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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
74/105

「源定省と皇籍復帰」

ちなみに「源定省」(みなもとのさだみ)が天皇に選ばれるとき、

当時「左大臣」(さだいじん)だった「源融」(みなもとのとおる)という人物は、

第52代「嵯峨天皇」(さがてんのう)の第12皇子であったゆえ、

自分も「皇胤」の一人なのだから、天皇候補に入ると主張したが、

「源氏」に下った後に即位した例はないとして「基経」に退けられた。

「源定省」の例があると思うんですけどね。

この「源融」(みなもとのとおる)が「紫式部」の小説「源氏物語」光源氏のモデルだと言われている。

さて「皇籍復帰」の例、⑩⑪⑫に入ります。

源朝臣兼明(みなもとのあそんかねあきら)

源朝臣盛明(みなもとのあそんもりあきら)

源朝臣昭平(みなもとのあそんあきひら)の3人です。

この3人は同時期に皇籍復帰しています。

源朝臣兼明(かねあきら)「兼明親王」(かねあきらしんのう)で知られているようです。

父は第60代「醍醐天皇」(だいごてんのう)で第11皇子のようです。

第18皇子が「盛明親王」(もりあきらしんのう)「⑪源朝臣盛明」(みなもとのあそんもりあきら)です。

そして、⑫源朝臣昭平(あきひら)の父は第62代「村上天皇」(むらかみてんのう)です。

下記が歴代天皇です。

第59代・宇多天皇(うだ)

第60代・醍醐天皇(だいご)

第61代・朱雀天皇(すざく)

第62代・村上天皇(むらかみ)

第63代・冷泉天皇(れいせん)

第64代・円融天皇(えんゆう)

と流れております。

ちょっと面倒ですが、これだけの天皇が関わってきます。

⑩「兼明親王」は「醍醐天皇」の第11皇子で「臣籍降下」後「源朝臣兼明」と名のっていました。

優秀な官吏で、順調に出世していました。

朱雀朝の承平2年(932年)无位から従四位上に直叙され翌承平3年(933年)播磨権守に任官する。

天慶2年(939年)右近衛権中将に任ぜられると、

天慶5年(942年)左近衛権中将を経て、天慶7年(944年)30歳にして参議として公卿に列した。

議政官として治部卿を兼ね、この間の天慶9年(946年)正月に正四位下、

11月には村上天皇の大嘗会に伴って従三位と続けて昇叙されている。


この時代「位階」と「官職」がいっぱい出てきて難しいので、まず「位階」ですが、

これは身分を表すもので、大宝律令で制定された30の位階があります。順に並べます。


1 正一位 2 従一位

3 正二位 4 従二位

5 正三位 6 従三位

7 正四位上 8 正四位下

9 従四位上 10 従四位下

11 正五位上 12 正五位下

13 従五位上 14 従五位下

15 正六位上 16 正六位下

17 従六位上 18 従六位下

19 正七位上 20 正七位下

21 従七位上 22 従七位下

23 正八位上 24 正八位下

25 従八位上 26 従八位下

27 大初位上 28 大初位下

29 少初位上 30 少初位下

そして皇族も四段階の「品位」(ほんい)という身分がありました。

それぞれ一関係がこうなります。

「一品」(いっぽん)・・・正一位、従一位(と同等)

