第19代貞敬の謎②
1759年当時、18歳の「桃園天皇」には、後継ぎ男子が「英仁」(ひでひと)しかいなかった。
「天皇家側」は「桃園天皇」に第二皇子ができるのを待ち「伏見宮家」を相続させたいと考えた。
「還俗は五摂家においてすら稀で容易ではない」と宮家の血脈による継承に反対した。
ここに「伏見宮家」と「天皇家」の対立が生まれた。
結果として、裁定に入った「幕府」が「天皇家側」の肩を持ち、
これから生まれる「桃園天皇」の第2皇子が「伏見宮家」を継承することが決まった。
翌1760年、待望の第2皇子「貞行」(さだもち)が生まれ、生後4カ月で宮家を相続。
伏見宮第17代「貞行親王」(さだもち)となったのである。
「伏見宮家」は「天皇直系」の皇子が相続することに決まり、栄仁以来の実子継承が途絶えた、
しかし、伏見宮の男系血統がリセットされたゆえ、本来は喜ばしいことである。
この「貞行」(さだもち)の血が、その後も伏見宮で継承されていたら、
今日の問題「皇統と600年以上も離れた男系」などと陰口を叩かれることもなかったであろう。
しかし「貞行」は1772年、13歳で亡くなってしまった。
実子もなく、伏見宮はまた断絶の危機となってしまった。
ときに「後桃園天皇」も13歳で子などなく、将来生まれるであろう皇子も、
第二皇子は養子先が決まっており、「第三皇子」による伏見宮家への養子が一旦は決まった。
なぜ「第三皇子」なのか。
「第一皇子」はむろん「天皇本家」を継ぐが、
2年前に「八条宮」家も断絶しており「第二皇子」の同宮家相続が決まっていたためである。
後桃園少年は「産ませる性」として天皇本家のほか、2つの宮家を継ぐ男児計3人をなすことが義務づけられたのである。
「貞行」(さだもち)が亡くなった2年後、
1774年、伏見宮家側は天皇家からの養子を拒むため、徳川幕府に働き掛け「寛宝」(かんぽう)の「還俗相続」を目指す。
工作は奏功し、幕府は朝廷に対し「寛宝」(かんぽう)の継承を認める方向での再評議を提案する。
天皇家は抵抗するが、結局「寛宝」(かんぽう)の宮家相続を認めた。
「寛宝」(かんぽう)は同年11月、
「還俗」(げんぞく)して「邦頼」(くにより)となり、伏見宮家を継承した。
「邦忠」(くにただ)の死から15年を経て、伏見宮家は実系に復したのである。
一方「後桃園天皇」は男子を一人もなさずに21歳で亡くなった。
天皇本家の実系は途絶え「閑院宮」の「光格天皇」が119代に即位する。
天皇の皇子が寺院に入り僧侶になることが増えたのは平安時代末以降のことだが、
まれに天皇の「思召」(おぼしめし)などにより、一家を創設した場合もあって、
世襲親王家として独自の家を繋いでいくことになる。
江戸時代には「伏見」「八条(桂)」「有栖川」「閑院」の4家が「四親王家」として固定化した。
皇子に対する個人的な待遇が、次第に家への優遇に転用され、宮家が「家格」として習慣的に形成されたのである。
江戸時代、宮家は皇位のスペアとしての存在意義があることが理解されていた。
しかし、天皇の皇子の多くが、仏門に入らなければならない一方で、「四親王家」に生まれた継嗣が、自家を継げるというあり方は不自然であった。
なぜなら、
宮家が代々世襲されるなら、天皇家との血統は次第に遠くなり、皇統護持の使命とは矛盾するためだ。
江戸中期の儒学者「中井竹山」は「四親王家」があるのは皇統の備えが大事だからだが、
年歴を経ると属籍も遠くなるので、数百年の後、宮家が皇統を継ぐことがあれば、
恐れながら安心できない。
という趣旨を書いている(『草茅危言』1789年)。
その危機は現代、現実に起きている。
天皇家側から有り体に言えば「四親王家」が適宜断絶し、そのたびに皇子を養子として宮家を継がせれば、
「四親王家」が随時、新陳代謝し、皇位の備えとしては理想の状況がつくれていただろう。
しかし、宮家の繁栄は、天皇に近い皇統を細くする効果がある。
とくに長く独自の血脈を誇ってきた「伏見宮家」は「天皇本家」に家を奪われないように用心しただろう。
伏見宮家第18代となった「寛宝」(邦頼)は、僧籍にあったときはむろん子はなかったが、
41歳で還俗してから11人の子(うち男子3人)をなした。
その子、第19代「貞敬」(さだよし)は35人の子(うち男子16人)
その子、第20代「邦家」(くにいえ)は32人の子(うち男子17人)をなした。
これは、子福者が続いたという偶然ではなく、
宮家権益を維持するために、戦略的な継嗣確保策であった。
そして「邦家」(くにいえ)の子たちが、
明治維新前後に「山階宮」「久邇宮」「北白川宮」などの宮号を与えられ、
現在の「旧宮家」の祖となっていく。
なお、国士舘大学客員教授「百地 章」は『産経新聞』3月26日の「正論」コラム「急げ『旧宮家の養子案』法制化を」で「四親王家」では、しばしば養子を迎えたと書いている。
しかし、それは天皇家から養子に入った例である。
江戸時代に限って言えば、現在検討されるような宮家に生まれた者が、他の宮家を継承する例はなかった。
そもそも、宮家における養子の目的は、百地が述べるような「宮家存続」というより、
むしろ「天皇家に近い宮家創出」であった。
伏見宮家の存在は、こうした天皇家の戦略を阻害するものであった点は見逃せないだろう。




