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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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伏見宮

(22)【伏見宮】 

(栄仁親王)(よしひとしんのう)(1351~1416) 崇光天皇・第1皇子、

応永16年(1409年)、北朝第3代崇光天皇の第一皇子、栄仁親王を初代として創設された。宮号の由来は、その所領であった伏見御領に因む。

世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、宮家としても史上最長の26代、約600年にわたり存続している。

宮家の御紋は伏見宮十四裏菊。菩提寺は広義門院創建の大光明寺。家業は琵琶[注釈 1](楽道)

明治から昭和初期にかけて、数多くの連枝が新宮家・華族家を創設した。

昭和22年(1947年)10月14日、26代・博明王の代で皇籍離脱。いわゆる旧皇族の一つである。博明王に男子がいないことから、断絶見込み。

南北朝時代前期、持明院統(北朝)の治天の君であった光厳上皇は、かねてより名目上花園法皇の皇子とされる直仁親王[注釈 2]への皇位継承を望み、持明院統の将来の正嫡(嫡流)に定めた上で、第一皇子である北朝3代崇光天皇の皇太弟とした[注釈 3]。

しかし、正平一統後に、直仁親王は廃太子となり、3人の上皇(光厳・光明・崇光)とともに南朝側によって拉致されたことで、直仁親王への皇位継承は困難となったため、光厳上皇は第一皇子である崇光上皇を改めて持明院統(北朝)の正嫡に定めた。この際、光厳上皇は崇光上皇に持明院統の正嫡が修得する琵琶の秘曲(石上流泉・上原石上流泉・太常博士楊真操・啄木)を伝授し、持明院統伝来の膨大な記録類を継承させた[注釈 4]。さらに、長講堂領や法金剛院領などの持明院統の所領を相続させたが、伏見御領をそれらの所領とは分けて崇光上皇の子孫が管領するように命じた[2][3]。なお、光厳上皇と崇光上皇が南朝側に拉致された際に皇位を継承し、その後も長期にわたって在位していた後光厳天皇は、皇子の緒仁親王への譲位を志していた。

光厳上皇の崩御後、崇光上皇は自身の皇子である栄仁親王が皇位を継承することを望んでいたが、最終的に後光厳天皇との争いに敗れ、皇位は緒仁親王(後円融天皇)が継承した。そして、崇光上皇は伏見御領にある離宮の伏見殿に逼塞し、伏見殿と呼ばれるようになった[4]。その後、後円融天皇は皇子である幹仁親王(後小松天皇)に譲位し、失意のまま崇光上皇は崩御した。また、栄仁親王は持明院統の嫡流として、持明院統伝来の所領を崇光上皇から相続していたが、長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙を[5]後小松天皇から没収された[注釈 5]。皇位も遂に継承できず所領も没収されて消沈した栄仁親王はその後出家した[注釈 6]。なお、足利義満によって栄仁親王は伏見御領も没収されていたが、亡き光厳上皇の命令をもとに返還されたことで伏見宮家は存続、栄仁親王は晩年を伏見で過ごした。伏見御領は栄仁親王の王子である治仁王ついで貞成親王によって相続された。

正長元年(1428年)、後小松上皇の皇子である称光天皇が崩御し、後光厳天皇の皇統は断絶した。これによって、伏見宮から貞成親王の第一王子である彦仁王(後花園天皇)が後小松上皇の猶子として皇位を継承することとなった。永享5年(1433年)には後小松上皇も崩御したが「後小松上皇の崩御の際には、正嫡である崇光天皇の皇統として皇位継承するべき」とする貞成親王の本望は叶わず、後花園天皇は後光厳天皇の皇統の後継であると確認された[注釈 7]。しかし、後小松上皇の「遺詔」に「旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず」「貞成に尊号(太上天皇)あらば後光厳院の御流、たちまちに断絶せんか。尊号の御沙汰あるべからず」とされていたにもかかわらず[9]、貞成親王は将軍足利義教の申し出によって京都の旧後小松上皇御所の隣の邸宅に移住し、文安4年(1447年)に後花園天皇から天皇の「兄」として尊号宣下がなされ[注釈 8]、皇位につかずして太上天皇となることができた[10]。

