「伏見宮家と臣籍降下」
「閑院宮直仁」(かんいんのみや なおひと)親王の第4皇子「淳宮」(あつのみや)が臣籍降下し
「鷹司輔平」(たかつかさ すけひら)氏となったのが1743年。
令和6年(2024年)から数えると281年前である。
「閑院宮直仁親王」が「東山天皇」の第六皇子として生まれたのは1704年、
東山天皇を祖とする東山鷹司流男系は皇統から分かれて令和6年で320年たっている。
祟光流伏見宮男系である旧11宮家が皇籍離脱したのは1947年10月14日である。
令和6年(2024年)の77年前である。
伏見宮の祖は北朝第三代祟光天皇である。
伏見宮初代は「栄仁」(よしひと)、祟光天皇第1皇子であり、生まれたのは1351年である。
皇子と生まれて令和6年で673年がたっている
(a)、この男系は、皇籍離脱して281年たつが、皇位から分かれて320年の男系血統である。
(b)、この男系は、皇籍離脱して77年しかたってないが、皇位から分かれて673年の男系血統である。
皇位継承が優先されるのは(a)(b)どちらの系統が適当でしょうか?
(a)皇別摂家、
(b)旧宮家、です。
「臣籍降下」(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。「賜姓降下」(しせいこうか)とも言い、そのような(広義における)皇族を俗に「賜姓皇族」(しせいこうぞく)という。
皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は「臣籍降嫁」(しんせきこうか)とも言う。
身分制度が廃止された日本国憲法下においては、
皇籍を喪失することを「降下」と表現するのは不適切とされ「皇籍離脱」(こうせきりだつ)が用いられる。
昔の律令の規定では、皇族(当時の言葉では「皇親」)の範囲を、
歴代の天皇からの直系の代数で規定しており、
四世(直系の4代卑属、以下同)までは王あるいは女王と呼ばれ、
五世王は皇親とはならないものの王号を有し従五位下の「蔭位」(おんい)を受け、
六世目からは王号を得られないものとされた(もっとも、慶雲3年(706年)2月の格で変更あり)
そのため、歴代天皇から男系で一定の遠縁となった者は順次臣籍に入るものとされた。
しかし、平安時代前期の皇室が多くの皇子に恵まれると、
規定通りに解釈した場合の四世以内の皇族が大量に発生することになり(一説には500人以上)、
しかも、そのほとんどが皇位継承の可能性が極めて低い状態になった。
また、皇族の中には国家の厚遇にかこつけて問題を起こす者もいた。
これらの皇親に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで、
財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちは、
五世になるのを待たずに、臣籍降下をさせる運用が始まった。
特に第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)は、
一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて臣籍降下を行った。
第52代「嵯峨天皇」(さがてんのう)はじめ、以降の天皇も多くの子女を儲け、
その多くが一世で臣籍降下した。
また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、
安定した収入を得ることが困難になったため「臣籍降下」によって、
その制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。
だが「臣籍降下」して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが、
