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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
75/105

「女帝子亦同」

「臣籍降下」という制度がある、名前の通り、皇族から人に落ちる制度である。

逆に「皇籍復帰」という制度もある、これは人が神に戻る制度である。

今、日本はこんな制度を大真面目に論じているのだ。

さて、皇族が皇族を続けられるためには、まず、天皇に血統的に近くないといけない。

昔の「養老律令」では、天皇本人を一世と数えて五世孫までは皇族と決められていた。

それは、大正9年の「皇族の皇かに関する施行準則」でも決められている。

ただそこで異様なのが「伏見宮邦家」の扱い方で、

彼だけが、天皇から14世孫にもかかわらず

彼を起点として、5世孫まで「王」と名のっていいとなっている。

彼だけ天皇に次ぐ存在なのである。

こう考えると、二つの仮説が考えられる。

①一つは邦家は「神さま」だったw

②もう一つは「永世世襲親王家」という「家柄」が重要なのだ・・・という考え方である。

ここで「家柄」というものを考えてみたい。

日本には貴族というものがあった。

天皇家はそこの頂点であったけれども「五摂家」もそれに次ぐ家柄であった。

そして昔は「七清華家」という五摂家に次ぐ家柄があった。

そして今回、そこの西園寺家が出てくる。

かつて、鎌倉将軍に五摂家の男子を据えたことがある。

四代将軍・九条頼経である。

ここで、不思議なのが、何で北条政子はせっかく頼朝が作った鎌倉幕府を、北条家でなくて九条家の男子に継がせようとしたのか?

三代将軍・源実朝の次の将軍に、わざわざ京から摂家の男子を連れてきて、将軍に据えたのか?

北条家に力がなかったのならわかるが、当時の北条家は朝廷より上、権力の絶頂であった。

そこで調べると九条頼経には女系に初代将軍・源頼朝の血が流れていたのがわかった。

源頼朝には年の近い妹がいた。

姉とも言われているが、名を「坊門の姫」という。

彼女は一条能保という公家と結婚する。

そして生まれたのが二人の姫である。

その一人は九条良経の妻になり、

そしてもう一人は西園寺公経の妻になった。

そして、九条家の方では九条道家が生まれ、

西園寺家の方では西園寺倫子という女の子が生まれた。

そして、九条道家と西園寺倫子が結婚し、できた子供が「九条頼経」というわけである。

血統的には鎌倉四将軍・九条頼経は「坊門の姫」の三世孫であり頼朝の血を引いている。

となると血統の方が重要なのか?となるが、どうもそうじゃないらしい。

女系からも男系からも「坊門の姫」は四代将軍の「ひいばあちゃん」であり、

頼朝は大大伯父な訳であるが・・・

そこまでして繋げた頼朝の血統なのに、大事にされたかと言えば、さにあらず。

「宮騒動」という騒動が1246年に起きた。

九条頼経は京都へ追い返されている。

五代鎌倉将軍は息子の藤原頼嗣が継いだが、

その頼嗣も祖父の九条道家の失脚で京へ追い返されている(1253年)

そして、鎌倉幕府は、その次の将軍に、五摂家からではなくて、宮家から将軍をつれてきている。

これが第6代鎌倉将軍・宗尊親王である。

そして、この変化は、両統迭立は微妙にリンクする。

「宮騒動」は1246年である。

私が気になるのは、この時代の「家柄」についての考え方、すなわち「家柄」と「血統」では、どちらが重視されていたのか、である。

鎌倉幕府は「摂家」から将軍を迎え入れたわけである。

その人は九条頼経といって「坊門の姫」の三世孫であった。

「坊門の姫」は源頼朝の女兄弟である。

不思議だ、なぜ北条家は女系でもいいと思ったのであろうか?

