邦家の11人の王子
皇位継承問題について議論するとき、伏見宮の事、すなわち旧宮家の事について触れないで議論をすることは、まず不可能です。
それだけ伏見宮が天皇制の仕組みに大きく関与しているということです。
良くも、悪くも、伏見宮は、皇室制度成立の節目節目で、色んな影響を与えてきました。
こんな重要な一族であるにも関わらず、我々は伏見宮、及びその分家について、よく知らない。
伏見宮は近年まで実在していた家であり、今も実在している分家が5家ある。
それゆえ、プライバシーの観点から、伏見宮の成り立ちや、収入源、分家や氏の種類、血統や養子や資産など、公開情報が少なく、結果として日本国民は伏見宮について、よく知らないのです。
恐らく、専門家でも、表面的なことしかわかっていないでしょう。
あれこれ深く探索すると、人権的に問題が出るかもしれないと、及び腰になってしまうのです。
しかし、明治初期から昭和22年の皇籍離脱までの間、伏見宮系と言ったら、それはそれは日本において多大な影響を及ぼす巨大な勢力でした。
特に伏見宮当主であった伏見宮邦家と彼の11名の王子が作った人脈は、政財官全ての面で裏の裏まで網羅しています。
彼らに作った新宮家、日本の方向性を決めたといっても過言ではない新宮家を、今日の皇位継承問題を解決するためには、掘り下げて考えないといけない。
一代宮家であった彼らが、なぜ永世皇族という権力を掌握するまでになったのか。
その部分の分析をちゃんとしないから、今日の皇位継承問題を考えてるうちに迷路に迷い込む。
江戸後期の天皇で、120代仁孝天皇というのがいる。
覚えやすいことに1800年生まれである。
彼には成人した子が3人いたが、男子は統仁親王ただ一人であった。
それが第121代目の攘夷論者、開国に強く反対した孝明天皇である。
孝明天皇には成人した子は睦仁親王ただ一人だった。
それが明治天皇である。
問題はここから。
明治天皇には成人した子は5人いたが、男子はただ一人で、それが嘉仁親王、つまり大正天皇であった。
この同時期に明治の皇室典範は制定された。
はじめて皇位継承順位が明確に成文化されていたのである。
つまり、それまでは、たとえ男系が途切れても、ぶっちゃけフランスのように父系を遡って傍系の男系に継げばよかったのだ。
ところが、皇室典範ができてからは、明確に江戸時代の世襲親王家が皇位継承者を出す家だと定められ、その世襲親王家同士の順位も成文化された。
これは男系の血統の近さで決められて、有栖川は後陽成天皇の第七皇子好仁を初代としており、
伏見宮は祟光天皇の第一皇子栄仁を初代としている。
つまり伏見宮よりも有栖川宮の方が血統が近いと判断され、皇位継承順位が高くなるのである。
ゆえに、もし大正天皇が嘉仁親王時代に明治天皇と時を同じく死んでいたら、
次の皇位継承者は有栖川宮タル仁、その次が伏見宮邦家の第一皇子、山階宮晃であった。
とどのつまり皇族の権力の寄って立つ基盤は血であるということだ。
ゆえに、この血統的権威を損なわないことが、皇族にとって最重要であった。
ゆえに、皇族の結婚相手は皇室典範では「同族、又は勅旨により、特に認許セラルタル華族」となっている。
皇后・皇太子妃は、皇族、又は五摂家のものに限定されていた。
ここで重要なのは、一寸前までは結婚は普通に制限されていたということ。
そして皇后は五摂家の女子でもよかったということだ。
ところが、養老律令では女性天皇の配偶者は、皇親に限られていた。
皇親は天皇4世孫までである。
つまり五摂家の男子は女帝との婚姻はゆるされなかったというわけだ。
そして、明治の皇室典範では天皇は男子限定とされ、女性天皇は明確に禁止された。
明治期、直宮による宮家は仁孝天皇の皇女、淑子内親王を当主とする桂宮家があったが、1881年淑子内親王が死んで桂宮が廃絶され以来、直宮の宮家はなくなった。
直宮による宮家は大正期に高松宮、秩父宮、昭和期に三笠宮、常陸宮(1964年)秋篠宮(1990年)が誕生している。
したがって明治期における皇族は、
①皇后・皇太后
②直宮(四人の明治天皇皇女、嘉仁、淑子内親王、親子内親王)
③天皇
④天皇に直接的血統関係を持たない、もしくは血統的に希薄である宮家皇族(いわゆる宮家皇族)
と4分類できる。
数からすれば宮家皇族が圧倒的多数である。
この圧倒的多数の宮家皇族をどう取り扱うかが、明治政府の重要問題であった。
明治期に宮家の数は大きく膨れ上がり、1710年閑院宮が創設されて以降幕末に至るまでは、
伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮、が宮家の全てであったのに、幕末は、中川宮、山階宮の二つの宮家が創設され、明治期には10の宮家が創設、もしくは再興された。この宮家の膨張に歯止めがかかるのは1907年皇室典範増補によってからだ。
