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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
37/105

源氏と平氏の謎③



保元の乱を解説していて、

皇位継承の流れが、歪な事に気がついた。

第72代 白河天皇 1053年生

→父子継承→

第73代 堀川天皇 1079年生

→父子継承→

第74代 鳥羽天皇 1103年生

→父子継承→

第75代 崇徳天皇 1119年生

→兄弟継承→

第76代 近衛天皇 1139年生

→兄弟継承→

第77代 後白河天皇1127年生

→父子継承→

第78代 二条天皇 1143年生

どうにも解せない理由がわかった。

第76代近衛天皇から第77代後白河天皇への、

12歳年上への継承が歪なのである。

普通、父から子への父子継承や、

兄から弟への兄弟継承である。

しかし、この近衛天皇から後白河天皇への継承は、

年下の弟から→12歳年上の兄への継承である。

何故、このような形態に成ったのか?

崇徳天皇が日本最大の怨霊に成った理由が隠れている気がする。

以前「皇位継承⑧」で書いたが、

過去に125回の「皇位継承」があり、

そのうち53.6%は父子継承であるというデータがある。

▪女性継承が10回(8%)

▪父子継承(1親等)が67回(53.6%)

▪兄弟孫継承(2親等)が28回(22.4%)

▪叔父・甥(3親等)が8回(6.4%)

▪従兄弟・大伯父・大甥(4親等)が5回(4%)

▪又従兄弟等(5親等以上)7回(5.6%)

このように、歴代の「皇位継承」では、

様々な継承形態がとられているが、

兄弟継承は過去に22.4%、28回、行われている。

しかし、そのほとんどが兄から弟への継承である。

弟から兄への継承というのは極めて希で、

過去に第23代顕宗天皇から第24代仁賢天皇への1つ年上兄への継承があったのみである。

さて、それでは、なぜ、近衛天皇→後白河天皇への継承に成ったのか見てみよう。

近衛天皇は17歳の若さで死んだ。

ゆえに、子がいなかった。

この場合、普通は弟に継承されるのだが、

近衛天皇は鳥羽天皇の第9皇子で弟もいなかった。

そうなると、兄への継承か、若しくは甥への継承が考えられる。

兄は雅仁親王(後白河天皇)がいて、

甥は守仁親王が(二条天皇)いた。

雅仁は鳥羽天皇の第一皇子で、第二皇子、第三皇子、は早世している。

第四皇子が雅仁親王で、第五皇子、第六皇子、第七皇子は、

近衛天皇が亡くなった時点では健在であったが、

母親の身位が低かった。

母親が中宮であったのは、第四皇子の雅仁親王と、第五皇子のみであった。

ゆえに、年長の第四皇子・雅仁親王が皇位継承者に選ばれたのだろうという予測は立つが、

それでも12歳年上の異母兄への皇位継承は不自然だ。

理屈はわかるが、他に候補はいなかったのだろうか?

そこで、甥の方を見てみると、

なんと雅仁親王の第一皇子の守仁以外に、

もう一人甥がいた。

崇徳天皇の第一皇子・重仁親王である。

年齢も近衛天皇の一つ下で、当時16歳、全く問題がない。

これで謎が解けてきた。

普通ならば、

近衛天皇が子を残さず死ぬと、

先代の崇徳天皇の第一皇子である重仁親王が即位するのが自然である。

この第一候補を差し置いて、12歳年上の兄への

皇位継承は、どう見ても歪である。

甥継承は、確かに希ではあるが、過去に計8回ある。

重仁親王は1140年生まれであるから、

1139年生まれの近衛天皇の次の天皇で丁度いい、

血統も申し分ない、何しろ父が崇徳天皇である。

にもかかわらず、12歳も年上の兄に皇位を奪われた。

これはもう、鳥羽天皇が崇徳天皇を嫌っていたからとしか思えないわけである。

まるでドラマ「華麗なる一族」の木村拓哉である。




ここで保元の乱における登場人物の生年月日を整理しておこう。

72代、白川法皇、1053年生、1073年即位、1129年薨去、

74代、鳥羽天皇、1103年生、1107年即位、1156年薨去、

75代、崇徳天皇、1119年生、1123年即位、1164年薨去、

76代、近衛天皇、1139年生、1142年即位、1155年薨去、

77代、後白河天皇1127年生、1155年即位、1192年薨去、

78代、二条天皇、1143年生、1158年即位、1165年薨去、

藤原忠実、1078年生、1162年死去

藤原忠通、1097年生、1164年死去

藤原頼長、1120年生、1156年死去

もっともわかりにくいのが女性だ。

取りあえず6人、

番号をつけて整理してみた。



❶藤原璋子(しょうし/たまこ)、待賢門院、

1101年生、1145年死去、父・藤原公実、

鳥羽天皇の皇后(中宮)、

崇徳・後白河両天皇の母、

異母兄・三条実行(三条家祖)、

異母弟・藤原季成(後白河天皇の妃・成子の父)、

同母兄・藤原通季(西園寺家祖)、

同母兄・徳大寺実能(徳大寺家祖)

