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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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南北朝の謎④


後亀山上皇の崩御から4年後の1428年、

嗣子のなかった称光天皇が崩御したために北朝の嫡流は断絶した。

後小松上皇が北朝の傍流(ただし持明院統としては本来の嫡流)である伏見宮家から、

彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、

北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発した。

北畠満雅は再び小倉宮聖承を奉じて伊勢で挙兵した。

小倉宮聖承は後醍醐天皇ー後村上天皇ー後亀山天皇ー恒敦ー聖承、と続く、5代目の南朝天皇です。

北畠満雅は伊勢国司北畠家の第3代当主で、

マンガ「逃げ上手の若君」で主人公、北条時行が兄のように慕い、

その気高さや存在感で読者を魅了した北畠顕家の弟、顕能の孫です。

ここではいい機会なので、北畠家について考察してみましょう。

北畠と言えば、北条時行と共に戦った美男子将軍、北畠顕家です。

北畠家は、村上源氏の血筋で、鎌倉時代前期に土御門天皇の後ろ盾として権力を握った土御門通親卿、

の五男・通方卿(中院通方)の子孫です。

つまり、北畠家は、血統的に、十分皇位継承資格のある村上天皇男系の13世孫だということです。

村上天皇ー具平親王ー源師房ー源顕房ー源雅実ー源顕通ー源雅通ー土御門通親ー中院通方ー北畠雅家ー北畠師親ー北畠師重ー北畠親房ー北畠顕家、となります。

鎌倉末期において、

北畠家は天皇の側近として地位を確立していた。

特に後醍醐天皇とは懇意にしていたようで、

顕家の姉妹2人は後醍醐天皇の息子2人に嫁いでいた。

江戸末期に作られた「系図纂要」で、

顕家の母は中御門為行という貴族の娘と書かれている。

鎌倉幕府が滅亡し、

後醍醐天皇が「建武の新政」を敷いていた時、北畠顕家は陸奥守になった。

そして後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)と共に陸奥国に赴任する。

この時15歳。

陸奥将軍府の実質的な運営責任者が北畠顕家だった。

北畠顕家は北条氏の残党を滅ぼし、東北地方を平定し、

1335年には17歳にして鎮守府将軍という東北地方の軍事長官となった。

この間、鎌倉では北条時行が足利尊氏と死闘を繰り広げていた。

北条時行、諏訪頼重の軍が一旦、鎌倉を占拠したが、

足利尊氏が再び鎌倉を奪い返した。

しかし、足利尊氏を危険視した朝廷は、新田義貞に尊氏追討令を出すも敗北して撤退、

そこで北畠顕家は、義良親王と共に京都にむけて進軍する。

その数は太平記によると5万。

尊氏不在の鎌倉から足利軍を追い払い、占拠し、再び西へと出発する。

その後琵琶湖を船で渡り、比叡山の東麓の宿場町、坂本で新田義貞・楠木正成と合流。

そこから連合軍で次々と足利軍を破り、足利尊氏を京都から撤退させた。

北畠顕家は中納言に任官した後は再び奥州へ戻った。



一方京では、九州で力をつけた足利尊氏が再び攻めてきて、楠木正成が討死。

新田義貞と後醍醐天皇は三種の神器を持って大和国の吉野へ逃げた。

1337年、顕家は父から伊勢国まで来るようにという手紙と、

後醍醐天皇から京奪還の綸旨を受け取った。

途中で足利方と戦闘しつつ、勢力を増やしながら鎌倉を攻めて足利方の武士たちを打ち破る。

北条時行が北畠顕家軍と合流したのは鎌倉攻略の直前。

時行たちは後醍醐天皇の下について、

顕家の2度目の挙兵に呼応して伊豆国で挙兵し、

箱根で陣を張っているところを顕家軍と合流した。

その後、京都攻略に向かい、美濃国青野原の激戦の末、足利軍を破るも、

顕家軍も大損害が出た。

そのまま京を攻めるのはあきらめて、一旦伊勢へ向かって回復することにした。

しかし、足利尊氏はすぐさま顕家軍に追い打ちをかける。

顕家軍は粘り強く抵抗したが、ついに敗れる。

顕家は同行していた義良親王を後醍醐天皇のいる吉野へと密かに逃がし、

自軍を河内国まで撤退させて再起をはかったが、足利軍の追撃は止まらない。

和泉国まで後退を余儀なくされ、援軍の到着も遅延し、

そこに瀬戸内の水軍を取り込んだ足利軍が包囲する。

顕家は、ついに和泉国の堺浦で打ち取られた。

満年齢で20歳。

さて、その北畠顕家の弟の孫、つまり大甥である北畠満雅だが、彼も南朝に忠実であった。

元服時に室町幕府第3代将軍・足利義満から偏諱を賜い、満雅と名乗りはしたが、

1399年、同じく義満から1字を賜った長兄の北畠満泰が、