勿論、この間、廃絶されるものもあった。
1881年桂宮家廃絶、
1903年小松宮家廃絶など。
しかし江戸期には4家にすぎなかった宮家が明治期になって大きく膨れ上がったのはなぜか。
大正期以降は直宮すなわち天皇の皇子以外の宮家は一つも創設されていない。
いちおう、幕末、明治期の新宮家の創立事情を見てみよう。
それらを分類すると、宮家というものが天皇制において、いったいどんなものなのかもわかってくる。
何しろ宮家という言葉は、皇室典範に全く出てこない言葉であり、
どんな法的裏付けで成立してるのか、どんな法的根拠があるのか、
全くわかっていないのだから。
取りあえず、幕末明治期の新宮家創立の事情は、4つに分類できる。
第一理由は政治事情により創立されたという事情である。
幕末の中川宮、山階宮がこれにあたる。
いずれも初代は邦家の第一王子と第四王子で、第一王子の晃親王第四王子の朝彦親王は、どちらも明治維新に大きく関わっているので、後程、各々解説する。
第二理由は、神社門跡であった皇族が復飾し、その結果創立されたという理由である。
「復飾」(ふくしょく)とは、一度僧侶になった者がもとの俗人に戻ること、
つまり「還俗」を意味します。
つまり王政復古などで政府が頼み込んで復飾してもらい、もとの僧侶に戻ることはできない以上、宮家皇族となってもらうしかないという事だ。
復飾当初は仁和寺宮、梶井宮など、その門跡寺社の名称を使用していたが、
やがて独自の宮家名を用いるようになる。
華頂宮、東伏見宮、梨本宮、北白川宮がこれに当たる。
この中で梨本宮は伏見宮邦家の兄弟である。
華頂宮博経は伏見宮邦家の第十二王子、
東伏見宮は最初、邦家の第八王子の彰仁が創設したが、小松宮に改称。
その後、伏見宮邦家の第十七王子の依仁が再興した。
北白川宮は伏見宮邦家の第二王子聖護院宮嘉言親王の聖護院号を嗣いだ伏見宮邦家の第十三王子智成親王が、北白川に改称した。
第三理由が、皇族間の調整の必要上、創立されたという理由である。
久邇宮家の創立、邦憲王による賀陽宮の再興、依仁親王による東伏見宮の再興がこれに当たる。
久邇宮は最初、中川宮を創設した伏見宮邦家の第四王子朝彦である。
邦憲王は朝彦の第二王子である。
依仁は邦家の第十七王子である。
第四に賜姓降下規定の導入を直前に控えての駆け込みという理由である。
朝香宮、竹田宮、東久邇宮がこれに当たるが、これらは邦家の孫が初代である。
伏見宮邦家の父は第19代当主伏見宮貞敬です。
彼は第118代後桃園天皇の崩御後、閑院宮と皇位継承を争った人物である。
第118代後桃園天皇は1758年生まれ、21歳で男子を残さず死んだゆえ、天皇家の男系が途切れてしまった。
このような場合、昔のフランスでは皇位継承者は、系譜を戻り、傍系の男系男子が選ばれるのであるが、
日本の場合、予め世襲親王家が決めてあり、皇位継承者を出すというしきたりであった。
適齢の男子を持つ世襲親王家は、伏見宮と閑院宮であり、
当時3歳の伏見宮貞敬は、年齢的、資格的には問題なかったが、天皇と男系の血が遠くなりすぎていたのがネックであった。
伏見宮貞敬は祟光天皇の14世孫であったのだ。
それに比べ閑院宮は、東山天皇の第六皇子直仁親王が初代であり、美仁と師仁の二人の候補は、
閑院宮2代目典仁の第一王子と第六王子であった。
つまり東山天皇3世孫であり、伏見宮貞敬より、かなり男系の血統が近かった。
結果、1771年生まれ、当時8歳の閑院宮師仁が次期天皇に選ばれた。
これが光格天皇である。
伏見宮貞敬は伏見宮代19代当主となった。
そんな貞敬の第一王子として1802年に生まれたのが伏見宮邦家である。
北朝第3代崇光天皇から数えて15世孫にあたる彼には17人の王子がいた。
そのうち5人は夭逝、1人は臣籍降下したが、
11人の王子は無事成人した。
7人は新宮家の初代当主になり、4人は既存の宮家を継いだ。
皇族の諱は読み方が難しい、しかも11人もなんて混乱して覚えづらい。
そこで裏技の覚え方としては、諱だけを片仮名で覚えてしまえば比較的簡単に覚えられる。
①第 1王子 、山階宮晃親王、 <アキラ>
②第 2王子 、聖護院宮嘉言親王、<ヨシコト>
③第 4王子 、久邇宮朝彦親王、 <アサヒコ>
④第 6王子 、伏見宮貞教親王、 <サダノリ>
⑤第 8王子 、小松宮彰仁親王、 <アキヒト>
⑥第 9王子 、北白川宮能久親王、<ヨシヒサ>
⑦第12王子 、華頂宮博経親王、 <ヒロツネ>
⑧第13王子 、北白川宮智成親王、<サトナリ>
⑨第14王子 、伏見宮貞愛親王、 <サダナル>
⑩第16王子 、閑院宮載仁親王、 <コトヒト>
⑪第17王子 、東伏見宮依仁親王、<ヨリヒト>




