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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
69/105

「伏見宮家と皇族軍人たちの戦争犯罪の謎」

「朝香宮鳩彦」(あさかのみや やすひこ)は「久邇宮朝彦」(くにのみや あさひこ)の第8王子である。

そして「朝香宮」(あさかのみや)「久邇宮」(くにのみや)は共に明治初期に創設された

伏見宮邦家流の新宮家である。

「久邇宮朝彦」(くにのみやあさひこ)は「伏見宮邦家親王」(ふしみのみやくにいえ)の第4王子であり、

この「伏見宮邦家」は崇光天皇14世である。


①「山階宮晃親王」  (やましなのみやあきらしんのう)   (邦家の第1王子)

②「聖護院宮嘉言親王」(しょうごいんのみやよしことしんのう)(邦家の第2王子)

③「久邇宮朝彦親王」 (くにのみやあさひこしんのう)    (邦家の第4王子)

④「伏見宮貞教親王」 (ふしみのみやさだのりしんのう)   (邦家の第6王子)

⑤「小松宮彰仁親王」 (こまつのみやあきひとしんのう)   (邦家の第8王子)

⑥「北白川宮能久親王」(きたしらかわのみやよしひさしんのう)(邦家の第9王子)

⑦「華頂宮博経親王」 (かちょうのみやひろつねしんのう)  (邦家の第12王子)

⑧「北白川宮智成親王」(きたしらかわのみやさとなりしんのう)(邦家の第13王子)

⑨「伏見宮貞愛親王」 (ふしみのみやさだなるしんのう)   (邦家の第14王子)

⑩「閑院宮載仁親王」 (かんいんのみやことひとしんのう)  (邦家の第16王子)

⑪「東伏見宮依仁親王」(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)(邦家の第17王子)

