源氏と平氏の謎②
平安以前の「賜姓」では「臣籍降下」の制度は明確ではなかったが
「皇別氏族」には「公」(きみ)の「姓」(かばね)が与えられた。
「八色の姓」(684年)が制定されると
真人・朝臣・宿禰、の「姓」が与えられた。
賜る「氏」が源平に固定されると「姓」も「朝臣」に固定された。
「桓武天皇」(737~806)より3世の「臣籍降下」で「平」が与えられ
「桓武平氏」と呼ばれる。
「嵯峨天皇」より、2世全員に「源」が「賜姓」され、
それ以後「源氏21流」と呼ばれる「流派」ができた。
①「嵯峨源氏」(さがげんじ)
②「仁明源氏」(にんみょうげんじ)
③「文徳源氏」(もんとくげんじ)
④「清和源氏」(せいわげんじ)
⑤「陽成源氏」(ようぜいげんじ)
⑥「光孝源氏」(こうこうげんじ)
⑦「宇多源氏」(うだげんじ)
⑧「醍醐源氏」(だいごげんじ)
⑨「村上源氏」(むらかみげんじ)
⑩「冷泉源氏」(れいぜいげんじ)
⑪「花山源氏」(かざんげんじ)
⑫「三条源氏」(さんじょうげんじ)
⑬「後三条源氏」(ごさんじょうげんじ)
⑭「順徳源氏」(じゅんとくげんじ)
⑮「後白河源氏」(ごしらかわげんじ)
⑯「後嵯峨源氏」(ごさがげんじ)
⑰「後深草源氏」(ごふかくさげんじ)
⑱「後醍醐源氏」(ごだいごげんじ)
⑲「正親町源氏」(おおぎまちげんじ)
⑳「亀山源氏」(かめやまげんじ)
21.「後二条源氏」(ごにじょうげんじ)
第52代「嵯峨天皇」が源氏を最初に下賜した天皇です。
彼は50人の御子のうち32人を臣籍降下させ「源」姓を与えました。
この頃の継嗣令では皇親の範囲は色々変更されていましたが、
臣籍降下は六世からとなっていました。
しかし、実際は、天皇の孫世代に当たる二世から臣籍降下させられていたようです。
第52代「嵯峨天皇」は皇子32人に「源」の姓を与え、
第56代「清和天皇」は皇子・孫16人に「源」の姓を与えました。
「源」とは、皇室と源流を同じくする、という意味であり、
元々は中国の五胡十六国時代
南涼の王子、
禿髪破羌が、
南涼滅亡後に北魏に仕えた際、
太武帝から禿髪と拓跋(北魏の帝室の姓)は
「源」が同じであるとして
「源」の姓を与えられ、
源賀と名乗ったことに由来する。
他の源氏氏族と違い、
清和源氏は孫が成人する頃には
傍系、光孝天皇に皇位が移ってしまっていたので、
天皇から遠い地位に低下してしまった。
清和源氏は中央政界での栄達が望めず、
孫、源経基のように
軍事貴族として活路を見出さざるを得なかった。
源経基は清和天皇の第6皇子「貞純親王」の第6王子で、
臣籍降下により源姓を賜った。
源経基の子「源満仲」は清和天皇の曾孫「清和3世孫」である。
又の名を多田満仲といって、
彼は藤原北家に協力して中央における武門としての地位を築き、
摂津国川辺郡多田に武士団を形成した。
そして清和4世孫である彼の3人の子、
頼光
頼親
頼信に
父と同様に藤原摂関家に仕えさせ、
勢力を拡大させた。
中でも満仲の三男、源頼信の系統は
河内国壷井を本拠としたことから河内源氏と呼ばれた。
東国武士団を統合し、
清和天皇10世孫に源頼朝が生まれる。
武門の棟梁として初めて「武家政権」「鎌倉幕府」を確立した。
清和天皇→①貞純親王→②経基→③満仲→④頼信→⑤頼義→⑥義家→⑦義親→⑧為義→⑨義朝→⑩頼朝
清和天皇3世孫の満仲には9人の男子がおりまして、
(頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞、頼範、頼尋、源賢)
長男の頼光は酒呑童子退治で有名なあの頼光です。
※『大江山絵詞』(大江山絵巻)によるあらすじは次のとおりです。
一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った。
安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかった。
そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。
※ 御伽草子版のあらすじは、
京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、
大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、
刀で切って生のまま喰ったりしたという。
あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王
(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、討伐に向かった。
満仲の長男、頼光は摂津源氏と呼ばれ、
頼光の長男、源頼国は、多田を継承したので多田源氏と呼ばれました。
満仲の次男、源頼親の系統は、大和国宇野を本拠としたことから、大和源氏と呼ばれました。
満仲の三男、頼信は河内源氏の祖となった。
→初代河内源氏「頼信」
→2代「頼義」
→3代「義家」
→4代「義親」
→5代「為義」
→6代目「義朝」
→7代目「頼朝」となるので、
源頼朝は河内源氏7代目です。
源義国は河内源氏3代目義家の3男で、
源頼信-源頼義-源義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。
新田氏、足利氏の祖である。
新田義貞は「河内源氏義国流新田氏 本宗家8代目棟梁」で、
足利尊氏も「河内源氏義国流足利氏 本宗家8代目棟梁」である。
河内源氏5代目為義は義朝の弟、源義賢を義朝の支配の及ばない北関東へ派遣し、
義朝の長男、義平と対立した。
1155年「大蔵合戦」で「源義賢」が討死、源義平が勝利した。
保元の乱は、
1156年、皇位継承問題や摂関家の内戦により、
朝廷が「後白河天皇」方と「崇徳上皇」方に分かれ、
双方の衝突に至った政変である。
崇徳上皇が敗北し、讃岐に配流された。
この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、
武士の存在感が増し、
後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
