「伏見宮家とサリカ法典」
ユーチューブで「亡国の女性天皇論から目覚めよ」という動画があって、
私はコメントを書いた。
「男系男子の伝統を守ろうとする勢力の理論が弱いところは、養子案で男系血統のもっとも近い鷹司家系の男子を蔑ろにしているところにある。日本人は万世一系の皇統が2680年も続いているから皇室を敬愛し維持しようとしているのであって、(君臣の別)を支持してる人はほとんどいない。身分を持ち出して、血統の近遠を蔑ろにする竹田恒泰や伏見宮押しの保守の考えに、日本人は決して賛同しないだろう。そのような主張を続けていると、左翼の女系天皇容認勢力に負けて皇統が女系になってしますよ。」と書いた。
すると、数件、私に批判的なコメントが目についたので、私は以下のように丁寧に質問した。
「旧宮家の伏見宮系の男系男子の子孫を皇籍復帰させるのと、同じ世襲親王家であった閑院宮から鷹司家へ養子に入った閑院宮直仁親王の第4王子の淳宮(鷹司輔平さん)の男系子孫を皇籍復帰させるのと、どんな差があるのか、養子候補が伏見宮系の男子だけに限定されてる理由は何か?」
すると、私が質問したコメントは、元コメも含めて立て続けに消された。
要するに数件あった反論は、全て同一人物によるコメントであったわけで、私の質問は非常に都合が悪かったのであろうと思われる。
ここに、おそらく、伏見宮押しの保守の弱点がある。
小泉内閣時代の話になるが「水間政憲」氏という保守の論客が、皇位継承順位を、血統の近遠で順位つけてくれた、ちょっと覗いてみると、
これはサリカ法典式という、男系相続長子優先での血縁関係で見るやり方だそうです。
【皇室】
1位 徳仁親王(1960~)
2位 文仁親王(1965~)
3位 悠仁親王(2006~)
4位 正仁親王(1935~)
【皇別摂家】
5位 「華園真準」(1925~2019)▲
6位 「華園真暢」(1957~)
7位 「梶野行淳」(1942~)
8位 「梶野行良」(1978~)
9位 「徳大寺公英」(1919~)
10位 「徳大寺実啓」(1946~)
11位 「徳大寺公信」(1980~)
12位 「高千穂有孚」(1915~)
13位 「高千穂宣比古」(1950~)
14位 「徳大寺公忠」(1945,2,8~)
15位 「徳大寺公仁」(1977~)
16位 「中院泉」(1948~)
17位 「住友芳夫」(1943~)
18位 「住友隆道」(1976~)
19位 「住友信夫」(1945~)
20位 「室町公範」(1926~)
21位 「室町公庸」(1962~)
22位 「山本公慶」(1921~)
23位 「山本実裕」(1952~)
24位 「山本実裕」長男(公隆)(1987~)
25位 「山本実裕」次男(公宣)(1990~)
26位 「東儀季一郎」(1942~)
27位 「東儀季祥」(1971~)
28位 「東儀季祥」長男(季和)(1997~)
29位 「東儀季祥」次男(季辰)(2001~)
30位 「東儀博昭」(1954~)
31位 「北河原公敬」(1943~)
32位 「北河原公慈」(1988~)
33位 「北河原公仁」(1948~)
34位 「北河原公史」(1950~1972)▲
35位 「千秋李頼」(1950~)
36位 「千秋李嗣」(1983~)
37位 「常磐井理」(1948~)