実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、
そのまま土着し武士・豪族となる例が多かった。
臣籍降下した元皇族は、
新たに「氏」(うじ)と「姓」(かばね)を下賜されて一家を創設することが多かった。
これを「皇親賜姓」(こうしんしせい)という。
一方で、臣下の養子(猶子)となる形で臣籍に降下する例もあった。
なお「臣籍降下」に際して「諱」については王号が除かれるのみで改めないのが通常であるが、
「葛城王」と弟「佐為王」(さいおう)が「母の橘宿禰の姓を受け継ぎたい」と上表し、
「聖武天皇」から「葛城王」に対し「橘宿禰諸兄」、
「佐為王」に「橘宿禰佐為」の名が与えられた。
また「以仁王」(もちひとおう)から「源以光」(みなもとのもちてる)のように改める事例もあった。
一般に皇族が賜姓された場合は「佐為」のように王の時の名をそのまま使うことが多い。
「諸兄」という名は彼が「光明皇后」の異父兄であり、
「聖武」にとっても兄筋にあたることを強調したものと考えられる。
与えられる氏姓について、古来は、多様な氏が与えられていたが、
平安時代に入ると「源氏」および「平氏」のいずれかを与えるのが常例化する。
「源氏」は第52代「嵯峨天皇」(さがてんのう)が、
814年に自らの皇子3名に「皇親賜姓」(こうしんしせい)を行い「源氏」を授けたことに始まる。
これは「魏書」の「源賀伝」に出典するものである。
「平氏」は第53代「淳和天皇」(じゅんなてんのう)が、
825年に「桓武天皇」第5皇子「葛原親王」(かずらわらしんのう)の子女(二世王に相当)に
「平氏」を賜った(授けた)ことに始まる。
これは「桓武天皇」(かんむてんのう)が築いた平安京にちなんだ氏である。
「姓」(かばね)は第9代の「開化天皇」以降の皇別の氏族には「公」(きみ)が与えられていた。
カバネには「姓」という漢字表記が当てられているが、
この字は先秦時代の中国では血縁的氏族を指し、
一方で「氏」字は領土的氏族を指すものであった。
しかし漢代には両者が混同されるようになっており、
日本に漢字が伝来した際こうした字義の混用も伝わった。
古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある。
古くから、カバネは氏の格を表す尊号であり序列を表すものとしても解されているが、
元来はそうした序列を示す機能はなかったとも言われ、
カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。
通説的には氏の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、
天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。
代表的な古代のカバネには臣、君、連、直、造、首などがある。
684年(天武13年)に八色の姓が制定され、
上位から順に真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8種に整理された。
これらは奈良時代から平安時代にかけて上位の冠位を得ることができる氏と下級の氏を分けるものとして扱われ、上位のカバネを求めて改姓が繰り返された。
最終的には朝臣・宿禰以外はほとんど賜姓の対象とならなくなり、また平安時代後期頃までに藤原氏に代表される特定氏族が上位の冠位を占有するようになるとともに実質的な意味合いを失っていった。
しかし、カバネ自体はその後も命脈を保ち明治時代初期まで存続した。
明治維新後、日本人の人名に関する規定が整理される中で、
1871年(明治4年)の姓尸不称令によって公文書においてカバネ(尸)を表記しないことが定められた。
「親王・内親王」の称号は最初、天皇との血縁関係によって自動的に与えられていた。
平安初期に皇位継承候補を「人為的」に選別して天皇からその身分を与える「親王宣下」が定められ、