幼少時より白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。

7歳の時に実父・藤原公実を失う。

1115年、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、

璋子の素行に噂があったため、

忠通の父・藤原忠実は固辞、

白河法皇の不興を買った。

1118年、白河法皇を代父として、

父方の従弟・鳥羽天皇に入内、立后され中宮を号す。

1119年、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産。

1122年、禧子(きし)内親王を産む。

1123年、白河法皇は5歳の顕仁(あきひと)を践祚する。

1124年、院号を宣下されて待賢門院と称した。

1124年、通仁親王、出産。

1125年、君仁親王を出産。この両皇子は乳児の頃より障害を持っていた。

1126年、統子(とおし/むねこ)内親王(上西門院)を出産。

1127年、雅仁親王(後の後白河天皇)を年子で出産。

1129年、末子・本仁親王(後の覚性法親王)出産。

このように璋子は鳥羽上皇との間に5男2女を儲け、

熊野詣にも同行しているが、

それは白河法皇の在世中であればこそだったという。

1129年、幼主三代の政を執た白河法皇が77歳で崩御した。

このとき璋子は閏7月に生まれる本仁親王を懐妊中であった。

養父である白河法皇の死を機にして、

璋子の人生は暗転する。

鳥羽上皇が治天の君を継承し廷臣を統率、

後ろ盾を持たぬ崇徳天皇は孤立した。

鳥羽上皇は白河法皇によって関白を罷免され逼塞していた藤原忠実を起用し、

その娘の泰子(高陽院)を皇后に立てたばかりでなく、

璋子に代わって側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛したのである。

白川法皇が崩御したこの時点で、

璋子の敵対勢力として「鳥羽上皇」「藤原忠実」「藤原泰子」「藤原得子」が上げられる。

1139年、鳥羽上皇は得子が産んだ生後三ヶ月の第九皇子・体仁親王を立太子させ、

1142年、崇徳天皇に譲位を迫り、体仁を即位させた(近衛天皇)。

ところが、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して、

得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、

璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。

また、このころから崇徳上皇は白河法皇の胤だとする風説が囁かれるようになる

(これは『古事談』のみに見られる記述であり、真偽は不明)。

こうして権勢を失った璋子は、

1142年、自ら建立した法金剛院において落飾。

1145年、長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。

鳥羽法皇は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、

臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだという。

1155年、近衛天皇が17歳で崩御し、

図らずも璋子の生んだ四宮・雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。

朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発した。



❷藤原得子(とくし/なりこ)、美福門院、

1117年生、1160年死去、

父・藤原長実、

鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の生母、

父である長実は、

祖母に当たる藤原親子が白河上皇の乳母であったことから恩恵を蒙り、

白河院政期には院の近臣として活躍した人物である。

父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、

1134年、鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり、

1135年、叡子内親王を出産する。

1136年、従三位に叙された。

1137年、暲子内親王(八条院)を産んだ後、

1139年、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。

1139年、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。

体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、

正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。

1140年、崇徳帝の第一皇子・重仁親王を養子に迎えた。

1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、

体仁親王を即位させた(近衛天皇)。

体仁親王は崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、

譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。

天皇が弟では将来の院政は不可能であり、

崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

近衛帝即位の同年、得子は国母であることを根拠に、

異例中の異例として上皇の妃ながら皇后に立てられる。

皇后宮大夫には源雅定、

権大夫には藤原成通が就任した。

得子の周囲には従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、

縁戚関係にある村上源氏、

中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成することになる。

1142年、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院は出家に追い込まれ、

得子の地位は磐石なものとなった。

1149年、美福門院の院号を宣下された。

1148年、得子は従兄弟の藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えた(『台記』7月6日条)。