38位 「常磐井亘」(1979~)
39位 「常磐井隆」(1963~)
40位 「常磐井鸞猷」(1932~)
41位 「常磐井慈裕」(1959~)
42位 「近衛一」(1962~)
43位 「近衛大」(1967~)
44位 「水谷川忠俊」(1935~)
45位 「近衛雅楽」(1958~)
46位 「醍醐忠久」(1928~)
47位 「醍醐忠紀」(1958~)
48位 「醍醐忠明」(1993~)
49位 「佐野常行」(1935~)
50位 「佐野常武」(1942~)
51位 「佐野常具」(1946~)
52位 「南部利文」(1970~)
53位 「南部利忠」(1971~)
54位 「南部利博」(1934~)
55位 「南部利昭」(1935~2009)▲
【旧皇族】
56位 「筑波常遍」(1935~)#
57位 「筑波和俊」(1949~)#
58位「葛城茂久」(1934~2000)▲
59位 「葛城茂敬」(1936~)#
60位 「葛城宏彦」(1971~)#
61位 「賀陽正憲」(1959~)
62位 「賀陽正憲」長男(1991年以降生)
63位「 賀陽正憲」次男(1991年以降生)
64位 「賀陽文憲」(1931~2021)▲
65位「賀陽宗憲」(1935~2017)▲
66位「 賀陽健憲」(1942~2017)▲
67位 「久邇邦昭」(1929~)
68位 「久邇朝尊」(1959~)
69位 「久邇邦晴」(1961~)
70位 「久邇朝建」(1940~)
71位 「久邇朝俊」(1971~)
72位 「久邇朝宏」(1945~)
73位 「東伏見韶俶」(1940~)#
74位 「東伏見守俶」「慈晃」と改名(1942~)#
75位 「東伏見憲和」「光晋」と改名(1977生~)#
76位 「東伏見睿俶」(1945,10,9~)#
77位 「東伏見禎容」(1981~)#
78位 「宇治家彦」(1920~2008)▲
79位 「宇治嘉彦」(1946~)#
80位 「宇治家寛」(1947~)#
81位 「龍田徳久」(1946~)#
82位 「龍田吉光」(1980~)#
83位 「朝香誠彦」(1943~)
84位 「朝香明彦」(1972~)
85位 「東久邇信彦」(1945~2019)▲
86位 「東久邇征彦」(1973~)
87位 「東久邇征彦」長男(2010~)
88位 「壬生基博」(1949~)
89位 「壬生基成」(1979~)
90位 「壬生基成」長男(2007)
91位 「壬生基敦」(1982~)
92位 「壬生基敦」長男(2009)
93位 「東久邇真彦」(1953~)
94位 「東久邇照彦」(1979~)
95位 「東久邇照彦」長男(2003~)
96位 「東久邇睦彦」(1980~)
97位 「寺尾厚彦」(1966~)#
98位 「東久邇盛彦」(1967~)
99位 「粟田常一」(1953~)#
100位 「粟田彰彦」(1955~)#
101位 「アルフレッド稔彦」(1971~)
102位 「竹田恒正」(1940~)
103位 「竹田恒貴」(1974~)
104位 「竹田恒治」(1944~)
105位 「竹田恒昭」(1979~)
106位 「竹田恒智」(1980~)
107位 「竹田恒和」(1947~)
108位 「竹田恒泰」(1975~)
109位 「竹田恒俊」(1978~)
