源氏と平氏の謎①
「源氏」「平氏」は「賜姓皇族」である。
「賜姓皇族」とは「臣籍降下」し「姓」をもらった元皇親の事である。
平安時代末期、貴族階級は衰退し武士階級の飛躍的な台頭が始まった。
まず台頭したのが「桓武平氏」である。
「桓武平氏」とは第50代「桓武天皇」の子「葛原親王」
他3親王の子孫「平氏」を指す。
何世から「臣籍降下」したのかが学説の別れるところであるが、
「葛原親王」が実子の臣籍降下を願い出たという説が信憑性がありそうである。
そうなると2世「高見王」が「臣籍降下」したことになる。
「養老律令」では4世までを皇親とするから随分早い「臣籍降下」である。
3世「高望流桓武平氏」が2世「高見王」より有名なので、
ついでに付け加えると3世「平高望」(たいらのたかもち)が「臣籍降下」しという説もある。
有名な「平将門」は桓武天皇5世である。
「桓武天皇」
―①「葛原親王」(かずらわらしんのう)
―②「高見王」(たかみおう)
―③「平高望」(たいらのたかもち)
―④「平良将」(たいらのよしまさ)
―⑤「平将門」(たいらのまさかど)となる。
「将門」は桓武天皇4世「良将」の「皇胤」であり、
ちなみに、有名な「平清盛」は、桓武天皇11世である。
第50代「桓武天皇」
-①「葛原親王」(かずらわらしんのう)
-②「高見王」(たかみおう)
-③「平高望」(たいらのたかもち)
-④「平国香」(たいらのくにか)
-⑤「平貞盛」(たいらのさだもり)
-⑥「平維衡」(たいらのこれひら)・・・伊勢平氏の祖
-⑦「平正度」(たいらのまさのり)
-⑧「平正衡」(たいらのまさひら)
-⑨「平正盛」(たいらのまさもり)
-⑩「平忠盛」(たいらのただもり)
-⑪「平清盛」(たいらのきよもり)・・・伊勢平氏六代目棟梁
このような系図になる。
ちなみに「⑥平維衡」が「伊勢平氏」の祖とされ、
清盛は伊勢平氏六代目棟梁と言われている。
ちなみに伊勢平氏の事を「高望流坂東平氏の庶流」という。
また、清盛の母が「白河法王」の元女房なので「白河法王」の「落胤」という説もある。
それだと「清盛」は親王であり、皇位継承者となる。
平氏の次に台頭したのが源氏である。
1185年「源氏」から初めての「武家政権」鎌倉幕府が成立し、
西日本の支配を保った「朝廷」と二元統治となった。
1219年、第3代将軍「源実朝」が子「公暁」に暗殺されると、
1221年「後鳥羽上皇」は鎌倉幕府第2代執権「北条義時」追討の「院宣」を発布した。
これが「承久の乱」である。
清和源氏とは、第56代「清和天皇」の「子・孫」を祖とする「源氏氏族」のことである。
継体天皇の皇位継承でもわかるように、
古代日本は、男系血統の近い順に男系男子が皇位継承するのが原則であった。
ところが、この頃から「世襲宮家」という概念が台頭しはじめる。
親王宣下が封建制の因習として皇室を侵食しはじめると急速に臣籍降下する皇親が減りはじめ、
親王宣下を受けれなかった皇子たちは、出家するようになる。
現代、皇位に一番近い男系血統は
第113代「東山天皇」の第六皇子「直仁親王」(初代閑院宮)の第四王子「淳宮」の男系男子であるが、
彼らはもっとも皇位に近い男系男子でありながら、
宮家への男系男子養子縁組案の養子候補に上がっていない。
封建時代に確立された世襲宮家という制度が、
血統重視という本来の皇位継承の本質を変えてしまったのである。
この変化は、いったい、いつごろから、始まったのだろう。
親王宣下という制度は、天皇の皇子の中から皇位を嗣げる者を選別する制度である。
それが血統より、優先されるようになったのは、平安時代後期からである。
親王宣下を受けれる家が、世襲されるようになり世襲宮家が誕生した。
宮家の世襲は黄金の利権である。
永遠に家格と皇族費が補償される。
