第13代貞致の謎①
伏見家3代目「貞成」(さだふさ)の代に、伏見宮は第1王子「彦仁」(ひこひと)を
「後小松上皇」(ごこまつじょうこう)の猶子として差し出した。
これが第102代「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)となり、
「貞成」の第2王子「貞常」(さだつね)は伏見宮第4代当主、伏見宮貞常親王となった。
伏見宮貞常親王は第1王子を次の伏見宮当主とし、
残りは全員出家させました。
第5代「伏見宮邦高親王」(くにたかしんのう)も第1王子を次当主とし、
残りは全員出家させました。
第6代「伏見宮貞敦親王」(さだあつしんのう)も第1王子を次期当主とし、
残りは全員出家させました。
第7代「伏見宮邦輔親王」(くにすけしんのう)は、2人の王子を各々当主としました。
第8代「伏見宮貞康親王」(さだやすしんのう)には子がいませんでした。
ゆえに弟の「伏見宮邦房」(くにのぶ)が次の当主になりました。
第9代「伏見宮邦房親王」(くにのぶしんのう)は第1王子を次期当主とし、
残りは全員出家させました。
第10代「伏見宮貞清親王」(さだきよしんのう)は、3人の王子を各々当主としました。
第11代当主「伏見宮邦尚親王」(くになおしんのう)には子がいませんでした。
ゆえに弟が次の当主となりました。
第12代当主「伏見宮邦道親王」(くにみちしんのう)にも子がいませんでした。
ゆえに兄が次の当主となりました。
第13代当主「伏見宮貞致親王」(さだゆきしんのう)ですが、この人が疑惑の多い人物なのです。
伏見宮の系譜を見ていくと、一人、血統に問題がある人物が登場する。
13代目伏見宮当主「貞致親王」(さだゆきしんのう)である。
どこが問題なのかというと、どうもこの男、伏見宮の男系男子かどうか怪しいのである。
「貞致親王」の母は、伏見宮の諸大夫であった「三河守安藤藤原定元」の娘「安藤定子」である。
慶長8年(1603年)生まれであり「伏見宮邦尚親王」あるいは「伏見宮貞清親王」に仕えた。
「三河守安藤藤原定元」の曾祖父は「邦茂王」だと言われている。
第7代伏見宮当主「伏見宮邦輔親王」(くにすけしんのう)の第8王子「邦茂王」というのだ。
つまり定子は父系3代前父が「伏見宮邦茂王」、
母系父は伏見宮11代当主「伏見宮邦尚」10代当主「伏見宮貞清」のどちらかだというのである。
この系譜が正しければ伏見宮3x1のサラブレッドである。
しかし「世襲親王家」の男子は当主になる男子以外は、公家に養子に入るか、仏門と決まっている。
なんで第7代当主の第8王子「邦茂王」が分家することができたのか謎である。
「定子」の曾祖父「邦茂王」は、
またの名を「安藤惟実」(あんどうこれみ)といった。
安藤家所伝の諸文献によると、
「伏見宮貞致親王」の母は伏見宮7代当主「邦輔親王」の子「邦茂王」の曽孫であるとする。
この「邦茂王」は「長松軒惟翁」と号し安藤家を頼り丹波国桑田郡に隠遁し「安藤惟実」と称した。
とされている。
さて「定子」だが「伏見宮家」へ「家女房」として入ったいきさつがわからない。
しかし、1651年に「安藤定元」の兄弟「安藤定明」の子「安藤定為」(あんどうさだため)が、
従姉「安藤定子」と生まれた「貞致」を預かった。
この説明だと定為は貞致の叔父となる。
『安藤略系』「長松軒惟翁傳」によると「定子」は「定明」の養子となったとされているから、
この説明だと定子は定為の妹となる。
「貞致」は1652年に、21歳にして「邦尚親王派」の働きかけもあり、
第10代当主「貞清親王」(さだきよしんのう)の招きによって帰洛した。
しかし、まもなくして「貞致」(さだゆき)の後ろ盾である
異母兄の11代当主「邦尚親王」が死去したことで「貞致」の立場も危うくなり、
1653年には、再び讒言により出奔した。
「津田宗氏秘記」によれば「貞致親王」(さだゆきしんのう)と対立していたのは、
伏見殿諸大夫の「生島右京亮盛勝」「内本左京亮吉泰」らと
12代当主「邦道親王」の母、
11代当主「邦尚親王」の母、であったという。
この際「貞致親王」を引き取ったのは、かつての師匠である「明珍」であり、
1653年から1660年に「親王宣下」を受けるまで7年間「明珍」は「貞致」を保護した。
1654年1月第11代当主「邦尚親王」、
1654年8月第10代当主「貞清親王」、
1654年9月第12代当主「邦道親王」、
が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面した。
「邦道親王派」の諸大夫達は、
「貞致親王」の家督継承を阻止するために、
「後水尾法皇」の皇子を伏見宮家に迎え入れ、
「貞致親王」を出家させる計画を立て、法皇からも認められたという。
「安藤定為」は「庭田雅純」や「三木冬仲」に相談し、
武家伝奏であった「清閑寺共房」と「野宮定逸」が江戸幕府に訴えたところ、
幕府の命によって京都所司代「板倉重宗」が精察することとなった。
これにより「伏見宮」の落胤であると認められ、
「久我広通」の後見のもとに伏見宮を継いだ。
万治3年(1660年)10月17日に「親王宣下」を行った。