「二品」(にほん)・・・正二位、従二位、

「三品」(さんぼん)・・・正三位、従三位、

「四品」(よんほん)・・・正四位上、正四位下

こんな身分制度でした。

従三位以上は「公卿 ( くぎょう )」、

五位以上は「貴族」、

六位以下は「地下 ( ちげ )」と呼ばれていました。

そして五位以上は昇殿を許されていました。

「官職」ですが、律令制の日本で「太政官」という「官庁」の役職名です。

「太政大臣」がトップでしたが、後に「摂政・関白」がその上の役職となりました。

「官職」を上から並べると

①太政大臣

②左大臣

③右大臣

④大納言

⑤中納言

⑥参議、

となります。

「太政大臣」になれるのは「正一位」か「従一位」、

「左大臣・右大臣」になれるのは「正二位」か「従二位」、

「大納言」になれるのは「正三位」、

と決まってました。

さて「源朝臣兼明」の説明文を読むと、

30歳で参議になり、

2年後(946年)「正四位下」、

その11ヶ月後(946年)「従三位」

(953年)「権中納言」、

(955年)「中納言」、

(956年)「正三位」、

(967年)「従二位・大納言」に叙任されました。

「兼明親王」がかなり優秀な官僚だったというのは、彼の残した和歌を見れば良くわかります。

「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき」

この歌は太田道灌の鷹狩りの逸話で、

「太田道灌」が鷹狩りで山に入ってたら雨が降ってきた。

簑を借りようと一軒家を訪ねたら若い女が出てきた。

そして、山吹の花の枝を差し出した。

「太田道灌」は簑を借りようとしたのだと怒って帰ってしまった。

しかし、この話を部下にしたら、それはこの歌には意味があり、

この家には貧乏で簑がないのです、という意味だと教えられた。

という歌です。・・・いい歌ですね。

さて、なぜ、この優秀な官僚が「皇籍復帰」したのかと言えば、

藤原家の「政治抗争」に巻き込まれたのです。

藤原兼通(ふじわらのかねみち)

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)という兄弟がいました。

さて、それでは次の例、⑩⑪⑫について解説していこう、

⑩「源兼明」→兼明(かねあきら)親王

⑪「源盛明」→盛明(もりあきら)親王

⑫「源昭平」→昭平(あきひら)親王

彼らの「皇籍復帰」には藤原兼通(かねみち)藤原兼家(かねいえ)の政治抗争が関わっていると前回説明した。

ここで押さえておきたいのは、藤原兼通(925年)、藤原兼家(929年)の生年月日で、2人は年の近い兄弟で、さらに長兄、藤原伊尹(これただ)(924年)という優秀な兄もいた。

この3人はみんな優秀だった。

さらに藤原安子(927年)という妹がいた。

この妹が第62代・村上天皇の中宮(正妻)となり、3人の皇子を生んだ。

憲平(のりひら)親王(のちの第63代・冷泉天皇)、

為平(ためひら)親王、

守平(もりひら)親王(のちの第64代・円融天皇)、である。


さて、この藤原4兄弟には更に右大臣まで上り詰めた父、藤原師輔(909-960)という後ろ楯があった。


さて皇籍復帰した兼明親王、盛明親王、昭平親王と、この藤原一派の関係であるが、ちょっと名前を見てほしい。

兼明、

盛明、は同じ第60代・醍醐天皇の皇子。

昭平、は第62代・村上天皇の皇子である。

そして、昭平親王という名のとおり、

村上天皇の皇子はすべて「○平」と諱が付けられているので、

そして、この昭平(あきひら)は、憲平、為平、守平、と近い。


そして村上天皇の皇子で「臣籍降下」させられたには、唯一この源昭平だけであった。なぜ臣籍降下させられたかはわからない。


さあ、だんだん、わかってきた。

登場人物をもう一度、整理したい。


《天皇》

第60代・醍醐天皇

第61代・朱雀天皇(寛明)(ゆたあきら)

第62代・村上天皇(成明)(なりあきら)

第63代・冷泉天皇(憲平)

第64代・円融天皇(守平)


さあ、(いみな)を見るとわかるように、

醍醐天皇の皇子は「○明」と付く。

兼明親王、盛明親王、も醍醐天皇の皇子である。


藤原伊尹(これただ)、藤原兼通、藤原兼家、3兄弟は、父が藤原師輔(もろすけ)という右大臣で3人とも頭脳明晰。


更に妹の藤原安子(やすこ)が村上天皇の皇子「憲平」「為平」「守平」を産んだ。

普通に考えれば順風満帆であるのだが、

まず不味いことに、源兼明という優秀な賜姓皇族の官吏がいる。

しかもこの兼明と同い年の兄・源高明というのが、これまた頭脳明晰、あの「いろはにほへと」の歌を作ったのが高明だと言われているくらい頭が良かった。


更に悪いことに、この源高明(たかあきら)藤原師輔(もろすけ)に気に入られており、師輔の娘を娶っている。

更に悪いことに藤原安子(やすこ)とも仲がよく、源高明(たかあきら)の娘が「為平親王」に嫁いでいた。


つまり、源高明・源兼明の兄弟は、藤原3兄弟のライバルであり、しかも高明の娘が為平親王の皇子を生めば、外戚(がいせき)となる可能性も出てきた。

さすがに「藤原」としては外戚の座まで「源」に渡すわけにはいかなかった。

ここで「外戚」(がいせき)というのを説明すると、天皇の正妻の父のことで、このポジションが摂関政治には必須であった。


ウィキペディアによると・日本においては、天皇に自分の娘を嫁がせ次の天皇に成る皇子を産ませ、その皇子を擁立し外祖父として一族の政治力を強化・維持する方法が古代より知られ、磯城氏・三輪氏・物部氏・尾張氏・葛城氏・大伴氏・蘇我氏・藤原氏などによる外戚関係・外戚政治が長年行われていた。平清盛などもそれに倣って外戚政治を行った・・・とある。