逆に「親王宣下」をされなかった王は「臣籍降下」をするようになる。
【※親王宣下を宣旨した初例は第47代淳仁天皇】
これによって、当初の律令の規定とは逆に、皇籍に残すか否かの決定が先にあり、
その結果を親王/王の称号の差で公認する運用が定着する。
平安時代後期、
1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから平家滅亡の1185年頃までの「院政時代」以降、
家格秩序を崩しかねない「皇親賜姓」による「新規の公家の創設」に消極的になったことから、
それまでは「臣籍降下」していた傍系の皇子は幼少の頃に出家させ「法親王」とし、
子孫を遺させない方針を採るようになる。
やがて皇位継承又は「世襲親王家」相続と無関係の皇族は出家する慣例となり「賜姓皇族」はなくなった。
鎌倉時代以降「臣籍降下」を行って、
新たに立てられて明治時代まで存続した「堂上家」【※新規の公家の創設】は「広幡家」のみであった。
※広幡家は、正親町源氏嫡流の公家・華族の家。
公家としての家格は「清華家」(せいがけ)、
華族としての家格は侯爵家。
江戸時代前期、正親町天皇の皇孫で陽光院太上天皇「誠仁親王」(さねひとしんのう)の第六王子
「八条宮智仁親王」(はちじょうのみやとしひとしんのう)の三男忠幸王は、
慶安2年(1649年)に尾張藩主徳川義直の長女・京姫と結婚して義直の猶子となり名古屋城で暮らしていた。万治3年(1660年)に帰洛して公家となることを願い出、寛文4年(1663年)に霊元天皇より源姓を下賜され、
臣籍に下り「廣幡」の家号が与えられた。
この廣幡忠幸に発する源氏は正親町源氏と呼ばれる。
初代の忠幸には女子しかなかったので、2代当主には村上源氏の久我家から養子豊忠が迎えられた。
廣幡侯爵家の邸宅は昭和前期に東京市麹町区二番町にあった。
広幡 忠幸は、江戸時代前期の公卿。
皇族として生まれ、のちに臣籍降下して広幡家を創設し、その初代当主となった。
正式の姓名は、源 忠幸(みなもと の ただゆき)である。
「忠」の字は兄「八条宮智忠親王」(はちじょうのみやとしただしんのう)より偏諱を賜ったものであり、
やがて広幡家の通字となっていった。
1624年(寛永元年)に正親町天皇の皇孫で八条宮家(桂宮家)の始祖である
八条宮「智仁親王」(としひとしんのう)の第三王子として八条宮邸にて生まれる。
母は宮津藩主京極高知の娘常子。
1649年(慶安2年)12月11日、尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約、同時に徳川義直の猶子となる。
1650年(慶安3年)1月3日、加冠の儀を行い、元服する。
同年2月9日、京都を出発、2月13日名古屋に到着する。
以後、名古屋城で暮らす。
同年2月28日、京姫と結婚する。
しかし、1660年(万治3年)4月には京都に戻り、
朝廷に対し松殿家(1646年途絶えてた)を再興するなどして、公家に戻ることを願う。
一方、実兄の「智忠親王」(としただしんのう)は皇族になることを進言した。
1663年(寛文3年)11月、霊元天皇より源姓が下賜され臣籍に下ることとなった(正親町源氏)。
12月には「広幡」の家号も与えられ、新たに家を興すことが許された。
広幡家の公家としての家格は村上源氏嫡流の久我家と同じく「清華家」(せいがけ)とされた。
旧皇室典範
明治維新前後の動乱期、伏見宮邦家親王の多くの子が「還俗」して新たな宮号を名乗った。
明治に入ると、これらの宮家の整理が図られる。
1882年、内規取調局が作成した「皇族内規」の初案では、
「一世のみ親王」
「四世王までは皇親」
「五世から八世は皇親ではないが王の称号を与える」
「九世には公爵を下賜(=臣籍降下)」として、
律令規定を拡大する形で、世数をもとに「臣籍降下」を行う方針であった。
