「皇統譜」と「東久邇稔彦」(ひがしくに なるひこ)
幕末から明治初期にかけて「伏見宮邦家」(ふしみのみやくにいえ)の子や孫ばかりに
「一代宮家」としてたくさんの新宮家が創設されました。
そして創設された「伏見宮系一代宮家」が、
その後、なし崩し的に、全て二代目、三代目へと世襲されました。
そして世襲された宮家から、多くの「皇族軍人」が生まれました。
しかし、敗戦時、誰も昭和天皇に代わって、敗戦の責任を取ろうとしたものはいませんでした。
さて、旧宮家といわれる伏見宮系11宮家ですが、
「伏見宮家」と「天皇家」の系譜は「崇光天皇」の孫の
「伏見宮貞成」(ふしみのみやさだふさ)で統合します。
長男の「伏見宮彦仁」(ふしみのみやひこひと)は「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)へ「猶子」に出され
「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)となり即位しました。
ここで、私が疑問に思うのは「皇統符」(こうとうふ)では、
「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)の父は
「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)ということになっているのではないかということです。
少なくとも『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく)には
「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)は「後小松天皇」(ごこまつてんのう)の
皇子として記載されています。
「皇統譜」(こうとうふ)とは、天皇および皇族の身分に関する事項を記載する帳簿のことで、
形式等は、皇室典範および皇統譜令(昭和22年政令第1号)に定められています。
天皇・皇后に関する事項を扱う「大統譜」(たいとうふ)、
その他の皇族に関する事項を扱う「皇族譜」(こうぞくふ)の2種があり、
皇室の身分関係(家族関係)、
そして、皇統を「公証」しております。
竹田恒泰氏などは「皇統」に属するには「皇統譜」に記載され、
血統が「公証」されることが重要だという。
竹田氏は、旧宮家は「どこぞの『御落胤』とは訳が違います」
と胸を張っているわけです。
なお、皇統とは、皇位継承が代々なされてきた系統のことで、
いずれの天皇・皇族(臣籍や民間から入内した后妃を除く)も、
系,図の上で父系(男系)を辿れば、
初代天皇である「神武天皇」へ必ず辿り着くという代物です。
さて「後花園天皇」の「血統」上の父は「伏見宮貞成」(ふしみのみやさだふさ)かもしれないが、
恐らく「後花園天皇」の「皇統譜」上の父は「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)となっているのだろう。
だとしたら「後花園天皇」の父は「血統」上も「後小松上皇」でいいのではなかろうか・・・
ちょっと待ってください、あなたの言いたいことはよくわかります。
私の言ったことが支離滅裂だろ、と突っ込みたくなることもよくわかります。
が、しかし、天皇とは神聖なものでして、2,680年もの間、崇め奉られる存在であったわけです。
ゆえに、歴代天皇の事項を記載してある「皇統譜」(こうとうふ)は、
皇室ファンには、何よりも優先されるべき資料なのであります。
こと皇族の血統血縁に関しては「皇統譜」(こうとうふ)の記述こそが「全て」なのであります。
「神武天皇」の遺伝子は2,680年もの間、万世一系で受け継がれてきている。
・・・という、誠にもって信じがたい物語を、
日本の伝統だとして揺るがせにしない人々が「旧宮家による男系維持」を唱えている昨今、
そんな人達に「現代の常識」を語ったって、
受け入れられるはずがないのです。
彼らにとって、皇統関係で信頼できる資料は「皇統譜」だけなのです。
皇族の血統血縁は「皇統譜」にしか真実はないのです。
逆に、いったい「皇統譜」以外の何が、信じるに足る資料だと言えるのでしょうか。
彼らには、歴史的な資料も「皇統譜」の前では、霞んで見えるに違いないのです。
どんな歴史書も「皇統譜」と矛盾する記述があれば、無意識で偽書認定してしまうのです。
「後花園天皇」は「伏見宮貞成」(ふしみのみやさだふさ)を「傍親」だと勅しています。
「傍親」とは兄弟関係のもの、及びその子孫をいい、
父の兄弟・祖父の兄弟と、その子孫などのことである。
つまり叔父、叔母、甥、姪などが「傍親」に当たるのです。
家系からいうと、この本親・傍親が、直系・傍系の分かれ目になり、本家・分家の関係が生じるのです。