ちなみにWikiにのってる外戚で平安時代の外戚は以下の5人。

藤原良房

藤原兼家

藤原道長

藤原頼通

平清盛


・・・なんと、藤原兼家はこの兼通との兄弟ゲンカに勝って後に「外戚」の地位にまで上り詰めている。


ところで、話を戻すと、藤原兼家(かねいえ)は頭が良すぎて、兄の兼通(かねみち)を「位階」で追い越してしまい、兄弟仲が悪くなってしまった。


右大臣の父、藤原師輔(もろすけ)、中宮・藤原安子(やすこ)が死に、更に長兄の藤原伊尹(これただ)も死ぬと、兼通・兼家の兄弟ゲンカを止める人がいなくなった。


最初は兼の方が優勢であった、師輔の関白の座を兼家と争ったが、安子の遺言があると言って、関白の座を勝ち取ると、死ぬまで兼家の出世の邪魔をした。


さて、関白の藤原兼通(かねみち)が弟の藤原兼家(かねいえ)を陥れるための策略の一つが、自分の側近で仲のいい従兄弟・右大臣・藤原頼忠を左大臣につけることであった。


しかし、当時、左大臣にいたのは元皇族の優秀な源兼明(かねあきら)である。


そして思い付いたのが、源兼明(かねあきら)を「皇籍復帰」させてしまえば官職にはいられないというウルトラCである。


さいわい円融(えんゆう)天皇も、源昭平(あきひら)を皇籍復帰させたがっていた。

源昭平(あきひら)は村上天皇の皇子の中で唯一の臣籍降下した皇子で、円融天皇の兄であった。

円融天皇と藤原兼通(かねみち)の利害が一致した。

しかし源兼明(かねあきら)源昭平(あきひら)の2人だけを皇籍復帰させたら、あまりにも露骨に皇籍復帰を利用したのがバレる。

ゆえに源盛明(もりあきら)も一緒に皇籍復帰させようという話になり、3人同時に皇籍復帰となった。

以上が、この3人の皇籍復帰の経緯である。

さて、それでは天皇家最大の謎、両統迭立(りょうとうてつりつ)鎌倉時代、南北朝、にかけてに起こった「皇籍復帰」の3例について考察していこうと思う。

源朝臣惟康(みなもとのあそんこれやす)(1270年降下・1287年復帰)

源朝臣久良(みなもとのあそんよしなが)(1330年復帰)

源朝臣忠房(みなもとのあそんただふさ)(1319年移行)

源朝臣惟康(みなもとのあそんこれやす)はwikipediaでは惟康親王(これやすしんのう)で解説されている。

その最初の部分をとりあえず転載してみよう。

>第6代将軍宗尊親王の嫡男として相模鎌倉に生まれる。文永3年(1266年)7月、父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任した後に臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。<

さあ、疑問点が多すぎる。

そもそも1行目、第6代将軍・宗尊親王って何?と思わずにはいられない。

親王とは皇族である。

鎌倉将軍が皇族になったわけである。

ここが複雑なところで、彼らを「皇族将軍」「宮将軍」という。

鎌倉幕府は複雑で「宮将軍」の前は「摂家将軍」が2代続いた。

そして最初の3代を「源氏将軍」という。

歴代鎌倉将軍を年代別に並べてみる。

源頼朝(みなもとのよりとも)(河内源氏)(在位期間1192-1199)

源頼家(みなもとのよりいえ)(河内源氏)(1202-1203)

源実朝(みなもとのさねとも)(河内源氏)(1203-1219)

藤原頼経(ふじわらのよりつね)(藤原氏)(1226-1244)

藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)(藤原氏)(1244-1252)

宗尊親王(むねたかしんのう)(皇族)(1252-1266)

惟康親王(これやすしんのう)(皇族)(後嵯峨源氏)(1266-1289)

久明親王(ひさあきらしんのう)(皇族)(後深草源氏)(1289-1308)

