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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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「伏見宮家と朝香宮鳩彦と中島今朝吾と松井石根と山田栴二の謎」

「皆行社」(かいこうしゃ)という団体があります。

「南京戦史」(なんきんせんし)という資料を出版しています。

この資料、ほとんどが退役軍人の方々によって作られています。

「皆行社」は自衛隊、退役軍人のOBが作った親睦団体です。

ゆえに資料は極端な右傾向があります。

しかし「南京事件は無かった」「捏造だ」と言い張る方々は、

この偕行社の資料にすら文句を言います。

兎に角一人でも日本軍が中国人を虐殺してたら不満なのです。

まずこの「南京事件」を掘り下げるとき、重要な日記を残されている3人がいます。


①上海派遣軍第16師団「中島今朝吾」中将

②上海派遣軍第13師団、歩兵第103旅団長「山田栴ニ」(やまだせんじ)少将(最終階級は中将)

③歩兵第65連隊長「両角業作」(もろずみぎょうさく)大佐(最終階級は中将)


この3人の残した従軍日記やメモが公表されてます。

「南京問題」というのは未だに真実がよくわからない事件ですですので、論点がぼやけないように

「朝香宮鳩彦」(あさかのみや やすひこ)中将が

「上海派遣軍司令官」に抜擢された1937年12月2日から

「南京城入城式」12月17日までの期間に絞って考察してみたいと思います。

当時の状況からいって、

将校以上の立場の人は、証言する責任があると思うのですが、この朝香宮もそうで、

元皇族の方の証言はありません。

ゆえに彼らは今後も責任の追求はされそうにありません。

南京問題で、松井石根大将が絞首刑される前に、

「教誨師」(きょうかいし)である花山信勝に語ったといわれる言葉があります。

「教誨師」(きょうかいし )とは、刑務所において、服役中の囚人に対して、

過ちを悔い改め徳性を養うための道を説く者。

多くは宗教家がこれに任ぜられる。 日本ではとくに真宗の僧が多く行っている。


「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。

私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。

日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。

今度はそうはいかなかった。

政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。

慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。

そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、

せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。

ところが、そのことのあとで、みなが笑った。

はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。

したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、

深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。

せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。」


信じられないような内容ですが、死ぬ直前に嘘をつくとは思えません。

特に「皆が笑った」部分と「当たり前ですよ」とある将校が言った部分です。

一部の資料によりますと、その言葉を発した師団長は、

「中島今朝吾」第16師団長だということ。

この部分を読んだとき、南京における「松井石根」大将は、まさに孤立無援だったと推測できました。

さて時系列で見ていきましょう。

「松井石根大将」「朝香宮鳩彦中将」が南京入場したのが12月17日である。

「朝香宮鳩彦中将」が上海派遣軍司令官に任命されたのが12月2日、

上海に赴任したのが12月8日である。

「山田栴二少将」(やまだせんじしょうしょう)の第103旅団が、

14,777名の捕虜を捕らえたのが12月14日です。

第16師団「中島今朝吾中将」(なかじまいさごちゅうしょう)の日記の一文、

「捕虜はとらざる方針なれば・・・」が書かれたのが12月13日である。


大変重要な一次資料なので以下に全文転写してみましょう。


『中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

十二月十三日 天気晴朗

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底 其始末に堪へざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ

十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり』


「山田栴二少将」(やまだせんじしょうしょう)が16師団へ捕虜の処置を仰ぎ

「皆殺せ」との指令を受けたのが12月15日である。

「山田栴二少将」(やまだせんじしょうしょう)が「上海派遣軍司令部」へ再び同じ指示を仰ぎ、

同じく「始末せよ」と指示されたのが12月16日である。

「階行社」の「南京戦史」によると、

「山田支隊」はこのあと捕虜を揚子江へ連れ出すが、

わざと暴動を起こさせ大混乱の中、都合よく捕虜の大半に逃げられた、とある。

よって「山田支隊」による大量処刑はなかったのだが、

この様子は「上海派遣軍司令部参謀長飯沼守少将の日記」12月21日に詳しく書いてあることから、

捕虜の虐殺命令が出ていたのは事実であろう。

運良く山田支隊は捕虜を大量処刑をせずにすんだけれども、

このような捕虜虐殺の命令が出ていたという事実は、

南京事件の真偽を図る上では大変重い。


さて南京事件で言われる捕虜の大量処刑に「朝香宮鳩彦中将」(あさかのみや やすひこちゅうしょう)は

どこまで関与していたかが気になります。

この山田栴二(やまだせんじ)103旅団は、直属の16師団中島今朝吾(なかじまいさご)中将と、

本司令部朝香宮鳩彦(あさかのみや やすひこ)司令官へ、

計2回捕虜の処遇に関して伝令を飛ばしている事がわかっています。

最初の伝令が本間少佐に命じられ、2度目が相田中佐へ命じられています。

そして2度とも参謀本部からの返信は「始末せよ」との返事であったと、

山田少将は日記で記しています。

ここの問題点は、このとき朝香宮鳩彦(あさかのみや やすひこ)中将は、

自分の口で捕虜処分の命令を出したのか?の1点に尽きる。

山田栴二(やまだせんじ)少将のように、どうしても捕虜虐殺ができなくて、

命令違反で捕虜をわざと逃がした将校がいる一方で、

しっかり命令にしたがった将校もいたと推測される。

司令部から「捕虜は殺せ」と指示は来るが、普通に正気の将校だと、こんな命令には従えない。

しかし、現場では「了解」と答えるしかない。

山田栴二少将は、揚子江に捕虜を連れ出し、わざと現場に混乱を起こし、

そして大半の捕虜に逃げられるという茶番劇を演出して見せた。

しかし、皆が皆、山田少将のような思考にいたるわけではない。

軍隊では命令に絶対服従な将校もいるのだ。

命令に忠実な将校ほど、本当に捕虜を殺したのであろう。

山田少将の方が例外なのだ。

正に悲劇だ。

しかし、道徳的に優秀だったはずの日本軍に、何故、そんな悪夢のようなことが起こったか?

「長勇」(ちょういさむ)という参謀課長がいる、最終階級は陸軍中将である。

彼が参謀本部から「やっちまえ」という指示を2回出していたことがわかっている。


この支那派遣軍「長勇」は参謀2課長は、

独自に「やっちまえ」と師団に指示を出したようである。

つまり上司の「朝香宮鳩彦」中将に指示を仰ぐ状態ではなかったようなのだ。

「忖度」つまりはこの雰囲気が充満してた気がする。

この事は当時の松井石根付きの専属副官「角良晴」(すみよしはる)将校の日記に書いてある。

「長勇」(ちょういさむ)は当時の参謀本部にかかってきた電話に、

独断で捕虜の処刑の指示を出していたとの記録がある。

その具体的な言葉がが「やっちまえ」である。

言葉からして、もうやけくそ感が出ている。

この「長勇」という軍人はどのような軍人であったのだろうか。

こんな無茶な指令を出してはいるぐらいだから、

異常思考の持ち主だったと思うのは間違っている。

調べれば、沖縄守備隊で自決した参謀長で、極めて優秀な軍人だ。

何故、上海派遣軍、参謀2課長でありながら「やっちまえ」などという奇妙な指示を出したのか?