藤原頼長の養女・多子が近衛天皇に入内することを鳥羽法皇が承諾した直後であり、

当初から多子に対抗して入内させる意図があったと見られる。

1150年、近衛天皇が元服すると多子が入内して女御となるが、

2月になると呈子も関白・藤原忠通の養女として入内することになり、

藤原忠通は鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。

忠通は弟・頼長を養子にしていたが、

実子・基実が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させることを望み、

得子と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。

3月14日に多子が皇后になると、

4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となった。

得子は待賢門院と同じ閑院流の出身である多子よりも、

自らの養女である呈子に親近感を示して早期出産を期待していた。

1152年、皇子出産の期待を裏切られた得子は忠通と組んで、

意に適う皇位継承者を求めて動き出すことになる。

1155年、病弱だった近衛天皇が崩御する。

得子には養子として、

崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と、

雅仁親王(崇徳上皇の同母弟)の息童である孫王(守仁、後の二条天皇)がいた。

このうち後者は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、

重仁親王が即位するものと思われた。

しかし後継天皇を決める王者議定により、

孫王が即位するまでの中継ぎとして、

その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。

背景には崇徳上皇の院政によって、

自身が掣肘されることを危惧する得子、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、

また崇徳院の寵愛が、

聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む、

藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。

8月4日に仁和寺から戻った孫王は、

9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、

12月9日に元服、

翌年3月5日には得子の娘・姝子内親王を妃に迎えるなど、

得子の全面的な支援を受けた。

時を同じくして世間には近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が流れ、

呪詛したのは藤原忠実・頼長父子であると得子と藤原忠通が鳥羽法皇に讒言したため、

頼長は内覧を停止されて事実上の失脚状態となった。

こうして皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、

得子によって失脚させられた藤原忠実・頼長が結びつき、

1156年、保元の乱が勃発する。

得子はすでに落飾していたが、

この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、

重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、

後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。

乱後は信西が国政を担ったが、

得子はかねてからの念願であった自らの養子・守仁親王の即位を信西に要求し、

1158年「仏と仏との評定」、

すなわち信西と得子の協議により、

守仁親王の即位を実現させた(二条天皇)。

しかし二条天皇の即位は、

信西一門、

二条親政派、

後白河院政派、

3派対立を呼び起こし、

平治の乱が勃発する原因となった。

得子は平治の乱の収束を見届けた後、

1160年、44歳にして白河の金剛勝院御所において崩御した。



❸藤原泰子(たいし/やすこ)、高陽院、1095年生、1156年死去、藤原忠実の三女、

同母弟に藤原忠通、異母弟に藤原頼長、鳥羽上皇の皇后、初名は勲子(くんし/いさこ)

摂関家の嫡妻腹の一人娘という高貴な血筋によって、

幼少より后がねの姫君として育てられた。

1108年、8歳年下の幼帝・鳥羽天皇に入内するよう時の治天の君・白河院に命ぜられたが、

父・忠実はこれを固辞する。

しかし、当時の忠実は皇室との血縁の薄さが弱点となっており、

1113年、再び入内の話が具体化し、

同時期に嫡男・忠通と白河院の愛妾・藤原璋子との縁談も進む。

これが実現すれば摂関家と皇室の関係が強化され、

将来の天皇の外戚になれる可能性が生まれ、

法皇の娘婿となる忠通が将来の摂関への道が確実になる。

当事者全員にとって利益のあるものと思われた。

しかし忠実は、璋子が性的奔放という噂を耳にし、

忠通と璋子の婚姻を断ってしまう。

これに対し白河院は、

1118年、璋子を鳥羽天皇のもとに入内させ、

わずか1か月後、中宮とした。

勲子ら他の女性の入内を禁じられた。

1120年、忠実から鳥羽天皇に対して直接勲子の入内を打診する。

白河院からの自立を模索していた鳥羽天皇は前向きに返答したが、

これが白河院に漏れたことで忠実は関白と兼職の内覧を罷免され、

宇治隠居を余儀なくされた(保安元年の政変)