ところが、1889年に成立した皇室典範では、
「四世までは親王」
「五世以降は永世にわたって王」とされ、
「臣籍降下」は永久に行わない「永世皇族制」がとられた。
枢密院で行われた審議において、旧公家出身の「三条実美」内大臣は
「将来皇族の数が増えすぎて、経費を賄えずに体面を汚す恐れがある」と反対したが、
原案起草者の井上毅は「臣籍降下は古制に規定がなかった」と反論して、
最終的には原案通り可決された。
これにより「伏見宮系統」の新規の宮家も子孫に継承されるようになり、宮家の数は増大した。
皇室典範が「永世皇族制」をとった理由としては、
当時の「明治天皇」は男子に恵まれず、唯一夭折を免れた「嘉仁親王」(よしひとしんのう)が病弱であったため、万が一の時の後継が必要とされたためである。
しかも、江戸時代は「世襲親王家」の直系以外の男子は出家をして子を残さなかったため、
男系での近親が少なく、八世以内の宮家は有栖川宮のみ(当主の熾仁親王が五世)であったため、
男系で遠く離れた「伏見宮系統」の新しい宮家(邦家親王の男子が十五世)も存続を認められたのである。
一方で、女性皇族が臣下の男性と婚姻した場合、旧来は皇族の身分を保持したままであることが通例であったが、皇室典範ではこれを改め、
「臣籍にある者」と婚姻した場合(旧第44条)、
皇室典範では「天皇及び皇族以外の者」と婚姻した場合(第12条)、
例外なく皇籍を離脱することが定められる。
ただし、旧皇室典範では、婚姻の相手は皇族・王公族・華族に限定され(旧第39条、皇室典範増補)、
また内親王・女王の身位を保持する余地が残された(旧第44条)。
養子による「臣籍降下」については、この時点の皇室典範では規定がなかった。
「伏見宮邦家」親王直系の男性皇族の一覧
(明治元年以降に生存しており、1907年までに成人を迎えた人物に限る)
「諱」 「邦家親王との血縁」 「宮号」 「継承等」
①「晃親王」「子」還俗→山階宮を創設
②「嘉言親王」「子」還俗→聖護院宮を創設
③「朝彦親王」「子」還俗→久邇宮を創設
④「彰仁親王」「子」還俗→小松宮を創設
⑤「能久親王」「子」還俗→北白川宮を継承
⑥「博経親王」「子」還俗→華頂宮を創設
⑦「貞愛親王」「子」還俗→伏見宮を継承
⑧「載仁親王」「子」還俗→閑院宮を継承
⑨「邦憲王」(久邇宮家)「孫」→賀陽宮を創設
⑩「依仁親王」「子」→東伏見宮を創設
⑪「菊麿王」「孫」(山階宮家)1893年7月3日山階宮を継承
⑫「邦彦王」「孫」(久邇宮家)1893年7月23日久邇宮を継承
⑬「守正王」「孫」(久邇宮家)1894年3月9日梨本宮を継承
⑭「多嘉王」「孫」(久邇宮家)1895年8月17日宮号の継承、創設、臣籍降下のいずれも行わず
⑮「博恭王」「孫」(伏見宮家)1895年10月16日伏見宮を継承
⑯「邦芳王」「孫」(伏見宮家)1900年3月18日宮号の継承、創設、臣籍降下のいずれも行わず
⑰「恒久王」「孫」(北白川宮家)1902年9月22日竹田宮を創設
⑱「成久王」「孫」(北白川宮家)1907年4月18日北白川宮を継承
⑲「鳩彦王」「孫」(久邇宮家)1907年10月20日朝香宮を創設
⑳「稔彦王」「孫」(久邇宮家)1907年12月3日東久邇宮を創設
皇室典範増補
その後「嘉仁親王」は無事成人し、四人の男子に恵まれた。
一方で他の宮家は、有栖川宮家は後継に恵まれず断絶したが、伏見宮系の宮家は存続し
「邦家親王」の孫の世代の男子も続々と宮家を創設、宮家の数はさらに増加した。
皇統断絶の危機はひとまず去ったため、
今度は永世皇族制の修正、宮家の増加の抑制が図られるようになる。
1907年、皇室典範増補が成立し、以下のように定められた。
「皇室典範増補第一条」
王は、勅旨又は請願に依り、家名を賜ひ家族に列せしむることあるべし。
「同第六条」
皇族の臣籍に入りたる者は、皇族に復することを得ず。