ここに当時の参謀本部の異常さが浮き出てくる。

「朝香宮鳩彦」中将は綺麗に南京入場したかった。

ゆえに、軍の進行が遅れる捕虜を取りたくなかった。


この「長勇」の発言は「松井石根」付専属副官「角良晴」少将の証言として、

偕行社「南京戦史」に出ている。

日付は12月18日、伺いを立ててきたのは、

103旅団(山田栴二少将)、及び

第6師団(谷寿夫中将)である。

ちなみに谷寿夫中将は戦後、南京裁判で死刑になっている。

そもそも、南京事件の根本的な悲劇の本質は松井石根の中支那方面軍というものが、

実戦部隊をほとんど持っていなかったところにある。

【中支那方面軍】

[司令官]松井石根大将、

[参謀長]塚田攻少将、

[参謀副長]武藤章大佐、

[参謀]公平匡武・光成省三中佐、中山寧人・二宮義清・吉川猛・河村弁治少佐、

[特務部長]原田熊吉少将、

[第3飛行団]値賀忠治少将-独立飛行4、6、10、14、15中隊


つまり、南京攻略は「上海派遣軍」「第10軍」この2つの軍が主力だったのだ。


中支那方面軍参謀「中山寧人」少佐は東京裁判で、

中支那方面軍の権限について、

「両軍の協同作戦を調整することを主任務とするもので、実際上の兵力の運用指揮は上海派遣軍及び第十軍の司令官が夫々専管することになっていました」

と証言している。


次に、上海派遣軍、第10軍、の構成を見てみよう


【上海派遣軍】

[司令官]朝香宮鳩彦王中将、

[参謀長]飯沼守少将、

[参謀副長]上村利道大佐、

[参謀]*西原一策大佐(1課長)、

*長勇中佐(2課長)、

*寺垣忠雄中佐(3課長)、

川上清志・北島熊男・*芳村正義、大坪一馬中佐、二神力、志方光之、*本郷忠夫、御厨正幸、榊原主計、櫛田正夫少佐、大西一・佐々木克巳大尉

(*は中支那方面軍参謀兼務)

〇第16師団(京都,定員25,179名)

[司令官]中島今朝吾中将、

[参謀長]中沢三夫大佐、

[参謀]大須賀応中佐、寺田盛寿少佐、木佐木久少佐

〇第9師団(金沢)

[司令官]吉住良輔中将、

[参謀長]中川広大佐、

[参謀]川久保鎮馬中佐、松沢恭平少佐、小西健雄大尉

〇第13師団(仙台)

[司令官]荻洲立兵中将、

[参謀長]畑勇三郎大佐

〇第3師団(名古屋)

[司令官]藤田進中将、

[参謀長]田尻和雄大佐

〇第11師団(名古屋)

[司令官]山室宗武中将、

[参謀長]片村四八大佐

〇第101師団(東京)

[司令官]伊東政喜中将、

[参謀長]西山福太郎大佐

〇野戦重砲兵第5旅団[内山英太郎少将]


【第10軍】

[司令官]柳川平助中将、

[参謀長]田辺盛武少将、

[参謀]藤本鉄熊(1課長)、井上靖(2課長)、谷田勇(3課長)大佐、

寺田雅雄、岡田重一、小畑信良中佐、

吉永朴、池谷半二郎、山崎正男、大坂順次、堂ノ脇光雄少佐、

仙頭俊三、清水武男、金子倫介大尉*

〇第6師団(熊本)

[司令官]谷寿夫中将、

[参謀長]下野一霍大佐、

[参謀]秋永力中佐、藤原武少佐、岡田重美大尉

〇第18師団(久留米)

[司令官]牛島貞雄中将、

[参謀長]小藤恵大佐

〇第114師団(宇都宮)

[司令官]末松茂治中将、

[参謀長]磯田三郎大佐、

[参謀]中井増太郎中佐、宇垣松四郎中佐、森藤甚松大尉、


南京事件で、戦後処刑されてるのは、

中支那方面軍司令官「松井石根」大将、

第10軍第6師団司令官「谷寿夫」中将である。


「松井石根」は東京裁判でほとんど弁明しなかったが、

「谷寿夫」中将は南京裁判で捕虜虐殺をやったのは上海派遣軍第16師団「中島今朝吾」中将の部隊であると何度も「中島今朝吾」中将の名前を出している。


上海派遣軍第16師団「中島今朝吾」中将は第10軍第6師団「谷寿夫」中将と南京一番乗りを競っていた。

「中島今朝吾」中将はその日記で、何度もこの事に不満を述べている。

結局、南京一番乗りは「谷寿夫」中将の第6師団に持っていかれた。

「中島今朝吾」としては不満が溜まっていたというわけだ。

その不満が捕虜虐殺に繋がったとも考えられる。


「松井石根」の参謀副官に「武藤章」大佐というのがいる。

この「武藤章」大佐というのは参謀本部の作戦課長から出向してきている。

作戦課長「石原莞爾」を追い出して参謀本部の作戦課長になった人物だ。

頭の切れる人物であった。

戦後、東京裁判で死刑になっているが、

南京事件の捕虜虐殺で死刑になった「谷寿夫」中将と、

戦後GHQに逮捕される寸前に病死して訴追を免れた「中島今朝吾」中将は、

「武藤章」参謀副官に競わされていた可能性が大である。

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