将来が不透明なまま盛りも過ぎた勲子にとって、

1129年、白河法皇が崩じたことは運命に転機をもたらした。

長く宇治に籠居していた忠実は政界に復帰し、

鳥羽院政の下、摂関家は権威回復に着手した。

その一環として浮上したのが、勲子の入内である。

鳥羽上皇は忠実の要望を容れ、

勲子が39歳の高齢であるにもかかわらず、

1133年、彼女を入内させる。

1134年、廷臣の反対を退けて上皇の妃ながらに女御宣下を与える。

※同年、異例中の異例として泰子を皇后宮に冊立した・・・

泰子は高陽院領として知られる50余箇所の荘園群を保持していた。

近年、女性宮家の設立で、なにやら騒がしいが、

資産を保持することを、宮家設立という言葉で表してるからわかりにくいのである。

現代において皇族費は政府が皇族に払っているが、

日本の伝統では宮家は資産を保持する権利がある。

そして、その伝統は今も、ごく一部の上流貴族の間では生きているわけである。

ゆえに皇室は宮家の設立にこだわるのである。

1134年、泰子と改名。

1139年、泰子は院号宣下を受け、御所名に由来する高陽院を称した。

1141年、先に入道した鳥羽院に続いて、落飾。

皇后・女院という女性の最高位には昇ったものの、

泰子の年齢を考えると皇子女出産は不可能に近いことだった。

1136年、彼女は上皇の寵姫・藤原得子(のちの美福門院)所生の皇女・叡子内親王を養女とした。

得子と泰子の仲は比較的良好であったらしい。

親子ほども年の差があることも手伝ってか、

二人の間には、待賢門院と得子の間に見られたような憎悪の火花を散らす戦いは終になかった。

叡子は高陽院姫宮と呼ばれ、泰子の鍾愛を受けて育ったが、

1148年、14歳で夭折した。

泰子立后の時、皇后宮大夫に任ぜられたのは泰子の異母弟であり、

その庇護下に入っている頼長であった。

忠実が白河院によって罷免された際、

後任の関白としてその長男・忠通が就いたが、

鳥羽院政が開始されると忠実は内覧に復し、

忠通の関白は有名無実のものとなった。

忠実は柔弱な忠通に物足りなさを感じてか、

強い個性の持ち主である頼長に望みを託し、

ゆくゆくは摂関家を彼に継がせるつもりで、

泰子の傘下に入れて庇護を得させるよう計らった。

泰子もそれに応え、長姉として頼長をよく庇護し、

鳥羽院と忠実・頼長父子の交流の絆となるよう勤めた。

殊に鳥羽院の愛児・近衛天皇が夭折してより後は、

美福門院や忠通の讒言によって忠実・頼長父子は院から遠ざけらされていったが、

泰子はその間に立って重要な緩和作用を果たした。

1155年、泰子は61年の一生を高陽院において終えた。

後ろ盾を失った忠実・頼長の立場は次第に危うくなり、保元の乱へ突入して行った。



❹藤原聖子、皇嘉門院、1122年生、1182年死去、藤原忠通の長女、崇徳天皇の皇后(中宮)、

近衛天皇の養母、実子ナシ。

保元の乱には父・忠通と、夫・崇徳上皇が敵に分かれて戦った。

板挟さみとなった聖子は同年出家した。


❺藤原多子(まさるこ/たし)、1140年生、1202年死去、関白・藤原頼長の養女、父・徳大寺公能(きんよし)

近衛天皇と二条天皇の二代にわたって皇后を務めた。


❻藤原呈子(ていし/しめこ)、九条院、

1131年生、1176年死去、

忠通の養女として入内、父・藤原伊通(いみち)

近衛天皇の中宮、後白河天皇の皇后・皇太后、




<源氏と平氏③>


①<藤原忠実>


藤原 忠実(ふじわら の ただざね)

藤原北家、

関白・藤原師通(もろみち)の長男、

官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮、

関白・師通と頼宗流の権大納言・藤原俊家の娘である全子(ぜんじ/またこ)との間の嫡男として、

1078年に生まれる。

しかし師通は信子を正室にして、母全子と離縁する。

これは頼通流(よりみち)教通流(のりみち)による、

摂関家内部の対立に終止符を打つものだったが、

この恨みを全子は生涯忘れず、

父・俊家の画像を描かせて礼拝し、

師通を呪ったという。

忠実は母・全子を尊重し、

義母・信子の扶養を拒んだ。

1099年、父の師通が急逝。

1100年、忠実、右大臣となる。

1105年、堀河天皇の関白に任じられる。

1107年、忠実と摂関家にとって最大の危機が鳥羽天皇の践祚と共に起こった。

鳥羽天皇の践祚に尽力した藤原公実が、

天皇の外戚である事を理由に、

摂政の地位を望んだ。

白河法皇も一時迷うが、

院庁別当・源俊明の反対でその望みは斥けられ、

藤原忠実は辛くも摂関の地位を保持することができた。

もっとも、藤原公実の閑院流は、

藤原忠実の御堂流に比べて公卿の数が少なく、

また、太上天皇は当時の慣例で内裏に立ち入ることができなかったため、

白川法皇は忠実に対して、

天皇とのパイプ役を期待していたためと考えられている。

1113年、この頃、法皇により長男・忠通と藤原公実の娘・璋子の婚姻の話がもちあがるが、

璋子の素行に噂があったことや、忠実が閑院流を快く思っていなかったこともあって、

破談になった。

忠実は娘・勲子(泰子)を鳥羽天皇に入内させるよう、法皇に勧められるが固辞。

1117年、璋子は鳥羽天皇に入内する。

1120年、勲子(泰子)を入内させようと工作したが、

以前入内の勧めを断ったことに法皇は激怒し、

忠実の内覧は停止された(保安元年の政変)。

内覧は天皇に奏上される文書を見る職務であり、

この職務を剥奪されることは事実上関白を罷免される事に等しかった。

この時、法皇は忠実の叔父・花山院家忠を関白にするつもりだったが、

藤原顕隆の反対により花山院の関白は流れる。

1121年、忠実の次男、忠通が関白となる。

この後、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。

なお、三男・頼長が生まれたのはこの謹慎中のことである。


1129年、白河法皇が崩御、鳥羽院政が始まると忠実は政界に復帰する。

1132年、再び内覧の宣旨を得る。

1133年、白河法皇の遺言に反して、忠実は自らの娘・勲子を鳥羽上皇の妃とし、

異例の措置で皇后となり(勲子は泰子に改名する)