これにより、五世以下の王は、宮家を立てずに臣籍降下をする道が開かれた。ちょうどこの年成年を迎えた北白川宮家の輝久王(邦家親王の孫の世代の最年少)が、明治43年(1910年)に臣籍降下して小松侯爵となったのが初例となった。
「伏見宮邦家親王」直系の男性皇族の一覧(1908年~1920年5月19日の間に成人を迎えた人物)
「諱」邦家親王との血縁成人を迎えた年月日、宮号継承等
「輝久王孫」(北白川宮家)1908年8月12日臣籍降下、小松侯爵家創設
「博義王曾孫」(伏見宮家)1917年12月8日伏見宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
「武彦王曾孫」(山階宮家)1918年2月13日山階宮を継承
「恒憲王曾孫」(賀陽宮家)1920年1月27日賀陽宮を継承
また、典範制定時は一旦廃絶された、養子による臣籍降下については、
増補第2条により、王は、華族の家督相続人となることが認められるようになった。
もっとも、実際にこの規定が実行されたケースはなかった。
が、傍系の男性皇族が臣籍降下するとき、廃絶した宮家の祭祀を継承した例はある。
皇族降下の施行準則
この後は伏見宮系の男性皇族で成年を迎える世代がしばらくおらず、
具体的な運用面で問題になることはなかったが、
邦家親王の曾孫の世代の男子が成年を迎える頃になった大正7年(1918年)頃から、
更に具体的な臣籍降下の基準作りがはじまる。
「同年」「波多野敬直」宮内大臣が
「臣籍降下」の基準の作成を帝室制度審議委員会(伊東巳代治委員長)に依頼、
同委員会での議論を経て、
大正9年(1920年)、枢密院に「皇族の降下に関する内規」が提出され、
更に枢密院は「皇族の降下に関する施行準則」と改めて、可決した。
次いで、同年5月15日、皇族会議に諮詢された。
しかし、この準則で臣籍降下の基準を明文化することについては、
皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とすることや、
運用が一律・機械的になることへの懸念などが出され、
枢密院の審議では、個別の事情に応じて判断する旨の説明なされた。
皇族会議でも一部の皇族が異論が出されたため、
宮内省側は、皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わず、
議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させ、
5月19日に大正天皇の裁定によって成立することとなった。
「第一条」
皇玄孫の子孫たる王、明治四十年二月十一日勅定の皇室典範増補第一条、及皇族身位令第二十五条の規定に依り、情願を為さざるときは、長子孫の系統四世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜ひ華族に列す。
「第二条」
前条の長子孫の系統を定むるは、皇位継承の順序に依る。
「第四条」
前数条の規定は、皇室典範第三十二条の規定に依り、
親王の号を宣賜せられたる皇兄弟の子孫に之を準用す。
「附則」
此の準則は、現在の宣下親王の子孫、現に宮号を有する王の子孫並兄弟及其の子孫に之を準用す。但し第一条に定めたる世数は、故邦家親王の子を一世とし実系により之を算す。
この規則により、王の臣籍降下の基準として、「現に存在する宮家の継承者以外(=長男以外)」という要件が加わった。また、「長子孫の系統四世」(王として四世、つまり親王を含むと八世)を超えた場合、すなわち天皇から数えて九世の王は、宮家の長男であろうが全員が臣籍降下をすることになっていた。ただし、当時の伏見宮家系統の皇族は全員が九世を大幅に超過しており、そのまま適用すると直ちに全員が降下することになっていたことから、特別に邦家親王を四世親王とみなして運用するようになった。
この年の7月に成年を迎えた山階宮家の芳麿王が早速この準則の適用第一号となり、以降、この要件を満たした王の臣籍降下が続いた。
