「伏見宮家と南京事件」
私は、天皇は大好きですが、旧宮家は嫌いである。
旧宮家の中でも特に「皇族軍人」と呼ばれる人たちは大嫌いである。
彼らの存在意義とは、そもそも何だったのでしょうか?
私の理解では「天皇の藩屏」(はんぺい)として存在していたはずです。
天皇家以外の宮家は、スペアである前に「天皇の藩屏」として存在意義があったと思うのだが、
第二次世界大戦後、皇族軍人で昭和天皇を身を挺して守ろうとした人はいなかった。
彼らは何もしなかった。
普段の生活では、特別待遇で生活してたくせに、その代わりの義務を一切果たそうとしなかった。
戦争は煽り、自分達は安全圏。
誰よりも大きい責任を負うはずが、
その責任を負うことを拒否した人達、それが皇族軍人です。
戦争には負け、多くの国民を死なせ、日本の財産を棄損したくせに、
戦後、どの皇族軍人も、全く責任を取ろうとしなかった。
正直言って、低級の人たちである。
昭和天皇がただ一人、マッカーサーに対して、全責任をとろうとしたが、
誠に残念ながら、天皇の藩屏たる旧宮家の皇族たちに、身を挺して天皇を守るきはなかった。
第2次世界大戦中、12人の王、3人の親王が将校であったにも関わらず、誰も腹を切らなかった。
この事実が、皇族軍人というものが、どういうものであったかを、しっかり物語っている。
昭和天皇はマッカーサーに「責任は全て私にある」といったらしい、誠に立派である。
天皇陛下にそのような覚悟をさせておいて、
天皇の藩屏たる皇族軍人は、いったい何をしたのか?
誠に恥ずかしい。
SCAPIN550(1946,1,4)というGHQ命令がある。
いわゆる「公職追放令」だが、なんとこれが出るまで、
旧皇族は皆「貴族院議員」を辞職すらしなかった。
「皇族軍人」というものは、自らの責任をどう感じていたのであろうか。
「皇族軍人」を一人づつ調べて見ようと思う。
まずは、どんな人がいたか、並べてみよう。
陸軍大将
「梨本宮守正王」(なしもとのみや もりまさおう)
「朝香宮鳩彦王」(あさかのみや やすひこおう)
「東久邇宮稔彦王」(ひがしくにのみや なるひこおう)
陸軍中将
「賀陽宮恒憲王」(かやのみや つねのりおう)
陸軍少将
「秩父宮雍仁親王」(ちちぶのみや やすひとしんのう)
「閑院宮春仁王」(かんいんのみや はるひとおう)
陸軍中佐
「竹田宮恒徳王」(たけだのみや つねよしおう)
「朝香宮孚彦王」(あさかのみや たかひこおう)
陸軍少佐
「三笠宮祟仁親王」(みかさのみや たかひとしんのう)
「東久邇宮盛厚王」(ひがしくにのみや もりひろおう)
陸軍大尉
「賀陽宮邦寿王」(かやのみや くにながおう)
海軍大将
「伏見宮博恭王」(ふしみのみや ひろやすおう)
海軍中将
「久邇宮朝融王」(くにのみや あさあきらおう)
海軍大佐
「高松宮宣仁親王」(たかまつのみや のぶひとしんのう)
海軍少佐
「山階宮武彦王」(やましなのみや たけひこおう)
この中で重要なのは少将以上の位にあった8名であろう。
この8人は特に責任が重いと思う。
「秩父宮」「三笠宮」「高松宮」の3親王は「直宮家」なので除外するとして
伏見宮系は天皇家の藩屏であったはずです。
軍の大将、中将などは、率先して戦争責任を引き受けるべきだったのではないでしょうか。
明治の始め、新しく伏見宮の系統に宮家が設立されたとき、
それは「一代限り」という約束であった。
しかし、その約束を破り、天皇が世襲継承の勅書を出したのは「天皇の藩屏」になるというこれら伏見宮系皇族の言葉を信じたからではないのか。
なんで誰も責務を果たさなかったのか?
