源氏と平氏の謎④
<信西>
信西
1106年 - 1160年
信西は出家後の法名、
俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、
または高階 通憲(たかしな の みちのり)。
藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。
正五位下、少納言。
通憲(信西)の家系は曾祖父の藤原実範以来、
代々学者(儒官)の家系として知られ、
祖父の藤原季綱は大学頭であった。
1112年に父の実兼が蔵人所で急死したため、
7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる。
高階氏は院近臣・摂関家の家司として活動し、
諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。
通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、
父祖譲りの才幹を磨き上げていった。
1121年頃には、高階重仲の女を妻としている。
通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、
家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。
1127年、2人目の妻である藤原朝子が、
鳥羽上皇の第四皇子の雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている。
1133年、鳥羽上皇の北面に伺候するようになる。
通憲の願いは曾祖父・祖父の後を継いで、
大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、
学問の家系としての家名の再興にあった。
ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、
高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、
大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。
1144年、出家して信西と名乗る。
1155年、近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。
候補としては重仁親王が最有力だったが、
美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、
その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。
守仁親王はまだ年少であり、
存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。
突然の雅仁親王擁立の背景には、
雅仁親王を養育していた信西の策動があったと推測される。
1156年7月、鳥羽法皇が崩御すると信西はその葬儀を取り仕切り、
直後の保元の乱では対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、
源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。
乱後、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、
源為義らの武士を処刑した。
また、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、
記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど、絶大な権力を振るう。
また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。
この政策を行なう上で、信西は自分の息子たちを要職に就けた。
そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。
また、強引な政治の刷新は反発を招いた。
1158年8月、鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。
この皇位継承は「仏と仏との評定」、
すなわち美福門院と信西の協議で行われた。
この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、
今度はそのことが天皇側近の反感を招き、
院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。
やがて、
院政派の藤原信頼、
親政派の大炊御門経宗・葉室惟方らは、
政治路線の違いを抱えながらも、
信西打倒に向けて動き出すことになる。
信頼は源義朝を配下に治め、
二条天皇に近い源光保も味方につけ、
軍事的な力を有するようになっていく。
その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は信西・信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、
親政派・院政派とも距離を置いていた。
1159年12月、平清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、
反信西派は院御所の三条殿を襲撃する。
信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、
郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、
郎党を尋問した追手に発見された。
掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。享年55。
掘り起こした時には、目が動き息もしていたという。
追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた。
<藤原信頼>1133年~1160年
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)
後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、
同じく上皇の近臣であった「信西」と対立。
「源義朝」と「平治の乱」を起こし信西を斬首し、
朝廷の最大の実力者となるが、
「二条天皇親政派」と組んだ「平清盛」に敗北。
六条河原で斬首された。
鳥羽院の近臣・藤原忠隆の四男(または三男)として生まれる。
1133年、誕生、
1144年、叙爵、
1146年、従五位上、
1148年、土佐守、