なお、運用面では、勅旨によって強制的に降下するのではなく、皇室典範増補第1条に基づく「情願による賜姓降下」がとられて、建前上は各皇族の自発意思によるものという形式がとられた。また、この運用の期間中、「個別の事情に応じて判断」して皇籍に残ったケースはなかった。
また、九世王は全員が降下する規定については、この世代が成年を迎える前に、運用自体が失効したため、実際に適用されることはなかった。
伏見宮邦家親王直系の男性皇族の一覧(1920年5月19日~1947年10月14日の間に成人を迎えた人物)
諱邦家親王との血縁成人を迎えた年月日宮号継承等
芳麿王曾孫(山階宮家)
七世王扱い1920年7月5日臣籍降下、山階侯爵家創設
朝融王曾孫(久邇宮家)
七世王扱い1921年2月2日久邇宮を継承
邦久王曾孫(久邇宮家)
七世王扱い1922年3月10日臣籍降下、久邇侯爵家創設
春仁王孫(閑院宮家)
六世王扱い1922年8月3日閑院宮を継承
藤麿王曾孫(山階宮家)
七世王扱い1925年2月25日臣籍降下、筑波伯爵家創設
博信王曾孫(伏見宮家)
七世王扱い1925年5月22日臣籍降下、華頂侯爵家創設
萩麿王曾孫(山階宮家)
七世王扱い1926年4月21日臣籍降下、鹿島伯爵家創設
茂麿王曾孫(山階宮家)
七世王扱い1928年4月29日臣籍降下、葛城伯爵家創設
恒徳王曾孫(竹田宮家)
七世王扱い1929年3月4日竹田宮を継承
永久王曾孫(北白川宮家)
七世王扱い1930年2月19日北白川宮を継承
邦英王曾孫(久邇宮家)
七世王扱い1930年5月16日臣籍降下、東伏見伯爵家創設
博英王曾孫(伏見宮家)
七世王扱い1932年10月4日臣籍降下、伏見伯爵家創設
孚彦王曾孫(朝香宮家)
七世王扱い1932年10月8日朝香宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
正彦王曾孫(朝香宮家)
七世王扱い1934年1月5日臣籍降下、音羽侯爵家創設
盛厚王曾孫(東久邇宮家)
七世王扱い1936年5月6日東久邇宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
家彦王曾孫(久邇宮家)
七世王扱い1940年3月17日臣籍降下、宇治伯爵家創設
彰常王曾孫(東久邇宮家)
七世王扱い1940年5月13日臣籍降下、粟田侯爵家創設
邦寿王玄孫(賀陽宮家)
八世王扱い1942年4月21日賀陽宮継承予定のため宮家創設、臣籍降下せず
徳彦王曾孫(久邇宮家)
七世王扱い1942年11月19日臣籍降下、龍田伯爵家創設
治憲王玄孫(賀陽宮家)
八世王扱い1946年7月3日臣籍降下の予定だったが、その前に宮家ごと皇籍離脱。
「1947年の11宮家の臣籍降下」
1945年、第二次世界大戦の敗戦により、日本は連合国軍による占領を受け、主権を一時喪失する。
敗戦政策の中で、皇族の大多数は、臣籍降下を余儀なくされた。
まず、敗戦直後から一部皇族は、敗戦の責をとってぞ初的な皇籍返上を申し出ており、
特に、敗戦直後に首相として一時政治を担った東久邇宮稔彦王は首相辞任直後の10月12日、
宮中改革の一環として傍系宮家は臣籍に下り、一国民として仕えるという持論を公表する。
しかしこの意見に対しては、皇室内部からも、
宮家の減少は「皇位の安定的継承に支障をきたす」(三笠宮崇仁親王、11月16日)
等の反対意見が出され、東久邇宮は持論を撤回、皇族の側からの臣籍降下の申し出はなされなかった。
また昭和天皇も、連合国の許す限り全ての皇族と行動を共にする決意であり、
「臣籍降下」の申し出があったとしても、よほどの深い条理がない限りは勅許しない考えであった。
しかし、日本の占領行政を担った連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQ)は、
