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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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祟光流と後光厳流の謎③


「伏見宮彦仁」は即位すると実家「伏見宮」を優遇します。

しかし、実父である「伏見宮貞成親王」への「尊号宣下」の際、

「貞成」を「傍親」(ぼうしん)とする「詔書」(しょうしょ)を採用します。

「彦仁」は「貞成」を「叔父」として接したということです。

「彦仁」にとって「親」は「後小松上皇」で「貞成」は「叔父」となったわけです。

ここに、何故、明治に皇統符が書き換えられたのかという謎があるのです。

よく言われる39代弘文天皇は明治以降に入れられたとか、大正15年に皇統譜令が定められるまで、神功皇后は15代の天皇とされていたとか、皇統譜は宮内省が1925年に歴史を遡及してつくった系図である。多くの天皇のおくりなはこのときつけられたとか、そもそも「皇統譜」事態,明治22(1889)年の旧「皇室典範」までなかったとか、つまり、本朝皇胤紹運録など明治以前の資料では、伏見宮彦仁の父も、後小松上皇となっていたということです。

伏見宮は嫡子「彦仁」を後光厳流に「猶子」として差し出し、

その代償に「永世・世襲親王家・伏見宮」という「家格」を手に入れ、

それ以後は親子とは公式には主張しない取り決めになってたと思われます。

それが明治以後、また元に戻っているわけです。

これで何故「伏見宮」が「本家」だと主張してる理由がわかります。

「世襲親王家」は日本の皇室において当代の天皇(今上天皇)との血統の遠近に関わらず代々天皇の猶子(養子)となって皇位を継げる家格です。

当主は「親王宣下」(しんのうせんげ)を受けることで代々「親王」(しんのう)の身位を保持され続け、

天皇に世継ぎがない場合、次の天皇を立てることができるとされています。

しかし、そうは言っても後花園以来、600年以上、伏見宮から天皇になった人はいません。

現代は天皇家と伏見宮の関係は見直さなければならない状態であると言えます。

1947年、永世世襲親王家の歴史に終止符が打たれました。

もともと、世襲親王家というのは、世代が積み重なれば、血統が遠すぎて皇位継承させるには無理があるわけです。

現代では伏見宮は封建時代の因習と見なされたわけです。

ただ室町時代は「彦仁」という天皇の男系嫡男を差し出した見返りに、

最上位の「家格」を貰え、録も増えたわけですから、世襲親王家の意味はあったということです。

『本朝皇胤紹運録』には、後花園天皇は後小松天皇の皇子として記載されています。

明治以降に作られた今の皇統譜では、そうではありません。

さて、どちらが正しいのか、今はわからないということです。

では、ここでちょっと「世襲親王家」の歴史について考察していきましょう。

歴史を振り返ってみれば、最初に成立した世襲親王家は「常盤井宮」(ときわいのみや)です。

初代は「恒明親王」(つねあきしんのう)でした。

第90代亀山天皇の末っ子です。

第2号世襲親王家は「木寺宮」(きでらのみや)初代は「康仁親王」(やすひとしんのう)です。

こちらは後醍醐天皇に無理矢理廃位させられた皇太子で、第94代後二条天皇の孫です。

第3号世襲親王家が「伏見宮」で、初代は「栄仁親王」(よしひとしんのう)です。

では其々について見てみましょう。

共通点は全員「皇位」を約束されていながら天皇になれなかった悲劇の「親王」だという所です。

「常盤井宮」「木寺宮」は1590年頃、どちらも断絶してしまいましたが「伏見宮」だけは、1947年まで断絶せずに続きました。

まあ途中で二回ほど断絶の危機はあったのですが、各々「禁じ手」を繰り出して、しぶとく男系を継なぎました。

今日「伏見宮」が傲慢なのは、この歴史的背景があるからでしょう。

「伏見宮」は未だに天皇家に世継ぎがないときは継承者を出せる家格だと思っています。

「男系」という理由ではなく、元「永世世襲親王家、伏見殿」だという自負があるからでしょう。

国民はそうは思っていないのですが。

「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)は自らを「後光厳流」だと「詔」(しょう)して「祟光流」は傍流だと言っています。以下の歴史的資料が証拠です。

①「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)は「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)と

「日野西資子」(ひのにしすけこ)=「光範門院」(こうはんもんいん)の「猶子」として即位すると、

実父である「伏見宮貞成親王」(ふしみのみやさだふさおう)の「尊号宣下」の際、

「貞成」(さだふさ)を「傍親」(ぼうしん)とする「詔書」(しょうしょ)を

「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)自ら採用した。

※「傍親」とは「兄」、「詔書」(しょうしょ)とは天皇が発する公文書のこと。

②「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)の葬礼で

「後花園天皇」は父に対する「諒闇」(りょうあん)を行い

「光範門院」(こうはんもんいん)の際も母に対する「諒闇」(りょうあん)を実施しているが

「貞成親王」(さだふさしんのう)の際には兄に対するものとして葬礼を行い

「庭田幸子」(にわたゆきこ)に対しては「諒闇」(りょうあん)を行わなかった。

※「諒闇」(りょうあん)とは天皇の服する喪のうち、もっとも重いもの。

期間一年。本来天皇の父母に対して行なわれるものである。

③「崇光院流皇統」(すこういんりゅうこうとう)の楽器である琵琶(持明院統の正嫡のみが習得する)

ではなく

「後光厳院流皇統」(ごこうごんいんりゅうこうとう)の楽器である「笙」(しょう)と「箏」(こと)

を習得した。

④『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく)に「後小松天皇」(ごこまつてんのう)の皇子

として記載されている。

※「本朝皇胤紹運録」(ほんちょうこういんじょううんろく)とは、天皇・皇族の系図で、

皇室系図の代表的存在であり『皇統譜』成立以前の一般的な歴代天皇代数はこれに基づいている。

「歴代天皇」を「諡号」または「院号」とともに中心に据え「代数」「生母」「諱」「在位年数」や

「立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日」「御陵」などの事項を列記する。

応永33年(1426年)に成立

⑤「後光厳院流皇統」(ごこうごんいんりゅうこうとう)の葬儀場である「泉涌寺」(せんにゅうじ)が使用された。

もし「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)が「血統」を重視するならば、

実父「貞成」(さだふさ)を「傍親」(ぼうしん)として扱ったりしないでしょう。

実母「庭田幸子」(にわたゆきこ)に「諒闇」(りょうあん)を執り行うでしょう。

実際、現在の伏見宮系の旧宮家男子の血統は祟光天皇20世まで遠くなり、血の濃さは限りなく0に近くなってきております。

もうこれ以上、伏見宮系を皇位継承順位上位扱いする必要はないでしょう。


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