そして、鎌倉幕府は、最初は「皇族」から将軍を迎えたかったらしい。

北条政子は、なんと源実朝が在位中に、京都へ行って、後鳥羽上皇に承諾を得ていた。

つまり、実朝が暗殺される前から「皇族」を将軍に迎える計画であった。

それが実朝暗殺で、急に「皇族」が「摂家」になった。

詳しく調べる。

1218年に上洛した北条政子は、子ができない将軍・源実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談。

当時、兼子は、後鳥羽上皇の皇子「冷泉宮頼仁親王」の養育を任されており、「頼仁親王」は実朝の妻・坊門姫(西八条禅院)の甥であった。

なんと、ここでも女系に白羽の矢が当たっている。

もしかしたら、この時代は今日ほど男系に拘っていなかったのではないかと。

そこで、そもそも、日本の皇族とは、どのように区別されていたのか調べてみたら、なんと、とんでもないことがわかった。

『凡皇兄弟皇子、皆為親王。(女帝子亦同。)以外並為諸王自親王五世、雖得王名不在皇親之限。』

天平宝字元(757)年に施行された「養老令・継嗣令」である。

翻訳すると、

(おおよ)そ皇兄弟・皇子は、皆親王と為す。女帝の子も亦同じ。以外は並に諸王と為す。親王より五世は王の名を得るといえども、皇親の限に在らず。」(皇兄弟条)

「皇親」とは「皇族」のことである。

つまり、「皇兄弟及び皇子を親王とし、皇孫、皇曾孫、皇玄孫を王とし、皇玄孫の子である五世王は、王を称することはできるが、皇族の範囲には入らない。」という意味である。

そして、重要なのが、(女帝子亦同。)の意味である。

この規定は男子と女子を区別しておらず、親王には内親王、王には女王が含まれる、ということである。

「女帝の子も亦同じ」は中国唐代の令にはない、日本独自の規定である。

継嗣令の別の規定(王娶親王条)で内親王は四世王までに嫁することができるとも規定されている。

「女帝の子も亦同じ」の本註は、父が四世王までであれば女帝の子も親王とする意味だと解釈して間違いないであろう。

さらに女帝の子の子孫(つまり孫王以下)も女帝を起点として数え皇族とすると解釈される。

これに対し、女帝の兄弟については、他の条文の女帝への適用と

同様に、本則どおりで親王とされるため、あえて註記されていないと解釈される。

昔の養老律令では、女系天皇を容認している。

養老律令は大宝律令を更に発展させたものである。

大宝律令にも似た記載があるが「慶雲の改革」というのが705年にあり、

この時、皇族の範囲を五世まで皇族とする、とこの時、一旦伸ばされている。

しかし、又、「養老律令」で五世以降は皇族にあらずと、戻されている。

なんだか「皇籍復帰」の条件調べていたら、だんだん腹が立ってきた。

どうして「皇籍復帰」できる人間と、できない人間がいるのか?その、違いは何なんだ?