1141年、鳥羽法皇は、藤原璋子との子である崇徳天皇を退位させ、
寵愛する藤原得子との子である躰仁親王(後の近衛天皇)、を即位させた。
つまり、祟徳天皇と近衛天皇は父を同じくする異母兄弟で、
父は鳥羽上皇である。
ここで、どんな継承だったのか、が問題になる。
なんと、躰仁親王は、崇徳の中宮・藤原聖子の養子となってから即位したゆえ、
形式上は、親子だ、つまり「皇太子」のはずだった、
しかし、なぜか譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。
この事は、退位した祟徳天皇には重大である。
なぜなら天皇が弟では、
祟徳天皇は、将来、院政は不可能となるからである。
崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
翌年には得子呪詛の嫌疑で、
待賢門院(璋子)は出家に追い込まれた。
璋子は祟徳の実母である。
ようするに、
崇徳上皇の勢力が粛清された、
つまり「閑院流徳大寺家」の勢力が、
朝廷内で後退したということだ。
一方、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は、
得子と、その従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、
政界は待賢門院派(璋子)と美福門院派(得子)に二分される事となった。
両派の対立は人事の停滞を招き、
1138年、藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、
1147年、源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、
大臣は一人のみ(内大臣・藤原頼長)という状況になった。
白河院政下で不遇であった摂関家は、
鳥羽院政が開始されると、
藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。
関白の藤原忠通は、後継者に恵まれなかったため、
異母弟の頼長を養子に迎えた。
ところが、
1143年、基実が生まれた。
保元の乱は、藤原家の内紛に繋がるので、訳がわからなくなる。
取りあえず、キーパーソンが、藤原忠通で、キーワードが摂関政治だ。
藤原忠通が男の子に恵まれなかったので、弟の頼長を養子にした。
地位を譲ろうとしたわけだ。
ところが、そこで男児が生まれた。
豊臣家と同じパターンだ。
しかしながら、摂関家というのは、世襲するものなのか?
天皇家は世襲でいい。
将軍家も、これも実力で天下をとってるわけだから、基本世襲でいいわけで、将軍に実力がなくなったら、下克上で覇者が入れ替わるのは当然だ。
問題なのは、摂関家が世襲じゃいかんだろうというところ。
天皇のように血統という人智の及ばぬ伝統がある場合は、それに守られて世襲されるのは、納得できる。
将軍家は逆に覇者としての理屈で、世襲して富や名声や地位を世襲で相続されるわけで、これも至極当然の理屈だ。
しかし、摂関家は、高貴な血じゃないだろう。
また覇者としての威厳もないだろう。
なんでそれが世襲されるのか、全くおかしな話だ。
世襲による摂政関白の役職の継承が途切れても、全然問題がないどころか、喜ばしいことだ。
しかし、藤原道長の頃、摂関家の協力がないと、天皇家はたちいかない状態にすることで、摂関家は世襲を確立したわけで、これはいづれ壊れるものであったと予想でき、それが源平によってなされたと見るのが正しいだろう。
藤原道長は藤原忠通の5代前父で、
藤原道長→頼通→師実→師通→忠実→忠通→基実、
1143年、47歳の藤原忠通にとって16年前に早世させた三男以来の男子として基実が誕生した。
長く後継者となる男子に恵まれなかった藤原忠通は、
その時には23歳も離れた弟・頼長の実子兼長を猶子としていた。
秀吉同様、早まったわけだ。
しかし、1148年に養子縁組は解消され、
基実が忠通の後継者とされた。
これでは梯子を外された頼長が黙ってはいない。
1150年、8歳となった基実の元服と叙位が決定したが、
父の忠通は後継者問題を巡って、
忠通の父である藤原忠実から義絶されて、
藤氏長者の地位も奪われた。
どうやら父・忠実は、忠通より頼長の方が好きだったようだ。
忠通は失脚同然の状態となった。
そのため、諸国の受領の協力を得られず、忠通派と頼長派の対立は益々酷くなった。
基実はわずか10歳で従三位に叙せられたが、
頼長の子供たちと比べると昇進は大幅に遅れた。
近衛大将に至っては任じられることはついになかった。
ところが、近衛天皇崩御の後、後白河天皇が即位すると、
忠通と天皇の引き立てで、基実は権中納言・権大納言と出世を経て、
1157年、正二位右大臣に叙任された。
この直前が「保元の乱」である。
1156年、保元の乱で、基実は、忠通とともに後白河天皇に組した。
東三条殿行幸の際に剣璽を奉じている。
その後は基実の出世はトントン拍子だったが、早世した。
1158年、基実は16歳の若さで二条天皇の関白に栄進し藤氏長者となった。
1164年、忠通が急死して2か月の後、基実は平清盛の娘盛子と結婚する。
1165年、基実は六条天皇の摂政となったが、
1166年、病により(死因は赤痢であったと伝えられる)わずか24歳で薨御した。
保元の乱(1156年)は、後白河天皇と崇徳上皇の皇位争いに、
摂関家を二分した藤原頼長(崇徳方)と藤原忠通(後白河方)の兄弟対立が絡んで、
そこに源氏内部分裂と、平氏の内部分裂が重なって、複雑になった。
だから源氏・平氏の武士が両陣営に分かれて激突した動乱と見なすのは早計である。
取りあえず摂関家で、
兄・忠通は後白河天皇を支持し、
弟・頼長は崇徳上皇を支持した。
最終的に後白河・忠通方が勝利し、頼長は敗死した。
対立の背景には、摂関家の後継者争いもあった。
藤原忠通は当初、異母弟の頼長を後継者にしようとしましたが、
後に実子(基実)が生まれたため、
実子に摂関家を継がせようと望み、
頼長・父・忠実(前摂関)と対立しました。
皇位継承問題は、
崇徳上皇と後白河天皇の間の皇位継承の対立を激化させました。