海軍大将「伏見宮博恭王」(ふしみのみや ひろやすおう)はサイパン島の放棄を決定した折、
天皇臨席の元帥会議において
「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。
これぞ「特攻兵器導入」の発議なのであるが、
このような発言を元帥会議においてするということは、
それなりの覚悟があっての事だろうと誰もが思うのだろうが、実はその覚悟はなかった。
もしもの時は、自らの命をもって償うくらいの覚悟はあると思ってたのは国民だけだったのである。
実際「阿南惟幾」「近衛文麿」のような形で責任を取った武人もいた。
結局「伏見宮博恭」は敗戦の1年後1946年8月16日に薨去している。
敗戦に前後し、重要な書類や日記は全て焼却処分したため詳しいことはわからないという。
「朝香宮鳩彦王」(あさかのみややすひこおう)は「南京問題」に大きく関与していた疑惑がある。
南京で虐殺はあったのか、なかったのか・・・
日本では、よっぽど左寄りのサイトでない限り、
この南京において、大虐殺と呼べるほどの事例はなかった、とするのが通説である。
これはひとえに「小林よしのり」をはじめとする近年の保守系メディアの勝利と言えるであろう。
「ザ・レイプ・オブ・南京」を書いたアイリスチャンは2004年に自殺し、
その著書は捏造だといわれている。
しかしながら、1から10まで「南京事件」が捏造だったかといえば、そうとも言えない。
「松井石根大将」をはじめ「谷中将」「中島今朝吾中将」ら、
多くの将校が南京事件について証言し、日記を残しているからである。
松井は南京攻略を1937年12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。
トラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。
ところが、1937年11月19日、「柳川平助中将」率いる第10軍は、松井の指揮権を無視し独断で
「南京攻略戦」を開始した。
「松井石根中支那方面軍司令官」は制止しようとしたが間に合わず第10軍の暴走を追認してしまった。
11月28日「参謀本部」は「南京攻略命令」を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」
(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した
(蒋介石はこの日の内に南京を脱出した)
12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。
翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。
このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、
「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いた。
翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、
松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」
「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」
「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語った。
松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた。
(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。
後の東京裁判における宣誓口述書では、
一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、
組織的な大虐殺に関しては否定している。
「朝香宮鳩彦中将」は「上海派遣軍司令官」だった。
天皇が始めて、中国を敵国と呼び、首都南京の攻撃を命令したのは
【大陸命第8号】だった。
「支那方面軍司令官」は海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべしという内容で、
現地軍は今まで陸軍中央の指示を無視して暴走してきたのだが、
ここで天皇がはっきりと暴走を承認した。
現地の司令官たちは非常に喜び、天皇に認めてもらったことに感動した。
すでに南京に向けて進撃していた日本軍は命令後3ルートに分かれて南京城に進攻した。
「中支那方面軍」と「上海派遣軍」の司令官を兼任していた「松井石根」は
「中支那方面軍」の専任司令官となり、
12月2日「朝香宮鳩彦中将」が「上海派遣軍司令官」に任命された。
12月7日に着任。
「中島今朝吾」(なかじまけさご)中将(第16師団長)の「南京攻略戦日記」である。