①「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)は「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)と
「日野西資子」(ひのにしすけこ)の「猶子」として即位すると、
実父である「伏見宮貞成親王」(ふしみのみやさだふさおう)の「尊号宣下」の際、
「貞成」(さだふさ)を「傍親」(ぼうしん)とする「詔書」(しょうしょ)を
「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)自ら採用した。
※「詔書」(しょうしょ)とは天皇が発する公文書のこと。
②「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)の葬礼で
「後花園天皇」は父に対する「諒闇」(りょうあん)を行い
「光範門院」(こうはんもんいん)(日野西資子)の際も母に対する「諒闇」(りょうあん)を実施しているが
「貞成親王」(さだふさしんのう)の際には「傍親」に対するものとして葬礼を行い
「庭田幸子」(にわたゆきこ)に対しては「諒闇」(りょうあん)を行わなかった。
※「諒闇」(りょうあん)とは天皇の服する喪のうち、もっとも重いもの。期間一年。本来天皇の父母に対して行なわれるものである。
③「崇光院流皇統」(すこういんりゅうこうとう)の楽器である琵琶(持明院統の正嫡のみが習得する)
ではなく「後光厳院流皇統」(ごこうごんいんりゅうこうとう)の楽器である「笙」(しょう)と「箏」(こと)
を習得した。
④『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく)に「後小松天皇」(ごこまつてんのう)の皇子
として記載されている。
※「本朝皇胤紹運録」(ほんちょうこういんじょううんろく)とは、天皇・皇族の系図で、皇室系図の代表的存在であり『皇統譜』成立以前の一般的な歴代天皇代数はこれに基づいている。
「歴代天皇」を「諡号」または「院号」とともに中心に据え「代数」「生母」「諱」「在位年数」や
「立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日」「御陵」などの事項を列記する。応永33年(1426年)に成立。
⑤「後光厳院流皇統」(ごこうごんいんりゅうこうとう)の葬儀場である「泉涌寺」(せんにゅうじ)が使用された。
もし「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)が「皇統譜」よりも「リアル」を重視するならば、
実父「貞成」(さだふさ)を「傍親」(ぼうしん)とは扱わないだろう。
実母「庭田幸子」(にわたゆきこ)に「諒闇」(りょうあん)を執り行うだろう。
つまり彼にとって「皇統譜」(こうとうふ)にある記述こそが「真実」なのです。
現代において、
天皇および皇族の身分関係に関する事項は「皇統譜令」に基づく「皇統譜」に記載される。よって、天皇及び皇族は「戸籍法」の適用を受けない。
つまり皇族というものを語るとき、
我々は「皇統譜」(こうとうふ)に沿って語らなければいけないのです。
つまり、
皇族に関しては生物学的な見地は捨てないといけないのです。
「血統論」は「皇統譜」をベースに語らねばならないのです。
「皇統譜」に父子だと記載していれば、
他の資料が違うことを記載していても「皇統譜」が真実なのです。
「皇統譜」上の父子はリアルでも父子と扱わねばならないのです。
何故なら「皇統譜」こそが真実だからです。
現代において、皇族は遺伝子検査なんか受けません。
これは筋が通っているのです。
何故なら「検査」より「皇統譜」の方が正しいからです。
最近、秋篠宮バッシングが酷いですが、
遺伝子検査なんかする必要は全くないのです。
しない理由は「皇統譜」に記載してあるのが真実だから、検査する必要性がないからです。
そしてそれこそが「日本の伝統」なんです。
ゆえに「伏見宮彦仁」が「後小松上皇」の「猶子」になり、
「皇統譜」にそう記載されれば、
血統も系図も「祟光流」から「後光厳流」に変わらないといけないのです。
皇統が男系男子によって継承されるのは、
日本古来の伝統ですから、
女系継承は認められないといっている人たちは、
伝統を重んじるなら、
皇統譜が「後小松天皇」と「後花園天皇」の関係は父子、と記してるなら、
「後花園天皇」のy遺伝子も「後小松天皇」のものだと受け入れていいのです。
ゆえに、ここで私のいってることが、おかしいと思う人は、保守じゃないのです。
日本の伝統を壊す売国奴なのです。
では、皇統譜だけを信じる、伝統を重んじる人達が、
なんで天皇系図を書き換えろと主張しないのでしょうか?