110位 「北白川道久」(1937~2018)▲
111位 「小松揮世久」(1949~)#
112位 「小松豊久」(1921~)#
113位 「上野正泰」(1918~)#
114位 「白川久雄」(1927~)#
115位 「伏見博明」(1932~)
116位 「華頂博道」(1930~)#
117位 「華頂尚隆」(1957~)#
118位 「華頂博俊」(1961~)#
119位 「華頂博行」(1962~)#
120位 「伏見誓寛」(1938~)
▲は鬼籍、#は戦後皇籍離脱でない旧宮家
参考文献
古代豪族系図集覧
宮廷公家系図集覧
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上位の「華園家」「梶野家」「徳大寺家」「中院家」「住友家」「室町家」「山本家」「東儀家」は、
全て「鷹司家」から分かれた家、
即ち「鷹司輔平」(淳宮)さんの直系男系である。
旧宮家の男子が皇籍復帰出来るなら、
彼らも同様に皇籍復帰出来るはずである。
・・・というより、
旧宮家より圧倒的に血統は近いのです。
血筋の近さだけでいうなら、華園さん、梶野さん、徳大寺さん辺りが、もっとも近いのです。
資料が古いので、今は何名か鬼籍にはいられていますが、
みんな鷹司系ですから大差はないでしょう。
「上皇陛下」と18親等しか離れていない「皇別摂家」の代表で「徳大寺実啓」さんの系図を、
書いてみたいと思います。
閑院宮直仁親王-典仁親王-光格天皇-仁孝天皇-孝明天皇-明治天皇-大正天皇-昭和天皇-上皇陛下―天皇陛下。
閑院宮直仁親王-鷹司輔平 - 政煕 -政通 - 徳大寺公純 ― 実則 - 公弘 - 実篤 - 公英 - 実啓さん。
とりあえず、この系図が、日本で一番、天皇に男系男子で近い方の系図のようです。18親等、世数8です。
比較するため、
旧宮家代表で「竹田恒泰」さんの系図も載せておきます。
伏見宮貞成親王-後花園天皇-後土御門天皇-後柏原天皇-後奈良天皇-正親町天皇-誠仁親王-後水尾天皇-霊元天皇-東山天皇-閑院宮直仁親王-典仁親王-光格天皇-仁孝天皇-孝明天皇-明治天皇-大正天皇-昭和天皇-上皇陛下―天皇陛下。
伏見宮貞成親王-貞常親王-邦高親王-貞敦親王-邦輔親王-邦房親王-貞清親王-貞致親王-邦永親王-貞建親王-邦頼親王-貞敬親王-邦家親王-北白川宮能久親王-竹田宮恒久王-恒徳王-竹田恒和-恒泰。
なので、36親等、世数16です。
これを見てもわかるように、旧宮家と皇別摂家の男系男子は父系は親等数も世代数も倍、違うのです。
もちろん、日本の伝統では、男系血統の近い男が、皇位にふさわしいのです。
さて、それでも困ったことに、どちらも、今は皇籍が無い。
ゆえに皇統に戻るには、皇籍を取得せねばなりません。
そこで、過去における「皇籍復帰」の例を見てみるましょう。
①和気王(755年降下・759年復帰)
「天武天皇」(てんむてんのう)曾孫。
「御原王子」(みはらのおうじ)
755年に「岡真人」(おかのまひと)の姓を賜って降下するが、
759年に「淳仁天皇」(じゅにんてんのう)の甥として皇籍に復帰する。
765年に謀反の疑いで殺害される。
「和気王」(わけおう)の子達
「大伴王」(おおともおう)
「長岡王」(ながおかおう)
「名草王」(なぐさおう)
「山階王」(やましなおう)