両陣営の顔ぶれ
崇徳上皇・藤原頼長側(上皇方): 崇徳上皇、藤原頼長(左大臣)、源為義、平忠正など。
後白河天皇・藤原忠通側(天皇方): 後白河天皇、藤原忠通(関白)、源義朝、平清盛など。
結果と影響
天皇方(後白河・忠通方)の勝利となり、短時間の戦いで上皇方は敗北した。
頼長は戦死、崇徳上皇は讃岐へ流罪となりました。
保元の乱の経緯を歴史を遡って見ていこう。
1150年、近衛天皇が元服の式を挙げると、頼長の養女・多子が入内、女御となった。
しかし、忠通も、藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を、
改めて自身の養女として迎えたうえで鳥羽法皇に
「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。
劣勢の忠通は美福門院と連携することで、
摂関の地位の保持を図ったのである。
当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、
頼長の養女・多子を皇后、
美福門院の養女・呈子を中宮、とすることで事を収めようとしたが、
忠実・頼長と忠通の対立は更にヒートアップ。
一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、
大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を、
摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、
忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えた。
しかし鳥羽法皇は、どちらつかずの曖昧な態度に終始し、
忠通を関白に留任させる一方で、
頼長には内覧の宣旨を下した。
ここに関白と内覧が並立する前代未聞の事態となった。
内覧となった頼長は旧儀の復興に取り組んだが、
その苛烈で妥協を知らない性格により
「悪左府」と呼ばれ、
院近臣との軋轢を生むことになる。
1151年、藤原頼長が忠通派の藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、
鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。
このような中、
1153年、近衛天皇が重病に陥る。
後継者としては、
崇徳の第一皇子「重仁親王」が有力だったが、
忠通は美福門院 の養子「守仁親王」への譲位を法皇に奏上する。
当時、近衛天皇と面会できたのは、
関白忠通らごく限られた人のみであり、
鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために、
天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶。
鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。
しかし、美福門院と忠通は、
崇徳上皇の院政を阻止するために、
守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。
1155年、近衛天皇は崩御する。
後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、
いずれも美福門院(得子派)と関係の深い公卿だった。
候補としては「重仁親王」「守仁親王」「暲子内親王」が上がった。
ここで特筆すべきは、鳥羽院の正統を継ぐ嫡流の皇女として、
暲子内親王が候補に上がっているということだ、
現代の女系容認派は、もっと話題にしてもいいと思う。
結局、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、
父の「雅仁親王」が立太子しないまま29歳で即位することになった、
これが「後白河天皇」である。
この時点で、鳥羽法皇は、祟徳、近衛、後白河、3人の天皇の父ということになった。
守仁親王はまだ年少であり、
存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は、
如何なものかとの声が上がったためだった。
突然の雅仁擁立の背景には、
雅仁の乳母の夫で近臣の「信西」の策動があったと推測される。
また、幼少の守仁が即位をして、
その成人前に法皇が崩御した場合には、
健在である唯一の院(上皇・法皇)、
崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、
それを回避するためにも、
雅仁が即位する必要があったとも考えられる。
この重要な時期に頼長は、妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、
すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、
事実上の失脚状態となっていた。
(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)
忠実は頼長を謹慎させ、
仲介役である高陽院 (鳥羽上皇の皇后、忠実の娘、藤原秦子) を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、
12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。
忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、
姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。
待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、
崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。
そんな時、鳥羽法皇が倒れた。