そもそも、日本国は701年「大宝律令」で皇族は兄弟か四世孫(玄孫)までと決まっていた。

これを厳守していれば、皇族が絶えることはめったになかっただろう。

皇族が増えすぎたら、質素にすれば臣籍降下もそんなにしなくてもいいだけだろ。

つまり皇族の範囲をいじる必要など、本来はないのだ。

また、側室制度があったのだから、なおさらである。

桓武天皇のように1世皇子まで含め100人も臣籍降下させてれば、

さすがに皇族がいなくなることもあるだろう。

しかし、その時だけ、特別に皇籍復帰を認めたらよいのだ。

ここで、ちょっと話がそれるが、705年、慶雲の改革で、一時期だけ五世孫まで皇親の範囲が伸びたこともあったが、757年の養老律令で、再び四世孫までと戻っている。

何が言いたいかと言えば、皇籍復帰も臣籍降下も実は問題の本質ではないということだ。

ホントの問題は、世襲親王家は必要だったのか、というところにあるのだ。

ホントそれが問題なのだ。

今の皇位継承問題は全てこの世襲親王家という制度に元凶がある。

普通に男系男子を血統順に選んでいれば、本来は皇位継承に何も問題はおこらない。

たまに政治的にイレギュラーに問題が起きても、その時だけ話し合えば、普通は問題は起きないのだ。

欧州は基本的に最後は有力諸侯による話し合いで決める。

日本も伝統を重んじる人は、この話し合いが一番言いと思うだろう。

つまり日本の伝統も世襲親王家制度に納得できるはずがないのだ。

「世襲親王家」とは、私に言わせれば「利権」なのである。

利権ゆえに、そこには日本の伝統美はない。

伝統とは美しいものだ。

「世襲親王家」のどこに伝統美がある?

ところで、世襲親王家と世襲宮家の違いってわかるだろうか?

ちょっとそこから見てみよう。

世襲宮家とは・・・鎌倉時代に、天皇の子女で、親王宣下を受けられない者が、臣籍降下も、出家もせずに、皇室財産を相続する方法、それが世襲宮家になることであった。

岩倉宮 – 順徳天皇の皇子忠成王を祖とする。

四辻宮 – 順徳天皇の皇子善統親王を祖とする。

常盤井宮 – 亀山天皇の皇子恒明親王を祖とする。

木寺宮 – 後二条天皇の孫で光厳天皇の皇太子であった康仁親王を祖とする。

花町宮 – 後二条天皇の孫の邦省親王を祖とする。

萩原宮 – 光厳天皇の子で崇光天皇の皇太子であった直仁親王を祖とする。

五辻宮 – 二系統あり。

これらの宮家は親王の身位もともに継承されるとは限らないので「世襲宮家」ではあるものの「世襲親王家」とは言えなかった。

さて皇籍復帰を調べてるうちに、どうすれば「人間」が「皇籍」に移れるのかを探るようになったが、

マジでそれをやろうとした人間が歴代何人かいる。

「足利義満」、「豊臣秀吉」、そして「織田信長」である。

ちょっと織田信長について、どうやったのか、考察してみよう。

信長の計画は、まず当時、既に高齢であった正親町天皇(おおぎまち)を引退させ、誠仁親王(さねひと)へと譲位させる。

正親町天皇には皇子は誠仁親王しかおらず、誠仁親王(さねひと)は信長へ「猶子」を差し出していた。

誠仁親王は信長が正親町天皇(おおぎまち)に意見を無視されて憤りを感じていることを知ると、直ぐに天皇の代わりに謝罪の書状を送ったりするほど信長に従順であった。

誠仁親王は石山合戦における信長と顕如の講和の仲介者にもなった。

天正8年(1580年)の勅命講和による最終的な解決の際にも顕如に、石山本願寺からの退去を説得する書状を送ったのも誠仁親王であった。

誠仁親王は天正7年、誠仁親王は織田信長が献上した「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えた。

二条新御所は、正親町天皇が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれ、禁裏(上御所)同様に小番も整備され、正親町天皇も朝廷の意志決定に際しては必ず誠仁親王に意見を求めるようになり、さながら「副朝廷」の様相を呈した。

奈良興福寺の僧侶が残した日誌である「多聞院日記」や「蓮成院記録」では、誠仁を「王」「主上」「今上皇帝」などと呼んでおり、事実上の天皇(共同統治者)とみなされていたことがうかがえる。

信長は誠仁親王を皇位につけ「誠仁天皇」としてから、皇位を、その子の邦慶親王(くによし)に譲位させるつもりであった。

邦慶親王は信長の猶子である。

ここで、この猶子ゆうしとはいったい何なのか?を調べてみたい。

漢文訓読では「なほ子のごとし」(訳:あたかも実子のようである)と読む。

中国における本義は兄弟の子という意味らしい。

つまり、官位の昇進や、上の家柄の相手との婚姻を容易にする目的で使う制度である。

形式上「親子関係」を結ぶが、「家督・財産」などの「相続・継承」を目的としない。

ゆえに養子と違って子の姓は変わらない。

もし、この計画がこと通りに運べば、信長は天皇の父ということになる。

「猶子」とは誠に便利な制度である。

「家督・財産」の相続は発生しないのに親子関係と見なされる。

しかし、これでは、家系は乗っ取れるが、男系ではない。

果たして、これは、「皇統」が変わったと言えるのだろうか?