守邦親王(もりくにしんのう)(皇族)(後深草源氏)(1308-1333)

ここで「河内源氏」「後嵯峨源氏」「後深草源氏」について解説する。

まず河内源氏とは清和源氏の一流であり、後嵯峨源氏、後深草源氏、は源氏二十一流(りゅう)(ながれ)である。

ここで、重要なのは、「流」という概念である。

天皇が皇子を臣籍に落とすとき「賜姓降下」という。

その姓が「源」であれば源氏を名乗る。

そしてそれぞれの天皇と源氏が二十一流ある。

そして、その「流」の中でさらに栄えて枝分かれしたものもあれば、断絶した「流」もある。

まずは源氏二十一流をざっと見てみよう。

①嵯峨源氏 (さが)

②仁明源氏 (にんみょう)

③文徳源氏 (もんとく)

④清和源氏 (せいわ)

⑤陽成源氏 (ようぜい)

⑥光孝源氏 (こうこう)

⑦宇多源氏 (うだ)

⑧醍醐源氏 (だいご)

⑨村上源氏 (むらかみ)

⑩冷泉源氏 (れいせん)

⑪花山源氏 (かざん)

⑫三条源氏 (さんじょう)

⑬後三条源氏 (ごさんじょう)

⑭後白河源氏 (ごしらかわ)

⑮順徳源氏 (じゅんとく)

⑯後嵯峨源氏 (ごさが)

⑰後深草源氏 (ごふかくさ)

⑱亀山源氏 (かめやま)

⑲後二条源氏 (ごにじょう)

⑳後醍醐源氏 (ごだいご)

(21)正親町源氏 (おおぎまち)

惟康親王は⑯後嵯峨源氏であり、惟康親王だけで他に臣籍降下した皇子はいない。

さあ、皇籍復帰した3人

源朝臣惟康(これやす)(1264-1326)→惟康親王

源朝臣久良(ひさよし)(1310-1347)→久良親王

源朝臣忠房(ただふさ)(1285-1347)→忠房親王

の続きをやっていきましょう。

この3人は鎌倉幕府に関係していますが、⑮がちょっと複雑だ。

⑬惟康親王は第7代将軍、

⑭久良親王は第8代将軍・久明親王の第2皇子

⑮忠房親王は順徳天皇の曾孫である。

この⑮忠房親王が鎌倉幕府に関係あるというのは理由がある。

この忠房親王の父は源彦仁という。

源彦仁は時期が不祥なれど臣籍降下を受けている。

父は皇族「忠成王」という。

この「忠成王」は順徳天皇の第5皇子である。

3歳年上兄に第85代・仲恭天皇(ちゅうきょう)がいる。

ここが重要で、この仲恭天皇は「承久の乱」にて4歳で即位している。

父・順徳天皇(じゅんとく)から譲位されたのだ。

そして「承久の乱」で朝廷側は鎌倉に敗れた。

後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇は流罪とされ、

仲恭天皇も廃位させられた。

次に即位したのは、後堀河天皇。

その次が四条天皇。

1242年・四条天皇が12歳で崩御

仲恭天皇の3つ年下弟である「忠成王」は、皇太子候補となった。

「忠成王」は土御門天皇の皇子の「邦仁王」とともに皇嗣を争ったが、幕府執権の北条泰時は、「忠成王」の即位に伴って幕府に強い敵愾心を持つ順徳上皇が帰京することを懸念し、邦仁王を推し、結局、邦仁王が践祚、第88代・後嵯峨天皇(ごさが)となった。(仁治三年の政変)

この第88代・後嵯峨天皇の第一皇子が鎌倉第6代将軍・宗尊親王である。

そしてこの宗尊親王の嫡男が第7代鎌倉幕府将軍、惟康親王である。

この流れを知らないと、何故、鎌倉幕府が皇族を将軍に迎えたのか、そして、その皇族将軍である惟康親王が何故、臣籍降下して源朝臣惟康になったのか、そして何故、皇籍復帰できたのか、が上手く解説できないのである。

正直いって、何故、惟康親王が皇籍復帰できたのか、ハッキリした理由は、よくわからない。

しかし、この時代の状況を理解することで、何となく見えてくるかもしれない。

それでは、惟康親王の父・宗尊親王と、祖父・後嵯峨天皇についてまずは見てみよう。

皇籍復帰できる条件は何か?