それは、江戸末期になると、
既に出家した男子を還俗させてまで、男系の断絶を避けようとする行為にまで至る。
伏見宮第18代当主伏見宮邦頼親王は昔「寛宝」という名の勧修寺の門跡であった。
詳しい説明は後ほどまとめてやるとして、
明治になると一度は出家した伏見宮第20代当主の子や孫を、
還俗させて新宮家をあてがうという行為を始めた。
政府はそれらを「一代宮家」「二代宮家」と規制し、
なんとか世襲に歯止めをかけようと努力したが、
太政官布告の規制は守られず、
宮家の世襲は繰り返された。
とうとう明治の皇室典範では、永世皇族制が導入され、
「明治40年増補」で、やっと皇族数制限の動きが出ると、
その制度の中心であった伊藤博文が暗殺された。
それでも、大正10年、皇族の臣籍降下に関する準則、が制定され、
皇族の範囲を「伏見宮邦家」を四世と見なし、
8世までを皇族とする皇族の範囲を規制する準則を発布した。
これで、伏見宮邦家から数えて四世までを王(皇親)と範囲を規制することはできたが、
あくまで天皇の勅旨によって規制するのであって、
法で強制するまではいたらず、
逆に、歴史上初めて天皇以外の人物を起点として、
皇親を数える事を認める事になった。
これは見方によっては伏見宮をもう一つの皇統と見たと言えないこともない。
※「皇族の降下に関する施行準則」
「宮家を嗣ぐ長子孫の系統のものは、伏見宮邦家王から四世(玄孫)までは皇族として宮家も存続させるが、それ以外の次男以下の皇族は全て華族とする」という規定を定めた。
701年「大宝律令」では「天皇」から四世までを「皇親」と定めていた。
それが「伏見宮邦家」から四世までを「皇族」とするとなった。
伏見宮邦家は祟光天皇14世孫でしかない。
今、男系男子による養子案なるものが出回っているが、
候補になろうとしている旧宮家の男子は、祟光天皇と20世代も離れている。
果たしてこの継承で世論が納得するのか全くわからない。
フランスはカペー朝のように、男系が絶えたときは、その男系を遡り、
一番近い傍系の男系男子を次の天皇に選ぶ方が国民の同意を得られると思う。
つまり旧宮家より皇別摂家の方が皇位継承にはふさわしいと思う。
世数で言えば、皇別摂家は13世、旧宮家は20世、
親等数にすれば、皇別摂家は20、旧宮家は40である。
どちらが宮家の養子が次の皇位にふさわしいか、明らかである。
南北朝時代は足利尊氏の作った北朝と、
後醍醐天皇の作った南朝の対立だと単純化したら分かりやすいんですが、
決してそれだけではありません。
南北朝の争いは、
大覚寺統と持明院統の争いが本筋です。
そして、それは、天皇家の相続の問題です。
よく皇位継承は相続じゃないと言う人がいますが、
それは伏見宮が使うペテンで、
本当は単純に相続権の問題なんです。
だから、現代の皇位継承問題を解決するには、
南北朝時代の相続問題を解決すれば済むのです。
南北朝の対立軸は、
大覚寺と持明院、
祟光流と後光厳流、
南朝と北朝、の3つです。
大覚寺統は亀山天皇、持明院統は花園天皇が初代です。
南北朝時代は1246年、第88代、後嵯峨天皇退位と
第89代、後深草天皇即位から始まっています。
まず、後深草天皇が病にかかります。
跡継ぎが心配になり、後深草天皇の実弟、恒仁親王が皇太子となりました。
ところが、後深草天皇の病は完治してしまいます。
しかし即位する気満々の実弟の恒仁親王は、
そのまま次の天皇に即位してしまった。
つまり、兄から弟へ皇位が移ったわけで、
これが、第90代「亀山天皇」です。
この亀山天皇がワンポイントだと自覚していれば良かったのですが、
亀山天皇は自分が嫡流だと言い張り、
自分の子に皇位を継承してしまった。
1274年、亀山天皇は自分の子、世仁親王を第91代、後宇多天皇とした。