私は男系が変わらない限り、皇統を乗っ取ったとはならないと思うのだが、どうも権力者はそうは見ないようだ、げんに、織田信長の織田家というのは「桓武平氏」である、つまり、世代は離れているが、「賜姓皇族」の子孫である。

平氏であれば天皇家の直系の男系である。

なのに、堂々と王朝を乗っ取ることはせずに「猶子」を迎え入れることから始めようとしている。

私は納得がいかない。

信長のフルネームは、織田上総介平朝臣信長(おだかずさのすけたいらのあそんのぶなが)である。

織田が名字、上総介が官職、平が(せい)、朝臣が(かばね)、信長が(いみな)である。

つまり桓武平氏の子孫、れっきとした「賜姓皇族」の子孫である。

ならば、堂々と男系男子を主張し、皇位を乗っ取ればいいのである。

でも、ときの親王の「猶子」を迎え入れることから始めてる。

つまり、「血統」よりも「家柄」が重要だ信長が思っていたということだ。

さて、皇位簒奪容疑で有名なのは足利義満が一番だろう。

てことで、ちょっと足利義満がどのようにして皇位を簒奪しようとしたのか見てみよう。

まず足利の血統だが、これは、清和源氏といって清和天皇に繋がる男系である。

足利義満(よしみつ)

①→足利義詮(よしあきら)

②→足利尊氏(たかうじ)

③→足利貞氏(さだうじ)(足利宗家7代当主)

④→足利家時(いえとき)(足利宗家6代当主)

⑤→足利頼氏(よりうじ)(足利宗家5代当主)

⑥→足利泰氏(やすうじ)(足利宗家4代当主)

⑦→足利義氏(よしうじ)(足利宗家3代当主)

⑧→足利義兼(よしかね)(足利宗家2代当主)

⑨→源義康(よしやす)(足利宗家初代)

⑩→源義国(よしくに)

⑪→源義家(よしいえ)

⑫→源頼義(よりよし)

⑬→源頼信(よりのぶ)

⑭→源満仲(みつなか)

⑮→源経基(つねもと)

⑯→貞純親王(さだずみ)

⑰→第56代・清和天皇

なんと、足利義満は、皇位簒奪など企まなくても、れっきとした天皇の男系男子なのであった。

血統がわかったところで、次回から皇位簒奪疑惑について見ていこう。

足利義満は1358年生まれである。

なぜこんなことを強調するかと言えば、明の第三代皇帝・永楽帝が1360年生まれだからである。

他にも気になる年表があって、足利義満が南北合一を果たしたのが1392年である。

そしてお隣の李氏朝鮮が誕生したのが1392年である。

なにが言いたいかと言えば、足利義満が皇位簒奪を意識したのは、朝鮮の易姓革命をリアルタイムで見たからではないか、ということからである。朱元璋が明を建国したのは1368年であり、義満が10歳のときである、これも易姓革命である。

足利義満は1408年5月31日に亡くなっているが、なんとその6日前の1408年4月25日に実子・義嗣を「親王元服」させている。

この儀式は内裏・清涼殿で行われ、このときの様子を伏見宮3代当主・貞成は『椿葉記』にて「親王や摂家並の形式であり、親王御元服の準拠である」と記している。

つまり、これは親王宣下と同等以上であり、それゆえ、義嗣は「若宮」と呼ばれるようになっている。

足利義満が織田信長より凄いところは、織田信長が天皇の皇子を猶子として、その子に皇位を継がせようとしたのに対し、義満は自分の子を皇室に無理矢理ねじ込もうとしたところである。

