第19代貞敬の謎①
1779年、第118代「後桃園天皇」は崩御した。
しかし、この頃、京ではある人物が後桃園天皇の病が進むことを呪詛させていたという噂が立った。
ある人物とは、伏見宮第18代当主「邦頼親王」(くによりしんのう)である。
「後桃園天皇呪詛事件」(ごももぞのてんのうじゅそじけん)である。
第118代「後桃園天皇」は諱を「英仁」(ひでひと)という。
1762年、父「桃園天皇」が亡くなったとき5歳であったことから摂家の当主による話し合いで、
119代天皇は「英仁親王」ではなく、天皇の姉である「後桜町天皇」が即位する事になった。
「英仁親王」の即位が回避された理由については諸説あり、
①幼帝の即位によって新たな側近衆が形成されて、側近衆と摂家の政治的対立に端を発した「宝暦事件」(ほうれきじけん)の再来を警戒したという説。
②「英仁親王」への継承を支える上皇が必要とされたからだという説。
③「英仁親王」の養育に生母の「一条富子」(いちじょうとみこ)が関与を求めたという説。
(当時の慣例では天皇と母后は同居しない、英仁が即位すると富子が養育に関われなくなる)
等である。
1768年「英仁親王」立太子。
皇太子が天皇の子(皇子)でないのは「熙成親王」(ひろなりしんのう)以来400年ぶり。
(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)
天皇の甥が「皇太子」(皇太甥)になった例は「益仁親王」(ますひとしんのう)以来430年ぶり。
(光明天皇の甥、のちの崇光天皇)
1771年、伯母の「後桜町天皇」の譲位を受けて即位したが、1779年、在位のまま22歳で崩御してしまった。
この時、伏見宮邦頼親王が呪詛させていたのではないかという噂がたったのだ。
噂というものは何の根拠もないところからは立たない。
第18代当主伏見宮邦頼親王は昔「寛宝」(かんぽう)という名で「勧修寺」(かじゅうじ)の門跡であった。
しかし、伏見宮が嗣子断絶ゆえ、強引に幕府に頼み込み「還俗」させた。
そして、伏見宮18代当主に据えたのであった。
しかし、この時、伏見宮の当主継承に、前例の無いことだと反対したのが天皇家であった。
ちなみにこの時、伏見宮は一度は皇室からの養子を受けている。
第17代当主、伏見宮貞行親王である。
彼は桃園天皇の第二皇子であったが、13歳で薨去してしまった。
再び皇室からの養子案を断っての寛宝擁立という経緯であった。
「後桃園天皇」の病状が重くなる1779年夏ごろから、京都の神社仏閣で加持祈祷が行われていた。
そのなかで伏見宮第18代当主邦頼親王が、京市中の寺院(薬師院)に、病気が重くなるよう「呪詛」(じゅそ)させているという風聞が流れた。
「九条尚実」(くじょうひさざね)の日記から、少なくとも「後桃園天皇」の死の数日前には「九条尚実」の耳に入っていた。
「近衛維子」(このえこれこ)は「噂」を強く信じ、12月26日「近衛内前」(このえうちさき)が
「伏見宮邦頼」を御所に呼び、真偽を「質」(ただ)し「邦頼親王」は反論書を提出した。
「後桜町上皇」は「邦頼」の立場を「慮」(おもんぱか)り穏便に済まそうとしたが、
納得いかない「邦頼」は幕府の調査を希望し、解決に翌年3月までの時間が費やされたが、嫌疑なしとされ事件は収束した。
しかし「後桃園天皇」の死の当日(1779年12月16日)の時点では、間違いなく宮中に呪詛の風聞は届いていたわけで、次代天皇の選定に重大な影を落とした。
当時「天皇家」と「伏見宮家」の間の「確執」は前述した通り「寛宝」の還俗しての当主継承の事である。
寛宝こと第18代伏見宮当主「邦頼親王」は、第15代伏見宮当主「貞建親王」(さだたけしんのう)第2王子である。
1759年「邦頼」の一つ上の兄、第16代伏見宮家当主「邦忠親王」(くにただしんのう)が27歳で亡くなった。
「邦忠親王」には子がなく「弟宮」として「寛宝」(かんぽう)(26)「尊真」(そうしん)(15)がいた。
ともに「得度」(とくど)して僧籍に入り「寛宝」(かんぽう)は「勧修寺」(かじゅうじ)
「尊真」(そんしん)は「青蓮院」(しょうれんいん)の門跡であった。
仏門にある「皇族」が「還俗」(げんぞく)する例は幕末以降に頻出するが「還俗」(げんぞく)は本来、戒律を守れない者への処分であり、この時代、宮家の「還俗相続」(げんぞくそうぞく)は例がなかった。
こういう場合、これまでは天皇の皇子を臣籍降下し世襲親王家へ養子として入れ、その家を相続させるのである。
例えば「八条宮」は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)の第一皇子の「誠仁親王」(さねひとしんのう)の第六王子の「智仁親王」(としひとしんのう)を祖とする「世襲親王家」であった。
「智仁親王」は初め「豊臣秀吉」の「猶子」となったが「秀吉」に実子が生まれたため
「豊臣家」を離れて秀吉から邸宅と知行地を献じられ一家を立てた。
「智仁親王」が作った別邸が「桂離宮」である。
本邸跡は今も今出川通に面してあるが、その別邸である桂離宮が京都八条通の沿線上にあったことから「八条宮」(はちじょうのみや)と呼ばれた。
初代八条宮は「智仁親王」で正親町天皇の第一皇子「誠仁親王」(さねひとしんのう)の第6皇子である。
2代、「智忠親王」(としただしんのう)は「智仁親王」の王子。
3代、「穏仁親王」(やすひとしんのう)は「後水尾天皇」の皇子。
4代、「長仁親王」(おさひとしんのう)は「後西天皇」の皇子。
5代、「尚仁親王」(なおひとしんのう)は「後西天皇」の皇子で、長仁親王の弟
5代の「尚仁親王」(なおひとしんのう)に継嗣がなく、
1692年、ついに「八条宮家」は断絶した。
このように、3度も天皇の皇子を養子にとっている。
その後「霊元天皇」(れいげんてんのう)の皇子である「作宮」(さくのみや)が八条宮を継承して
「常磐井宮」(ときわいのみや)に改称した。
しかし「作宮」(さくのみや)は夭折し兄の「文仁親王」(ふみひとしんのう)が跡を継いで
「京極宮」(きょうごくのみや)に改称した。
つまり「八条宮」→「常盤井宮」→「京極宮」と、八条宮は断絶の4年後
「霊元天皇」の皇子「文仁」(ふみひと)によって復活した。