これに怒ったのが、先代の後深草上皇です。
皇統を弟に簒奪されたと怒り狂い、出家を表明した。
ここで幕府がしゃしゃり出てきます。
亀山上皇に兄の事をもっと気遣えと。
つまり、後深草上皇にもっと配慮するよう求めた。
そこで、亀山上皇は後深草上皇の皇子、熙仁親王を後宇多天皇の皇太子とした。
それが、1287年即位した、第92代、伏見天皇です。
そして、これが「持明院統」の始まりです。
ちなみに大覚寺統は亀山一派です。
ここでちょっと整理しときますと、
後深草天皇と亀山天皇は兄弟で、
後深草の子が伏見天皇 (持明院)
亀山天皇の子が後宇多天皇 (大覚寺)
第92代、伏見天皇は退位して、
実子「胤仁」を「皇太子」とし、
1298年、胤仁親王は第93代、後伏見天皇となった。
すると、今度は後宇多上皇が皇統を伏見上皇に簒奪されたと怒った。
ゆえに、後伏見天皇は後宇多天皇の子、邦治親王を皇太子にした。
1301年、後伏見天皇は退位して、邦治親王は第94代、後二条天皇となった。
はい、ここで再び整理します。
持明院・・・後深草天皇→伏見天皇→後伏見天皇
大覚寺・・・亀山天皇→後宇多天皇→後二条天皇
後二条天皇は伏見天皇の子の富仁親王を皇太子にした。
後二条天皇が薨去した。
1308年、富仁親王は第95代、花園天皇となった。
1318年、花園天皇は後宇多天皇の子、尊治親王を皇太子にした。
花園天皇は退位して花園上皇になり、尊治親王は第96代、後醍醐天皇となった。
はい、ここで、またまた整理します。
持明院・・・後深草天皇→伏見天皇→後伏見天皇→花園天皇
大覚寺・・・亀山天皇→後宇多天皇→後二条天皇→後醍醐天皇
後醍醐天皇は最初、後二条の子「邦良親王」を皇太子とするが、
邦良親王は早死した。
すると持明院の後伏見天皇の子、量仁親王が皇太子となった。
1331年「後醍醐天皇」は「元弘の乱」を起こす。
後醍醐天皇は敗れ、量仁皇太子が北朝初代、光厳天皇となった。
皇太子には邦良親王の子、康仁親王がなった。
しかし、後醍醐天皇は足利尊氏に助けられ復権すると、
光厳天皇、康仁皇太子は廃位され、
後醍醐天皇の子、恒良親王を皇太子としました。
しかし、後醍醐天皇と足利尊氏が対立。
足利尊氏は敗れ、九州まで逃走します。
そこで軍を立て直し反撃に出る。
すると足利尊氏は後醍醐天皇に勝利し、後醍醐天皇は三種神器を持って吉野へ逃走。
足利尊氏と光厳上皇は、光厳上皇の弟、豊仁を即位させる。
北朝は2代目、光明天皇となります。
やがて光明天皇が退位して、
光厳上皇の第一皇子、興仁親王が即位、
北朝3代、祟光天皇が誕生します。
しかし、皇太子には、亀山上皇の末っ子、直仁親王が指名される。
その後、観応の擾乱の勃発。
足利尊氏は負ける。
「正平一統」(1351年)で崇光天皇と直仁皇太子は廃位となります。
南朝は後醍醐天皇の次の後村上天皇が南北統一となります。
しかし、足利尊氏が再び北朝を再興し、
崇光天皇の弟の弥仁親王が即位した。
これが、現代の天皇家に続く北朝第4代、後光厳天皇の誕生です。
ここが、この決定が、
現代の天皇家と伏見宮の争いの元凶です。
ちょっとここまで整理してみます。
第88代、後嵯峨天皇(1220~1272)
第89代、後深草天皇(1243~1304)持明院統
第90代、亀山天皇(1249~1305)大覚寺統
第91代、後宇多天皇(1267~1324)大覚寺統
第92代、伏見天皇(1265~1317)持明院統
第93代、後伏見宮天皇(1288~1336)持明院統
第94代、後二条天皇(1285~1308)大覚寺統
第95代、花園天皇(1297~1348)持明院統
第96代、後醍醐天皇(1318~1339)大覚寺統
第97代、後村上天皇(1339~1368)大覚寺統
北朝・第1代目光厳天皇(1331~1333)持明院統