1150年、武蔵守と、父の知行国の受領を歴任。
1151年、正五位下、
1152年、右兵衛佐、
1155年、従四位下・武蔵守に任ぜられる。
後白河天皇に近侍するや、
周囲から「あさましき程の寵愛あり」と言われる。
1157年、右近衛権中将より蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられる。
従四位上から正四位下、
1158年、正四位上・皇后宮権亮を経て従三位、
同年8月、正三位・参議になり公卿に列せられる。
この時、わずか25歳、凄まじく早い出世である。
男色関係、後白河天皇の寵愛の噂あり。
同年、権中納言に任ぜられ、検非違使別当・右衛門督を兼ねる。
後白河天皇の譲位後は院別当となる。
信頼は武士の力に着目し、
異母兄の基成を、
陸奥守および鎮守府将軍として送り込む。
軍事貴族の奥州藤原氏、
2代目藤原基衡と姻戚関係を結ぶ。
坂東武士支配の生命線である武蔵国の国衙支配の権限と
馬や武器を調達する陸奥国を押さえる。
坂東支配を進めていた源義朝への影響力を強める。
「保元の乱」直前に発生した「大蔵合戦」において、
源義朝が罪を問われずに兵を起こせたのも、
当時の武蔵国の知行国主であった信頼の、
了承を得たからとみられている。
また、当時の最大軍事貴族であった平清盛の娘と、
信頼の嫡男・信親との婚姻も成立し、
信頼は朝廷における実力者となる。
信頼の家系は祖父の基隆、
父の忠隆ともに従三位に叙せられており、
信頼自身も公卿になるのに充分な家格を有している。
さらに、
武士達にとって必要な物資を産出する奥州と深いつながりを有し、
義朝も配下に治め、
都における最大の軍事貴族である清盛とも、
婚姻を通じて同盟関係を結んでいた。
信頼の官位の昇進の理由が、
余りにも昇進の速度が速すぎるゆえ、
後白河の寵愛ゆえの人事としか考えられないのもうなずける。
そのころの信頼の権勢は大変なもので、
1158年、賀茂祭の際に、信頼といざこざを起こした関白・藤原忠通は、
後白河天皇から叱責を受け、
東三条殿に閉門の憂き目にあった。
その後、忠通は嫡子・基実の妻に、信頼の姉妹を迎えることとなる。
その腹から基実嫡子・基通が生まれる。
信頼の権勢を見て忠通が判断してのことである。
「保元の乱」の後、
摂関家の地位低下、
治天の君の不在という混乱が起きていた。
そのような中、
急速に力を伸ばしてきたのが、
後白河天皇の乳母を妻とする「信西」である。
1158年、後白河天皇が退位。
二条天皇が即位。
信西は、院近臣、天皇側近の中に、
子供達を送り込んで権勢を振るうようになるが、
そのことは二条天皇側近たちの反感を買い、
その結果「院近臣」と「天皇側近」の間で、
信西排斥の動きが生じ、
その中で軍事貴族達に強い影響力を有する信頼は、
反信西派の中心となり、
やがてそれは平治の乱へと発展する。
従来の信頼の男色による急激な出世と、
信頼と信西の対立というものは
『平治物語』による見方で、
上記の通り当時の世界に対する研究によると、
この両者の対立のみが、
平治の乱のきっかけになったという見方は否定されつつある反面、
信頼と信西の子供である藤原俊憲や成憲らとは、
出世を巡って競合関係にあり、
また同様の危機感は藤原成親・藤原惟方ら、
院近臣や天皇側近問わず、
貴族社会に広がりつつあったからこそ、
平治の乱に至ったとする見方もある。
1160年、清盛が熊野詣に出かけた留守に、
信頼は義朝・源光保・源頼政を誘引して京で挙兵、
信西は自害してしまう。
その功により信頼は朝廷最大の実力者に成り上がった。
しかし元々院近臣と、
天皇側近との連合政権は、
その後の院政重視か、
天皇親政を目指すかという、
政権の問題を抱えたまま挙兵し信西を排除した為、
天皇親政を支持する勢力と、
信頼・その他軍事貴族の連合であるこの政権は、
すぐに瓦解した。
但し、天皇親政派中心人物「藤原惟方」は信頼の叔父、
関白は信頼の妹婿である。
さらに院御所を破壊し、
後白河を幽閉し、
院の意向を伺わずに除目を行った行動からしても、
信頼も親政派であり、
信西排除後に、
天皇親政派内の派閥争いに移行していたという見方もある。
それまで中立的立場を保っていた平清盛が帰京すると、
天皇側近の藤原経宗・惟方は清盛と手を結び、
二条天皇を六波羅(清盛方)へと御幸させることに成功した。
後白河は天皇に先んじて脱出しているが、
惟方側が信頼に通報されることを恐れず、
後白河に事態を通牒し、
実際に後白河も通報せず即座に脱出したことも、
信頼が院政派ではなかったとする論拠に上げられる。
このことにより、
信頼は一夜にして賊軍の立場となった。
妹婿の関白基実とその父大殿忠通父子は、
反信頼陣営からの呼びかけを待たず、
自発的に六波羅に参入した。
もともと天皇側近であった源光保らの軍事貴族は、
賊軍となった信頼方から離脱し、
信頼に対する依存度が高い義朝のみが、
信頼の陣営に残ることになる。
また、清盛の婿となっていた信親は、
二条天皇の御幸の直後、
信頼の元に戻され、
平家との婚姻関係も解消された。
天皇の宣旨を得て攻めかかってきた官軍との戦闘においては、
清盛の大軍の前に、
信頼・義朝はあっけなく敗北する。
逃れた信頼は義朝と東国へ落ちようとするが、
掌中の玉である二条天皇をむざむざと奪われた不手際に対し、
(武家にすぎぬ)義朝から「日本一の不覚人」と罵られ拒絶される。
仁和寺にいた後白河院にすがり助命を嘆願するが、
朝廷は信頼を謀反の張本人として許さず、
公卿でありながら六条河原で斬首された。
享年28の若さであった。
<平治の乱>
平治の乱は平安時代末期1160年
院近臣らの対立により発生した政変である。
保元の乱後、
後白河上皇の近臣藤原通憲(信西)と平清盛が結んで、
これと対立した藤原信頼・源義朝らと衝突し、
平清盛らが勝利した乱である。
1156年、保元の乱に勝利した後白河天皇は荘園整理令を出した。
これは鳥羽院政期、
全国に多くの荘園を作りすぎ、
国務の遂行をめぐって、紛争となっていたからだ。
この荘園整理令は、その混乱を収拾し、
全国の荘園を天皇の統治下に置くことを意図したものである。
その国政改革を立案・推進したのが、
後白河側近の「信西」であった。
新制30ヶ条を出し、
公事・行事の整備し、
官人の綱紀粛正に取り組んだ。
この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、
信西自身は、
保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収した。
また信西は「平清盛」を厚遇し、
清盛が播磨守、
平頼盛が安芸守、
平教盛が淡路守、
平経盛が常陸介、
兄弟で四ヶ国を占めて、さらに勢力を拡大した。
また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、
戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、