さらに院号宣下を受けて高陽院となる。

忠実は前回の失脚の反省からか、

鳥羽上皇の寵妃・藤原得子(美福門院)や、

寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復に努めた。


しかしながら、忠実が再び内覧となり政務を執る一方で、

名ばかりとなってしまったとはいえ忠通にも関白としての矜持があり、

父子の関係は次第に悪化していく。

忠通に男子が生まれない事を危惧した忠実は、

忠通に頼長を養子にするように勧め、

1125年、頼長は忠通の養子となった。

1143年、忠通に実子・基実が生まれる。

摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望んだ忠通は頼長との縁組を破棄する。

通説では忠通と頼長・忠実の対立は興福寺の支配問題から始まります。

1144年、忠通は側近である大和守源清忠に命じて大和国内に検注を強行しようとし、

よりによって氏寺である興福寺から猛反発を買ったのである。

10月8日、興福寺大衆は忠通の送った検注使を逮捕し、

11月10日、春日祭に派遣されていた皇太后使高階泰兼に返還した。

11月6日、大衆は頼長に嘆願状を出し、源清忠を流罪に処すよう求めた。

頼長はこの頃、兄との関係悪化を避けるために回避的な態度をとっていた。

しかしその後も事は終わらず、忠通は新たな検注使を派遣し、

これに不満を抱いた興福寺の大衆と使節との合戦では寺内に火が放たれ人命に被害が出て、

翌年正月の除目で源清忠が石見守に転任を命じられる。

大和国の検注問題は忠通の興福寺支配の失敗を象徴しており、

それに代わって忠実が再び興福寺の支配権を握ることになった。


大和国検注事件で忠実は忠通の見方を新たにし、

事件から3か月後には頼長を呼び、

家宝の象徴である「律令格式巻文復抄」と「除目叙位官奏格記」を頼長に渡した。

忠通の地位は危うくなり、このときから摂関家の内部では後継問題の火種がくすぶっていた。

1150年、頼長が養女・多子を近衛天皇に入内させると、

忠通も養女・呈子を入内させて頼長に対抗した。

忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否したため、

1150年、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、

氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶した。

1151年、忠実の尽力により頼長が内覧の宣旨を受け、

関白と内覧が並立するという異常事態となった。

忠実は鳥羽法皇と良好な関係を保っていた一方で、

忠通も美福門院の信任を受けていたこともあり、

鳥羽法皇は忠実と忠通の和解を望み、

忠通と頼長の片方に肩入れするようなことを避けてきた。

1155年、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す雅仁親王(後白河天皇)が即位。

すると、頼長は近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信任を失い、

再び内覧宣下を受けることなく失脚してしまう。

忠実はパイプ役である高陽院の執成しで、

法皇の怒りを解こうとするが、

高陽院の死去で失敗に終わった。


1156年、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。

7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、

検非違使が召集されて京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。

法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する、

後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、

蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、

頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。

忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。


謀反人の烙印を押された頼長は崇徳上皇と共に白河北殿に立てこもるが、

天皇方の夜襲により敗北する。

頼長の敗北を知った忠実は宇治から南都に逃れた。

重傷を負った頼長は忠実に対面を望むが、

頼長に連座して罪人になる事を避けるため忠実は苦渋の末これを拒み、

頼長は失意の内に死去。

15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。

摂関家の事実上の総帥(大殿)だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、

没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、

忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。

しかし忠実は当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、

朝廷は罪人と認識していた。

17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、

公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、

18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。

20日になって、忠実から忠通に「本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた所領」と

「高陽院領」百余所の荘園目録が送られる。

摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。

『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、

摂関家の弱体化を目論む信西と、

権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。


27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、

頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、

源為義・平忠正・家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。

忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、

洛北知足院に幽閉の身となった。

この乱で摂関家は、武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、

頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、

所領や人事についても天皇に決定権を握られることになる。

自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退し、

忠実の摂関家の栄華を再び取り戻すという夢は叶わずに終わった

(ただし、こうした措置は藤氏長者である頼長が謀反に関わっていたことによる非常措置で、藤氏長者の宣旨における任命もその後の摂関家の分裂によって恒例化したとする見方もある)。


晩年の忠実の元に忠通の後継者となった孫の基実が訪れて、

故実を語り合っているが(『富家語』第189条)、

忠通は父を恨んで中陰の法要すら行わなかったとされる。

こういった経緯のためか、

忠通の六男の兼実は文治年間になって先の戦乱(治承・寿永の乱)は、

忠実を含めた保元の乱の怨霊が起こしたいのではないかと推測(『玉葉』文治2年2月18日条)し、

忠通の十一男慈円は著書『愚管抄』の中で、

祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記している。

慈円の記述は兼実の子である九条良通・良経兄弟が、

相次いで病死した文治以降の状況を反映していると考えられている。

このため、良経の子である道家は、

1231年、摂関家として初めて忠実の法華八講を大規模に執り行って以後恒例化させている。



父の師通は「この男、学問をせぬこそ遺恨なれ」と評し、

忠実が学問が嫌いであることを嘆いている(『中外抄』下30)。

ただし、忠実自身もそのことに対する自覚はあったようで、

自らの寿命と引換に学問の上達を願おうとして、

周囲に反対されたとも伝えられている(『中外抄』上29)。

孫の慈円は忠実を「執フカキ(執念深い)人」と評している。

朗詠・箏に優れ、藤原宗俊に学んだ箏は管絃の御遊でたびたび演奏し、

各種古記録等に記載された御遊での演奏回数は息子・忠通に並んで多い。

式部卿敦実親王が肌身離さず佩いていた坂上宝剣を所有していたが、白河院のお召しにより献上した。

この剣は敦実親王の頃に雷鳴の時は自然に抜けるという霊威を示したが、

忠実は不審に思ってある者に抜かせている。

道長・頼通の時代までに拡大した摂関家領は、

後三条天皇による延久の荘園整理や、

代々の親族への分割譲渡により縮小してきていたが、

忠実は摂関家の再興のために摂関家領の復興を行っている。


頼通の所領は、

正室の隆姫女王

嫡男の師実(忠実の祖父)