以前にも書いたが、

「伏見宮邦家」の王子が当主になった宮家である。

米国では、ケネディ王朝とか、ブッシュ王朝とか、

世代を跨いで国の最高権力を維持した家系を、

面白おかしくそのように呼ぶが、

戦前、日本では「伏見宮」が「天皇」に代わる「新王朝」になるところであった。

いわゆる革命が皇室内で起こっていたのだ。

もし日本が第2次世界大戦で敗戦していなかったら、

「天皇家」は「伏見宮」に乗っ取られていたであろう。


「久邇宮朝彦」(くにのみや あさひこ)の第8王子「朝香宮鳩彦」(あさかのみや やすひこ)は

1937年12月2日「上海派遣軍司令官」に任命された。

「上海派遣軍」は、その上位軍である「中支那方面軍」よりも、

実質的に存在感が上であった。

つまり力関係が、松井石根>朝香宮鳩彦=柳川平助ではなく、

朝香宮鳩彦>柳川平助>松井石根の順であったと思われるのである。


「柳川平助中将」率いる「第10軍」は軍中央の命令を無視して勝手に南京へ侵攻した。

「上海派遣軍」と同じで、どちらも「反松井」であった。

「上海派遣軍」と「第10軍」は共に兵力は巨大であり、他の援助を必要としない独立軍であった。

「朝香宮鳩彦司令官」には、フランス時代からの気心の知れた部下、

第16師団司令官「中島今朝吾中将」がおり、

側近には、参謀長「飯沼守」少将が付いていて、

現場指揮のノウハウを手取り足取り教授していた。

現場参謀本部には実務に優れた部下が数人おり、

「朝香宮鳩彦」はただ座って頷いていればよい状態であった。

そんな万全の組織に齟齬が生じた。

なにか異常な出来事が起こったのだ。

例えば、福島原発事故において、首相の突然の現地入りで、現場指揮官は大いに混乱した。

南京戦では、皇族軍人の突然の司令官就任であった。


[参謀副長]上村利道大佐、

[参謀]*西原一策大佐(1課長)、

*長勇中佐(2課長)、

*寺垣忠雄中佐(3課長)、

川上清志・北島熊男・*芳村正義、大坪一馬中佐、二神力、志方光之、*本郷忠夫、御厨正幸、榊原主計、櫛田正夫少佐、大西一・佐々木克巳大尉

(*は中支那方面軍参謀兼務)、

南京戦では彼らが常にお伺いを「朝香宮鳩彦」に立てて

この戦は「朝香宮」に常に忖度される形で進められていた。

普通に兵站を計算していれば無理な進軍などするはずがなかった。

日本軍が中国軍の捕虜を取らない方針へ急旋回したことで現場に混乱が生じた。

恐らく「朝香宮鳩彦司令官」が南京入場を急ぐあまり、

中国軍の捕虜を取りたくないという意向を出したのだろう。

私はこの状況が東日本大震災における福島原発とかぶる。

福島原発事故では、首相官邸が現場を無視しして「冷却水の注入をやめろ」との指示を出した。

現場は表面ではその指示に従ったふりをし、部下ともおしあわせて冷却水の注入はやめなかった。

南京では「南京入場が遅れるので、中国軍の捕虜はなるべく取らないように」と宮様がおっしゃった。

現場参謀本部は忖度をする。

南京事件で問題になる「長勇中佐参謀2課長」の異常な命令はそんな中で起こった。

参謀2課長は作戦担当であった。

「長勇」は後に中将まで出世し、最後は沖縄派遣軍参謀長を勤め、潔く自決するという、

ごく普通の作戦参謀である。

そんな国際法など十分わかっているはずの参謀課長が「やっちまえ」という指令を出したのである。


私はこの「長勇中佐」が「やっちまえ」などと、

捕虜を処分させる指令を軽々しく出す人物には思えない。

おそらく「長勇中佐」がなにかしら無謀な指示を出さねばならない特殊な状況に追い込まれたのだろう。

捕虜虐殺の指令を出さざるをえない状況に追い込まれたのであろう。

そのような命令は後々問題になることは皆がわかっていた。

ゆえに中間管理職で板挟みになった「中佐」長勇参謀2課長が自ら責任を被って、

後世の悪者のそしりを受けるのを承知で「やっちまえ」と捕虜の虐殺命令を出したのであろうと想像する。


ある意味「長勇」は被害者であった。

現場の部隊長が大量の中国軍の捕虜の処置に困っているときに、

最高司令官たる「朝香宮鳩彦」は、司令部で「南京入場」のことを考え、捕虜は取るなと言う。

責任ある決断せずに、部下に忖度させ、自分の意向は押し通した。

現場は捕虜を処分せざるをえない。

誠に卑怯なやり方であった。


「中島今朝吾中将の」日記を分析しよう。


この日記は偕行社「南京戦」に掲載してあるので、よくある左翼の捏造資料じゃない。

中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

◇十二月十三日 天気晴朗

(略)

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ

十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

(「南京戦史資料集」旧版P326)