「采女王」(うねめおう)らは、
父の謀反に連坐して「臣籍降下」を命じられるが、
771年に皇籍に復帰する。
②山辺真人笠(764年降下・774年復帰)
「天武天皇」子孫。
「笠王」
764年に「三長真人」を賜姓、
771年に「山辺真人」を賜姓、
774年に「皇籍復帰」。
③「厨真人厨女」(769年降下・773年復帰)
「聖武天皇」皇女。
「不破内親王」
「称徳天皇」に対する「呪詛事件」に関わったとされて降下させられるが、
3年後復帰し「内親王」となる。
④「源朝臣是忠」「光孝天皇」「子」同母弟の「定省」が「宇多天皇」として即位したことに伴い、
皇籍に復帰。
⑤「源朝臣是貞」「光孝天皇」「子」同母弟の「定省」が「宇多天皇」として即位したことに伴い、
皇籍に復帰。
⑥「源朝臣定省」(884年降下・887年復帰)
「光孝天皇」「子」
「源姓」を賜って「臣籍降下」後に皇族復帰し践祚。
「宇多天皇」即位後「源是忠」ら同腹の兄弟達も皇籍に復帰している。
⑦「源朝臣維城」(887年皇籍へ)当時臣籍にあった「源朝臣定省」の子。
父の「皇籍復帰」に伴い、自身も皇族となり、後に践祚する(醍醐天皇)。
⑧「源朝臣斉中」(887年皇籍へ)臣籍にあった「源朝臣定省」の子。
「定省」の「皇籍復帰」に伴い皇籍へ移る。
⑨「源朝臣斉世」(887年皇籍へ)「臣籍」にあった「源朝臣定省」の子。
「定省」の「皇籍復帰」に伴い皇籍へ移る。
⑩「源朝臣兼明」(932年降下・977年復帰)「醍醐天皇」皇子。
「源姓」を賜って「臣籍降下」し後に左大臣となる。
ところが、977年勅命によって突如皇籍に復帰させられて「中務卿」に遷った。
これは、皇族は大臣とならない当時の慣例に目を付けて、
「左大臣」の地位を狙った「藤原氏」の陰謀と言われている。
⑪「源朝臣盛明」「醍醐天皇」「子」
⑫「源朝臣昭平」(961年降下・977年復帰)「村上天皇」子。
「源朝臣兼明」と同時に皇籍に復帰した。
「村上天皇」の皇子の中で唯一の臣籍であった状態の解消を図る措置とされる。
⑬「源朝臣惟康」(1270年降下・1287年復帰)「後嵯峨天皇」孫で、「宗尊親王」の嫡男。
当初は「親王宣下」を受けず「惟康王」
「征夷大将軍」就任後に「臣籍」に降下し「源朝臣」の「氏姓」を賜り、
後に「皇籍」に復帰し「親王宣下」を受ける。
後に「征夷大将軍」を廃されて京都へ送られる。
⑭「源朝臣久良」(1330年復帰)「後深草天皇」孫。前征夷大将軍「久明親王」の子。
⑮「源朝臣忠房」(1319年移行)「順徳天皇」曾孫。
「臣籍」として生まれたが、「後宇多上皇」の「猶子」となり「皇籍復帰」する。
⑯「清棲家教」(きよすいえのり)(1872年降下・1888年復帰・再降下)「伏見宮邦家親王」子。
慶応2年(1872年)に出家して「佛光寺管長教応」の養子となり「臣籍降下」。
明治5年(1872年)に渋谷の名字を名乗る。
明治21年(1888年)6月28日に渋谷家を離籍して皇籍復帰し、同日付で再度臣籍降下し、
新たに清棲の家名を賜り、華族となって伯爵に叙される。
渋谷家は家教の子渋谷隆教が相続している。
家教の没後、清棲家は真田幸民伯爵第3子の幸保が承継する。
・・・・・以上、歴史的に見て16例があります。
これをもって「臣籍降下しても、皇籍復帰できる・・・」と言えるでしょうか?