平氏の武力は不可欠だった。
大和守に平基盛が任じられたのも、
平氏に対する期待の現れといえる。
大和は興福寺の所領が充満していて、
これまで国検をしようとしても、
ことごとく失敗に終わっていたが、
清盛は武力を背景に国検を断行し、
大和の知行国支配に成功した。
さらに清盛は大宰大弐に就任することで、
日宋貿易に深く関与することになり、
経済的実力を高めた。
信西は、自らの子・藤原成範と
清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって
平氏との提携を世間に示し、
改革は順調に進行するかに見えた。
しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在していた。
美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図る勢力(二条親政派)である。
美福門院は、
鳥羽法皇から荘園の大半を相続して、
最大の荘園領主となっており、
その意向を無視することはできなかった。
美福門院はかねてからの念願であった、
自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。
もともと後白河の即位は、
守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、
信西も美福門院の要求を拒むことはできず、
1158年、信西と美福門院の協議により、
後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。
ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まる。
二条親政派は藤原経宗(二条の叔父)
藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、
美福門院の支援を背景に
後白河の政治活動を抑圧する。
これに対して後白河には信西、信頼がいた。
しかし、信西は元は鳥羽法皇の側近で、
美福門院とも強い関係を有していたから、
状況は後白河不利であった。
後白河にとっては、武蔵守「藤原信頼」を抜擢する方向へいく。
信頼の一門は武蔵国・陸奥国を知行国としており、
両国と深いつながりを持つ「源義朝」と連携していた。
1155年、源義平(義朝の長男)が、
叔父の源義賢を滅ぼした武蔵国での大蔵合戦においても、
武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。
1158年、後白河院庁が開設されると、
信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。
義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、
両者の同盟関係はさらに強固となった。
義朝の武力という切り札を得た信頼は、
自らの妹と摂関家の嫡子「近衛基実」の婚姻も実現させる。
摂関家は保元の乱によって、
藤原忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、
家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで、
各地の荘園で紛争が激化するなど、
その勢力を大きく後退させていた。
混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、
義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。
後白河の近臣としては他にも、
藤原成親(藤原家成の三男)や
源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。
ここに、
・信西一門
・二条親政派
・後白河院政派
・平氏一門、
がそれぞれ形成されることになった。
信西一門の政治主導に対する反発が、
「平治の乱」勃発の最大の原因と思われる。
二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、
信西の排除という点では意見が一致し、
信西打倒の機会を伺っていた。
平清盛は、
自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、
信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、
中立的立場にあった。
1160年、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、
反信西派は反乱を起こした。
藤原信頼ら軍勢が、院御所・三条殿を襲撃する。
しかし、信西一門はすでに逃亡。
信頼らは後白河と二条天皇を確保した。
京都の治安を預かる検非違使別当は藤原惟方であることから、
クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。
信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され、
全員の配流が決定した。
信西は喉を突いて自害した。
首は大路を渡され獄門に晒された。
信西が自害した翌日、
内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、
臨時除目を行った。
この除目で源義朝は播磨守、
嫡子・頼朝は右兵衛権佐となった。
信頼の政権奪取は、
大半の貴族が反感を抱いた。
二条親政派も密かに離反の機会を窺った。
東国より兵を率いて馳せ上った源義平は、
直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、
信頼はその意見を退けた。
信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、
清盛も自らの協力者になると見込んでいた。
清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知り、
九州へ落ち延びることも考えるが、帰京する。
義朝のクーデターは隠密裏であったため、
少人数であった。
清盛次第で、信頼の優位は揺らぐことになる。
信西と親しかった内大臣・三条公教は、
信頼の専横に憤りを抱き、
清盛を説得するとともに、
二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。
二条親政派にすれば、
信西さえ倒せば信頼ら後白河院政派は用済みである。
公教と惟方により、
二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、
藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。
清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、
婿に迎えていた信親を送り返した。
信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、
義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が
「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという。
惟方が後白河のもとを訪れて、
二条天皇の脱出計画を知らせると、
後白河はすぐに仁和寺に脱出した。
二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。
藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、
公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。
信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、
清盛は官軍としての体裁を整え、
信頼・義朝の追討宣旨が下された。
天皇・上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺し、
義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。
信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、
源師仲は保身のため三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出して逃亡した。
信頼側の戦力は、
三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実、
信西を追捕した源光保らの混成軍であった。
義朝配下の軍勢は、
子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、
鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、
義朝の勢力基盤である関東からは、
三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。
義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、
山内首藤氏は源氏譜代の家人であり、
いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。
保元の乱では国家による公的な動員だったのに対し、
今回は反乱のための隠密裏の召集であり、
義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だったと推測される。
清盛は内裏が戦場となるのを防ぐため、
六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、
嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。
義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが、
六条河原であえなく敗退する。
義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、
山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。
藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭した。
清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、
信西自害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。
義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、
朝長・義隆を失い、
尾張国にて殺害された。
合戦後、平氏一門は
頼盛が尾張守、
重盛が伊予守、
宗盛が遠江守、
教盛が越中守、
経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、
同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、
清盛が警護した。
1160年、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、
自らの権威の安定につとめた。
実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、
後白河に対する圧迫を強め嫌がらせを行った。
後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、
清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、
後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。
貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、
後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。
経宗・惟方の失脚の理由としては、
信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。
また、後白河が捕縛を命じた際に、
摂関家の大殿である藤原忠通も同席しており、
庶流の大炊御門家が、
二条の外戚として台頭してきたのを快く思わなかった忠通の関与も指摘されている。
信西の子息が帰京を許され、
信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され殺害された。
信西打倒に関わった者は、
後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。
後白河上皇と二条天皇の対立は、
双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、
二頭政治が行われた。
乱勝利の最大の貢献者である清盛は、
どちらの派にも与することなく慎重に行動した。