「本攻略戦において捕虜を取らない方針であること」
「捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと」
「捕虜を一ヶ所にまとめて処理する予定」
「そのためには大きな濠を要する」との記述がある。
「中島今朝吾」中将と「松井石根」は、
「宇垣一成内閣」が流産したときの「遺恨」があった。
「松井石根」は宇垣軍閥の参謀であり、
「中島今朝吾」は「宇垣内閣」誕生を潰した側の人間であった。
「朝香宮鳩彦」はフランス留学時代、自動車事故に遭って同い年の「北白川宮成久王」が死亡している。
このとき「北白川宮」の棺に付き添って帰国したのが「中島今朝吾」である。
「中島今朝吾」は「朝香宮鳩彦」のフランス留学時代を共に過ごしてる。
「朝香宮鳩彦」は1887年生まれで「中島今朝吾」の6つ年下で、
非常に関係は良好だったと言われている。
「上海派遣軍司令官」に任命された「朝香宮鳩中将」は
「捕虜は取らざる事」との指令を発していたと思われる。
そして「朝香宮」の上官であった「松井石根」は「南京事件」の事を後悔し謝罪したが、
弁解はせず、黙って絞首刑となった。
「中島今朝吾」は1945年(昭和20年)10月28日、
長野県佐久郡御代田町の療養所で肝硬変と尿毒症により死去。
その時の状況は
「臨終を迎えたと同時にアメリカ軍のMPが戦犯容疑の取り調べに訪れ、部屋のドアをノックした」
とある。
タイミング的に自殺ではなかったのか。
「朝香宮鳩彦」を取り巻いた「松井石根」「中島今朝吾」、
2人の将校の死は「朝香宮鳩彦王」をかばっての死ではなかったのか。
戦後の「朝香宮鳩彦」は株式投資にうつつを抜かし、
暇を見てはゴルフをし、ついたあだ名が「ゴルフの宮様」である。
これでは「朝香宮鳩彦」をかばって死んだ「松井石根」が浮かばれない。
「松井石根」は陸軍大学首席で卒業した秀才で、
陸軍(関東軍)の暴走を大変憂いていた。
張作霖爆殺を計画した「河本大作」は松井の2つ年下で同じく陸軍大学首席卒業の秀才だ。
「松井石根」はこの「河本大作」をことのほか強く非難していたが、
「石原莞爾」と組んだ「河本大作」の「満州事変」では結果的には成功したと思われたので、
「松井石根」の「河本大作」批判は通らなかったようだ。
しかし、戦後、山西省日本軍残留問題の歴史的事実でわかるように、
「河本大作」の行動に「正義」はなかったように思われる。
反対に「松井石根」は「正義」しかなかった。
彼は決して責任を部下に押し付けるような人物ではなく、
「南京事件」の責任は松井にはなかったとしても現場最高指揮官として責任は取る、
そんな人物であったようだ。
「昭和天皇」は1901年生、
「伏見宮博恭大将」1875年生、
「朝香宮鳩彦大将」1887年生、
「梨本宮守正大将」1874年生、
「東久邇宮稔彦大将」1887年生、
このように一回り以上年上の叔父さんたちが「大将」として振る舞ってた軍部において、
「昭和天皇」が軍に口出しする事ができたのでしょうか?
「昭和天皇」の年齢もさることながら、
周りの大将全てが「伏見宮」の皇族です。
彼らは自分達が「本家」「格上」だと思っている「伏見殿」であり、
「閑院宮」出身の「昭和天皇」は年齢も一回り下だし、
「家格」的にも「格下」だと侮られていたのではないでしょうか。
恐らく昭和天皇の発言などは全く相手にされてなかった面もあったのだと推察されます。
「伏見宮系」の叔父たちは、本当の指導者は「伏見宮」にあると考えていたのではないか、
と私は考えています。
「南京事件」を取り上げた独中仏合作映画が日本では上映されなかったらしい。
「ジョン・ラーベ、南京のシンドラー」という題名です。
上映条件が「香川照之」が演じた「朝香宮鳩彦」の登場シーンを全てカットする事だったらしい。
それでドイツの映画会社が上映を拒否したらしいのだが、
この映画、ドイツではいろんな映画賞をとっている名作らしい。
日本ではなんの話題にもなっていませんが、
もし、その映画で描かれている事が、根も葉もないデタラメだとしたら、
日本政府は堂々と抗議すればいいのですが、そういう話も聞きません。
上映禁止にするわけでもなく、朝香宮鳩彦のシーンのみカットせよなどと、
いったいその映画のどこが、どういう風に問題なのでしょうか。
「朝香宮鳩彦」のシーンだけはダメだとする理由が不可解です。
いったい何が都合が悪いのでしょうか。
戦争映画で日本軍を悪者に描いた外国映画は他にも沢山あります。
最近ではディズニーの「パールハーバー」など、とても見るに耐えません。
しかし、普通に上映されています。
日本の要望で一部だけカットすることが上映の条件とか、聞いたことがありません。
しかし「ジョン・ラーベ、南京のシンドラー」は違うのです。
「朝香宮鳩彦」のシーンだけカットしろと日本が要望したとある。
要するに「朝香宮鳩彦」「旧宮家の皇族軍人」のイメージを守っているのではないでしょうか。
なぜそこまでして「旧宮家」のイメージを守るんでしょうか?