結論を出すのは早計なので、全然知らない歴史上の人ばかりだし、ちょっと一人一人、
調べてみたいと思い、色々調べていたら、
wikipediaに「皇別摂家の皇籍復帰について」
という解説が目について、ちょっと読んでみて驚きました。
この内容が驚くべきトンデモ論だったので、ちょっと横道に逸れるが、紹介したいと思います。
①「鷹司輔平」など「皇別摂家」の男系先祖たる皇子(男性皇族)が「臣籍降下」したのは、
約260年前の昔の出来事である。
②嗣子のない摂家の養子となったのだから「藤原氏」の子孫であって皇別とは言えない。
③「藤原氏」および「中臣氏」は神別であり「藤原氏」には「皇位継承」資格はない。
④皇族となるには、血筋が皇胤かどうかだけでは駄目で、家柄、家格も必要であるが、摂家や清華家は臣下の家柄である。
以上がwikipediaによる「皇別摂家」が「皇籍復帰」できない理由だそうである。
すごい理由ですねw
こんなのがwikipediaの解説なんですね、
「皇別摂家」が「皇籍復帰」できない理由がこれなのだとしたら、
簡単に論破できそうですw
まず「日本国民」の理解は絶対これでは得られませんよw
まったくバカな論理です。
まず①ですが「臣籍降下」した期間が重要なのであれば、
戦後「臣籍降下」した元皇族の方々は1947年から77年たっています。
「鷹司輔平」さんが「臣籍降下」したのが1743年なので281年たっています
祟光天皇の第一皇子として栄仁が生まれたのが1351年ですから673年前です。
東山天皇の第六皇子として直仁が生まれたのが1704年ですから320年前です。
皇位継承条件に、皇籍離脱後の期間が重要ならば、
皇位継承条件に、天皇から血が分れた後の期間も重要です。
旧宮家は、皇籍を失って77年、天皇から血が分かれて673年です。
皇別摂家は、皇籍を失って281年、天皇から血が分かれて320年です。
もし皇族でなくなった期間と、男系血統の遠さが、1:1ならば、
旧宮家は77+673=750
皇別摂家は281+329=610
となり、総合ポイントで、皇別摂家の方が140年皇位に近いと判断されます。
ところが、貴殿方は、そう判断しない。
となると、皇籍離脱してた期間より、男系血統の遠さの方が、重要度が低いと見ているということです。
もうそこから、私には理解できない理屈ですが、100歩譲って、貴殿の理屈に合わせるとして、
いったいその比率は何対何なのでしょうか?
皇籍離脱していた期間は、男系血統の遠さの倍の重要度だとすると、
計算すれば、
旧宮家は77x2+673=823
皇別摂家は281x2+329=891
となり、旧宮家の方が68年、皇位に近いと判断できます。
このような計算をしてないといわれるかもしれませんが、
何の計算もなしに、皇籍離脱していた期間の方が、男系血統の遠さより重要だから、旧宮家の方に正当性があると言われても、本音を誤魔化してるようにしか思えません。
次に②ですが、これも酷い。
なんですか、摂家の養子に入ったら「藤原氏」の子孫であって皇別とは呼べないってw
なんなんですか、養子に入ったら、流れてる血が入れ替わるんですか?
アホか?ですね。
③も酷いですね。
「藤原氏」には皇位継承資格はないってw
氏が藤原になっても、中身までは代わらないんですけどね、ここらへんの理由で、竹田恒泰が、
万世一系の男系維持ってのが建前であり、本音が家柄重視であり、それを隠す大義名分が男系維持だということがよくわかりますよね。
そして最悪なのが④ですね。
血筋が皇胤かどうかだけではダメで、家柄・家格も必要であるってw
もう、もろ憲法違反ですやんw
もう家柄差別を隠そうともしないんですね。
何開き直ってんですかねww
だったら最初からそう言えって言いたいですね。
万世一系男系男子の日本の伝統を守る、とか綺麗事言ってんじゃねーよ、ふざけんな、って思いますね。
さてそれでは話をもとに戻しましょう。
「臣籍降下」した皇族が「皇籍復帰」した16例についてですが、
まず、16人を並べると・・・
①「和気王」
②「山辺真人笠」
③「厨真人厨女」
④「源朝臣是忠」
⑤「源朝臣是貞」
⑥「源朝臣定省」