直系の皇統が途絶えた時に皇位を引き継ぐための控えとして存在している宮家を、
「天皇となる可能性の非常に低い者」と表現し、そのような者まで皇族として遇し、
歳費を支出している現状を問題視する。
1946年、加藤進宮内庁次長はGHQとの意見交換によりこの方針を受け取り、
当時の14宮家の内、天皇の弟宮である秩父・高松・三笠の3宮家を除いた、
伏見宮系統の11宮家を引き続き皇族として遇するのは困難であるという結論に達し、
天皇、皇后、皇太后に奏上、内諾を得る。
直後の5月21日、「皇族の財産上その他の特権廃止に関する総司令部覚書」(SCAPIN1298A)が発令。
14宮家への歳費支出は5月分をもって打ち切ると通告、
また課税の免除もなくなる等、皇室は経済面で苦境に立たされる。
5月28日、31日の両日、皇族情報懇談会で加藤次長から皇族に説明があったが、
皇族間からは、皇室の重大事を加藤次長が独断で決定、事後報告としたことに反発の意見が示される。
また、降下についても、
「国家存亡の際、われわれ皇族には皇族として何か御奉公すべき途があるのではないか」
(竹田宮恒徳王、7月2日皇族親睦会にて発言)等、臣籍降下に否定的な意見が多かった。
しかし、GHQは経済面での締め付けを続けた。
8月15日、チャールズ・L・ケーディス民政局次長は
「彼等を貧窮に陥れようとは絶対に考えて居ない」と述べつつ、
その「彼等」として想定していたのは3宮家のみであった。
11月2日、同じくケーディス次長は、
「臣籍に降下せられる(略)別に反対があるわけではないが」と述べる等、
あくまで日本側が自発的に行う形で「臣籍降下」への道筋はつくられた。
この情勢の中で、内廷皇族及び3宮家を守ることを優先するため、11宮家を臣籍降下させることを決定。
11月29日、天皇より11宮家に対して直々に、
「情においては誠に忍びないが、直宮三家を残し、一同は臣籍降下を決意されたい」と、
言い渡される。
翌昭和22年(1947年)10月13日の皇室会議での議決を経て、14日、11宮家51名が臣籍降下した。
この時の臣籍降下は、
皇室財政の圧迫によるやむを得ない実施というイレギュラーなものであったことから、
天皇は「従来の縁故と云ふものは今後に於いても何等変わるところはないのであって将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云うのが私の念願であります」と、
臣籍降下以降もこれまでと同様の交際を行う考えであることを述べる。
また、臣籍降下前に宮内庁文書「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」
が作成されてその待遇が公文書で定められる、
親睦団体としての菊栄親睦会が新たに組織される、
園遊会や即位の礼においては席次が首相よりも上位で遇される等、
現在に至るまで、皇族に准じる存在とされている。
また一般的にも、歴代の臣籍降下をした者のうち、
この時の11宮家及びその子孫を「旧皇族」と呼称して特別視されており、
平成後期に発生した皇位継承問題においても、旧皇族の皇籍復帰の可能性が議論されている。
四親王家と親王宣下について
元来、親王とは、大宝元年(七〇一)制定の大宝継嗣令により定められた、天皇の兄弟・皇子を表す呼称(姉妹・皇女は内親王)である。しかし平安時代以降は皇族の臣籍降下が盛んに行われる一方、天皇の兄弟姉妹、皇子女でも親王宣下を受けなければ親王・内親王を称することができなくなり、親王宣下の対象は次第に拡大していった。かくして鎌倉時代後期には五辻宮・常磐井宮・木寺宮など、当主が親王宣下を蒙って宮家の称号を代々継承する世襲親王家が成立した。しかしこれらの宮家は室町時代中・後期には姿を消した。