しかも用意周到で、天皇を経済的に支配したばかりでなく、叙爵権も祭祀権も事前に取り上げている。

祭祀権がなければ天皇の意味が無いのと同じである。

そして義満は、太政大臣の官職を1395年に返上し、出家して「道義」と名のり、金閣寺のある北山弟(きたやまてい)にて政治を執り行っている。

この北山殿と呼ばれる御所は義満が10年の歳月をかけて作り上げている。

こんな豪華絢爛な御所は新たな王朝を企まないと作らないだろう。

義満が出家したのが1395年、金閣寺完成が1397年である。

そもそも義満は既に京都御所のすぐ隣に「花の御所」と呼ばれる室町殿を作っていた。

そこで天皇に代わって政治を取り仕切っており、京の徴税権も公家の人事権も叙爵権も、そして国外の外交権も全て手中にしていた。

「花の御所」の広さは、今の地図ではわかりにくいが、当時の天皇御所の2倍あったといい、義満の妻を後小松天皇の准母にして「外戚」の地位に収まっていた。

更に義満の怖いところは、信長や秀吉と違って、彼は外交ブレーンに五山文学者の臨済宗僧の「絶海中津」「義堂周信」という識者を置いていた、彼らは明の朱元璋とも面識があり、四書五経を義満に教えていた。

孟子の「易姓革命」についても教えていたはずである。

当時「野馬台詩」という詩集が巷で流行っており、そこには、天皇家は100代で終わると予言されていた。

ちょうど100代目にあたるのが義満とは同い年の後円融天皇であり、1393年に亡くなった。

京都御所のすぐ北に相国寺に建立した七重の塔は109メートルあり御所を見下ろしていた。

1408年3月8日に後小松天皇は北山弟へ出向いて、義嗣に盃を取らせた。

後小松天皇も義嗣の立太子は合意の上のようで、当時の天皇家も天皇は足利義嗣でいいような空気があったと思われる。

もうほとんど義満の王朝交代は成功していたのだが、突然亡くなった。


さて、皇位の男系継承の原則を崩したくないという日本人は日本国民の中に何割くらいいるのだろう?

いろんな新聞社が調査しているが、

もっとも最近のでは、2024年のNHKの調査で、84%が女系天皇容認のようだ。

私の肌感覚では、7割だと思います。

しかし反対派3割の中に、

ある特徴を持っている異質なグループがいる。

彼らは、一見、他の保守層と同じように見えますが、

ある一点において、他の保守層と真逆の行動を取るのです。

その行動とは、上皇陛下に逆らうのです。

令和の上皇陛下の譲位の時、その特徴が顕著に現れました。

明仁天皇の意向に逆らって、彼ら(彼女ら)は、譲位に反対しました。

そして、私の感覚では、彼らは皆、安倍晋三応援団でした。

残念なことに安倍さんは、自民党公認条件に「皇統の男系維持」を掲げていたのですが、

何故か猛烈な反日宗教団体「統一教会」を応援してました。

ご存じのように、昔から天皇陛下が退位することは、

政治に対して、ご不満があるときの抗議の意味がある場合が多い。

「平成」が「令和」に切り替わった日が、

統一教会設立記念日の5月1日であり、

それを実行した安倍さんが、

何故か旧統一協会(世界平和統一家庭連合に改称)に関連する団体が開いた大規模集会に

ビデオメッセージを贈り「敬意を表します」と演説していた。

「天宙平和連合」(UPF)は「統一協会」の開祖である「文鮮明」と、その妻で現「家庭連合」総裁

「韓鶴子」が2005年にニューヨークで創設したNGOです。

日本の保守の砦のように思われていた安倍晋三が、何故、反日宗教団体の広告塔になったのか。

靖国問題も昭和天皇はA級戦犯が合祀されてから参拝していない。

それは「上皇陛下」にしても「今上天皇」にしても同じであった。

なのに、安倍晋三と彼の応援団は、真逆の行動を取る。

彼らが、何故「上皇陛下」「天皇陛下」の意思に逆らうのか。

「安倍晋三」が左翼ならわかります。

なぜ右翼なのに堂々と天皇に逆らえるのか?

