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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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梨本宮

(26)【梨本宮】

(守脩親王)(もりおさしんのう)(1819~1881)・伏見宮貞敬親王・第10王子、

伏見宮貞敬親王の第十王子・守脩親王が明治維新に伴って還俗し、最初は梶井宮と称し、次いで明治3年(1871年)には梨本宮と改称したことにより、創設された。

1947年(昭和22年)10月14日、3代・守正王の代で皇籍離脱。男系では守正王の代で血筋が途絶えた。守正王は梨本徳彦を養子とした。徳彦の子には徳久がいる。徳彦は守正の養子となる前に昭和天皇から龍田の姓を賜っており、徳久は梨本を継承はしていない。梨本宮家は2代目から6代目まで全て養子であり、6代目隆夫が弁護士立ち合いのもと養子なり梨本家は継続しており、自民議連・旧宮家復活を提言 男系男子孫の皇籍復帰主張 女性宮家否定した上で旧宮家の中に梨本宮家は含まれている。しかし、一部の妄想の記載が絶えない。

梨本宮守脩親王(なしもとのみや もりおさしんのう、文政2年10月29日(1819年12月16日) - 1881年(明治14年)9月1日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の皇族。梨本宮初代当主。伏見宮貞敬親王の第10王子。伏見宮邦家親王の弟。幼称は、万代宮まよのみや

天保4年(1833年)4月親王宣下。守脩と命名される。同年9月に円満院に入り、出家し覚諄入道親王を名乗る。安政3年(1856年)二品に叙せられる。安政6年(1859年)6月円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改めた。親王は天台座主も務めたが、明治維新後は他の皇族と同様に還俗し、梶井宮守脩親王を名乗った。明治2年(1869年)上野太守に任ぜられる。明治3年(1870年)宮号を梨本宮に改称する。明治14年(1881年)9月に亡くなった。63歳。

親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王の王子菊麿王を養子とした。



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