竹田宮
(30)【竹田宮】
(恒久王)(つねひさおう) (1882~1919)・北白川宮能久親王・第1王子、
1906年(明治39年)3月31日、
北白川宮能久親王の第1王男子(庶長子)である恒久王を初代として創設された。
本来、宮家を継ぐ嫡子以外の男子は、爵位を賜って臣籍降下(皇籍離脱)することが多かったが、
当時は明治天皇の直系の男系子孫が少なかったことから、
将来的に皇位を継ぐ可能性を持っていた伏見宮系の宮家との血縁関係を近める意図で、
明治天皇の第6皇女である昌子内親王を王妃に迎え、新たに宮家を立てた。
1947年(昭和22年)10月14日、2代・恒徳王の代で皇籍離脱。
いわゆる旧皇族の一つである。
現在の旧宮家の祭祀継承者は、恒徳王の長男・恒正。
竹田宮恒久王、
1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、
日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。
北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。
妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。
官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。
1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。
近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。
井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。
1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。享年37。
なお、恒久王の薨去により、
同月29日に予定されていた皇太子裕仁親王(恒久王の義理の甥)の成年式が5月7日に延期になっている。
竹田宮の宮号は、京都府にある竹田街道から取ってつけられた宮号である。
1908年、明治天皇の第6皇女・昌子内親王を娶ったのは、竹田宮恒久王ですが、
彼は北白川宮能久親王の第1王子ですから、もともと皇族です。
ゆえに、皇籍復帰はしてません。
北白川宮能久親王は祟光天皇15世孫である伏見宮邦家親王の第9皇子です。
この北白川宮能久親王の第1王子が、初代・竹田宮である竹田宮恒久王です。
1906年、竹田宮の称号を賜り、竹田宮を創設し、
1908年、明治天皇の第6皇女昌子内親王と結婚しました。