マスコミも専門家も、納得いく説明をする事ができていない。

右翼にとって、

天皇陛下の御意思というものは、

絶対的だと思うのですが、

そこには大きな「闇」があるようです。

天皇陛下が参拝しない靖国へ参拝する。

天皇蔑視の教義がある新興宗教を応援する。

彼らは、皇室の方を見ているようで、本当は「天皇家」をガラス板のように通りすぎ、

もう一つの皇統「伏見宮」を見ているのではないでしょうか。

天皇陛下の御意思を拒否しているにも拘らず日本を愛する保守愛国者。

彼らはいったい何なのでしょうか?

「万世一系」という伝統を守ろうとしてる保守の中に、

「伏見宮」という「万世一系」を守ろうとしているグループがいる。

男系男子の養子縁組を願っているグループは、

「天皇陛下」を敬っているにも関わらず、

本当はその本家「伏見宮」に忠誠を誓っているのではないでしょうか。

その証拠に、現在の天皇陛下の意向に背くことに、彼らは抵抗がありません。

彼らが純粋な愛国心から伏見宮を心酔するのなら、それは仕方がありません。

確かに伏見宮こそ正式な持明院統の嫡流だから、仕方ないでしょう。

しかし、私には、その純粋さが見えない。

恐らく彼らは、旧宮家の利権を復権させたいと思っているだけでしょう。

おこぼれにありつけるから。

もっとゲスに言えば、

彼らは、旧宮家の時代は贅沢ができてよかった、もう一度あの頃に戻りたいと思っている、

前時代の亡霊なのではないでしょうか?

だから旧宮家の御輿である伏見宮系の皇室復帰こそが、

現状の皇室問題の唯一の解決策であると、

日本国民を洗脳して回っているのではないでしょうか。

彼らは内親王は結婚後は皇族に残れない現在の皇室典範のうちに、

臣籍降下させてしまおうと考えているのではないでしょうか?

愛子さま、佳子さまにも、臣籍降下してもらって、

女性宮家などという憂いを早く断ち切りたいと思っているのではないでしょうか?