娘の寛子(後冷泉天皇皇后、忠実の養母)に、

それぞれ分割譲渡されていたが、

忠実はこれを全て相続。

加えて忠実は母・藤原全子(藤原俊家の娘)、

祖母・源麗子(師実正室、源師房娘)の所領も相続した(『近衛家文書』)。

忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、

殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。


また忠実は個々荘園の拡大も行った。

代表的な例として、

平季基が開発し頼通の時代に摂関家に寄進した島津荘(薩摩国)がある。

これは当初数百町歩しかない小規模なものであったが、

忠実の代になって大隅国に約千五百町歩の新たな出作地を獲得している。


また、前述のように忠実は、

忠通に摂関の地位を譲った後も、

広大な所領(「宇治殿領」)を引き続き保有しており、

後に「宇治殿領」は忠通に与えた「京極殿領」と、

娘の高陽院に与えた。




②<藤原頼長>



藤原 頼長(ふじわら の よりなが)(1120年~1156年)

藤原北家、

摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。

官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。


通称は宇治左大臣。

兄で関白・忠通と対立し、

父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、

その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府あくさふの異名を取った。

後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。

政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、

保元の乱で敗死した。


1130年、元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官、右近衛権中将。

1131年、従三位。

1132年、翌年参議を経ずに権中納言に昇進。

1133年、8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。

1134年、権大納言となる。

姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。

1136年、内大臣、右近衛大将を兼ねる。

1139年、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。


白河上皇の院政下で逼塞していた摂関家は、

鳥羽院政が開始されると頼長の異母姉・泰子が鳥羽上皇の皇后となり息を吹き返した。

忠通は後継者に恵まれなかったため、

1125年、頼長を養子に迎えた。

1143年、忠通に基実が生まれる。

忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、

忠実・頼長と対立することになる。

1147年、左右両大臣の不在によって内大臣の頼長が一上となると、

頼長は朝廷政務を掌握し、摂政の忠通を圧倒。

1149年、左大臣に進んだ。

1150年、近衛天皇は元服の式を挙げ、頼長の養女・多子が入内、女御となる。

しかし、忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に

「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する。

呈子は美福門院の養女であり、

忠通は美福門院との連携で摂関の地位の自系統保持を図ったと考えられる。

鳥羽法皇はこの問題への深入りを避け、

多子(まさるこ/たし)を皇后、

呈子(ていし/しめこ)を中宮、とすることで事を収めようとしたが、

忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。

立腹した忠実は摂関家の正邸東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、

氏長者の地位を忠通から剥奪して頼長に与え、

忠通を義絶した。

1151年、忠実は忠通に譲渡していた藤原師実・藤原師通の日記正本を没収し、

これも頼長に与えた。

更に忠実の宇治殿領の内、忠通に譲渡していた京極殿領も奪還没収した上で、

これも頼長に与えられたが、

ただし預所の補任などは引き続き忠実が行うなど、

京極殿領の事実上の支配権は忠実の手中にあった。

また忠通の同母姉・泰子(高陽院)までもが異母弟・頼長の後ろ盾となり、

所有する摂関家の拠点の一つ土御門殿を頼長に譲った。

この状態でしかし鳥羽法皇は先の入内問題と同じように曖昧な態度に終始し、

忠通を関白に留めたまま頼長に内覧の宣旨を下す。

ここに兄弟で関白と内覧が並立するという異常事態となった。

ただしこの内覧宣下については、

近衛天皇の疎遠に悩まされた鳥羽法皇は、

その原因として天皇を補佐する忠通が原因であると疑って、

頼長を立てることで忠通を牽制させる動機があった、とする説も出されている。


執政の座についた頼長は意欲に燃え、

学術の再興、弛緩した政治の刷新を目指した。

その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正することにあった。

勢力を強めていた奥州藤原氏の藤原基衡にも、

自身の荘園の年貢増徴を要求してた。

しかし律令や儒教の論理を重視して、

実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、

院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。

また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった。

その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。

1151年、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、

1152年、仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、

1153年、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎ、などである。

これらの一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、

かえって、寺社勢力とも対立を深め、

1154年、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた。

こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。


1155年、近衛天皇が崩御した。

後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、

いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。

候補としては重仁親王が最有力だったが、

美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、

その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。

守仁王はまだ年少であり、

存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。