第100代「後小松天皇」の下に、
第101代「称光天皇」と第102代「後花園天皇」が、
並列に並ぶべきだと主張するのが筋です。
そうすれば「伏見宮家」と「天皇家」は「光厳天皇」まで交わらなくなってスッキリします。
「伏見宮家」と「天皇家」の共通の祖は「光厳天皇」だと、主張せねばいけません。
と、まあ、妄想はこれくらいにして、
今、現在「常識」で語られてる系図をベースに話を進めます。
取り敢えず「伏見宮邦家」(ふしみのみやくにいえ)は北朝第三代「崇光天皇」の14世孫にあたります。
現在の「東久邇家」(ひがしくにけ)は「東久邇稔彦」(ひがしくになるひこ)が1906年に立てた宮家ですが、
「東久邇稔彦」(ひがしくになるひこ)は「伏見宮邦家」(ふしみのみやくにいえ)の「孫」であります。
つまり「崇光天皇」(すこうてんのう)16世孫であります。
現在の「東久邇家」(ひがしくにけ)ですが「東久邇稔彦」(ひがしくになるひこ)さんの後、
「東久邇盛厚」(ひがしくに もりひろ)さん(1916年~1969年)
「東久邇信彦」(ひがしくに のぶひこ)さん(1945年- 2019年)
「東久邇征彦」(ひがしくに まさひこ)さん(1973年~)
と3世代、代替わりしておりますが、
「東久邇征彦」(ひがしくにまさひこ)さんは「崇光天皇」(すこうてんのう)19世孫であります。
「東久邇征彦」(ひがしくにまさひこ)さんは「今上天皇」と何親等離れているか・・・
まあ普通に「伏見宮貞成」(ふしみのみやさだふさ)を共通の祖とすれば、
行って帰って37親等だと思うのですが、
もしも、もしもですよ、「後花園天皇」を「後光厳流」だとして系図を書くとどうなるか・・・
▪光厳天皇―後光厳天皇―後円融天皇-後小松天皇―後花園天皇-後土御門天皇-後柏原天皇-後奈良天皇-正親町天皇-誠仁親王-後水尾天皇-霊元天皇-東山天皇-閑院宮直仁親王-典仁親王-光格天皇-仁孝天皇-孝明天皇-明治天皇-大正天皇-昭和天皇-上皇陛下―今上天皇。
▪光厳天皇―祟光天皇―伏見宮栄仁―伏見宮貞成親王-貞常親王-邦高親王-貞敦親王-邦輔親王-邦房親王-貞清親王-貞致親王-邦永親王-貞建親王-邦頼親王-貞敬親王-邦家親王-久邇宮朝彦―東久邇宮稔彦―東久邇盛厚さん―東久邇信彦さん―東久邇征彦さん。
「光厳天皇」(こうごんてんのう)が二つの系統の共通の祖となり、行って帰って、42親等です。
「東久邇征彦」(ひがしくにまさひこ)さんが皇位継承すれば、
普通一般的には37親等になりますが、
「後花園天皇」を「皇統譜」の通り(たぶん)「後小松天皇」の子として数えると42親等になります。
まあ、この比較では、どっちでも大差はありませんが、
こういうことを、しっかり認識して「東久邇家」からの養子を提案している人は、
果たしてその皇位継承が、正当であるか、どうか、正しく説明する責任があると思います。
そして、私が、ここで「伏見宮家」の比較対象として比べてみたいのが「皇別摂家」です。
たとえば「近衛家」や「大徳寺家」です。
戦後自殺した元首相「近衛文麿」は107代「後陽成天皇」12世孫です。
彼には直系男子も2人いましたが、どちらも亡くなられて、直系男子は絶えてしまいましたが、
近衛家の男系血統は実父「近衛篤麿」の次男「近衛秀麿」の男系が続いているようである。
「近衛家」は「後陽成天皇」の第四皇子「四宮」が「近衛信尹」(このえのぶただ)の養子となり、
近衛家19代目当主となり、これにより近衞家は「皇別摂家」となりました。
「近衛文麿」は第三十代当主で、25親等で今上天皇に男系で繋がってました。