北朝・第2代目光明天皇(1336~1348)持明院統
北朝・第3代目崇光天皇(1348~1351)持明院統
北朝・第4代目後光厳天皇(1352~1371)持明院統
臣籍降下がちゃんと記録に残っているものは、
736年「葛城王」が最初である。
皇籍復帰が始まった記録は759年「和気王」が最初である。
つまり、この辺りから、日本の皇位継承制度は、
神秘性を少しづつ失うこととなっていった。
臣籍降下も皇籍復帰も、
皇歴2,680年に比べると、歴史が浅い制度だ。
であるがゆえ、天皇の本質を歪ませていると個人的には思う。
平安以前は、
大事なのは天皇の祭祀王としての魅力。
つまり、霊力と神秘性が最重要であった。
それは天皇陛下に宿る不思議なパワーであって、
皇親、皇族にそれはない。
そして、その宗教的なパワーそのものを含めた天皇が、
日本の伝統であった。
継体天皇の即位の例でもわかるように、
皇室で男系男子の後継ぎが途切れた場合は、
まずは男系血統の近い男子を、
日本全国探し回る。
継体天皇の時は、越前まで探しに行った。
とにかく男系血統の近さに拘った理由は、
天皇が人智の及ばぬ存在であるからである。
遠い国まで天皇の男系の血の保持者を探しに行ったのは、
はっきり言おう、天皇の霊力を維持するためである。
そんなオカルトな、と思うかもしれないが、
天皇は、神秘性がないと無理である。
皇親の範囲を定めた最初の法律「大宝律令・継嗣令」では、
4世孫までを皇親と定め、
朝廷は皇親に録を与えていた。
政治の都合で5世まで皇親になったり、
7世でも皇親と認めた時期もあった。
しかし、血統は男系、皇親の範囲を世数で決めるのは、普遍であった。
そこに何世代も離れた皇親とみなされる「皇族」などの「概念」が生まれたのは、
明治の皇室典範以降です。
本来の考えでは、
男系の血が天皇から遠く離れてしまうと、
天皇になる資格が失われるものであった。
なぜ、そのような制度になったのかを考えれば、
正直、天皇の霊力が落ちると信じられていたという理由にたどり着かざるをえない。
今、旧宮家は、皇籍離脱がもっとも直近であったため、
「最も直近まで皇族であった家系」との理由で、
子孫を宮家へ養子で入れるのに、
最優権があると主張する。
彼らは天皇の本質をわかっていないと思わざるを得ない。
600年以上も皇位から離れている男系男子は、
何世代遡れば、天皇に繋がるのだろうか?
20世代も遡れば繋るのか?
男系系図が、どこまで遡っても皇位に繋がらない、
そんな宮家が存在してもいいものだろうか?
伏見宮は現世代から20世代も遡らねば男系の系図が天皇と繋がらない。
これほど男系の血が薄くなった家の男子を、
皇室に養子で入れるなど「狂気の沙汰」です。
大宝律令以前の皇位継承では、
皇位継承は父子継承が基本であった。
それは最も霊力の伝達が優れた継承だったからだと、私は個人的に思っている。
21代雄略天皇は暴君で、
4世以内に皇親が一人もいなくなってしまった。
関係者は、必死に、男系血統が近い男子を捜した。
皇統を断絶させないためである。
応神天皇の5世孫を越前に見つけた。
名をヲホドノオウと言う。
日本書紀では男大迹王、
古事記では袁本杼命、
また筑後国風土記逸文に雄大迹天皇、
上宮記逸文に乎富等大公王
別名として日本書紀に彦太尊
と言う。
漢風諡号「継体天皇」は、淡海三船により名付けられたものらしい。
この天皇、○○仁もなければ、○○宮でもない、
これがほんとに元皇族か?
怪しいのは父も彦主人王とか汙斯王という。
祖父は乎非王だ、見たこともない字をあてる。
曾祖父は意富富杼王、大郎子、
意富々杼王、意富富等王、大大迹王、とも書いてある。
これが継体天皇の父系の名である。
ほんとに応神天皇5世孫か?