だいたい解読できるとは思うが、

大事なのは、文頭の「だいたい捕虜はせぬ方針だから、片っ端から片付けているけれども」というところ。

次に大事な箇所は「このような処置は当初は予定してなかったことなので、参謀本部は混乱している」というところ。


「中島今朝吾」の第16師団の参謀本部といえば

上海派遣軍の参謀本部、

朝香宮鳩彦司令官と

[参謀長]飯沼守少将、

[参謀副長]上村利道大佐、

[参謀]西原一策大佐(1課長)、長勇中佐(2課長)、寺垣忠雄中佐(3課長)たちの事を指す。


次に大事なところは「佐々木部隊だけで15000人殺した」

と、読めるところ。

ここは既に殺したのか、今捕らえてるのか、迷う処だが、

このあと「この7、8千人、これを片付けるには相当大きな壕がいる」と書いてあることから、

既に佐々木部隊が15000人、

太平門の守備中隊が1300人、

処分してている事がわかる。

もし、まだ佐々木部隊の捕虜が生きているなら、

相当大きな壕がいるといった処は、

主語が「7、8千人」ではなく「2、3万」

となるはずだからである。


この中島日記でわかることは、

この12月13日の時点で、

第16師団は捕虜をとらない方針だった

という事だ。


いったい誰が決めた方針なのだろう。

「中島今朝吾中将」自身が決めたのなら、こんな書き方にはならない。

第16師団指揮官「中島今朝吾中将」といえば「松井石根」と対立していた元憲兵隊長、

この時点で南京において中島今朝吾中将より上の指揮官は、

中支那方面軍司令官「松井石根大将」と、上海派遣軍司令官「朝香宮鳩彦中将」しかいない。

第10軍司令官「柳川平助中将」は軍が違うので命令系統が違う。

朝香宮鳩彦中将と中島今朝吾中将は、フランス時代からの仲間であり、

松井石根と中島今朝吾は、226事件以来の犬猿の仲である。

もうここまで読めば、中島今朝吾が誰の意向に沿って動いているか、わかるであろう。

それは「朝香宮鳩彦中将」である。

「南京事件」において「朝香宮鳩彦中将」上海派遣軍司令官を調べてきたが、

当時、皇族軍人には「朝香宮鳩彦中将以」外には、

いったいどんな人物が何人いたのだろう、ちょっと見てみよう。


【陸軍大将】

①「梨本宮守正王」(なしもとのみやもりまさおう)

②「朝香宮鳩彦王」(あさかのみややすひこおう)

③「東久邇宮稔彦王」(ひがしくにのみやなるひこおう)

④「閑院宮載仁」(かんいんのみやことひとおう)

【海軍大将】

⑤「伏見宮博恭」(ふしみのみやひろやすおう)

【陸軍中将】

⑥「賀陽宮恒憲王」(かやのみやつねのりおう)

【陸軍少将】

⑦「秩父宮雍仁親王」(ちちぶのみや やすひとしんのう)

⑧「閑院宮春仁王」(かんいんのみやはるひとおう)

【陸軍中佐】

⑨「竹田宮恒徳王」(たけだのみやつねよしおう)

⑩「朝香宮孚彦王」(あさかのみやたかひこおう)


【陸軍少佐】

⑪「三笠宮崇仁親王」(みかさのみやたかひとしんのう)

⑫「東久邇宮盛厚王」(ひがしくにのみやもりひろおう)

【陸軍大尉】

⑬「賀陽宮邦寿王」(かやのみやくにながおう)

【海軍中将】

⑭「久邇宮朝融王」(くにのみやあさあきらおう)

【海軍大佐】

⑮「高松宮宣仁王」(たかまつのみやのぶひとおう)

【海軍少佐】

⑯「山階宮武彦王」(やましなのみやたけひこおう)


「朝香宮鳩彦」(あさかのみやはとひこ)を含めて

陸軍大将は4人、

海軍大将が1人、

陸軍中将が2人、

陸軍少将が1人、いる。


陸軍大将「梨本宮守正」(なしもとのみやもりまさ) は

戦後、A級戦犯で逮捕され、6ヶ月後釈放されるという経緯をたどった。

同じくA級戦犯として逮捕される予定であった第39代内閣総理大臣「近衛文麿」は1945年12月16日早朝、青酸カリを飲んで自殺した。

GHQ(連合国最高司令官総司令部)がA級戦犯として逮捕指令を出した出頭期限の日だった。

近衛は「梨本宮守正」の事を嘆いた「なぜ自害せぬのか」と・・・

「近衛文麿」は皇族ではなかったが、

当時、最も「今上天皇」に近い男系男子であった。

「後陽成天皇」の11世孫であり、

彼は「藤原忠通」(すがわらのただみち)の子「基実」(もとざね)を始祖とする

「近衛家」の第30代当主でもあった。

「近衛家」は江戸時代初期に嗣子を欠いたため

「後陽成天皇」の第四皇子「四宮」が「臣籍降下」し、

母方の叔父「近衛信尹」(このえのぶただ)の養子となり

「近衛信尋」(このえのぶひろ)として近衛家を継いだ。

「近衛家」はいわゆる「皇別摂家」である。

「近衛文麿」は「後陽成天皇」十二世孫に当たり、その血統はどの皇族よりも今上天皇に近かった。

「東久邇宮稔彦」も陸軍大将であった。


彼は旧宮家皇籍離脱を主張した急先鋒であるが、

彼自身の戦争責任はあるのか、ちゃんと検証せねばならない。

阿南惟幾のような考えはあったのかどうか?