もし皇室典範が改正されて、女性宮家が容認されれば、

伏見宮の皇室復帰の可能性はほとんどなくなります。

佳子様・愛子様、を皇籍離脱させてしまえば、

皇位継承者問題解決に旧宮家復帰が検討される可能性が上がるのです。

彼らは皇族の男系男子不足問題で伏見宮系の旧宮家への皇室復帰にこだわります。

どのような利権があるのか、具体的にはわかりませんが、

戦後の元皇族の散財を見れば、皇族ブランドが金になることは確かです。

彼らは「皇別摂家」を皇位継承者候補に加える事を決して提案しません。

それは利権を奪われかねないからでしょう。

伏見宮系でなければダメな理由はそれくらいしかありません。

皇別摂家の方が伏見宮系より、圧倒的に天皇へ近い血統だというのに、

徹底的に議論をしません。

鷹司家は今上天皇とは18親等しか離れていません。

東山天皇10世孫には適齢期の男子は数人います。

東久邇家や竹田家では崇光天皇18世孫以上ですから8世代以上も天皇家に近いことになります。

このように男系を日本の伝統だとか言ってる人の中には、

私利私欲で伏見宮系の皇室復帰を求めてい塊があります。

そういうグループに騙されないように、

皇別摂家やその他の系統でも天皇家につながる男系は多数あるのだという事を知っておくべきです。

天皇を守るため、

近衛文麿のように切腹できる男系を天皇家の藩屏として皇室に加えるべきだという思想を、

確立することが必要だと思います。

女系容認以外にも、男系を維持する方法はあります。

それは新しい宮家を多数新設することです。

常に10宮家以上を準備していれば、

たとえ側室制度がなくても、恐らく男系男子が途切れることはなくなるでしょう。

つまりトコロテンのように、宮家の男系男子が途切れたら、

すぐに次の宮家を認可できるようにストックを用意しておくのです。

新宮家を選出する場合の基準は、

清和源氏や桓武平氏の子孫までも含めて男系のみ、血統のみで、順位付けします。

皇室が途切れないようにするには、女系を容認しない以上は、

伏見宮系ばかりを男系と考えていてはダメなのです。

古来より日本の皇室は、直系に男子がいなければ、

潔く傍系他家へ皇統を譲る事を良しとしてきました。

男系男子は皆平等に選考されるべきでしょう。

それでは、どうやって選抜したらよいのか考えましょう。

まず、歴代の天皇の中で、

枝分かれしていった傍系の家を血統のみで選んで、

その家の男子に皇位継承順位を付けるのが一番よい皇位継承方法だと思います。

また、

例えば、愛子内親王が女性天皇になり、

一般男子と結婚なさって男子が生まれたとします。

その男子が皇位を継げば女系天皇の誕生ですが、

保守系の皆さんは、この事に反対しています。

問題は、この一般男性が清和源氏の子孫でも、ダメなのかということです。

真子内親王と小室圭さん、

もし父系が清和源氏だったら、それでも小室さんの子には皇位継承権はないのでしょうか。

たとえ男系に天皇の血統が入っていなくても、

女系で天皇家に繋がっていれば、よいのではないか、と考える人もいます。

果たして清和源氏の子孫であるという男系男子が現れたとして、

その男系は他人とほとんど一緒ではないでしょうか。

また、確実に多民族の血統の男子が内親王と結婚したとして、

日本の右翼は受け入れられないものでしょうか。

かつてナチスでは親衛隊に入るのに、

過去200年に遡って両親共々ゲルマン人であったという証明が必要だったそうです。

もし日本の皇室で、どうしても多民族の血統を入れたくなければ、

戸籍による証明を必要条件としたらいいではないでしょうか。

私は人種差別に反対ですが、

日本人の多くは、どうなんでしょうか。

レイシストになり皇室の純潔を守るか、

人種偏見のない文化人になって未来の皇室を守るのか、

選ぶのは今の我々です。

これは現代の日本人突きつけられた逃げられない選択です。

人種差別は、国連人権委員会から一発レッドカードを食らうでしょう。

しかし世界からたとえ非難されても、

皇位継承条件に人種条項を加え、

堂々とアパルトヘイトを正当化すればいいのです。

婚姻の自由は基本的人権の1丁目1番地です。

しかしながら、みんな、

人種項目を真面目に討論しようとしません。

いずれ堂々と主張しなければならないのです。

遅らせても仕方がないでしょう。

○○人の血が天皇に混じったら、日本の国体は壊れるのかどうか。

私は壊れないと思いますが、

そこをちゃんと結論を出していかないと、

女系天皇の議論は前に進まないと思います。

江戸時代は側室があって、4つの世襲親王家があって、常にスペアの天皇を準備していました。

だから日本の天皇家は男系一系が維持できたのです。

今は側室が持てないうえ、世襲親王家もない。

男系一系の維持には、

男系血筋の血量順に皇位継承順位を付けるしかないのです。

たぶん常に1000人は維持しないと、

いつ男子が途切れるかわかりません。

常に次期天皇の継承順位を決めておけば安心です。

よく右翼の人は日本をまとめていられたのは万世一系の天皇のお陰だといいますが、

太平洋戦争でほとんど失敗してるじゃないですか。

それなのに何故また同じように宮家を増やして男系男子を維持しようとしてるのでしょうか。

そのやり方ではダメだったんだから、今度は違うやり方でやらないと、いけないんじゃないでしょうか。

まあ日本国民の天皇に対する評価が純潔にあるのなら

右翼は堂々と「朝鮮人が男系の祖になってもいいのか」と口に出して言わねばなりません。

かつてのダイアナ妃のように、闇に葬られるかもしれませんが、決めねばならないと思います。

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