これが今回、連載における最大のテーマです。

私自身、連載しながら答えを探してる状態ですが、この答えがどうなるかさっぱりわかりません。

現在、わかっている事は、日本の皇統・万世一系2680年の歴史において、臣籍降下した皇族は多いが、「皇籍復帰」した人間は、たった16例しかないということです。

①和気王

②山辺真人笠

③厨真人厨女

④源朝臣是忠

⑤源朝臣是貞

⑥源朝臣定省

⑦源朝臣維城

⑧源朝臣斉中

⑨源朝臣斉世

⑩源朝臣兼明

⑪源朝臣盛明

⑫源朝臣昭平

ここまで12人を考察してはきましたが、特段これといって、法則のようなものは見つけられませんでした。

そして、今、分析してるのは・・・

⑬源朝臣惟康

⑭源朝臣久良

⑮源朝臣忠房

これら鎌倉時代の3人です。

そして、まずは、⑬鎌倉7代将軍・惟康親王を調べるに当たって、先代の6代将軍・宗尊親王と惟康親王の父・第88代・後嵯峨天皇を考察しようとしているわけです。

後嵯峨天皇ごさが)(1220- 1272)(天皇在位:1242- 1246)

宗尊親王 (むねたか)(1242-1274)(将軍在位)(1252-1266)

惟康親王 (これやす)(1264-1326)(将軍在位)(1266-1289)

宗尊親王・惟康親王は親子であり、そして、惟康親王は1270年、臣籍降下され源朝臣惟康となる。

後嵯峨天皇は(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、上皇となる(上皇在位1246-1272)

ここで「上皇」「法皇」「太上天皇」「院」「治天の君」について、どのような定義なのか調べてみた。

「太上天皇」(だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。

由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。

元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。

史上初めて上皇となった持統上皇

略称は「上皇」である。

また、出家した太上天皇を「太上法皇(法皇)」と称する。

ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。

また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。

「院」とも称され、太上天皇が「治天の君」として政務を執った場合、その政治を院政という。

日本には歴代59人の上皇が存在したが(1301-1304)まで、

「後深草上皇」「亀山上皇」「後宇多上皇」「伏見上皇」「後伏見上皇」の5名の上皇が同時に存在した期間がある。

この混乱の時代が「両統迭立」の時代に当てはまる。

「両統迭立」とは、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。

「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。

鎌倉時代の「両統迭立」は「後嵯峨天皇」の第3皇子「後深草天皇」の子孫である「持明院統」と、第4皇子「亀山天皇」の子孫である「大覚寺統」とのあいだで行われた。

さあ、だんだん、わけがわからなくなってきたと思う。

とりあえず「第88代・後嵯峨天皇」

この天皇が「両統迭立」という混乱を引き起こした張本人だということである。

それでは、後嵯峨天皇について、もっと掘り下げていこう。


これから後嵯峨天皇と両統迭立について語ります。


まず、登場人物ですが、多いので2回にわけて書こうと思います。

今回は、

第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)(諱・邦仁)(くにひと)

第89代・後深草天皇(1243-1304)(諱・久仁)(ひさひと)

第90代・亀山天皇(1249-1305)(諱・恒仁)(つねひと)

第91代・後宇多天皇(1267-1324)(諱・世仁)(よひと)