と疑いたくもなるが、
日本書紀によると、当時の大和朝廷が何度も頼み込んで、皇位に付いてもらっている。
今の基準からいけば、三種神器もない皇位継承で、制度的には完全にアウトの皇位継承だが、
それでも私が認めるのは、日本の公式の歴史書、
日本書紀で男系血統で繋がっていると記述してるからである。
日本書紀を疑うのは簡単だが、
それでは、天皇を否定することに繋がる。
ホツマツタエや竹内文書を偽書としている以上、
古事記と日本書紀は疑ってはならない。
逆に日本書紀を否定するなら、万世一系をも否定しなければ辻褄があわない。
律令制では「皇親」=「天皇の一族」として朝廷からの保護を受けた。
その範囲は、歴代の天皇の男系卑属であることを大原則とし、
元々は世数の制限は定められておらず、
「王」/「女王」の称号を名乗ったものは皇親、
氏を名乗って「公」の称号を有したものは、
皇籍を離脱したものとされた。
701年、大宝令により「皇親」の範囲を天皇の男系卑属で四世までとし、
身位は、一世は親王/内親王、
二世以下は王/女王、
五世孫は王/女王の身位は保持するが、皇親の範囲外、
六世孫で強制的に臣籍降下させるとされた。
その後「皇親」の範囲に変化が加えられ、
慶雲3年(706年)2月16日、
「文武天皇」の勅令により、
「皇親」の範囲が五世孫まで広げられるとともに、
六世孫以下でも、
五世王の「承嫡者」(嫡男)は代々王の称号を許されることになった。
更に、天平元年(729年)8月5日格により、
六世孫・七世孫であっても、
生母が二世女王である場合は「承嫡者」以外も全員「皇親」とされた。
その後「皇親」の人数が増えすぎたことにより、
延暦17年(798年)閏5月23日、
桓武天皇の勅命により、
皇親の範囲を元へ戻した。
しかし、六世孫以下が王の称号を名乗ることは、
引き続き認められた。
平安時代初期にかけて、
子女の多い天皇が続いたことにより「皇親」の数がまた激増した。
この頃、皇親の数が数百人の規模に及んだゆえ、
傍系の皇親は一部の一世親王に至るまで臣籍降下させることにした。
一方で皇親に残すものを選別して、
親王/内親王の身位を授ける「親王宣下」することにより、
世数によらない弾力的な「皇親の選定」を行うようになった。
▪世襲宮家の成立
鎌倉時代以降、皇室の所領である荘園の一部を経済基盤とし、
世襲することによって、
天皇から経済的に独立した「宮家」の原型が発生する。
数ある「宮家」の中で、
特に永続した「伏見宮」は、
室町時代前期、皇統断絶の危機を前に後花園天皇が伏見宮家より皇統を継いだのが契機となって、
後花園天皇の勅命によって永世御所とされ、
皇位を継ぐ正統が途絶えるときには、
これを継ぐこととされた。
ここから永世にわたり皇親に留まり、
正統が途絶えた後の控えの役割を果たす世襲親王家の制度が始まる。
江戸時代の中期にかけて「桂宮」「有栖川宮」「閑院宮」が加わり、
合計四宮家の体制となる。
一方、臣籍降下は行われなくなり、
皇位及び宮号を継承しない親王は、
出家して門跡となり子孫を残さないようにされた。
明治~昭和前期
明治維新の前後、
還俗した親王が新たな宮号を名乗り、
これの取り扱いの処理を兼ねて、
明治22年(1889年)1月15日、皇室典範が制定される。
この時「皇親」が「皇族」と呼称されるとともに、
その範囲が変更された。
その時の皇族の男系子孫は、
永世にわたって皇族であり続けると定められた(永世皇族制)。
身位は、世数による機械的な運用を再開して、
四世孫までは親王/内親王、
五世孫以下は王/女王とされた。
親王宣下は、廃止された(既に宣下を受けたものに限り終身有効)。
従来は、内親王/女王は、
臣下の男性と婚姻しても終身に渡って「皇親」であり、
また親王/王と婚姻した臣下の女性は「皇親」に含めなかったが、
これを改め、
臣下の男性と婚姻した内親王/女王は身位を返上して臣籍降下(降嫁)し、
親王/王と婚姻した臣下の女性には、
新たに創設された親王妃/王妃の身位が授けられ、
新たに皇族に加えられる事となった。
その後「皇族」の増加を受けて、
大正9年(1920年)5月19日に臣籍降下の準則が定められ、
五世孫から八世孫までは嫡男以外、
九世孫は嫡男を含め全員が臣籍降下することとなった。
(このとき、伏見宮邦家の子孫だけは、邦家を4世として数える例外が加えられた)




