宗教にかかわる旧宮家皇族の男系男子がいたとして、

やはり皇籍に復帰できるのだろうか。

この案を推進する竹田恒泰氏は、宮家を残したいと考える既存の宮家当主が、

旧宮家の誰が相応ふさわしいかを考え、「養子に入ってもらえませんか」と依頼し、

「双方が承諾すれば(縁組は)成立する」ので、人選は自動的に決まると説明する

(『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』ビジネス社、21年)。

復帰にあたっては、国民も国会も関与しないというのだ。

竹田氏の案でも「皇室会議の議」を経ることにはなっている。

だが、形式にすぎない。

実質的には既存宮家(常陸宮家、三笠宮家、高円宮家)が「品格」審査の主体となる。

果たしてそれでいいのか。国民に受け入れられない過去を持つ人物が皇室に入るリスクはないのか――。

養子となる旧宮家にある人物の品格を誰が判断すべきかという難問――品格審査問題――は、

これまでの議論でおざなりにされてきた。

「旧宮家」が抽象的な記号として論じられてきたためだ。

しかし、旧宮家の子孫には派手な女性関係で世間をにぎわせる者、

参院選に立候補して惨敗した者、詐欺事件に絡み警察から事情を聴かれる者さえいた。

記号から、具体的な人物検討に進めば、事態は変わる。

小室圭さんに対するネットや週刊誌でのバッシングと同様なあら探しが始まる可能性もあるのだ。

旧宮家皇族たちは戦後、決してクリーンな生活を送っていたわけではない。

その証左として、今回は、東久邇稔彦ひがしくになるひこ(1887~1990年)を取り上げる。

敗戦直後の首相として教科書にも載る名高い人物である。

「稔彦」(なるひこ)が戦後、皇室用財産である「高輪南町御用邸」(東京都港区)