の4人です。


(いみな)とは本名のことです。

諱は普段は使うのを避けるらしいです。

しかし、私たちが普段、天皇を呼ぶとき、諱+天皇を使います。明仁天皇(あきひと)徳仁天皇(なるひと)などです。


さて、後嵯峨天皇は1246年、在位4年で皇子の久仁親王(ひさひと)(後深草天皇)に譲位します。

そして、自分は上皇として院政を開始しました。


この時、鎌倉では「宮騒動」と呼ばれる変が起きていた。

「宮騒動」は、北条(名越)光時の反乱未遂および、

4代将軍・藤原頼経(九条頼経)が鎌倉から追放された事件である。


この藤原頼経は九条頼経といい「摂家将軍」と呼ばれていた。

この九条頼経が鎌倉将軍になった経緯は、3代鎌倉将軍・源実朝の暗殺まで遡らねばならない。

この暗殺で頼朝の男系男子が途絶えた鎌倉将軍家は、実験があった北条が将軍にならずに、なんと摂家の九条家から将軍を持ってきた。


この九条頼経の血統は女系で源頼朝につながる。

頼朝の妹は「坊門の姫」と呼ばれ、一条能保(よしやす)の妻となり、二人の娘を生んだ。

その一人が九条良経に嫁ぎ九条道家と順徳天皇中宮立子を産み、もう一人の娘が西園寺公経に嫁ぎ西園寺実氏と掄子を産んだ。

鎌倉4代将軍、九条頼経はこの九条道家の嫡男である。


さて話を戻す。

後嵯峨天皇の譲位により後深草天皇は4歳で践祚・即位した。

在位中は後嵯峨上皇が院政を敷いたため、直接政務を見ることはなかった。


1259年、後嵯峨上皇の要請で、17歳で亀山天皇に譲位することになった。


1268年に、後嵯峨上皇の指示により、後深草上皇の皇子熈仁(もりひと)を差し置いて、亀山天皇の皇子・世仁親王(よひと)が立太子したことから、後深草上皇が怒り、後深草上皇の血統(持明院統)と、亀山天皇の血統(大覚寺統)の対立が始まった。


ここで、ざっと、両統迭立の天皇の流れを見てみよう。


第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)

第89代・後深草天皇(持明院統)(在位1246-1260)

第90代・亀山天皇(大覚寺統)(在位1260-1274)

第91代・後宇多天皇(大覚寺統)(在位1274-1287)

第92代・伏見天皇(持明院統)(在位1287-1298)

第93代・後伏見天皇(持明院統)(在位1298-1301)

第94代・後二条天皇(大覚寺統)(在位1301-1308)

第95代・花園天皇(持明院統)(在位1308-1318)

第96代・後醍醐天皇(大覚寺統)(在位1318-)


さて、1272年、後嵯峨法皇が崩御する。


後嵯峨上皇が崩御した後、「治天の君」の座をめぐって、後深草上皇と亀山天皇の間で争いが起こった。

ここで、鎌倉幕府が朝廷の紛争の調停に入った。


幕府は1274年、亀山天皇を「治天の君」とした。

皇位は後宇多天皇に譲位させ、亀山上皇の院政となった。


さあ、両統迭立に戻りましょう。


正直言って、この時代の皇室を勉強してると、あまりに謎が多すぎて、チンプンカンプンになってしまう。


別に、こっちは受験勉強したいわけじゃないのだが、変な学説に謎が解説されており、妙なバイアスがかかった答えを渡されてしまってる気がする。


ネットで鎌倉幕府の摂家将軍のことを調べてると、こんな東大入試問題に出くわした。


<東京大学1997年度第2問>

 

次の(1)から(5)の文を読み、下記の設問に答えよ。


(1) 1203年、北条時政は、孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し、幕府の実権をにぎった。この地位を執権といい、以後北条氏一族に世襲された。


(2) 1219年に実朝が暗殺された後、北条義時は、幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた。


(3) 1246年、北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき、有力御家人の三浦光村は、頼経の輿にすがって、「かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う」と涙ながらに言い放った。翌年、時頼は三浦泰村・同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた(宝治合戦)。


(4) 1266年、北条時宗は、15年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事件について、史書『増鏡』は、「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が、この宮に昼夜むつまじく仕えている間に、いつしか同じ心の者が多くなって、宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう」と説明している。


(5) 1333年、後醍醐天皇の皇子護良親王は、諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなかで、次のように述べた。「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが、承久以来、わがもの顔で天下にのさばり、朝廷をないがしろにしてきたが、ついに最近、後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た。天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は、下剋上の至りで、はなはだ奇怪である。」


設問


A 鎌倉幕府の体制のなかで、摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。北条氏と将軍との関係、反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら、3行(90字)以内で述べよ。


B 護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行(120字)以内で述べよ。


▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪


いかがだろうか?

私はこの問題を読んだとき、「さすが東大だな、官僚機構を壊さないような人物を、こういう問題で選別してるわけか」と思ってしまった。


正解は、とある高校教師が解答してあるが、それを書く前に、私なりの答えを、取り敢えず(B)だけ書いておこう。


カニの解答: 