突然の雅仁親王擁立の背景には、

雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。

この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、

すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、

内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。

口寄せによって現れた近衛天皇の霊は

「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。

このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」

と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。

住僧に尋ねてみると

「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」

と答えたという。

頼長はそもそもそんな像があるとは知らなかったからできるはずがないと記述している。

歴史研究者は事件は忠通や信西による謀略であると見ている。

忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、

高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。


1156年、鳥羽法皇が崩御すると事態は急変する。

7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、

京中の武士の動きを停止する措置が取られ、

法皇の初七日の7月8日には、

忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下された。

蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官する。

没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、

頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。

氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、

この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、

武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、

もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。


謀反人の烙印を押された頼長は挙兵の正当性を得るため、

崇徳上皇を担ぐことを決意する。

上皇方の拠点となった白河北殿には、

貴族では上皇の側近・藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、

武士では平家弘・源為義・平忠正などが集結する。

軍議で源為朝は高松殿への夜襲を献策したが、

頼長はこれを斥けて、

信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。


天皇方は11日未明白河北殿へ夜襲をかける。

白河北殿は炎上し、

戦いは数に勝る天皇方の勝利に終わった。

上皇方が総崩れとなる中、

頼長は家司の藤原成隆に抱えられ騎馬で御所から脱出するが、

源重貞の放った矢が頸部に刺さり重傷を負った。

出血による衰弱に苦しみながら、

12日嵐山方面、13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池を経て木津へと逃亡を続け、

最後の望みとして奈良に逃れていた忠実に対面を望むが拒まれ、

14日に、失意の内に頸部の傷が原因で、絶命した。

(『保元物語』によれば頼長は舌を噛み切り自害したという)。

享年37。

遺骸は奈良の般若野に埋葬されたが、

信西の命によって暴かれ、

検視されるという恥辱を受ける羽目になった。

なお、頼長の所有名義となっていた京極殿領は、

忠実によって再び忠通の所有として朝廷による没官は免れたが、

頼長個人の所領は没官されて、

後白河天皇の後院領にあてがわれ、

後の大荘園群である長講堂領の基軸となった。


頼長の死後、

長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、

師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した。

唯一生き残って都に戻ることができた師長は、

後に太政大臣にまで昇進するものの、

今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。


保元の乱が終結してしばらくの間は、

頼長は罪人として扱われた。

頼長を罪人とする朝廷の認識は、

頼長の子の師長が帰京を許され後白河院の側近になっても変わることはなかった。

しかし21年を経た安元3年(1177年)、

延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発するに及んで、

朝廷は保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。

同年8月3日、怨霊鎮魂のため、

崇徳上皇の当初の追号「讃岐院」を「崇徳院」に改め、

頼長には正一位・太政大臣が追贈された


少年の頃は忠実の命に従わず馬にまたがって山野を駆け巡ったが、

落馬して一命を失いかねないほどの目に遭い、

心を入れ替えて学問に励むようになったという(『台記』康治元年12月30日条)。

以降、膨大な和漢の書を読み、

誰もが認める博識となった。

甥にあたる慈円は『愚管抄』で

「日本一の大学生だいがくしょう、和漢のざえに富む」

とその学識の高さを賞賛している。

康治元年(1142年)11月の大嘗祭のときは、

御禊の調査を徹夜で行い、

終了後は10日間かけて膨大な式典の記録を書き残しており、

事務的な能力にも優れていた。

また、仏僧の蔵俊に因明を学び、

『左府抄』という因明書も残している[19]。儒学も好んだが、

意外にも文学を不得手としており、

「和歌の道に堪えず」と公言して漢詩も得意ではなかったという。


頼長の苛烈で他人に厳しい性格は、

「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評され、

「悪左府」の異名で有名だが、

この「悪」も現代でいう「悪い」という意味ではなく、

むしろ性質・能力・行動などが型破りであることを畏怖した表現である。

ただし私的報復の記録も多く、

太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことに怒り、

秦公春に命じてこれを暗殺させ

「代天誅之」と自らの日記に明記することもあるほどだった(『台記』久安元年12月17日条)。


頼長は両性愛者だったと考えられる。

私生活では男色を好んだことがその日記『台記』に記された数多くの出来事から窺える。

東野治之や五味文彦の研究でその詳細が明らかにされ、

男色相手としては随身の秦公春・秦兼任のほか、

公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅の名が特定されている。五味はこのうち4名までが院近臣として権勢を誇った藤原家成の親族であることを指摘している。


