表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
33/105

南北朝の謎③



1336年、北朝2代光明天皇が即位し、1339年に後醍醐が崩御した。

尊氏主導の北朝が、一時的に南朝に下った観応の擾乱の正平一統が1351年。

伏見宮栄仁が生まれたのが同じ1351年

拉致されてた三人の上皇が京に戻ったのが1357年

足利義満が生まれたのが1358年。

後円融天皇が生まれたのが1359年

後円融天皇即位が1371年

後小松天皇即位が1382年

義満による南北合一(明徳の和約)が1392年です。

南北朝時代の整理を試みると、

後醍醐天皇の死後から、明徳の和約まで、1300年代の53年間がメインですが、

実際は明徳の和約は守られず、

南北朝の争いは西陣南帝の1473年まで続いた。

西陣南帝なんて聞いたことない人がほとんどでしょうが、

南朝の天皇はざっとこのような継承になっています。

①後醍醐天皇(1318年 - 1339年) 南朝初代天皇

②後村上天皇(1339年 - 1368年) 南朝2代天皇

③長慶天皇(1368年 - 1383年) 南朝3代天皇

④後亀山天皇(1383年 - 1392年) 南朝4代天皇 

⑤小倉宮恒敦(1410年 - 1422年) 後亀山天皇の子

⑥小倉宮聖承(1422年 - 1443年) 小倉宮恒敦の子

⑦金蔵主(尊義王、空因) (1443年) 後亀山天皇の弟(護聖院宮惟成親王)の孫?、もしくは後亀山天皇の子である小倉宮恒敦の子?。後南朝初代、禁闕の変で死去。

⑧自天王(1443年 - 1457年) 後亀山天皇の子である小倉宮恒敦の孫?。後南朝2代、長禄の変で死去。

⑨南天皇(尊雅王)(1457年 - 1459年) 小倉宮恒敦の子?。後南朝3代。

⑩西陣南帝(1471年 - 1473年) 系譜不詳、小倉宮を称す

実際、南朝の天皇が10人もいたなんて、知らない人がほとんどでしょう。

学術的にも認められてない。

しかしながら、現在の皇位継承問題を真正面からやるなら、

どこからどこまで、学術的に正しいかなんて、自分を枠に嵌めてはいけません。

ほとんどの専門家は「学術的に・・・」なんて言いながら、心の底では疑問を持ってるはずだからです。

天皇とは日本人の集団幻想なだけなのではないかと。

私は天皇制を通貨と同じだと例える。

みんなが信用してるから紙切れが通用してるだけで、

ほとんどの日本人が円を信用しなくなったら、日本銀行券では物は買えない。

同じように、ほとんどの日本人が天皇を日本の伝統だと思わなければ、

天皇制なんて簡単に消えてしまうだろう。

天皇の本当の歴史なんて、

それを信じている大学の権威で決まるだけで、

真実なんて物理などとは違って幻想の部分も多分にある。

男系維持を声高に叫んでる伏見宮とその取り巻き連中は、

伏見宮の正当性を主張しているが、しっかり勉強してるなら、その本音は祟光流も後光厳流も、

南朝に比べたら正当性は低いと思っている。

だから南朝の天皇をスルーすることが、彼らにとっての正義なのだろう。

しかし、ぶっちゃけ、素人目にも南朝の方に正当性はある。

皇位継承の正当性は、まずは血統、次に制度だ。

後醍醐天皇が南朝を立ててから、

血統は後光厳天皇にも、祟光天皇にも、確かに男系で正当なんだが、

三種神器なしで即位してるから、北朝は制度的には本当はアウト、説得力は正直ない。

更に祟光流は、言わずものがな、戦後の伏見宮系11宮家の臣籍降下してるので、心情的にもアウトだ。

たしかに皇籍復帰の例は過去にもあるが、

旧宮家はちょっと時間が経ちすぎている。

更に、それ以前の伏見宮第13代貞致の血統の怪しさも、本来アウトの事案で、スリーアウト、ならジ・エンドだ。

ただ、そんな事言うなら、

継体天皇だって本当に神武天皇につながるのかどうか怪しい話で、これでは元も子もなくなるので、

南朝は4代後亀山までということで妥協して解説を続けます。

軽く南朝4代を見てみようと思う。




後村上天皇は、日本の第97代天皇、および南朝第2代天皇である。

後醍醐天皇の第7皇子で、数多い皇子らの中でただ一人の天皇である。

父の後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図る。

東北地方(陸奥国)南部の宮城県多賀城市にある陸奥国府兼鎮守府の多賀城に入城し、

後醍醐天皇が多賀城に創設した奥羽将軍府のトップとして、

北朝を擁する室町幕府軍と南北朝の内乱を戦った。

のち大和の吉野・賀名生、摂津の住吉などを行宮(仮のみや)とした。

1911年、明治天皇の明治政府によって南朝が正統とされたため、歴代天皇として列された。

1333年、義良親王(後村上天皇のこと)の父の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始める。