レイシスト護良wクソだな、皇族だって昔はただの人だろ、成り上がりの癖に、高貴な血筋だと自ら言ってるのがムカつく。

北条が将軍になれない理由は、なろうとしなかったから。

それは血筋や家柄の問題じゃないんだよ、度胸の問題だ。

豊臣秀吉は百姓の出自で関白になってるだろ。

北条だってなろうと思えば簡単になれた。

それをしなかったのは、トップに立つより黒幕の方が、実益があることを、平安期の藤原氏を見ていてわかっていたからだ。


≪8行、200字≫失格w


120字じゃ無理だ w w w


それじゃあ、解答を書いておこう。


A 合議体制が確立した結果、摂家・皇族将軍は権威付けとしての存在であったが、幕府にとって名目上将軍は不可欠であり、反北条勢力の拠り所ともなった。(90字)


B 中世は公家の家格が確立され、官位と家柄が固定された時代であり、将軍は皇族や摂関に並ぶ貴種が任じられるものとされた。その身分意識の中で、得宗は在庁官人という低い出自の上、征討されるべき夷の系譜と見なされており、将軍になることはできなかった。(119字)


さあ、どう思う。

これが東大が求める解答であり、こう考える学生を東大は求めている。

豊臣秀吉のような人材は官僚育成機関には必要ないってことだw


第91代・後宇多天皇は「両統迭立」が始まって4番目の天皇である。

前にも書いたように、「両統迭立」の原因は第88代・後嵯峨天皇が、自分の正室の皇子2人を、順番に皇位に着けたことから端を発している。

いわゆる親王兄弟の兄弟ゲンカである。

兄が第90代・後深草天皇であり、弟が第91代・亀山天皇。

二人は同じ母から生まれ、6つ違いである。

さらに後深草の一つ上には別腹の、宗尊親王がおり、彼は第6代鎌倉将軍になっている。


しかし、疑問なのは、何でこの後、この後深草系統と、亀山系統が、それぞれ持明院統、大覚寺統、と名乗り、二つの皇統を平行して交互に100年も皇位継承するような事態になったのか・・・?ということである。


しかも、単純に、交互に順番で入れ替わった、というわけではない。


まずは①後嵯峨から持明院統の②後深草へ皇位が渡って、

次に大覚寺統の③亀山へ皇位が渡り、

その次は又、大覚寺統の④後宇多へ皇位が渡り、

次は持明院統の⑤伏見天皇となった。

そしたら次は又、持明院統の⑥後伏見天皇になり、

その次は今度は、大覚寺統の⑦後二条天皇になる、

そしたら次は又、持明院統の⑧花園天皇になり、

次は又、大覚寺統の⑨後醍醐天皇になる訳である。


もうメチャクチャである。


整理すると、後嵯峨天皇の次から・・・


持明院→大覚寺→大覚寺→持明院→持明院→大覚寺→持明院→大覚寺・・・という具合になっている。


多くの解説書によると、後嵯峨が死んだとき、後深草か亀山か、皇統を決めなければいけなかった。

なのに義嵯峨は鎌倉幕府に丸投げして死んだ。

ゆえに、鎌倉も困って結局2系統が並び立ったという風に書かれている。

しかし、これも妙な話である。


後嵯峨が死んだとき天皇は亀山であった。

しかも亀山の皇子が立太子(後宇田)していたのである。

だったら普通は、どう見ても皇統は亀山系である。


なのに、鎌倉幕府が後深草に気を遣って、後宇多天皇の皇太子に後深草の皇子を立てるように調整した。


だからおかしくなった。


ここのところが、さっぱりわからない。


なぜ、鎌倉幕府は後深草の第二皇子凞(ひろひと)を後宇多天皇の皇太子に立てたのか?


そこにこの頃の天皇家の謎の一つがあるような気がする。


皇統から外れるということが、その系統にとって、いったいどういうことなのか?

そして、さらに、この時期である。


後宇多が亀山からの譲位を受けて、践祚したのが1274年1月である。

この時、後宇田8歳であった。

そして、あの元寇があった文永の役が1274年11月である。

穿った見方をすれば、亀山はモンゴルが怖くて天皇を退位したようにも見える。


モンゴルと両統迭立、これって、偶然の一致じゃないだろう。

そして、両統迭立の時期と2度の元寇、及び、鎌倉将軍に皇族を据えたのも。

鎌倉将軍に皇族がなったのは、これよりもちょっと時期が早い1252年であるが、それでも宗尊親王→惟康親王と皇族将軍が続き、さらに惟康親王だけが1270年に臣籍降下してることは、元寇と関係していると考えずにはいられない。

皇族というものは高貴なものなのだろうか?

今、やってる作業は、もしかしたら人が皇籍を得るにはどうすればいいのかを探る作業なのかもしれない。


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