▪後陽成天皇―近衛信尋―尚嗣―基熈―家熈―家久―内前―経熈―基前―忠煕―忠房―篤麿―文麿。
▪後陽成天皇―後水尾天皇―霊厳天皇―東山天皇―直仁親王―典仁親王―光格天皇―仁孝天皇―孝明天皇―明治天皇―大正天皇―昭和天皇―明仁上皇―今上天皇。
もっと血統が近いのが「東山天皇流」の「皇別摂家」です。
「鷹司流」の「大徳寺」さんの家系を参考に書いてみますと、
▪東山天皇―閑院宮直仁親王-典仁親王-光格天皇-仁孝天皇-孝明天皇-明治天皇-大正天皇-昭和天皇-上皇陛下―今上天皇陛下。
▪東山天皇―閑院宮直仁親王-鷹司輔平-政煕-政通-徳大寺公純-実則-公弘-実篤-公英-実啓さん。
「閑院宮直仁親王」で二つの系譜が統合されるので、18親等です。
このように、皇別摂家で、男系男子を探すと、
旧宮家の男系男子よりも圧倒的に今上天皇に近い男系男子が見つかるのです。
何故、男系主義者は、こちらの男系男子から皇位継承者を探そうとしないのか本当に不思議です。
明治時代、たぶん「伊藤博文」は「伏見宮邦家」の子や孫ばかりに「一代宮家」として13宮家を与えた。
皆さん、この辺りの事情について、よくわからないと思います。
そもそも「宮家」と言うものは、やたらと作っていいものではないのです。
日本の長い歴史上、歴代35宮家しかないのですから。
しかし、そのうち16宮家が明治維新前後に創設されたのです。
そして、そのうち13宮家が「伏見宮邦家」の子か孫が初代です。
私は伝統を重んじる人達が、
こんな伝統を破壊する行為をしてはいけなかったと思うのです。
なぜ、現代の右翼は、この事を批判しないのが不思議でなりません。
現代、旧宮家の男子に皇籍取得させたがる保守層は、
旧宮家こそ伝統を破壊してきた一族だと、もっと怒らないといけないと思います。
そして旧宮家批判をするのに、
ありがたいことに、ビックリするような旧宮家の元皇族のスキャンダルが、
森暢平さんによって、サンデー毎日に出てるので、この先は、
それを使わさせてもらう事にしました。
▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪
皇位継承に関する有識者会議の報告書(2021年12月)では「皇統」に属する男系の男子に限定し、
既存宮家との養子縁組を可能にする案が提言された。
その「皇統」とはどの範囲か。
報告書は1947(昭和22)年に皇籍離脱した、いわゆる11宮家が対象になるとの考えを示す。
過去の天皇から出た男系子孫はほかにもいる。
例えば、光格天皇の叔父にあたる「淳宮」(あつのみや)は幼い時、
鷹司家の養子となり「輔平」(すけひら)(1739―1813年)となった。
現在、その系統には多くの男系男子がいる。
しかし「旧宮家養子案」支持派は、
こうした傍系を「皇統」に属するとは認めない。
竹田恒泰氏は「皇統」に属するには「皇統譜」に記載され、
血統が公証されることが重要だという。
竹田氏は、旧宮家は「どこぞの『御落胤』とは訳が違います」と胸を張る
(『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』ビジネス社、2021年)。
しかし、戦前皇室は、正妻以外の子(庶出子)の扱いをめぐり揺れ動いた。
「皇統」はその範囲が曖昧な概念である。
それを検討するために、
今回も「東久邇宮稔彦」(ひがしくにのみやなるひこ)を題材にしよう。
「久邇宮家」(くにのみやけ)に生まれた「稔彦」(なるひこ)は、
公式には1887(明治20)年12月3日に生まれたことになっている。