⑦「源朝臣維城」
⑧「源朝臣斉中」
⑨「源朝臣斉世」
⑩「源朝臣兼明」
⑪「源朝臣盛明」
⑫「源朝臣昭平」
⑬「源朝臣惟康」
⑭「源朝臣久良」
⑮「源朝臣忠房」
⑯「清棲家教」
まず①和気王、②山辺真人笠、③厨真人厨女、であるが、
この人達は、なんと「道鏡」と関連しています。
日本三悪人と言われた中の一人「道鏡」。
「日本三悪人」は「道教」「平将門」「足利尊氏」なのですが、
面白いことに、みんな己が天皇になろうとした男たちでばかりですね。
「道鏡」(どうきょう)700年? – 772年は、奈良時代の僧侶。
俗姓は「弓削氏」(弓削連)で「弓削櫛麻呂」の子とする系図がある。
俗姓から「弓削 道鏡」(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。
「弓削氏」は弓を製作する「弓削部」を統率した氏族。
複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は「物部氏」の一族とされ、
「物部守屋」が母姓を仮冒して「弓削大連」と称して以降、その子孫が「弓削氏」を称したという。
「孝謙上皇」が764年に出した宣命では、
「道鏡」が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよ、
との「藤原仲麻呂」からの奏上があったと語られるが、
この「大臣」は「大連」の地位にあった「物部守屋」を指すと考えられる。
「天智天皇」の皇子である「志貴皇子」の落胤とする異説もある。
700年に 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれた。
若年の頃に法相宗の高僧「義淵」の弟子となり、
「良弁」から梵語(サンスクリット語)を学んだ。
禅に通じていたことで知られており、
これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され「禅師」に列せられた。
761年、「平城宮」改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、
病気を患った「孝謙上皇」(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、
その寵を受けることとなった。
「淳仁天皇」は常にこれに対して意見を述べたため
「孝謙上皇」と「淳仁天皇」とは相容れない関係となった。
763年「慈訓」に代わって少僧都に任じられ、
764年には「藤原仲麻呂の乱」で「太政大臣」の「藤原仲麻呂」が誅されたため、
「道鏡」が「太政大臣禅師」に任ぜられた。
翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。
「道鏡」の後ろ盾を受け、弟の「浄人」が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、
一門で五位以上の者は10人に達した。
これに加えて「道鏡」が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、
藤原氏らの不満が高まった。
768年「藤原仲麻呂の乱」
これが「和気王」「山辺真人笠」「厨真人厨女」の「臣籍降下」に深く関係してる事件です。
「和気王」が「臣籍降下」されたのは755年で「皇籍復帰」されたのが759年です。
「藤原仲麻呂」の乱が764年「和気王」が殺されたのは765年なので
「仲麻呂の乱」の翌年「和気王が乱」を起こしました。
「和気王」は「天武天皇」の曾孫で「舎人親王」の孫です。
「孝謙天皇」は「舎人親王」系の皇族を追放したかったとも言われています。
「孝謙天皇」は「聖武天皇」の子で「聖武天皇」は「草壁皇子」の孫です。
そして舎人親王と草壁皇子は腹違いの兄弟。
要するに天武天皇の系統で、
「草壁系」と「舎人系」で争ってたということです。
「孝謙天皇」の在位は(749年- 758)
「孝謙天皇」は一度譲位し、再び天皇に即位して、
第48代「称徳天皇」(764年- 770年)と称しています。