その後、貞成親王の第二王子で後花園天皇の実弟にあたる貞常親王が4代目の当主となったが、貞常親王は後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許された[11]。伏見宮には天皇との「水魚」の関係、すなわち天皇を支える立場となることが期待された[12]。

江戸時代において、伏見宮の歴代当主は、その時々の天皇の名目上の養子(猶子)として親王の身位を与えられた(親王宣下)。江戸中期から幕末にかけては、伏見宮の貞敬親王と貞教親王が、実際に皇位継承の候補となった[13][14][15][16]。また、天皇家と伏見宮は縁戚関係も築いており、天皇の皇女2名(福子内親王・秋子内親王)が伏見宮家に降嫁している[17]。

他の宮家とは異なり、伏見宮は邦忠親王まで全て実系で宮家を継承してきた。しかし、宝暦10年(1760年)に当主の邦忠親王が王子を残さず薨去すると、世襲親王家との血縁を近くしたい天皇の意向もあって、桃園天皇の皇子である貞行親王が伏見宮を嗣いだ。貞行親王が夭逝したのちも、朝廷はまだ誕生していない後桃園天皇の皇子を伏見宮の後継者とするように定めた。ところが、崇光天皇以来持明院統の嫡流であり、しかも実系で宮家を継承してきたという矜持を持つ伏見宮家側は、幕府との血縁を利用して、実系継承に戻すよう幕府に工作する。そして、邦忠親王の弟である寛宝法親王を還俗させ、邦頼親王として家督を継承させることに成功した。伏見宮は15年ぶりに崇光上皇以来の実系に戻ったのであった[18]。

幕末の宮廷においても、伏見宮は「伏見殿」と呼ばれ、近世歴代天皇の祖である後花園天皇の出身宮家として天皇と同様な存在とみなされていたという[19]。幕末には朝彦親王が孝明天皇に信頼され側近として天皇を補佐し、天皇の意向を受けて八・一八の政変を主導するなどの活躍をした[20]。戊辰戦争の際には、伏見宮出身の輪王寺宮公現法親王が上野戦争の時には江戸幕府方の旗印として寛永寺に立て籠もり、その後、東北に逃げのびて奥羽越列藩同盟の盟主である「東武皇帝」として即位していたという説もある[21]。

幕末から維新期にかけて、19代当主の貞敬親王および20代・23代当主の邦家親王は多くの子女に恵まれ、守脩親王からは梨本宮家、邦家親王からは山階宮家・久邇宮家・華頂宮家・小松宮家・北白川宮家・東伏見宮家がそれぞれ創設されたほか、幕末に断絶していた閑院宮家も継承して再興した。また、久邇宮からはさらに賀陽宮家・東久邇宮家・朝香宮家が創設され、北白川宮家からも竹田宮家が創設された。これらの宮家が永世皇族として成立した背景に明治天皇の意向があったことを、伊藤博文はほのめかしている(「枢密院会議議事録」等)。

邦家親王の跡を継いだ24代貞愛親王は、元帥・陸軍大将に累進。明治天皇および大正天皇の信任も厚く、皇族の重鎮として、大日本農会・在郷軍人会総裁を歴任した。つづく25代博恭王も元帥海軍大将・軍令部総長として昭和期の海軍の要職を担った。

後を継いだ26代博明王の代になって間もなくの昭和22年(1947年)10月14日、連合国占領下において臣籍降下(いわゆる皇籍離脱)[注釈 9]し、伏見姓を名乗った。

→「旧皇族」も参照

いわゆる皇位継承問題では、女系天皇の容認とともに、この時臣籍降下した伏見宮系皇族(いわゆる旧皇族)の皇籍復帰が検討されているが、博明は「天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、これはもう従わなきゃいけないという気持ちはあります」と、自身に復帰する覚悟があることを表明している[22]。




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