しかし、同7日に届け出られた際、
皇室のしきたりでは生後7日目に命名されるはずの名前がすでに付いていた。
当時京都にあった久邇宮家は、宮内省に対し、
官報に公示せず、新聞にも知らせるなと要請する
(「皇族録」)。
出生は世間に隠された。
それ以上の秘密は、
実際の誕生が9月だった事実である。
父「久邇宮朝彦」(くにのみやあさひこ)には、
下級公家である「地下家」(じげけ)や、
神社の神職である社家の娘が「家女房」、
つまりは側室として仕えたが「正妻」はいなかった。
87年初頭「家女房」の一人「角田須賀子」(当時20歳)が妊娠した。
「朝彦」(あさひこ)はほぼ同時に、下級の侍女「寺尾宇多子」(当時22歳)を妊娠させる。
「須賀子」が「地下家」出身であるのに対し
「宇多子」は京都郊外、園部町(現南丹市)の士族の女性である。
宮家出仕の身分としては高くない。
「宇多子」の出産は9月下旬「須賀子」の出産は10月2日であった。
前者の子が「稔彦」(なるひこ)、
後者の子がのち「朝香宮鳩彦」(あさかのみややすひこ)となる男児である。
宮家は、身分上の「懸隔」(けんかく)から、
先に生まれた「稔彦」(なるひこ)を、
「鳩彦」(やすひこ)の後に生まれたことにしてしまう。
そして「鳩彦」(やすひこ)は宮邸で養育されるが、
「稔彦」(なるひこ)は洛北の農家に里子に出される。
「朝彦」(あさひこ)が「家女房」以外を「お手付き」にするのは初めてではない。
74年にも「原田光枝」という奈良の小さな神社出身の娘に男児を産ませた。
「光枝」は奈良の実家に戻されての出産だった。
のちの「梨本宮守正」(なしもとのみやもりまさ)である。
明治中期、社会の仕組みを西洋に合わせる必要が生まれ、
妾を持つ習俗もやめるべきだとの観念が生まれる。
旧公家たちも大っぴらに妾を持てないようになる。
華族の「家族の近代化」であり、皇室もその影響を受けた。
「朝彦」(あさひこ)と同じ時期「下級侍女」に子を産ませた皇族に「北白川宮能久」(よしひさ)がいる。
「能久」は89~90年「下級侍女」2人に男児を産ませる。
しかし、出生を隠し、宮家に仕える者に養育させた。
宮家は、男児たちが小学校に上がった段階で「能久」(よしひさ)の実子であると、
初めて出生を届け出て、宮内省は対応に苦慮する。
誕生から年月を経たあとの「皇統譜」記載は「皇統紊乱」のおそれがあるためだ。
結果として、皇族とはせず、華族(伯爵)に列すると決した。
2人は、二荒芳之、上野正雄となった。
「稔彦」(なるひこ)と「二荒」(ふたら)「上野」の生まれは2~3年の差しかない。
その間の相違は皇室典範の、あるなしである。
典範は、側室の子を皇族にできる規定は置く一方、西洋的な価値観を基にした。
皇族には、一夫一婦の倫理に反する行為を慎む努力が求められた。
だからこそ、侍女に産ませた子は隠される必要があったのだ。
「稔彦」(なるひこ)も少し遅く生まれていたら、
皇族として届けられなかった可能性がある。
「皇統」に属するか「御落胤」となるか、運命は紙一重だった。
そもそも、父の「朝彦」の出自も曖昧である。
はじめは「伏見宮貞敬」(ふしみのみやさだよし)の子とされていた。
しかし、典範制定直後の89年11月「貞敬」(さだよし)の子「邦家」(くにいえ)の子であると、
訂正がなされた(「皇族録」)。
「邦家」(くにいえ)は結婚していなかったため、父親の子としていたのだろう。
「朝彦」が出自を正したかったのは、
先々代の子では、西洋的なルールを取り入れた継承順位が17位と最下位近くになるためだ。
父親を正すことで、順位は10位に上昇した。