に居座り続けたスキャンダルはほとんど知られていない。

立ち退きに絡み、稔彦は1963年、京浜急行電鉄(京急)から4億5000万円を手にした。

当時の大卒初任給は2万円前後で、現在は20万円程度であることを参考にすれば、価値は約10倍。

つまり「45億円」の大金を「濡れ手にあわ」で手に入れたのだ。

リニア中央新幹線の始発駅となるJR品川駅西口(高輪口)の約2万3600平方㍍の広大な土地では現在、

地上29階建ての超高層ビル建設が進む。

土地を所有する京急がトヨタ自動車と共同で2026年度の完成を目指す。

トヨタの首都圏の拠点となると予想され、ホテル、商業施設も入る予定だ。

山手線の内側にこれだけ大規模な再開発ができる場所はあまりない。

それには、この場所に東久邇一家が戦後19年間、住み続けた事情がある。

「稔彦」(なるひこ)は戦前、

麻布御殿(現在の港区六本木1丁目、アークヒルズ仙石山森タワーのある一角)に住んだが、

1945年4月、空襲で焼け出される。

そこで当時、皇族共用殿邸として利用されていた高輪南町御用邸に転居した。

「稔彦」(なるひこ)は私的な不動産を所有しなかった。

麻布御殿に宮邸を建てるための資金50万円(現在価値で20億円)を別の用途に使ってしまったとされる。妻子を残してパリに行き7年間も帰国しない過去もあった。

そうした経緯から麻布御殿は下賜されなかったのだ。

そして47年10月の皇籍離脱。

住む根拠がない高輪南町御用邸を引き渡さず、妻聡子としこ(明治天皇の皇女)とともに住み続けた。

「稔彦」(なるひこ)は皇籍離脱後、

戦前に逮捕歴がある「小原龍海」という怪しげな僧侶と組んで、

新宿の闇市に「東久邇商店」という名の乾物商店を営業した。

50年には「ひがしくに教」を開教して教祖となった。

宗教法人なら税金がかからないという発想だった。

しかし「稔彦」(なるひこ)が旧軍人であった過去から「ひがしくに教」は法務府が認めなかった。

「東久邇宮家」は戦前の使用人をそのまま使い続けたため、カネが必要だったのである。

メディア受けする破天荒な行動で、社会の注目を浴びるのが「稔彦」(なるひこ)の手法だった。

1949年8月には、国を相手取った1回目の訴訟を起こす。

「麻布御殿は自分の土地である」との主張であった。

この訴訟は、のち吉田茂内閣の副首相となる緒方竹虎の仲介で1年後に取り下げとなる。

旧麻布御殿のうち1万平方㍍余を「縁故者払下はらいさげ」という名目で稔彦に売却するように緒方が大蔵省に働きかけたためだ。

実際、稔彦は1950年11月、426万円でこの土地を手に入れ、長野県諏訪市のバルブ会社に転売した。

通常の感覚の持ち主であったら、この利益で土地を別に求め、高輪南町御用邸は返却したであろう。

ところが、稔彦は続いて、高輪南町も「宮内庁から下賜された」と主張し始める。

仮に住まわせてもらっているのに、

敗戦直後「松平慶民」(よしたみ)宮内大臣から

「いずれ下賜する」と伝えられたと強弁したのである。

一方、品川を始発駅とする京急もまた51年ごろから、高輪南町御用邸の土地払下げを目指した。

隣接する旧竹田宮邸が西武鉄道に買収され、

京急の本拠地、品川を防衛する拠点にしたい意図があった。

その後、岩戸景気の時代に入り、日本は飛躍的な経済発展を開始する。

東久邇家が「不法」に住む土地は、品川駅前の一等地にあり、

経済的な潜在性が大きな注目を浴びる。

京急は修学旅行用の旅館をつくると言っていたが1959年、高輪球場計画で仕掛けた。

東映フライヤーズなどを誘致する考えだった。

京急の動きに「稔彦」(なるひこ)は反発した。

手を組んだのが「堀口秀真」という人物である。

1956年に発覚した第一相互銀行事件に絡み、

不正融資で有罪となった土地ブローカーであった。

「稔彦」(なるひこ)は、こうした危うい人物に利用される世間知らずの面があり、

カネと女性で籠絡ろうらくされた。

堀口が設立した東亜開発は1961年6月、高輪南町御用邸の一部を借り受ける賃貸借契約を稔彦と結ぶ。

皇室用財産について「稔彦」(なるひこ)が契約できるはずもないが、

留学生会館をつくるという名目だった。

東亜開発は1961年8月、御用邸内の建物の一部の取り壊しを開始。

驚いた宮内庁が工事を止めさせた。

しかし、堀口は「稔彦」(なるひこ)をけしかけ1962年6月、

高輪南町御用邸の所有権確認の訴訟を起こさせる。

国を相手にした2回目の訴訟だった。

ここで稔彦の破天荒な行動で状況はさらに複雑になる。

労働4団体系の財団法人・中央労働福祉センター(以下、労福センター)と連携する動きを見せるのだ。

当時、総評、同盟などが共同で労福センターという組織をつくり、

結婚式などを行える会館の場所を探していた。

目を付けたのが高輪南町御用邸のある土地だった。

1962年6月、稔彦は労福センターの名誉総裁に就任し、月20万円で顧問契約を結ぶ。

