表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
59/105

賀陽宮


(28)【賀陽宮】 

(邦憲王)(くにのりおう) (1867~1909)・久邇宮朝彦親王・第2王子、

1900年(明治33年)5月9日、久邇宮朝彦親王の第二男子邦憲王を初代として創設された[1]。邦憲王は兄が夭逝していたため久邇宮の宮号を継承する予定だったが、病身により弟の邦彦王に譲り、別に宮家を創設した。

宮号の由来は、父・朝彦親王が久邇宮創設以前に称していた宮号である。朝彦親王は幕末に還俗した際、初めは「中川宮」を称したが、朝廷の首脳部として一会桑政権と連携していた時期に「賀陽宮」と改め宮家の列に加えられていたことがある。宮号は朝彦親王邸のかやの老木に由来するといい、これに平安時代後期の里内裏である賀陽院(高陽院)の字を当てたものと思われる。

1947年(昭和22年)10月14日、2代・恒憲王の代で皇籍離脱。現在の旧宮家の祭祀継承者は、恒憲王の孫にあたる5代・正憲。

邦憲王が香淳皇后の伯父、恒憲王妃敏子が貞明皇后の姪であるため、現在の皇室とは親戚関係にある。賀陽家と皇室の仲は菊栄親睦会・常磐会を通して深く、正憲は学習院初等科から学習院大学に至るまで今上天皇の同窓生でもあった。

賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう、1867年7月2日〈慶応3年6月1日〉 - 1909年〈明治42年〉12月8日)は、日本の皇族。伊勢神宮祭主。神宮皇學館(現・皇學館大学)総裁。久邇宮朝彦親王の第2王子で明仁上皇の大伯父にあたる。賀陽宮初代当主。

久邇宮朝彦親王の第2王子で、母は家女房泉亭静枝。幼名を巌麿王また巌宮とも。

1874年(明治7年)3月15日、名を巌麿王とするが、1886年(明治19年)7月21日に邦憲と改名する。王は第二王子であるが、兄王は生後間も無く薨去している為実質長男であり、久邇宮の継嗣であったが生来病身の為、弟の邦彦王に家督を譲った。

1891年(明治24年)父の朝彦親王が薨去。これを受けて邦彦王は久邇宮を継承、邦憲王は結婚を控え京都に一家を構えるにあたり新たな宮家設立を明治天皇に請願し勅許を得、1892年(明治25年)11月26日、従一位侯爵醍醐忠順の長女醍醐好子(後陽成天皇男系8世孫)と結婚する。同年12月17日、賀陽宮の称号を賜わる[1]。賀陽宮の名は、朝彦親王邸の榧の木に由来する。また、江戸期に親王号を一時剥奪されるまで、父の朝彦親王が称していた宮号でもある。好子妃との間に1男2女を儲けた。

1895年(明治28年)、神宮祭主に就任。1900年(明治33年)5月9日に賀陽宮家が諸王家の一つに列せられた(これは、先の25年の時点で称号としての賀陽宮ではあったが王家には非ず、久邇宮家の一員であった事を意味する)[2]。1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任[3]。1903年(明治36年)大勲位菊花大綬章を受章。

1909年(明治42年)春ごろより慢性腸疾患のために体調が悪化、9月頃からは排便が困難となる等、直腸癌の症状が顕著となる[4]。以降衰弱し、12月2日以降さらに病状が悪化し、12月8日午後3時、42歳で薨去した[4][5]。

12月15日、京都市下京区(当時)の泉涌寺にて、葬儀が執り行われた[6]。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