明治初期まで、宮家の子どもの管理は宮家任せであり、
悪く言えばいい加減であった。
「皇統」が厳格に管理されたとは言えない。
皇族の一夫一婦化を目指す宮内省は1902年「皇室誕生令」を制定した。
その第7条には「皇族の子の誕生には宮内高等官を遣し産所に候せしむ」と明記された。
宮内省高官が出産を見届けない限り、
皇族とは認めない規定である。
以後、庶出子は皇室から排除される。
「稔彦」(なるひこ)は「久邇」6兄弟の末子扱いとされ、皇籍離脱の対象であった。
しかし、1906年11月、19歳で「東久邇宮」の宮号を賜る。
明治天皇には4人の皇女がおり、
その婚姻相手候補として「稔彦」(なるひこ)が皇室に残る選択がなされた。
結婚相手は「聡子」(としこ)内親王で、結婚は1915(大正4)年5月。
夫婦は5年間で3人の男児をなした。だが、稔彦は20年4月、
フランス陸軍大学で学ぶためにパリに旅立つ。
そして7年間、日本に帰らなかった。
陸大卒業までは予定どおりだったが、その後、気ままに絵を描くなどの生活を送る。
社交界で上流階級のマナーを学ぶこともなかった。
外国滞在費として年額20万円(現在価値で8億円)をもらいながらのお気軽な生活である。
最終的には、大正天皇の逝去をきっかけに27年1月にようやく帰国した。
稔彦は、在仏当時から皇籍離脱を希望する。
帰国直後、宮家顧問の倉富勇三郎枢密院議長に次のように話した。
「自分らのように皇室との『続柄疎遠』なる者が皇族としているのは条理においても、実際においても良くない」(「倉富日記」27年4月1日条)
「続柄疎遠」とは「稔彦」(なるひこ)らが属する伏見宮系が、
天皇本流から室町時代に分かれた事実を指す。
「稔彦」(なるひこ)自身、
「皇統」の薄さを自覚するのだ。
最終的には周囲が説得し、離脱の意思は撤回される。
しかし、パリに居座った稔彦に、
皇室の藩屏として天皇を守る意識があったのかという疑問は残る。
同様に問題になったのは、現地妻と隠し子の疑いである。
戸籍上の兄「鳩彦」(やすひこ)は同時期にパリにいたが、
「稔彦」(なるひこ)が家を借りる際の行動から「懇親なる婦人」の存在を察知した
(「倉富日記」1926年3月15日条)。
疑惑は、フランスに随従した属官、池田亀雄の結婚でも深まる。
独身だった池田は滞仏中の1926年秋、現地の女性と結婚した。
女性は28年2月、乳児(性別不明)を連れて来日する。
宮内省幹部は、この母子が、稔彦の現地妻と隠し子ではないかと疑った。
たしかに、フランス語を勉強したとは思えない下級属官が現地で外国人妻をつくるのは不自然である。
名目上、池田の妻として来日させたと考えてもおかしくない。
ただ、母子は30年初頭、パリに帰ってしまい、真相は分からない。
「稔彦」(なるひこ)は帰国早々、ほかにも愛人をつくる。
侍女の一人を「お手付き」とした。
侍女は福井県出身であり、名前は分からない。
他の侍女との折り合いも悪くなり、郷里に戻された。
しかし、28年11月に昭和天皇即位の大礼が京都で行われる際、
「稔彦」(なるひこ)は、元侍女を福井から呼び寄せ、一緒の時を過ごした。
(「倉富日記」31年2月27日条)
「稔彦」(なるひこ)は30年8月から名古屋にある歩兵第五旅団の旅団長となり、単身で赴任する。
これを機に、元侍女を呼び寄せ、身の回りの世話をさせた。
32年12月、参謀本部付となり帰京する「稔彦」(なるひこ)は、
元侍女に一緒に東京に来るよう伝えた。
だが、元侍女は「東京に行きては妃殿下に対し、相済まさることなる故、御暇を願い度」と申し出て、再び、福井に帰ったという。