旧皇族と革新団体の結び付きに違和感を覚えるかもしれないが、

「稔彦」(なるひこ)は大阪府知事選で社共統一候補を支援した過去もあり、

政治的にはリベラルなスタンスをとった。

「稔彦」が、土地ブローカーと革新団体の二股を掛けることによって、

争いは京急、東亜開発、労福センターの三つどもえとなる。

ここに介入したのが右翼の大物「児玉誉士夫」(よしお)と大蔵大臣「田中角栄」であった。

土地を京急に取得させることを軸に、東亜開発、労福センターにも利となる解決を図る。

まず、東亜開発の全株式を京急が買い取る名目で、

京急から東亜開発に1億4360万円が渡った。

さらに、労福センターには、文京区湯島の国有地(旧岩崎邸)が入手できるように便宜が図られた

(のちの池之端文化センター)。

「稔彦」(なるひこ)は1963年10月、田中角栄蔵相宛てに次のような承諾書をしたためた。


一 港区芝高輪南町所在宮内庁所管土地内、私、住居を目黒区上目黒一丁目百二十六番地所在家屋(大蔵大臣御指定)に移転すること。

二 現在東京地裁に係属中の私、国間の前記宮内庁所管土地内の所有権確認に関する訴訟を取り下げること。

大蔵大臣よりお申し越しのとおり右事項を異議なく承諾いたします。

昭和三十八年十月二十三日

東京都港区芝高輪南町十七

東久邇稔彦


「稔彦」(なるひこ)はこの日から翌年9月までに京急から4億5000万円を受け取り、訴訟を取り下げた。

承諾書のとおり、目黒区の家屋(京急所有)に転居し、

1990年に102歳で亡くなるまで住み続ける。

月50万円の生活費も京急が提供し続けた。

巨額の立ち退き料は、数年後、国会で問題となった。

ブローカーにつながる闇の人物たちが、資料を野党議員に提供し追及させたのである。

田中角栄との承諾書の内容を私たちが知ることができるのも、そのためだ。

国会審議では「稔彦」(なるひこ)への資金提供について亀徳きとく正之国税庁長官が、

京急の建設仮勘定に計上されていると答弁した(参院決算委員会68年11月29日)。

巨額の立ち退き料は国税当局も把握した事実であった。

ところが新聞メディアは報じなかった。

旧皇族には、庶民と近しい生活を送るイメージがあり、稔彦もその一人だったためだ。

「(稔彦は)シヤツから靴下までつぎはぎだらけで私達にもまねが出来ない」

(『九州タイムズ』1946年9月2日)

と平民イメージが浸透していた稔彦をメディアは悪役にしにくかった。

国有地に居座ったあげく、巨額の立ち退き料を受け取った「稔彦」(なるひこ)はいわば、

ダーティ・ロイヤル(汚れた皇族)である。

もちろん、スキャンダルは60年も前の過去の出来事だ。

しかし、旧皇族が決して清廉潔白の生活を送っていたわけではない事情をよく示すだろう。

「稔彦」(なるひこ)は、戦前にはもらえた皇族歳費を補うために近づく者たちを利用し、

利用され、蓄財を図った。

「稔彦」の血を引く若き男系男子は複数いる。

危ういカネで富を増やした東久邇家の子孫たちは、そのカネで教育を受け、今も資産を維持する。

そうした旧宮家出身の人物が皇籍に復帰する際、厳しい目を向けられないと誰が断言できよう。

品格審査も十分にされないまま、皇位に相応しくない人物が皇室に入る可能性がある。

皇統と男系で血統がつながってさえいれば、

天皇家と同じY染色体を持ってさえいれば、

無条件に皇籍復帰が可能であるとする発想が、

本当に国民の理解を得られるだろうか。


(成城大教授 森暢平)


 本稿を書くにあたり、「高輪南町御用邸争訟事件関係書綴」第一、第二分冊(宮内庁宮内公文書館所蔵)などを参照した。


1947年10月、皇室経費縮小などのため、伏見、山階、久邇、賀陽かや、梨本、朝香、東久邇、北白川、竹田、閑院、東伏見の11宮家にあった51人が皇室を離れた。

このうち、久邇、賀陽、東久邇、竹田の4家に若い世代の男系男子が10人いるとされる。

皇位継承の有識者会議は21年12月、

①女性皇族が結婚後も皇室に残る案②旧宮家の男子の養子を可能にする案の2案を軸に報告をまとめた。


旧竹田宮邸、旧北白川宮邸(ともに現在はプリンスホテル)と隣接するが、

宮家私有の両邸と異なり宮内省の御用地だった。

東久邇家が立ち退いた後、皇室用財産が解除され、京急が取得する

(一部は国有地として残り、現在は港区の公園や税務署として使われる)。

1971年ホテルパシフィック東京が開業のちシナガワグース

同施設は2021年に営業を終えた。

なお、高輪南町御用邸について、

「稔彦」(なるひこ)が所有権移転登記を怠ったためのトラブルだと書く文献があるが間違いだ。

同御用邸は、戦後一貫して皇室用財産であり「稔彦」(なるひこ)所有になったことはない。



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