応永の乱に幕府側の山名時煕軍に加勢する形で参戦し、

大内軍との激闘の中で戦死。

これに伴って、戦後代わって北畠本家嫡男となる。

父・顕泰から北畠家の家督を譲られ、間もなく、

1402年、満雅は伊勢国司に就任した。

北朝は明徳の和約に反し、

皇位が持明院統から大覚寺統に譲られないことを不服とした滿雅は、

1414年、幕府に条件履行を迫って伊勢で挙兵した。

称光天皇が第101代天皇に即位したのが1412年であるから、

後小松から称光への継承が不服であった。

1415年、この挙兵に対し第4代将軍足利義持は、

土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、

阿坂城まで迫る。

しかし、これを攻め落とすことができず、

後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。

しかし、北畠滿雅の北朝に対する不信感は燻り、

1428年、称光天皇が崩御して、持明院統の嫡流が断絶したにも関わらず、

また明徳の和約を守らず、

持明院統の伏見宮の王子、彦仁を、猶子として皇室に入れ、皇統を継がせる北朝にぶちきれた。

第6代目将軍、足利義教が、持明院統の伏見宮家の彦仁王への践祚を認めたのを不服として、

後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は、満雅と共に、鎌倉公方・足利持氏と連合し、

小倉宮を推戴して反乱を起こした。

だが、満雅の反乱に激怒した足利義教は、

伊勢守護・土岐持頼に命じ満雅を攻めた。

北畠勢は雲出川の戦いにおいて幕府軍を大破・敗走させるが、

更に幕府から土岐持益・長野満藤・赤松満祐・山名持豊らが派遣された。

1429年、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で、

長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした(岩田川の戦い)。

満雅が戦死したとき、子の教具はまだ7歳であった為、

実弟の大河内顕雅が職務を代行し、北畠家を存続させた。



室町時代の公卿、万里小路時房の日記で『建内記』という書物がある。

それによって、小倉宮聖承の系譜関係や経歴について、我々は詳しい情報を得ることができる。

1443年5月9日の条として

「南方小倉宮」の入滅について記しつつ割注として

「後醍醐院玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子」云々

さらに「法名聖承云々」とあって、

この「南方小倉宮」こそは聖承であり、

南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、

初代小倉宮である恒敦の御子であることが裏付けられる。

1430年、小倉宮聖承と万里小路時房の間で帰京のための条件が話し合われている。

それによると、最も大きな懸案となったのは帰京後の生活費であったそうな。

当時、12歳の聖承の子息が足利義持の猶子となった上で、

真言宗勧修寺門跡に入室しており、これが条件の一つであった可能性もある。

こうして祖父・後亀山と同じく、聖承の出奔も失敗に終わるのだが、

その後の暮しも容易なものではなかった。

諸大名から供出されることになっていた銭の納入は滞りがちで、

1432年「去年以来その沙汰を致すべき旨領掌申すの処、一向に面々無沙汰。すでに餓死に及ぶべきやの由、小倉宮状をもつて歎き申さるゝなり」という有り様だった。

1434年、子につづいて自らも出家。

伏見宮貞成の書いた『看聞御記』によれば、

1443年5月7日逝去している。



小倉宮聖承、唯一の遺児と思われる教尊は、禁闕の変への関与が疑われて捕縛されている。

禁闕の変は1443年10月16日、夜に京都で起こった、

後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件である。

吉野朝廷(南朝)復興を唱える勢力(後南朝)が御所に乱入し、

三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃げた。

26日までに鎮圧され、幕府は宝剣の奪還には成功したが、

神璽はそのまま奪い去られる。

1457年、赤松氏が後南朝より奪い返し北朝の手に戻る(長禄の変)まで、

15年に渡って後南朝の下にあった。

嘉吉の変という呼び方もあるが、

1441年の守護赤松満祐による、6代将軍足利義教の殺害事件「嘉吉の変」と混同を招くため、

避けられる傾向にある。



「禁闕の変」には前兆があった。

1336年に後醍醐天皇により開かれた南朝は3代将軍足利義満時代の「明徳の和約」により、

終了したにもかかわらず、室町幕府は約定を履行しなかったゆえ、再び息を吹き返した。