四親王家は世襲親王家の延長上に位置するものであった。室町時代にはまず崇光天皇(北朝第三代)の第一皇子栄仁親王を祖とする伏見宮家が成立し、ついで室町時代末期から江戸時代中期にかけて正親町天皇の皇孫智仁親王に始まる八条宮家(後に常磐井宮・京極宮・桂宮と改称)、後陽成天皇の皇子好仁親王を祖とする高松宮(後に有栖川宮と改称)、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする閑院宮が成立した。これらの親王家は後に四親王家と総称された。各宮家の歴代当主はおおむね天皇・上皇の養子もしくは猶子として親王宣下を受け、それぞれの宮家を継承しつつ幕末に及んだ。
「太政官布告」というのがある。
これで1代宮家を定めた。
大相撲でも1代年寄があるように皇室にも1代宮家ができた。
ただ皇室は大相撲のように、約束を守らなかった。
1代限りという名目で宮家を増やしていっては、
明治天皇の特旨で2代目に継承させた。
宮家を増やせば、それだけ宮家に繋がる利権も増える。
現在、旧宮家を復活させようとする勢力も裏には利権が必ずある。
伏見宮邦家の第4王子久邇宮朝彦の第3王子久邇宮邦彦は、
香淳皇后の実父であり問題の多い皇族だった。
外威となってから邸宅の建築費を宮内庁に無心して貞明皇后を怒らせた。
そこに目をつけたのが三菱財閥で久邇宮邦彦邸の建築費を全て出した。
今の聖心女学園の中に当時の久邇宮邸があるが、贅沢な造りである。
久邇宮邸以外にも、朝香宮の邸宅は現在の東京庭園美術館になっている。
朝香宮鳩彦の腹心の部下中島今朝五は南京事件で盛んに美術品の窃盗をしているが、
朝香宮に献上するのが目的ではなかったか。
伏見宮邦家の第1王子は山階宮晃親王(1898没)だ。
伏見宮邦家14歳のときに出来た子供である。
この晃親王が、山階宮を作ったのが1864年。
『文久4年1月9日に還俗を許され伏見宮に復し、同月17日山階宮の宮号を賜った』とある。
背景には、島津久光・松平容保・徳川慶喜ら公武合体派がいる。
海外情勢に関心が高いとされた晃親王を政治に参画させようと、
還俗を孝明天皇に願い出た、となっている。
晃親王の還俗には朝廷内でも反対が多く、
父・仁孝天皇が罰した者を許すことに孝明天皇も反対であった。
しかし幕府、大藩に押し切られた。
その後、晃親王は島津久光と手を結び、一会桑政権と対立した。
1864年、山階宮を作ったのは、薩摩&徳川の公武合体派、反孝明天皇だった。
江戸時代、四世襲親王家が天皇家の後嗣問題をカバーしていた。
しかし天皇の後継問題への憂いをなくすため、
幕末に仏門から還俗した親王達が6宮家を立て、
合計10宮家となった。
天皇の後継問題は、ほぼ無くなった。
なのに宮家増設は続いている。
この時代の宮家新設は、後嗣問題より、政治的な思惑が大きかった。
薩摩長州の思惑で宮家がどんどん作られたということだ。
1968年の太政官布告で、江戸時代以来の世襲4宮家は従来通りだが、
幕末にできた6宮家は一代限りと制限された。
1971年の太政官布告でも「四親王家の外、新たにお取建てに相成り候親王家の儀は、二代目より賜姓華族に列せられ候こと」となっている。
新設宮家は1代限りが原則なのだ。
しかし一度握った利権を伏見宮は離さなかった。
伏見宮の事を京都では伏見殿と呼ぶ。
●『下橋敬長談話筆記』四親王家「伏見宮」に、こうある。
「一般には伏見宮と申上げますが維新前まで伏見宮の方では、
宮の字を御用いにならずに伏見殿とばかり御書きになりまして、
御所へでも、攝家へでも、皆伏見殿で御使が參りました。
伏見宮の家來の申分では朝廷も當御殿も同じであるから、
宮ではない、殿であるといふのです。
これは、つまり後花園院天皇が伏見宮貞成親王(後崇光院太上天皇)の御子で、
皇統を御繼ぎになり御代々が其の御血統であらせられるといふ所から、かやうに申すのです。
併し殿と稱するのは御當主だけで王子達は皆宮と稱して居ました。
御初代の榮仁親王は有栖川においで遊ばしたので有栖川殿と申上げましたが、
二代の貞成親王から伏見殿と稱せられました。」