この「孝謙天皇」(称徳天皇)と争ったのが第47代「淳仁天皇」です。
この「淳仁天皇」と「藤原仲麻呂」が組んで「孝謙上皇」と「道鏡」に逆らったのが
「藤原仲麻呂の乱」です。
「山辺真人笠」と「厨真人厨女」なんですが、
この二人も「仲麻呂側」に連座して「臣籍降下」されたというわけです。
「山辺真人笠」は、なんと2回も「皇籍降下」されています。
そして2度とも「皇籍復帰」しています。
764年、藤原仲麻呂の乱で臣籍降下(三長真人姓)
771年7月、皇籍復帰(1回目)
771年9月、山辺真人姓を与えられ臣籍降下(2回目)
774年12月に皇籍復帰(2回目)
「厨真人厨女」は「不破内親王」と呼ばれていたが「称徳天皇」を呪詛した罪で、
769年「臣籍降下」され「厨真人厨女」という姓になった。
772年、冤罪であったと許され「皇籍復帰」
以上を見ると、この3人は「臣籍降下」してた時期も短期間だし「皇籍復帰」したのも本人だから、
現代の伏見宮と閑院宮の子孫の「皇籍復帰」の参考にはならないと思われます。
次の④⑤⑥⑦⑧⑨の6名ですが同時期に「臣籍降下→皇籍復帰」しております。
④「源朝臣是忠」(みなもとのあそんこれただ)
光孝天皇子。同母弟の定省が宇多天皇として即位したことに伴い、皇籍に復帰。
⑤「源朝臣是貞」(みなもとのあそんこれさだ)
光孝天皇子。同母弟の定省が宇多天皇として即位したことに伴い、皇籍に復帰。
⑥「源朝臣定省」(みなもとのあそんさだみ)
(884年降下・887年復帰)光孝天皇子。
源姓を賜って臣籍降下後に皇族復帰し、践祚する(宇多天皇)。宇多天皇即位後、源是忠ら同腹の兄弟達も皇籍に復帰している。
⑦「源朝臣維城」(みなもとのあそんこれざね)(887年皇籍へ)
当時臣籍にあった源朝臣定省(後の宇多天皇)の子。
父の皇籍復帰に伴い自身も皇族となり後に践祚する(醍醐天皇)
⑧「源朝臣斉中」(みなもとのあそんときなか)(887年皇籍へ)
臣籍にあった源朝臣定省の子。
定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。
⑨「源朝臣斉世」(みなもとのあそんときよ)(887年皇籍へ)
臣籍にあった源朝臣定省の子。
定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。
さて、この⑥「源朝臣定省」(みなもとのあそんさだみ)が「宇多天皇」(うだてんのう)です。
第59代「宇多天皇」(うだてんのう)は、
第58代「光孝天皇」(こうこうてんのう)の第七皇子で、
父帝「光孝」(こうこう)は、
第57代「陽成天皇」(ようぜいてんのう)の大叔父にあたります。
「大伯父」とは爺ちゃんの兄弟です。
「陽成」が不祥事によって退位させられたために、
年上の大伯父が即位に至ったわけです。
ゆえに自身の後は再び「陽成」の同母弟「貞保親王」(さだやすしんのう)など
「嫡流」に皇位が戻ると考えていました。
ここで、重要なのが「嫡流」の意味です。
「嫡流」(ちゃくりゅう)とは、
氏族の本家を継承する家筋・家系のことをいう。
正系、正嫡、嫡系ともいう。
対義語は「庶流」という。
敬って「御嫡々の家系」という場合もある。
嫡流の家を宗家、総本家、嫡家、大本家、本家という。
ちなみに「直系」を嫡流の意味で用いるのは誤用で、
直系とは正しくは親の親もしくは子の子といった関係の連鎖で結ばれる生物学的関係をいい、
直系・傍系はあくまで純粋な生物学的血統上の語であり、家筋・家系とは関係がない。
例えば、ある人物から見たときその子孫はすべて直系卑属であるから、
分家・庶流の子孫も直系であるし、また、傍系は相対的な系統上の関係をいうから、
分家からみた本家は傍系である。
あくまで「氏祖」の祭祀を継承する家系を意味する語であり、
長男が継承者となることが多いものの、
次男以下あるいは養子の子孫が嫡流となる場合もある。
ちょっと説明が長くなったが、要するに、「光孝天皇」は「陽成天皇」の「嫡流」とは程遠い「庶流傍系」の血筋、つまりワンポイントの天皇であった。
ゆえに、自分の子女には皇室に残るメリットはないと考えた。