(「倉富日記」33年2月5日条)
その後の別の愛人の存在も分かっている。
『高松宮日記』(36年1月8日条)には、
「ある皇族」が新橋芸者に「胤を宿し」たと記される。
「稔彦」(なるひこ)のことである。
芸者は、「秀菊」という源氏名を持ち「稔彦」(なるひこ)との間に、
喜久子(1936年生)、英雄(1940年生)、和子(1944年生)の3人の子をなした。
(河原敏明「皇族・東久邇稔彦97歳の破天荒人生」『現代』1985年1月号)
「秀菊」との関係は戦後まで長く続いた。
「稔彦」(なるひこ)は多摩川沿いに家を用意し、週に何日かはこの別宅で過ごした。
戦後の宮内庁長官、田島道治が記した『拝謁記』には、
「(稔彦の)内妻関係の事が新聞に出ると又云々(うんぬん)と(昭和天皇が)一寸仰せになる」(1950年8月10日条)、
「玉川の女の手を切られ、その金も小原(龍海)立替の様子」(同年10月13日条)、
「隠れた御子供さんも中々六ケ(むずか)しいやうであります」(昭和26年12月13日条)と出てくる。
前回も登場した「小原龍海」は「稔彦」(なるひこ)のそばで金儲けを図った人物である。
「稔彦」(なるひこ)は「秀菊」を身請けする費用だけでなく、手切れ金まで小原に払わせた。
1950年ごろ、その手切れ金で、稔彦は「秀菊」との関係を清算した。
「秀菊」の次女らを直接取材した「河原敏明」によれば、子どもたちは認知されたという。
戦後、新しい皇室典範ができ、本妻以外の子(庶出子)には、継承権が与えられない規定ができた。
皇族となれるのは「嫡男系嫡出の子孫」だけである(第6条)。
ただし、問題があった。
新典範が施行される時点で、梨本宮守正(73)、東久邇宮稔彦(59)、朝香宮鳩彦(59)、
の3人の庶出皇族がいた事情だ。
皇室を一斉離脱することは決まっていたが、
一時金支給が問題となり、離脱は10月にずれ込む。
そこで、伏見宮系の皇族も新典範のもとで暫時、皇室に留める必要が出た。
そこで附則第2条がつくられた。
「現在の皇族は、この法律による皇族とし、第6条の規定の適用については、これを嫡男系嫡出の者とする」と規定された。
稔彦らは過渡期的条項で、嫡出とみなされたのだ。
明治中期まで、庶出子でも自己申告で皇族になることはできた。
だが、その後、一夫一婦を目指す社会風潮から皇室においても自己規制が厳しくなる。
その後も「御落胤」を残した皇族は少なからずいたが、
皇族が側室を公然と置けた時代は終わり、
庶出の皇子女は隠さなければならなくなったのである。
「稔彦」(なるひこ)が「秀菊」に産ませた子は「御落胤」であり、
パリの女性に子を産ませたことが事実ならそれも「御落胤」である。
そうした子は「皇統」には属さない。
ところが、稔彦自身が「御落胤」とされる可能性もあった。
そうならずに「皇統」の一員となったのは、時代の偶然による。
「旧宮家養子案」を支持する人たちは、
旧宮家は「皇統譜」に記載され、
血統が公証されると主張する。
しかし、明治典範ができるまでそれほど厳密に公証されていなかった。
さらに戦後、旧宮家の人たちの出生関係は戦前と同様には公証されていない。
どのような子を儲け、それが嫡出であるかどうか、
戦後宮家については当然ながら「皇統譜」には書かれていない。
調査もせず、旧宮家に属することだけを条件に皇族に復帰できる案を、
通常の感覚を持つ国民が認めるのだろうか。
(以下次号)
参照した「皇族録」は宮内庁宮内公文書館、「倉富勇三郎日記」は国会図書館憲政資料室所蔵