平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、
政治への影響力を増大させた。
平氏の知行国も平家貞が筑後守、
藤原能盛が壱岐守・安芸守、
源為長が紀伊守となるなど、
一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。
さらに多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、
京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、
国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。
清盛はその経済力・軍事力を背景に、
朝廷における武家の地位を確立して、
1160年、正三位に叙され、参議に任命され、
武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。
<治承・寿永の乱>(じしょう・じゅえい)
治承・寿永の乱は、
1180年~1185年にかけての、
6年間にわたる国内各地の内乱であり、
平清盛を中心とする伊勢平氏・正盛流に対する反乱である。
日宋貿易などで得られた富を中央政府側で独占し、
その財と権力で栄華を極め、
傍若無人に振る舞った平家に、
他勢力が不満を募らせて反乱を招いた。
平家の繁栄と没落を描いた叙述書、
平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は諺にもなっている。
以仁王の挙兵を契機に、
反乱勢力同士の対立がありつつも、
平氏は倒された。
源頼朝を中心とした、
坂東平氏の武士集団が、
平氏政権打倒の中心的役割をつとめ、
新たな武力政権である関東政権の樹立に至った。
反平家の中には、
祖を同じとする坂東平氏も含まれており、
遠戚間の嫉妬や憎しみの抗争でもある。
平安時代末期、朝廷・貴族内部の権力闘争が、
保元の乱・平治の乱、となった。
こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、
対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、
摂政・近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、
政界に於ける地位を上昇させていく。
清盛の地位向上に伴い、
平家一門の官位も上昇。
知行国を次第に増やしていった。
二条天皇が崩御すると、
六条天皇が即位するが、
僅か2歳で即位、
在位2年8か月で、祖父後白河上皇の意向により、
叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位して歴代最年少の上皇となった。
この時、甥から叔父への皇位継承は、歴代、弘文天皇から大海人皇子と、この一例のみである。
ただ大正時代まで弘文天皇即位は認られていなかった。
その後、六条上皇は、元服を行うこともなく、
数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、
后妃も子もなかった。
この間、清盛は後白河上皇と組み更に栄達を遂げ、
1167年、太政大臣に就任。
後白河法皇と清盛の政治提携は続いて、
この二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹、滋子)が亡くなるまで続いた。
1176年に建春門院が亡くなる。
1177年、北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに、
比叡山と院近臣が対立し、
院近臣を守る立場にある後白河法皇は、
清盛に比叡山攻撃を指示したが、
清盛はこれを拒否。
逆に比叡山側の要求を通し、
院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。
これによって後白河法皇は、
比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、
近臣の追放を許す結果となる(鹿ケ谷の陰謀)。
一方、その頃から高倉天皇が、
政治的発言権を強めるようになっていく。
1178年、高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産。
後継者となる皇子の誕生で、
高倉天皇が譲位して院政を敷く条件が生まれる。
1179年、清盛の息子・平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去。
この二者の遺領や知行国を巡って、
摂政・松殿基房や後白河法皇と、清盛の間に対立が起きるようになった。
1179年11月、清盛反乱。
後白河法皇の院政は停止。
摂政・基房は解任、
代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。
1180年、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、
高倉院政が開始。
皇位継承が絶望となった「以仁王」が、
源頼政の協力を受け、
平家追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発した。
令旨は源行家により、
全国各地の源氏や八条院の支配下にある武士達に伝えられ、
以仁王は、平知盛・平重衡率いる平家の大軍の攻撃を受け、
宇治の平等院で戦死するが、
この挙兵が6年間に及ぶ内乱の契機となった。
以仁王敗死の頃、
源頼朝は、相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めた。
頼朝は伊豆国目代の山木兼隆を襲撃、
直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦、
頼朝軍は惨敗し追い詰められたが(石橋山の戦い)
平氏方は甲斐国境付近で甲斐源氏の安田義定らと軍事衝突する(波志田山合戦)
頼朝は海路で安房国へ逃れた後、三浦氏勢力とも合流した後に再挙した。
頼朝は房総半島の上総広常、千葉常胤らの諸豪族を傘下に加え急速に大勢力となっていく。
頼朝は軍勢を下総国から武蔵国へ進めるに当たり、
去就を迷っていた武蔵国有力武士へ速やかに参陣するよう命じた。
武蔵の足立遠元、豊島清元、葛西清重が参陣した。
頼朝は下総国から武蔵国へ入り、
さらに畠山重忠、河越重頼、江戸重長も参陣し、
武蔵国・相模国も頼朝の勢力下となった。
頼朝の軍勢は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。
これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立される。
