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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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第13代貞致の謎③

「貞致」(さだゆき)は親王妃として「好君」を迎えた。

「好君」は「近衞尚嗣」(このえひさつぐ)の娘、

「尚嗣」は「近衛信尋」(このえのぶひろ)の実子である。

「後陽成天皇」→第四皇子(近衛信尋)→近衛尚嗣→好君

第107代「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)の第4皇子「四宮」(しのみや)は「臣籍降下」し「近衛信尹」の養子となった。

近衛家は、藤原北家嫡流であり、公家の五摂家筆頭で、華族の公爵家のひとつ。

人臣で最も天皇に近い地位にある家とされる

本姓は藤原氏であり、藤原忠通の四男(実質的な長男)の近衛基実を家祖とする。

その子の基通が京都近衛の北、室町の東、近衛大路に面した邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来である。

禁裏の陽明門を東西に通じているのが近衛大路だったため「陽明」とも呼ばれた。

摂関家には近衛流と九条流があるが、近衛流は藤原忠通の四男、九条流は六男を祖としており、先に藤氏長者をつとめたのが近衛流であり、嫡流に当たるとされる。

2代基通は鎌倉時代初期に後白河法皇の側近として親幕派の叔父九条兼実(九条家の祖)に対抗したことで知られる。

3代近衛家実は建保・承久年間に牡丹紋を車紋として使用するようになり、この後に近衛牡丹が近衛家の家紋となった。

鎌倉時代中期に家実の四男兼平により鷹司家が立てられた。

南北朝時代の一時期には近衛家は家平流と経平流の2流に分裂し、南朝側の近衛経忠(家平の子)と北朝側の近衛基嗣(経平の子)が対立した。

室町時代、近衛家は、二条家・一条家と異なり、関白になっても一年か二年程度しか在任できなかったが、応仁の乱の頃から二条家が経済的に困窮したのに対し、その地位を高め、戦国時代には、五摂家の筆頭的地位に上り、尚通など碩学政家や書家を輩出した。

近衛前久は1575年(天正3年)に織田信長と対立して薩摩国へ逃れて島津氏の庇護を受けたが、1578年(天正6年)に形勢がよくなったので帰京した。

その息子の信尹も1591年(天正19年)に豊臣秀次の関白就任に反対したことで豊臣秀吉と対立して左大臣を辞したが、秀吉が朝鮮出兵を開始すると従軍を志願し、後陽成天皇にその許しを乞うたが、驚いた天皇は宸翰を秀吉に与えて信尹を思いとどまらせるよう指示し、秀吉は前田玄以に命じて信尹を制止した。

その後、周囲との調和を乱すとされて薩摩へ配流となった。後に許されて帰京して秀吉の死後には関白となった。

信尹は継嗣を欠いたため、江戸時代初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた第4皇子、四宮を養嗣子に迎え近衛信尋とした。

よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう(皇室から直接別れた男系子孫にあたる立場は近代まで続いたが、現当主の近衛忠煇は細川護貞と近衛文麿の次女・温子の間の次男なので清和天皇の男系子孫ではあるものの、後陽成天皇の男系子孫ではない)

近衛家19代目当主となった「信尋」は、つまり皇胤であった。

「長九郎」こと伏見宮・第13代当主「貞致」(さだゆき)は後陽成天皇二世孫の娘を妃に

もらったということです。

「皇別摂家」(こうべつせっけ)とは日本の「五摂家」のうち

男性皇族が養子に入った近衛家・一条家・鷹司家、を指します。

ここで重要なのは「皇別摂家」は「伏見宮」よりずっと皇位に男系血統が近いということです。

つまり欧米の男系継承基準(サリが法典)で見れば「伏見宮」より「皇位継承順位」が上だということです。

終戦時、服毒自殺した「近衛文麿」は「信尋」(のぶひろ)の直系11世孫に当たり

「明仁上皇」と24親等しか離れていません。

「伏見宮」の系統で元皇族「伏見宮博明」さんの父「伏見宮博義王」は「近衛文麿」さんと同年代ですが、

「明仁上皇」と34親等離れています。

つまり「近衛家」の方が天皇に10親等も近い親戚なのです。

10親等といえば、だいたい5世代違います。

そんなに近い男系男子の家系があるのがわかっているのに、何故、我々は皇位継承問題で

「皇別摂家」をスルーしてしまうのか?

「皇別摂家」は以下の3系統があります。

「近衛信尋」:第107代後陽成天皇の第4皇子。近衛家を相続。

「一条昭良」:第107代後陽成天皇の第9皇子。一条家を相続。

「鷹司輔平」:閑院宮直仁親王(第113代東山天皇の第6皇子)の第4王子。鷹司家を相続。

「伏見宮貞成」(ふしみのみやさだふさ)の第一王子「彦仁」(ひこひと)が第102代「後花園天皇」となった時期(1428年)に比べ「皇別摂家」の成立(1614年)はずっと現代に近い。

話を伏見宮の家系に戻します。

「貞致」の息子、伏見宮第14代当主「邦永親王」(くにながしんのう)の第3王子「貞建」(さだたけ)が、

第15代伏見宮当主「貞建親王」(さだたけしんのう)となりました。

第14代「邦永親王」は第13代「貞致親王」の第3王子として生まれ、

1683年「霊厳院」の「猶子」(ゆうし)となり、

第14代当主「邦永親王」になりました。

そして「霊厳天皇」の第5皇女が「妃」となりました。

このように「伏見宮貞致」は自身も、自身の息子も、天皇の血筋の娘を妃にする事で、

自身の血統の疑惑を打ち消そうとしてたようです。

しかし、いくら女系で天皇と繋がっても、男系の血統の疑惑が晴れるわけではない

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