東久邇内閣は国民に対し〈承詔必謹〉と〈国体護持〉を説き,

天皇制支配の維持に努めるとともに,〈一億総懺悔そうざんげ〉を主張して

国民からの戦争責任の追及を免れようとした。

これに対しGHQは,1945年9月19日〈自由な新聞のもつ責任とその意味を日本の新聞に教えるものである〉とするプレス・コード(言論統制)を発表し,

さらに10月4日,〈自由制限の撤廃についての覚書〉を出し,

天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免などを命じ,

東久邇内閣はこの衝撃で総辞職した。

どうも東久邇稔彦という人物の「皇籍離脱」に対する動機も怪しいものである。


④「閑院宮載仁」も陸軍大将であった。

彼は終戦3ヶ月前に死んでしまったが、

「南京事件」時には強い戒告文を送り「阿南惟幾」人事局長に南京視察を命じている。

しかし「秩父宮雍仁親王」は『陸軍の崩壊』という文章を残しており、

晩年の載仁親王が「作文(=書類)を取次ぐに過ぎず、蓄音機レコード以上のなにものでもなかった」、「(昭和天皇からの)御信頼は零」だったとまで酷評しています。


やる気のない勤務態度も問題視されていました。

「閑院宮載仁」は高齢ゆえボケていて戦争責任などないと思っていいものかどうか。

226事件、日華事変時の陸軍参謀総長であったわけで、

この人がもっとしっかりしていればと思わずにはいられない。


「阿南惟幾」は終戦時には割腹自殺している。

その「阿南惟幾」は「南京事件」報告書で「中島今朝吾」の事に触れている。

陸軍省人事局長の「阿南惟幾少将」は勲功調査と軍紀風紀の状況調査のため、

1月2日南京を訪問し関係者と面談した。

「中島師団長」との面談の様子を秦氏は次のように記している。

「阿南人事局長」一行が「中島師団長」をなじると

「捕虜を殺すぐらい何だ」(稲田正純氏談)と反論された。

4日にやってきた「青木企画院次長」一行に、やはり中島が平然と

「略奪、強姦は軍の常だよ」と語るので、

文官の手前、恥ずかしくなった、と案内役の「岡田芳政大尉」は回想している。

(秦:「南京事件」,P174)

この「秦郁彦」という人は、

南京事件について研究している元防衛大学教授だ。

このような人がこういう資料の信憑性に裏付けを与えている。

櫻井よし子や百田尚樹が何を言おうが、

秦さんは虐殺4万人前後という数字を出している。

かなり信憑性があるのではなかろうか。

「阿南惟幾」は戦後、割腹自殺している。

「閑院宮載仁」は「南京事件」についてどう思っていたのか。

「秩父宮雍仁親王」が華北に出征していた

「閑院宮春仁王」(閑院宮載仁の第2皇子)に送った手紙がある。

1937年12月30日付と1938年2月22日付の書簡が小田原市立図書館所蔵資料から発見されている。

「中支方面の軍紀風紀に関しては、之か日本の軍隊かと唯嘆せられることのみ聞かれまして遺憾と申す外ありません」

「日支親善、東洋平和確立の礎と云ふ見地から見まして疑問に思はれることも少なくない様に考へられます」

「南京が陥落したとて支那人の小学生に旗行列をやらせるのが日支親善百年の大計でありませうか」

と、日本軍の中国住民への振る舞いなどを憂う気持ちを吐露していた。

1972年刊行の伝記『秩父宮雍仁親王』によれば、中国での戦線拡大自体に批判的で、

早期収拾派であった。

評伝『秩父宮』(中公文庫)著者でもある近現代史研究家の保坂正康は、

この書簡の内容について「南京事件」について昭和天皇周辺に伝わっていたことを示すと評している。

息子の「閑院宮春仁王」が「秩父宮雍仁親王」と同い年ゆえ、このようなやり取りをしていたとはいえ、父親の「載仁」が秩父宮のように「南京事件」を憂いていたとは限らないし、


「閑院宮春仁」にしても、1988〈昭和63〉年の春仁〈純仁〉の死で廃絶したが、

戦争終了後は、春仁は直子とともに小田原別邸を拠点に生活していた。

皇籍離脱から7日後の1947(昭和22)年10月21日、記者団と会見し、「平民閑院」の心境を語っている。同時に、記者たちに手記を手渡した。

これを報じたのは確認できる範囲では、『サンデー毎日』(11月9日号)と『神奈川新聞』(10月23日)である(以下、春仁の発言は『サンデー毎日』から引用し、一部『神奈川新聞』で補った)。


「皇籍離脱の御感想を」と聞かれた春仁は、「(離脱が)本格的な世論となつて以来、その実現の日を待望していた。皇族籍を離脱されて、さぞおさびしいでしようと同情されるのは私にいわせればお門違いである」と言い切る。

