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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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祟光流と後光厳流の謎②


後醍醐天皇は尊氏の和睦策を袖にして、吉野に逃走し南朝を立ち上げます。

成良親王を皇太子にしておく理由がなくなった足利尊氏は、

なんと皇太子を直仁親王に差し替えました。

ここで益仁親王は、二回目の立太子のチャンスを逃したことになります。

直仁親王は、花園上皇の第3皇子ですが、実際は光厳天皇の実子、つまり隠し子です。

尊氏は、持明院統・嫡流の光厳上皇の第一皇子・益仁親王を無視し、

光厳上皇が、溺愛している直仁親王を皇太子に据えたのです。

なぜ、尊氏がこのような横車を押したのか、恐らく、光厳上皇の院宣への恩返しだったのでしょう。

しかし、この人事は朝廷内で大反感を買います。

あまりにも光厳のわがままが過ぎる。

光厳上皇もやむなく皇太子を興仁親王と再び差し戻し、暦応元年(1338年)興仁親王(益仁)は立太子されることとなりました。

そして10年後、貞和4年(1348年)、光明天皇は興仁親王(当時14歳)に皇位を譲位し、

祟光天皇が誕生しました。



1348年、祟光天皇は無事、即位されましたが、しかし、光厳上皇は、今度は直仁親王を皇太子としました。

崇光天皇は自分の実子に皇位を継がせられない、一代主とされたのです。

1351年、栄仁は生まれます、しかし、皇太子にはなれない第一皇子だったのです。

1349年、足利幕府執事「高師直・師泰」兄弟と足利尊氏の弟「足利直義」が、

幕府を二つに割る内紛を起こします。

「観応の擾乱」です。

高師直・師泰兄弟は足利直義を襲撃し、直義は兄、尊氏の屋敷に逃げ込みます。

観応の擾乱は高兄弟の勝利に終わります。

足利直義は出家、直義の養子「足利直冬」は、叔父の窮地を救おうと長門で兵を挙げます。

実父、尊氏と高兄弟は直冬討伐に長門へ向かいます。

その隙を突いて足利直義は南朝と和睦し、

1351年、南朝軍と共同で京を攻めました。

京を守っていた尊氏の子・足利義詮は天皇・皇族を京に残したまま逃走、

南朝軍は京を制圧しました。

尊氏は備前から引き返し「摂津打出浜の戦い」で南朝軍と戦いますが、敗れてしまいます。

1351年「正平一統」が成立しました。




足利尊氏が後村上天皇を認め、南北朝は統一されました。

北朝・祟光天皇は廃位となり、尊氏は弟・直義、実子・直冬を討伐に出陣します。

足利直義は鎌倉で討ち取られ、南朝軍も吉野へ逃れ、

三人の上皇と直仁親王は賀名生に拉致されました。

1357年、祟光は幕府へ念書をしたためます。

子々孫々まで、決して皇位は望みませんから、京への帰京を許してください。

との内容です。

足利尊氏はこの時、祟光上皇も光明上皇も光厳上皇も直仁親王も三種神器もない状態で、

祟光の弟「弥仁親王」を即位させ、北朝を再興させました。

正式な持明院・嫡流である祟光の第一皇子である栄仁は皇太子になれませんでした。

理由はよくわかりませんが、祟光の差し出した念書のせいかもしれません。

1371年「後光厳天皇」は実子「緒仁」へ皇位を譲位しようとしようとしました。

祟光は栄仁を即位させようとしましたが足利義満は緒仁親王を践祚させました。

その後、義満は、皇位簒奪の計画しますが、あと一歩のところで謎の死に至ります。

皇統は後円融天皇のあとも、後光厳流の後小松天皇へと継承され、

称光天皇へと後光厳流で順調に継承されました。

伏見宮は栄仁親王の実子「治仁」が世襲で伏見宮2代目当主を継ぎ、弟3代目当主も「治仁」の弟「貞成」が世襲で継ぎ、第4代目当主は貞成の実子「彦仁」が継ぐ予定で、順調に流れていました。

ところが、第101代「称光天皇」に嗣子ができなかったため、伏見宮彦仁に皇位継承候補の白羽の矢が当たりました。




フランスでは、前述のように、こういう場合は、男系の途切れた家は断絶し、傍系の男系の家に王位を譲るのが普通でした。

しかし、日本の場合、皇位が伏見宮に譲られれるのではなく、彦仁親王が伏見宮から天皇家へ養子で入るのです。

2つの系統を並べると以下のようになります。

(後光厳流) 光厳天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇→称光天皇

(祟光流)  光厳天皇→祟光天皇→伏見宮栄仁親王→伏見宮貞成親王→伏見宮彦仁

彦仁親王は称光天皇と8親等離れていますが、まず後光厳天皇の孫である後小松上皇の元へ、猶子として入り、称光天皇とは兄弟となります。

次に彦仁親王は後光厳流として皇位を継ぐことになります。

崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとっては、

実子が皇位を継げる事は大変目出度いことではありましたが、

皇統が後光厳流から祟光流へ移ったわけではないのです。

フランスと日本。

カペー家からヴァロア家へと王朝交代が起こったフランスと、

伏見宮の嫡男を、猶子として天皇家へ差し出した日本。

日本が家というものを基準に成り立っていることが顕著にわかる事例だと思います。

天皇の血は、後光厳流男系から、祟光流男系へ、この時、代わっています。

しかし、現代の感覚と違うのは、養子で天皇家へ入ったとき、実父との関係も消え、神皇正統記の系図には養父である後小松上皇が父だと系図で記される徹底ぶりだというところです。



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