この時までに関東政権は坂東南部の実質的な支配権を獲得している。
同時期に甲斐国の武田信義を棟梁とする甲斐源氏の一族や、
信濃国の木曾義仲も相次いで挙兵している。
東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。
追討軍は東海道を下り、
駿河国富士川で反乱軍と対峙する。
大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、
目立った交戦もないまま平氏軍は敗走する(富士川の戦い)。
これにより駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。
一方頼朝はこの機を捉えて上洛を検討するが、
坂東経営を優先すべきという上総氏らの意見を受け入れ、
まずは上総氏千葉氏の利害の対立者である佐竹氏と交戦する(金砂城の戦い)。
その後鎌倉に帰還した頼朝は侍所を新設し、
和田義盛を別当、
梶原景時を所司に任じる。
東国以外でも反平氏勢力の動向は活発となり、
土佐国の源希義をはじめ、
河内の源義基・義兼父子、
美濃国の土岐氏、
近江国の佐々木氏、山本義経、
熊野の湛増、
伊予国の河野氏、
肥後国の菊地隆直らのほか、
若狭国・越前国・加賀国の在庁官人など、
多くの勢力による挙兵があった。
寺社の反平氏勢力の動も活発化して、
それに対抗するため清盛は、
遷都していた福原から、
平安京に都を戻し、
軍事制圧に乗り出す。
まずは近江を制圧し(近江攻防)、
1180年、平重衡は興福寺を焼き討ちにする(南都焼討)。
1181年、美濃源氏を撃破し(美濃源氏の挙兵)
平氏は畿内制圧に成功するが、
清盛が熱病で没す。
平氏政権は強力な指導者を失ったが、
尾張墨俣川で源行家と会戦して勝利を収める(墨俣川の戦い)。
奥州藤原氏、越後城氏と提携して、
東国反乱勢力にあたる方針をとる。
この頃の頼朝は、
坂東における自らの勢力基盤の確保と拡大に、
力を注がざるを得ない状況であった。
また背後に奥州藤原氏や常陸に佐竹氏の脅威を抱えていた。
そのような中で頼朝は、
自らが有する都との人脈を通じて朝廷との接触や、
交渉を行って、
徐々に坂東における優位を獲得していく。
1181年6月、木曾義仲は横田河原の戦いで城助職を破り、
信濃から越後国を席巻した。
その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、
北陸における優位を確立する。
この時期の東日本は奥州は奥州藤原氏の勢力下にあり、
南坂東は源頼朝、
越後と北坂東・信濃の一部は源義仲、
甲斐・駿河・遠江と信濃の一部を甲斐源氏、
が割拠するという状況になった。
平家は「源義仲」に京都を追われ、
その後「源義仲軍」・「源頼朝軍」・「平家」の三つ巴となったが
「頼朝軍」が圧倒していき、
1184年、粟津の戦いで義仲軍を、
1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。
<後鳥羽上皇>
後鳥羽天皇1180年- 1239年)は、
日本の第82代天皇(在位:1183年- 1198年)
高倉天皇の第四皇子
後白河天皇の孫で、
安徳天皇の異母弟に当たる。
1183年、木曾義仲の軍が京都に迫ると、
平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。
後白河法皇は平家追討を行うべきか、
それとも平和的な交渉によって、
天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで悩む。
この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題、
その他政務の停滞を解消するために、
安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。
後白河法皇は神器無き新帝践祚と、
安徳天皇に期待を賭けるかを卜占 (ぼくせん) に託した。
結果は後者であったが、
既に平氏討伐のため、
新主践祚の意思を固めていた法皇は、
再度占わせて
「吉凶半分」の結果をようやく得たという。
法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。
兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、
天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から
「新主践祚」に賛同し、
継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、
その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している
ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、
兼実の誤認と考えられている。
法皇は左右内大臣らに意見を求め、
更に博士たちに勘文を求めた。
そのうちの藤原俊経が出した勘文が
『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、
「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、
神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。
新帝の候補者としては、
義仲が北陸宮を推挙していたが、
後白河法皇は、
安徳天皇の異母弟である
4歳の尊成親王を即位させることに決めた。
これは丹後局の進言を容れたものだという。
安徳天皇の異母弟のうち、
尊成の同母兄でもある守貞親王は、
乳母が平知盛正室の治部卿局であったこともあって、
安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、
惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが、
唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)
が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている。
しかし、ここで天皇系図を見てみると、
守貞親王の名前が即位もしていないのに、
第86代後堀河天皇の父として出てくる。
この頃の歴代天皇15人を羅列すると、
72代白河→73代堀河→74代鳥羽→75代崇徳→76代近衛
→77代後白河→78代二条→79代六条→80代高倉→81代安徳
→82代後鳥羽→83代土御門→84代順徳→85代仲恭→86代後堀河
となる。
この第86代後堀河天皇の父が、
