祟光流と後光厳流の謎①
「伏見宮」が創設されたのは1409年もしくは1456年だといわれています。
1409年は伏見宮初代「栄仁親王」(よしひとしんのう)が、
皇室累代の御料「伏見」に戻り「伏見殿」と称されるようになった年です。
1456年は伏見宮四代「貞常親王」(さだつねしんのう)が「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)から
「後崇光」の紋所を代々使用することと「永世・伏見殿御所(伏見殿)」と称することを
「勅許」(ちょっきょ)された年だといわれています。
1352年、北朝第四代「後光厳天皇」(ごこうごんてんのう)が即位しています。
そのとき先代の北朝第三代「祟光天皇」の第一皇子「栄仁親王」は1歳。
即位するには幼すぎたのか。
栄仁は持明院統嫡流です。
即位できなかったのは奈良の「賀名生」(あのう)に上皇たちと一緒に拉致されていたからかもしれません。
記録では拉致されていたのは「光厳」「光明」「崇光」の三上皇と廃太子「直仁親王」となっていて、
「栄仁」については不明なのですが、もしかしたら拉致されていたのかも。
1371年「後光厳天皇」から「後円融天皇」(ごえんゆうてんのう)へ皇位が譲位されました。
「栄仁親王」は20歳でしたが、即位できませんでした。
実父の祟光院は盛んに即位運動をしましたが、足利義満には、受け入れられませんでした。
1382年「後小松天皇」(ごこまつてんのう)が即位しました。
「栄仁親王」(よしひとしんのう)は31歳でしたが、また即位できませんでした。
「後小松天皇」は当時5歳でした。
栄仁は計3度も皇位継承のチャンスを逃しています。
南北朝の混乱があったとはいえ、これは変です。
最初の即位チャンスでは、その前年1351年、足利尊氏が正平一統に踏み切りました。
一時的に南朝と手を組ぶためです。
そして、足利尊氏は実弟「足利直義」(あしかがただよし)を「南朝」から引き離し、鎌倉に追い詰め、
毒殺しています。
その後「尊氏」は京都に引き返し「南朝軍」を京から追い払い「北朝」を再興しました。
そのとき、尊氏は祟光の弟「弥仁親王」(やひとしんのう)を北朝第四代「後光厳天皇」としました。
1354年、その即位式は三種神器もなく、天皇即位を認める「治天の君」もいない状態で行われた。
朝廷内では、この即位に対して異論が噴出しましたが「二条良基」(にじょうよしもと)は
尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が「璽」(じ)(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん。
と啖呵を切って動揺を静めました。
1357年、南朝から三人の上皇が帰還されましたが、祟光上皇の天皇復権は認められず、
「後光厳天皇」の即位は追認されました。
しかし、直仁皇太子は出家してしまっており、皇太子は空位でした。
当時6歳であった栄仁親王は何故、立太子されなかったのでしょう、わかりません。
1371年「後光厳天皇」(ごこうごんてんのう)が実子「緒仁」(おひと)に譲位する意向を示しました。
朝廷内は「緒仁親王」(おひとしんのう)を押す「後光厳流」(ごこうげんりゅう)と「栄仁親王」を押す「祟光流」(すこうりゅう)とに割れました。
栄仁親王はその時ちょうど20歳。
「持明院統」嫡流の栄仁親王が皇位を継ぐべきだと、実父「祟光院」は強く幕府に主張をしました。
が、しかし、皇位は「緒仁親王」(おひとしんのう)へと移りました。
「後円融天皇」です。
ここで少し時を遡り「祟光院」の実父である北朝初代「光厳天皇」の事を考察してみましょう。
光厳天皇は「諱」を「量仁」(かずひと)といい、持明院統の嫡流で 「元弘の乱」の時 の 皇太子でした。
「鎌倉幕府」は「元弘の乱」は「後醍醐天皇」の独断と判断し、
1332年「量仁皇太子」は即位「光厳天皇」と成りました。
皇太子には「邦良親王」の実子「康仁親王」が指名されました。
しかし、その後、直ぐ「後醍醐天皇」が隠岐を脱出し倒幕を再開し、足利尊氏が味方したため、
(元弘3年5月22日)(1333年7月4日) 鎌倉幕府は滅亡しました。
1333年「後醍醐天皇」は復位し、「光厳天皇」「康仁皇太子」は廃位され、後醍醐天皇の実子「恒良親王」(つねよし)が立太子されました。
しかしこの「建武の新政」は武士の強い反発をまねき、3年間持ちませんでした。
関東では「逃げ上手の若君」こと「北条時行」(ほうじょうときゆき)が「中先代の乱」を起こします。
「足利尊氏」は「北条時行」を討伐に関東へ出陣、見事、相模国辻堂で「北条時行」を担いで反乱を主導した実質的指導者、諏訪大社「大祝」(おおほうり)「諏訪頼重」(すわよりしげ)を自刃に追い込み、鎌倉を奪還しました。
しかし足利尊氏は後醍醐天皇の命令を無視し関東へ出兵したため「後醍醐天皇」は尊氏に謀反の疑いを抱き、足利尊氏に対し「討伐令」を出しました。
北畠「親房・顕家」(ちかふさ・あきいえ)親子、
「楠木正成」「新田義貞」らがこれに応じ、1336年「 豊島河原の戦い」で足利尊氏は新田らに敗れ、九州に敗走する事となりました。
しかしここで、後醍醐天皇によって皇位を退位させられた「光厳上皇」が、足利尊氏に新田義貞追討の「院宣」を与えました。
この「院宣」によって「官軍」のお墨付きを得た「足利尊氏」は九州で兵を建て直し同年「湊川の戦い」で「楠木正成」「新田義貞」軍を破り京都を制圧します。
尊氏は「後醍醐天皇」「康仁皇太子」を廃位し「光厳上皇」の弟「豊仁」(ゆたひと)を「光明天皇」として即位させます。
しかし、足利尊氏は、光明天皇の皇太子を「後醍醐天皇」の皇子「成良親王」(なるよししんのう)(当時10歳)としました。
ここで「光厳天皇」の第一皇子「益仁」(後の祟光)(当時2歳)を皇太子にしなかったのは、比叡山で抵抗を続けていた「後醍醐天皇」と和解するためです。
しかし「祟光天皇」の子「栄仁親王」が後に3回も天皇即位のチャンスを逃していたのと同様、その父の祟光天皇も、同様に、足利尊氏によって、立太子のチャンスを逃していたとは、この親子、よっぽど足利幕府と馬が合わない似たもの親子といえると思います。