ゆえに「光孝天皇」(こうこうてんのう)は884年に26人の皇子皇女に、
「源姓」を賜い「臣籍降下」させた。
「定省王」(さだみおう)もその一人であった。
「光孝天皇」は皇太子を立てることのないまま、
即位から3年後の887年に重態に陥った。
ここで、不思議なことが起こった。
関白「藤原基経」が、
天皇の内意が「貞保親王」(さだやすしんのう)ではなく
「源定省」(みなもとのさだみ)であると表明したのだ。
ここで「関白」についてだが、
関白とは摂政と同じで、天皇を補佐する第一人者という意味で、
「摂政」は天皇が子供だったり女性のときつきますが、
関白は天皇が成人でもつき、
この時の関白が「藤原基経」で
なんと歴代最初の「関白」であった。
「貞保親王」(さだやすしんのう)は皇統の嫡流に近く、
また基経にとっても甥ではあったが、
その母「藤原高子」は「基経」とは同母兄妹ながら不仲という事情があった。。
一方「基経」自身は特に「定省」を気に入っていたわけではない ものの、
「定省」は基経の仲の良い異母妹「藤原淑子」の猶子であり、
天皇に近侍する尚侍として後宮に強い影響力を持つ「淑子」が熱心に推したこともあり、朝議は決した。
同母兄の「源是忠」(これただ)を差し置いて弟の「定省」が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、
「基経」以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた。
「定省」は皇族に復帰して「親王宣下」を受け、立太子し、
その日のうちに「光孝」が崩じたため践祚し即位した。
「臣籍降下」→「皇籍復帰」した例として前述した
④「源是定」(みなもとのこれただ)
⑤「源是貞」(みなもとのこれさだ)
⑥「源定省」(みなもとのさだみ)
を解説しよう。
⑥「源定省」(みなもとのさだみ)はのちの第59代「宇多天皇」(うだてんのう)で、
この頃の、天皇の流れをざっと解説しておくと、
「宇多天皇」の父が第58代「光孝天皇」(こうこうてんのう)
その父が第57代「陽成天皇」(ようぜいてんのう)
この第57代「陽天天皇」が即位したのは7歳のときで、非常に奇行が多く
「摂政」の「藤原基経」(ふじわらのもとつね)にとって
「陽成天皇」は甥だったけれど、当時17歳の「陽成天皇」を退位させます。
そして第58代「光孝天皇」が選ばれるのですが、
この「光孝天皇」は当時もう54歳の爺さんでした。
「光孝天皇」の父は第54代「仁明天皇」(にんみょうてんのう)です。
自分はワンポイントだと自覚していた「光孝天皇」は、
摂政「藤原基経」の機嫌を損ねないように、
先代の「陽成天皇」の実弟であり「基経」の甥にあたる「貞保親王」(さだやすしんのう)を
次の天皇であると決めつけ、
自分の子供は全員「臣籍降下」させてしまいました。
しかし「光孝天皇」が死んだ時、摂政「藤原基経」は、
自分の甥である貞保親王をなぜか即位させたくなかった。
なぜなら貞保親王の母である藤原高子は藤原基経の実妹なんだが、
二人は非常に仲が悪かったからである。
ゆえに、一度「臣籍降下」させた「光孝天皇」の第15皇子「源定省」を「臣籍復帰」させることにした。
この時「定省」20歳。
そして、ついでに「定省」の同母の兄2人も「臣籍復帰」させた。
④源是忠
⑤源是貞である。
そして、⑥源定省は第59代「宇多天皇」となった。
この時「源定省」(みなもとのさだみ)には3人の子供がいた。
⑦「源朝臣維城」(みなもとのあそんこれざね)
⑧「源朝臣斎中」(みなもとのあそんときなか)
⑨「源朝臣斎世」(みなもとのあそんときよ)である。
この3人も「定省」と同時期に「皇籍復帰」させた。
そして
⑦源朝臣維城は第60代「醍醐天皇」となった。
ゆえに、ここで珍事が起こる。
⑦「維城」(これざね)「斉中」(ときなか)「斉世」(ときよ)は、
生まれたときは「臣籍」ですから人であった。
しかし、3歳の時に突然、神になった。
親の都合で「皇籍」に代わったのですから。
ゆえに彼らは後にも先にも
人間から天皇になった唯一の人ということになります。