春仁は皇籍離脱を見据え、三都和みつわ商会(本社・東京日本橋)の社長におさまっていた。進駐軍向けの建築金具の製造のほか、結婚相談など手広く事業を手掛けた合名会社である。春仁は「純然たる民間人として、実業方面に進み、再建日本のために出来るだけのことをしたい」「(社長業は)ロボツト的存在に甘んずる気持はない」と強調した。

ただし、社長業は、周囲に担がれたのが現実だった。

戦時中、軍にヘルメットを納めていた男性に誘われ、小田原から週3回、出勤する形だった。

それにもかかわらず、春仁はロボットではないと言い切った。

これらの記事を見ると、「春仁」は「皇籍離脱」に積極的だったかのようだが、

他の解説だと、宮家が戦争の責任を取り皇族の身分を離れることに関しては「皇族の指名を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と反対した。

そもそも「春仁」は終戦時、陸軍少将として戦争継続を主張した、という記述さえある。

1957年(昭和32年)には妻の直子が家出し告白手記を発表して、夫は同性愛者(男色家)であったと語り、スキャンダルに見舞われた。

閑院宮に子供がいなかったのは、このあたりに原因があるのかもしれない。

いずれにせよ、閑院宮父子には、太平洋戦争において、日本国を破滅に追い込んだ責任を取ろうとする気配は見られない。


さて、⑤「伏見宮博恭」(ふしみのみやひろやすおう)の戦争犯罪だが、この皇族軍人もネットでは、色々言われている。海軍の良識派を追い出した責任は重い。


重大なのは特攻兵器の開発に彼が関わっていた事だろう。

資料不足でなんとも言えないが、サイパン陥落時の御前会議で特攻兵器に言及したということだ。

1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、

「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。


この「特殊な兵器」は特攻兵器を意味するものであったとの説がある。

同年末頃に、脳出血を起こし、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る。

博恭王の四人の男子はすべて海軍兵学校に進み、第一王子・博義王、第二王子・博忠王は戦病死し、

第四王子の博英王はセレベス島南部のボネ湾上空で撃墜され戦死した。第

三王子の博信王のみが生き延びた。

閑院宮載仁親王の第五王女・華子と結婚し、戦後はアメリカに渡ったという。

敗戦直後、病躯をおして上京。

しばらくは、戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館「福田屋」で生活を送った。

さらに、目黒に所在した三条公爵家の邸宅を買い取って移住。

敗戦に前後し、重要な書類や日記は全て焼却処分したため、米軍に接収されていない。

1946年(昭和21年)8月16日午前9時38分、伏見宮邸にて薨去した。

なんとも死亡日がちょうど敗戦の1年後というのが気のかかる。

博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。

これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを

「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。

博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は、

「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」

「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。

これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、

戦後は批判的な評価を受けることが多い。

しかし、そもそも博恭王を軍令部長に担いだのは「艦隊派」であり、

その運動の中心となったのは艦隊派のシンボル東郷平八郎とその腹心、小笠原長生であった。

艦隊派の拠点である軍令部は博恭王を担ぐことにより条約派の海軍省に意趣返しをしたのであった。

しかし、昭和13年から翌年にかけて陸軍と海軍が日独伊三国同盟について対立すると、

米内光政海軍大臣、山本五十六次官らは英米を無用に刺激すると猛反対したが、

「博恭王」は米内らを一貫して支持する姿勢を堅持していた。

海軍関係者らからは、対米開戦についても博恭王は当初は絶対反対と主張していたという。

開戦を主張するようになったのは9月6日の御前会議で、

10月下旬をめどとして対米英蘭戦争の準備を完了するとした「帝国国策遂行要領」決定以降のことである。

伏見宮は10月9日に参内して天皇に

「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」

「人民は開戦を希望している」

と語ったが天皇に「今はその時期ではない」と反論され博恭王は主張を取り消した、