事実通りに扱われるべきです。
皇室を貶めるつもりはありませんが、描かれている内容が事実ならば、
それを隠蔽するのは、控えるべきです。
戦争責任は追求されるべきなのです。
大東亜戦争における皇室の関与は隠蔽するべきものではありません。
朝香宮鳩彦が上海派遣軍の司令官に抜擢されたのは、
前年に起きた「226事件」の余波だとの説もあります。
「226事件」において「皇道派」に同情的だった「朝香宮鳩彦」は、
「昭和天皇」から忠誠心を疑われたという事です。
「皇道派」の「朝香宮鳩彦」と「統制派」の「松井石根」は不仲だったのではないでしょうか。
「三井」「三菱」といった軍閥は当時「旧宮家」にしっかり食い込んでいたと思われます
「皇道派」の精神的支柱「北一輝」には
「三井」から半年毎1万円の献金がなされていたということがわかっている。
今の価値で7000万円程度ですが、恐らく氷山の一角でしょう。
1932年「血盟団」テロの恐怖は「三井」「三菱」といった大財閥を震え上がらせていた、
北一輝はその黒幕的存在である。
「皇道派」のバックには既存の大財閥がついてたと見るべきでしょう。
一方「統制派」にはそのライバル「新興財閥」がついていたのでしょう。
いわゆる大陸で利権を獲得してきた「大倉財閥」「日窒コンツェルン」といった勢力です。
「宇垣一成」は「226事件」の決起書によると逮捕者リストの筆頭だったそうです。
「中支方面軍司令官」だった「松井石根」は宇垣派の参謀でした。
そして朝鮮半島第一の大企業「日窒コンツェルン」総統「野口遵」は、
朝鮮総監だった「宇垣一成」と「刎頸の友」であった。
「朝香宮鳩彦」は「226事件」青年将校へ同情的であり、
「南京事件」で第16部隊を率いていた「中島今朝吾」少将はフランス時代の朝香宮の遊び仲間であった。
「幻の宇垣内閣」とは226事件の直後、
宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、
宇垣は車を多摩川六郷橋で止められて、
そこに「中島今朝吾」が乗り込んで来て、
寺内大臣からの命令で拝辞するようにと説得した。
当時、中島今朝吾は「憲兵隊司令官」であった。
「松井石根」と「中島今朝吾」の確執はこの頃からがあったわけです。
「皇道派」と「統制派」の対立は、形を変え、
既存の大財閥と、新興財閥の利権獲得争いの代理戦争の様相を挺していた。
陸軍上層部のそんな確執が、部下に伝染しないわけがない
部隊は派閥対立を起こし、規律は乱れ、信じられないような忖度が起こる。
「南京事件」とはそのような類いの事件ではなかったのか。
「天皇は君臨すれども統治せず」
しかし、宮家は天皇と違って、政治に口を出す。
常に暗躍していた。
現代、中国や韓国などの皇室批判から、天皇を保護をするやり方は間違っている。
守っているのが、天皇ではなく、伏見宮家になってる気がしてならない。
現代の保守層は、意識してか無意識かわからないが、
天皇家と旧宮家の報道や取り扱い方の区別が出来ていない。
「南京事件」には「226事件」の影響が多々見られます。
「南京虐殺はなかった」との意見が散見されてますが、
日本軍内部であからさまな派閥抗争が勃発していれば、
虐殺らしき事はあったでしょう。
そこには軍内部での上官への忖度が存在したのだろう。
そこで「南京戦史」財団法人偕行社を叩き台に、
ちょっと「南京事件」を探ってみようと思います。
「皆行社」というのは、元を帝国陸軍の親睦団体とし、
現在では自衛隊OBを含め、最大の軍閥利権団体となっています。
この「皆行社」が戦後、編纂した「南京戦史」という資料がある。
捕虜の処断、不明が27,000人となっています。
ポーランドのカチンの森でナチスによるポーランド将校の処刑数が22000人ですから、
それ並みの処刑はあったのでしょう。
さて、この南京事件だが「松井石根」のポジションは、
「中支那方面軍司令官」である。
「松井石根大将」の部下として
「上海派遣軍司令官」朝香宮鳩彦中将、
「第10軍司令官」柳川平助中将がいました。
この「柳川平助」中将というのが「226事件」において皇道派の中枢にいた人物でした。
つまり、松井石根は、直属2人の将軍に、恨みを買っていたわけです。
【上海派遣軍司令官】朝香宮鳩彦中将(陸士20)
第3師団、藤田進中将(陸士16)
第9師団、住吉良輔中将(陸士17)
第11師団、山室宗武中将(陸士17)
第13師団、萩洲立兵中将(陸士17)
第16師団、中島今朝吾中将(陸士15)
第101師団、伊東政喜中将(陸士14)
【第10軍司令官】柳川平助中将(陸士12)
第6師団、谷寿夫中将(陸士15)
第18師団、牛島貞雄中将(陸士15)
第114師団、末松茂治中将(陸士14)
「朝香宮鳩彦」「柳川平助」の両トップは、
「226事件」で「松井石根」に恨みを持っており、松井の指示に従うつもりはさらさらなかった。
上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記です。
「11月19日第10軍は松井の指揮権を無視し独断で「南京攻略戦」を開始した。
松井は制止しようとしたが間に合わず第10軍の暴走を追認した」
そして、更に問題なのは、
「柳川平助中将」も「中島今朝吾中将」も、
「松井石根」中支那方面軍司令官よりも「朝香宮鳩彦上海派遣軍司令官」を見ていた。