尊成親王の同母兄である守貞親王である。
守貞親王の父は後鳥羽天皇と同じ高倉天皇である。
ゆえに高倉天皇の子は3人天皇系図に登場し3系統できる。
一人は壇之浦で死んだ安徳天皇、
もう一人は安徳と同母兄の同時期に即位した後鳥羽天皇、
そしてもう一人はこの守貞親王で、
第85代仲恭天皇から5親等離れた皇位継承で後堀河天皇となった。
話を戻すと、
尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、
第82代後鳥羽天皇となるが、
この時、第81代安徳天皇は生きていた。
そして、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われ、
即位式もやはり剣璽なきまま行われた。
安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、
1183年から平家滅亡の1185年までの2年間は、
両帝の在位期間が重複する。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、
神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、
1187年9月27日に佐伯景弘から
宝剣探索失敗の報告を受けて、
捜索は事実上終結した。
1190年1月3日に行われた天皇の元服の儀も、
剣璽を欠いたまま行われた。
その後は、
平家都落ちの直前に、
伊勢神宮から後白河法皇に、
献上されていた剣を形代の剣として、
当面の間、
宝剣の代用とすることになり、
1198年、土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。
1210年、順徳天皇践祚に際して、
後鳥羽上皇はこの形代の剣を、
以後は正式に宝剣とみなすこととした。
1212年、検非違使の藤原秀能を、
西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。
皇位の象徴である三種の神器が、
揃わないまま登極した後鳥羽は、
このことが耐えがたいコンプレックスとなっていた。
また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に、
神器が揃っていないことと、
天皇の不徳が結び付けられる場合があった。
後鳥羽はこの引け目を克服するために、
強力な王権の存在を内外に示す必要があり、
それが内外に対する強硬的な政治姿勢、
ひいては「承久の乱」の遠因になったとする見方もある。
1192年3月までは、
後白河法皇による院政が続いた。
後白河院の崩御後は、
関白・九条兼実が朝廷を主導した。
兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、
後に頼朝の娘の入内問題から、
後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。
これは土御門通親や、
丹後局の策謀によるともいわれる。
1196年、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変が起こり、
兼実の勢力は朝廷から一掃され、
兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ、
宮中から追われた
(建久七年の政変)
1198年、土御門天皇に譲位し、
以後、土御門、順徳、仲恭と、
承久3年(1221年)まで、
3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷く。
1199年、頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては、
融和的な姿勢で応じた。
1201年、京で挙兵した城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、
逆に幕府の要求により、
長茂追討宣旨を下している
(建仁の乱)
1203年、比企能員の変で将軍「源頼家」が失脚し、
幕府が頼家は死去したと偽って、
弟千幡の将軍就任を要請してくるとそれを認め、
上皇が自ら3代将軍・源実朝の名乗りを定めた。
後に頼家は存命であることがわかるが不問に付しており、
幕府の実権を握る北条時政と友好関係を築いて、
京都守護として上洛した時政の娘婿の平賀朝雅を厚遇し、
1204年、伊勢国・伊賀国で起こった
「三日平氏の乱」平定の命を受けた朝雅を、
伊賀国知行国主に任じている。
さらに朝雅を院の殿上人として重用した。
1205年、幕府で牧氏事件が起こり時政が失脚すると、
幕府の実権を握った北条政子・義時姉弟からの命令で、
朝雅は在京御家人に追討された。
寵愛する朝雅が、
幕府側の事情で討たれたことに衝撃を受けた上皇は、
それを機にそれまでの北面の武士に加えて、
西面の武士を設置して、
独自の武力を編成することを企図し始めたとする説がある。
1206年、上皇の熊野詣中に院の女房たちが、
法然門下の遵西・住蓮の東山鹿ヶ谷草庵で、
念仏法会に参加し出家して尼僧となった。
この事件に怒った上皇は、
1207年、専修念仏を停止して法然・親鸞らを配流している
(承元の法難)
牧氏事件の後は、
実朝を取りこむことで、
幕府内部への影響力拡大を図った。
実朝は上皇の従妹でもある上皇の寵臣、
坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えており、
上皇もまた信清の娘坊門局を后妃の1人としていたため、
上皇と実朝は合婿の義兄弟関係となっていた。
実朝自身も上皇を敬愛する人物だったため、
朝幕関係は一時安定期を迎える。
やがて幕府は子供のいない実朝の後継に、
上皇の皇子を迎えて、
政権を安定させる親王将軍の構想を打ち出した。
1219年、実朝が甥の公暁に暗殺された。
このことで親王将軍を上皇は拒絶した。
『愚管抄』では、
上皇は日本を2つに割ることになると危惧したとしている。
幕府は重ねて親王の下向を要請したが、
それに対して上皇は、
寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求した。
幕府はこれを拒否して、
北条時房に千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、
上皇も幕府も態度が強硬で交渉は不調に終わった。
ただし上皇は、
皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと、
鎌倉殿として下して構わないと、
渋々ながらも妥協案を示したため、
幕府はやむなく親王将軍をあきらめ、
頼朝の妹の曾孫にあたる
「九条道家」の子である三寅(後の藤原頼経)を、
4代目の鎌倉殿として迎え入れた。




