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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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邦家の11人の王子「山階宮 晃親王」

「伏見宮邦家親王」(ふしみのみや くにいえしんのう)、

1802年11月19日〈享和2年10月24日〉 - 1872年9月7日〈明治5年8月5日〉)は、江戸時代から明治初期の、日本の皇族。

世襲親王家の伏見宮第20代および第23代当主。

第19代当主「伏見宮貞敬親王」(ふしみのみやさだよししんのう)の第1王男子。

幼称は「睦宮」(まさのみや)。

直系尊属の天皇から見た続柄は、男系では北朝第3代「崇光天皇」の15世孫、

女系では「霊元天皇」(れいげんてんのう)の5世孫にあたる。

父の貞敬親王は皇位継承候補者として名が挙がったことがある (一次資料不明)

第125代天皇明仁の母方の高祖父「香淳皇后」(こうじゅんこうごう)の曽祖父にあたる。

伏見宮邦家は幕末の伏見宮第20/23代当主であるが、戦後皇籍離脱した11宮家の共通の祖でもある。

彼には17人の王子がいて、そのうち5人は夭逝、1人は臣籍降下、11人が宮家当主に収まった。

まず早世、臣籍降下した6人の王子を紹介しよう。

①第3王子(出家18歳で没)、    

②第5王子(死産)、   

③第7王子(9歳早世)、 

④第10王子(5歳早世)、

⑤第11王子(2歳早世)、 

⑥第15王子、臣籍降下「清棲家教伯爵」(きよすいえのり)

次に宮家当主となった11人。

①第1王子 初代 「山階宮」・・・「山階宮晃親王」(やましなのみや あきら)

②第2王子 初代 「聖護院宮」・・「聖護院宮嘉言親王」(しょうごいんのみや よしこと)

③第4王子 初代 「久邇宮」・・・「久邇宮朝彦親王」(くにのみや あさひこ)

④第6王子 第21代「伏見宮」・・「伏見宮貞教親王」(ふしみのみや さだのり)

⑤第8王子 初代 「小松宮」・・・「小松宮彰仁親王」(こまつのみや あきひと)

⑥第9王子 第2代 「北白川宮」 ・ 「北白川宮能久親王」(きたしらかわのみや よしひさ)

⑦第12王子 初代 「華頂宮」 ・ ・ 「華頂宮博経親王」(かちょうのみや ひろつね)

⑧第13王子 初代 「北白川宮」 ・ 「北白川宮智成親王」 (きたしらかわのみや さとなり)

⑨第14王子 第22・24代「伏見宮」「伏見宮貞愛親王」(ふしみのみや さだなる)

⑩第16王子 第6代 「閑院宮」 ・ ・「閑院宮載仁親王」(かんいんのみや ことひと)

⑪第17王子 初代 「東伏見宮」 ・ 「東伏見宮依仁親王」(ひがしふしみのみや よりひと)

各々詳しく解説する。


❶「山階宮晃親王」(やましなのみや あきらしんのう)(1816~1898)

「勧修寺宮済範親王」(かじゅうじのみや さいはんしんのう)

幼名は「静宮」(しずのみや)

初名は清保きよやす

理由不明だが皇統譜上、祖父「伏見宮貞敬親王」の第八王子とされる。

父・邦家親王が当時13歳だったことも理由の可能性がある。

正式に邦家親王の第一王子として認められるのは、1889年。

1817年、京都山科の門跡寺院「勧修寺」(かじゅうじ)を相続した。

「光格上皇」(こうかくじょうこう)の猶子となり1823年に親王宣下。

1824年に出家し「済範入道親王」(さいはんにゅうどうしんのう)と称した。

1841年、二歳年下の叔母(系譜上は妹)の「幾佐宮隆子女王」(きさのみやたかこじょおう)と出奔「仁孝天皇」が激怒し、

1842年、光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位が停止され、

伏見宮家から追放された上、東寺での厳重籠居を命じられる。

1856年、蟄居が解かれ、安政5年5月に勧修寺に戻り、氷室殿と称す。

1863年、島津久光・松平容保・徳川慶喜ら公武合体派が、時勢への見識が高く、海外情勢にも関心が高いとされた親王を政治に参画させるべく、還俗を「孝明天皇」に願い出る。

親王の還俗には朝廷内で反対が多く、父「仁孝天皇」が罰した者を許すことに「孝明天皇」も反対だったが、幕府や大藩に押し切られ「山階宮」の宮号を賜り、孝明天皇の猶子となり親王宣下を受け、国事御用掛に任ぜられる。

その後「島津久光」と手を結び「一会桑政権」(いちかいそうせいけん)と対立。

1866年、大原重徳ら対幕府強硬派公卿22名が行った参内に加担したとみられ、国事御用掛を罷免、蟄居を命じられる。

しかし「孝明天皇」崩御後の1867年には処分を解かれた。

明治維新後、1868年、議定・外国事務総督に就く。

2月20日に外国事務局督と名称が変わり、明治政府の外交トップとなる。

その直前に発生した堺事件の後始末のため、フランス艦に謝罪に赴いている。

閏4月21日に議定・外国事務局督を辞任。

1886年(明治19年)に大勲位菊花大綬章を受けている。

1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任。

1898年(明治31年)2月17日、83歳で薨去した。

茶の湯を嗜み、自作の竹花入などが複数現存している。

親王は自分の葬儀を帰依していた仏教式で行うよう遺言を残していたが、明治維新以降の皇室の葬祭は古式に基づくもので仏教式で行うのは混乱を招くとする政府は拒絶。

このとき田中光顕宮内大臣は皇族に信教の自由はないと述べている。

しかし葬儀以外は遺志に従って構わないとし、2月25日に自宅で神葬祭が行われ、墓は泉涌寺雲龍院に建てられた。

王子に「菊麿王」がいる。

菊麿王は親王の後を継ぎ「山階宮」第2代となる。



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