ということを木戸幸一は天皇から聞いたという。

この発言は9月6日の御前会議で対英米蘭戦争の準備を10月下旬には完了するとした

「帝国国策遂行要領」の決定や10月5日に連合艦隊に作戦準備が命じられた以降のものであり、

博恭王の発言は軍事的には暴論とは言えないと言われる。

開戦時の嶋田繁太郎海相が避戦派から開戦派に転向したのも伏見宮の働きかけによるとされる。

伏見宮は昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めていたが、

総長にあと1年長く在任していれば、開戦責任を問われて戦犯とされていた可能性も高く、

もしそうなっていれば開戦責任が皇族関係者に及ぶことになる可能性もあり得た。

海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、

皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかっ。

この点に関してはこの時期、

東久邇宮が総理候補になっていたのを、

昭和天皇が皇室に開戦の責任を及ぼしかねないことを見越して却下したのと同じ背景で、

「病気になられた機会に替わっていただいた」(「昭和天皇独白録」)という事情と、

海軍内部も同じく開戦責任を伏見宮に及ぼさないため辞めていただいたという事情だったという

(「博恭殿下を偲び奉りて」南郷次郎海軍少将)。

反面、博恭王自身は日米戦について

「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という

『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされ、

実際にその様な内容を昭和天皇にも上奏を行っている。

艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派』の山本五十六とは、

日米戦について近い考えをしていたと考えられる。


そして⑨竹田宮恒徳だ。

戦後の竹田家は瀬島龍三に大変感謝しており、瀬島龍三の提言に全て従っていたと、現代のユーチューバー竹田恒泰が述べている。細かいことはわからない。

竹田宮恒徳の息子の竹田恒和は最近オリンピック賄賂疑惑で有名になった。

電通の高橋治之とは慶応の同級生らしい。

高橋治之の実弟は高橋治則で日本長期信用銀行を破綻させた男だ。

日本興業銀行を破綻させた尾上 縫と並ぶバブルの寵児である。

機会があればゆっくり解説したい。

竹田家は、恒徳、恒和、恒秦、と節操のない男子が続いている。竹田恒泰さんの従兄の竹田恒昭さんは、

大麻で捕まっている。男系y遺伝子が、確実に性格を遺伝しているのがよくわかる。

この事実はなんとも女系容認論者には都合が悪い。


皇籍離脱に際し、昭和天皇の侍従長を務めた「入江相政」(いりえすけまさ)の日記には、

占領期の11宮家の臣籍降下について、次のような記述がある。『これも誠に御気の毒なことではあろうが已むを得ない事であり、その殆ど全部が(二、三の例外を除いては)皇室のお徳を上げる程のことをなさらず、汚した方も相当あったことを考えれば、寧ろ良いことであろう』


また、皇籍離脱に際し、宮内府(後の宮内庁)の皇太后宮職庶務課長兼会計課長

だった「筧素彦」(かけいもとひこ)が「まことに恐れ入ったことで」と申し上げたのに対し、

「貞明皇后」(ていめいこうごう)(当時の皇太后=大正天皇の皇后)が以下のように仰った。

『これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました』と。


この戦後すぐ、宮内庁の2人の官僚「入江相政」(いりえすけまさ)「筧素彦」(かけいもとひこ)の証言は、

戦中の皇族軍人の振る舞いに、多くの批判が当時からあったことを示している。

ここで、私はもう一度、大正9年の「皇籍の降下に関する施行準則」をしっかり見てみたいと思う。


取りあえず、原文、を下記に写す。これを読めば、面白い事がわかる。特に附則を。


第1条 皇玄孫の子孫たる王明治40年2月11日勅定の皇室典範

増補第1条及び皇族身位令第25条の規定により情願をなささるときは長子孫の系統4世以内を除く他勅旨により家名をたまい華族に列す。

第2条、前条の長子孫の系統を定るは皇位継承の順位による。

第3条、長子孫の系統4世以内に在る者子孫なくして父祖に先ち薨去したる場合において兄弟たる王在るときはその王皇位継承の順位に従いこれに変わるものとする。

第4条前数条の規定は皇室典範第32条の規定により親王の号を宣賜せられたる皇兄弟の子孫にこれを準用す。

附則、この準則は現在の宣か親王の子孫現に宮号を有する王の子孫並み兄弟及びその子孫にこれを準用す。

ただし第1条に定めたる世数は故邦家親王の子を1世として実系によりこれを算す。

博恭王は長子孫の系統に在る者と看模倣す。

邦芳王及び多喜王にはこれの準則を適用せす。

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