その『台記』に、少年の頃の飼い猫が病気になった際、

千手像を描いて祈念して治してやったり、

その猫が十歳まで長生きして死んだので、

衣に包み櫃に入れて葬ってやった旨の記述がある。






③<藤原忠通>



藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、

藤原北家、

関白・藤原忠実の次男。

官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。

1097年、藤原忠実の次男として誕生

1107年、元服し白河法皇の猶子となる。

1114年、白河法皇の意向により、

法皇の養女・藤原璋子(閑院流・藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、

璋子の素行に噂があったこともあり、

父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。

1121年、法皇の勅勘を被り関白を辞任した父・忠実に代わって藤原氏長者となり、

25歳にして鳥羽天皇の関白に就任(保安元年の政変)。

1129年、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させる。

1140年、崇徳天皇の女房・兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)が、

崇徳帝の第一皇子・重仁親王(しげひと)を産む。

1125年、23歳年下の弟・頼長を養子に迎えるが、

40歳を過ぎてから四男・基実を初めとして次々と男子に恵まれた。

実子に摂関家を相続させるため、

頼長との縁組を破棄した。

忠通は忠実・頼長と、近衛天皇の後宮政策において対立した。

1150年、頼長が養女・多子(まさるこ)を入内させ、

皇后に冊立させたのに対し、

忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子(ていし/しめこ)を入内させて、

中宮に冊立させた。

この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、

忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、

多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗する。


1153年、近衛天皇がの危機に陥るほどの重病となった際、

忠通は天皇から譲位の意思を告げられ、

鳥羽法皇に雅仁親王の息童の孫王への譲位を奏請するが、

法皇からは幼主を擁立して、

政を摂り威権を専らにしようとする謀略とみなされ、

忠実からも

「関白狂へるか。父の雅仁親王が黙っているはずがない」

などと非難される。

1155年、後白河天皇の践祚後、

忠実・頼長が、近衛天皇呪詛の嫌疑で失脚した事により復権。

1156年、保元の乱

忠通の勝利。

氏長者の地位は、

前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、

宣旨によって任命が行われたが、

藤原氏による自律性を否認された。

更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が、

全て没官領として剥奪されることになったが、

忠通が忠実に、

摂関家伝来のものと、

忠実個人の荘園「宇治殿領」を譲与するように迫り、

漸く忠通の所領として認められて没収を回避した。

しかし頼長領の没官は免れられなかった。

この影響から、

白河院政以来の京に上皇が存在しない状況にも拘わらず、

摂関政治の再興とはならず、

政治は「信西」を筆頭とする後白河側近が主導した。

後白河から二条天皇への譲位は、

関白忠通を差し置いて、

「信西」と「美福門院」の二人の出家者による

「仏と仏の評定」で決定されている。

1158年、賀茂祭の際に後、

白河寵臣の藤原信頼との対立を起こしたことから、

後白河より閉門に処せられて、

事実上失脚、

同年に関白職を嫡男・基実に譲った。

忠通は信頼の取り込みを図り、

信頼の妹を基実の室に迎えている。

しかし「平治の乱」では信頼を見限って、

反信頼陣営に父子で与している。

乱で「信西」と信頼が討たれ、

続いて実権を握った藤原経宗・藤原惟方も配流され、

朝廷には既に退位した後白河上皇と二条天皇の対立と、

政務担当者のいない状態だけが残された。

そんな中で「大殿」と称された忠通が一時的に復権し、

院・天皇・大殿・関白らの協議体制となり、

1161年に天皇が院近臣6名を解官した後は、

天皇と大殿の合意で政治決定がなされるようになった。

1162年、法性寺別業で出家して円観と号した。

忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司・源盛経の娘)を寵愛していたが、

1163年、五条が兄弟の源経光と密通、

これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出したものの、

精神的な衝撃もあり、まもなく薨去したという。

享年68。

忠通が氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化し、

さらに父や弟との対立を抱え、

男子をもうけたのも遅い方であったが、

そのような悪い状況の中でも、

本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、

保元の乱に続く、平治の乱でも、

実質的な権力者・信西とは対照的に生き延び、

彼の直系子孫のみが、

五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。

もっとも、基実の後継者として藤原信頼の妹が生んだ近衛基通ではなく、

娘・皇嘉門院(聖子)の猶子となっていた庶子(六男)の兼実を、

後継者にすることを意図したものの、

基実の急死による挫折

(五男・基房の関白任命や平氏一族による基通後見の成立などの事態の急変)

が、その後の摂関家分裂の原因となったとする説もある。

また、兼実ではなく、

忠通の日記を相続して、

後白河天皇(院)の外戚である閑院流から妻を娶っていた基房こそが、

忠通の意中の後継者であったとする説も出されている。

悪辣な陰謀家とする説があるが(角田文衛など)、

異論もある(元木泰雄など)。

美川圭は『古事談』などに載せられた所謂崇徳天皇の「叔父子」説を、

近衛天皇・二条天皇を支持して、

崇徳天皇・重仁親王の排除を意図した、

忠通によって流されたデマではないかと推測する

(美川は近衛天皇崩御直後に天皇が頼長の呪詛で殺害されたとするデマと共に忠通や美福門院に利益をもたらす風説であったことを指摘する)。

なお、美川は別の論文において忠通の息子である慈円が

『愚管抄』の中で源通親と養女の承明門院の密通に関する記事を載せているのも、

この事情を知っていたからではないかとする仮説を立てている

(慈円は承明門院が生んだ土御門天皇ではなく、兄の孫娘(忠通から見て曾孫)が后となっていた異母弟の順徳天皇を支持していた)。

詩歌にも長じ、

書法にも一家をなして法性寺様といわれた。

漢詩集に『法性寺関白集』、

家集に『田多民治集』がある。

日記に『法性寺関白記』がある。

忠通は両性愛者だったと考えられる。

弟の頼長とは不仲であったのに対し、

異父兄覚法法親王(父は白河法皇)との関係は良好で、

法親王が死去した際には忠通は「弟」として喪に服している。

















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