南朝の後胤を擁する後南朝勢力である。

反乱の時期を伺っていた後南朝は、北朝側で後小松天皇の直系が断絶したのを皇位獲得のチャンスと考えた。

しかし、伏見宮家から後花園天皇が迎えるという北朝のウルトラCに呆れ返った後南朝サイドは、実力行使に打って出た。

その頃、室町幕府で6代将軍足利義教が恐怖政治を行っていたのを好機と捕え、

1441年7月に、6代将軍、足利義教が守護赤松満祐によって殺害されるという事件(嘉吉の乱)に乗っかって、

1443年2月、元・南朝の宮家、小倉宮聖承が謀反を起こすと噂を流し(『看聞日記』嘉吉3年2月20日条)、

楠木正成の子孫が「南朝余流」を旗頭に反乱するという噂も立った(『建内記』嘉吉3年2月25日条)。

ところが、小倉宮聖承は1443年5月7日(西暦6月4日)に病死。

7代将軍となった足利義勝も1443年8月16日、死去してしまった。

こうした幕府の混乱期、1443年10月16日、後南朝の軍勢が蜂起した「禁闕の変」である。

首謀者は、源尊秀、金蔵主兄弟、日野有光・資親親子などであった。

また、楠木氏嫡流で北畠家の重臣だった伊勢楠木氏の家系図『全休庵楠系図』によれば、

第2代当主楠木正重(正成の玄孫で、刀工村正の弟子)の末弟正威(木俣守勝の先祖)が

禁闕の変に参戦した。

後南朝軍は変の事前に、

室町幕府の御殿である室町殿を襲撃するという噂を流し、足利軍を引きつけ、

23日夜、警備が手薄になった土御門東洞院殿を襲撃。

宝剣と神璽は奪い去られた(『看聞日記』)。

後花園天皇は近衛第(左大臣近衛房嗣邸宅)に避難できたが、天皇は冠を脱ぎ、女房姿となって唐門から逃れ四辻季春が一人で付き従ったという。

後南朝軍はその後、比叡山に逃れ、東塔根本中堂と西塔釈迦堂に立て篭もった。

しかし、後花園天皇から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、

比叡山は室町幕府に付くことを決め、

管領畠山持国が派遣した幕府軍や、

後南朝への協力を拒んだ山徒によって、

後南朝軍は25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された。

一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれ、

楠木正威も25日に戦死した(『全休庵楠系図』)。

この事件は京都の公家・武士を震撼させ、

『看聞日記』『康富記』『師郷記』『斎藤基桓日記』『大乗院日記目録』等、

当時の多くの日記に記載された。

ただし、最も情報の多いはずの『建内記』が、この月の記録が散逸しているため、

事件の詳細を知ることが難しくなってしまっている。

幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑した。

勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)も逮捕され流罪となった。

かくて、史料の上では小倉宮家は絶家したはずだったのだが・・・



1469年、紀伊国で南朝の遺臣が「小倉宮御息」を担いで反乱を起こすという事態が発生。

折しも京都では細川勝元率いる東軍と、

山名宗全率いる西軍が睨み合う大乱(応仁・文明の乱)の真っ只中、

後花園法皇や後土御門天皇を取り込んで優位に立つ東軍への対抗上、

西軍の山名宗全はこの「小倉宮御息」を自軍に引き込むことを画策。

紀伊に地盤を持つ畠山義就は難色を示したものの、

足利義視ら西軍大名の説得もあって、

1471年8月に正式に京に迎え入れられた。

『大乗院寺社雑事記』文明3年閏8月9日の条によれば

「京都西方に新主上取り立て申さるると云々(京都西方ニ新主上被申取立云々)」。

このようにして、

小倉宮流の「新主」「南帝」は擁立された。

後醍醐天皇の系譜を引く「南帝」にとっても、

もっとも晴れやかな時期であったに相違ない」としている。

しかし、文明5年(1473年)3月18日、後ろ盾だった宗全が突然の死去。

そして「新主」「南帝」の消息は『大乗院寺社雑事記』でも絶えて伝えられなくなる。

その後、「小倉宮御息」の消息が伝えられるのは、

文明11年(1479年)になってからで、

壬生晴富の日記『晴富宿禰記』の7月11日の条として

「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」云々。

しかし、以降の消息を伝える史料は見つかっていない。

またこの「西陣南帝」とも呼ばれる人物の素性も明らかとはなっていない。

ここに完全に南朝の勢力は潰えた。

南朝「大覚寺統小倉宮」の皇位継承の道も閉ざされた。



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