同年、義良親王は北条氏の残党の追討と東国武士の帰属を目的に、

後醍醐天皇の側近の北畠親房および北畠親房の長男である公卿・陸奥守北畠顕家に奉じられて、

陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城へと向かい、

1334年5月、多賀城において親王となった。

義良親王は多賀城で、東北地方における南朝に味方する武将を束ね、

東北地方における後醍醐天皇の小朝廷の奥羽将軍府を創設した。

後醍醐天皇の奥羽将軍府の管轄エリアは、

東北地方および関東地方の北部三ヶ国(下野国・上野国・常陸国)を含んでいたため、

奥羽将軍府は事実上の東日本朝廷であった。

1335年、新田義貞に鎌倉幕府を滅ぼされて自害した北条高時の子の北条時行が中先代の乱を起こす。

その混乱のなか幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍護良親王は、

足利尊氏の弟の足利直義に殺された。

更に中先代の乱を鎮圧するため後醍醐天皇から朝廷軍を預けられた足利尊氏は謀反を起こし、

後醍醐天皇の建武新政から離反した。

同年12月、足利尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで朝廷軍を破り、

翌1336年1月、尊氏は入洛し京都を占領した。

そのため後醍醐天皇は一旦比叡山に逃れる。

1335年12月、後醍醐天皇の側近の北畠親房および北畠親房の長男の北畠顕家や、

伊達行朝をはじめとする陸奥将軍府の武将達と共に陸奥国多賀城を進発し、

足利尊氏を追討するため京都方面へ軍を進めた。

翌1336年1月、義良親王および陸奥守北畠顕家が率いる奥羽将軍府軍は京都で足利尊氏軍を破り、

尊氏を京都から九州(鎮西)へ敗走させた。

同年3月、義良親王は元服し、三品陸奥太守に叙任された。

しかし、九州落ちした足利尊氏・直義兄弟は九州で態勢を立て直して再び京都方面へ攻め上り、

湊川の戦いで南朝の楠木正成・新田義貞を破り楠木正成は戦死した。

こうして足利尊氏は再び京都を奪い取ると、

後醍醐天皇に廃された光厳天皇の弟である持明院統の光明天皇を擁立し北朝を樹立した。

一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立する。





主力軍が不在となっていた多賀城の奥羽将軍府は北朝軍の攻撃をうけ危険な状態となったため、

1337年1月8日、義良親王および陸奥守北畠顕家らは、

奥羽将軍府を伊達行朝の領地内にある福島県霊山に遷した。

同年8月、東北地方軍を率いた義良親王および北畠顕家は今度は霊山城から再び京都目指して軍を進め、

同年12月、奥羽将軍府軍(南朝軍)は北朝軍を破って鎌倉を奪還した。

翌年の延元3年/暦応元年(1338年)1月、義良親王の奥羽将軍府軍はさらに西上して、

美濃国青野原の戦いで足利方を破り、

伊勢・伊賀方面に転進したあと後醍醐天皇のいる大和の吉野行宮に入った。

そうした状況のなかの1338年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され室町幕府が成立した。

1338年6月10日、南朝の公卿・鎮守府大将軍・陸奥守北畠顕家は、

北朝・室町幕府の執事高師直・高師泰兄弟との石津の戦いに敗れ、

北畠顕家は戦死した。

更に同年の閏7月2日、南朝の新田義貞は越前国藤島灯明寺畷で北朝軍との藤島の戦いに敗れ、

義貞は戦死した。

同年9月、義良親王は宗良親王と共に北畠親房および戦死した北畠顕家の弟である北畠顕信に奉じられ、

伊達行朝・結城宗広・中村経長らの軍船のもと、

伊勢国大湊から三たび陸奥国を目指したが、

途中暴風雨に遭って一行は離散し、義良親王の船は伊勢に漂着した。

1339年3月、義良親王は南朝の京都の吉野へ戻り、間もなく皇太子となった。

8月15日、義良皇太子は後醍醐天皇の譲位を受け、後村上天皇として即位した。

天皇は若年ながら主に畿内近国の寺社や武士に対して精力的に綸旨を発し、

南朝の安寧祈願や所領安堵・給付、軍勢催促や褒賞を行った。

1348年1月足利方の高師直に吉野を襲撃され、

天皇は紀伊花園へ一旦難を避けたが、

後に大和賀名生へ移った。

1350年、足利一族間の内訌が激化すると(観応の擾乱)、

先に足利直義が南朝に降伏し、

翌年(1351年)10月には尊氏が同じく南朝に降伏した(正平一統)。

天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、

11月には北朝崇光天皇を廃位するとともに三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収し、

皇太子直仁親王も廃太子とした。

南朝は、尊氏が直義を追討すべく関東に向かった隙を突いて、京を回復する作戦に出た。

1352年、南朝軍は賀名生を発し、河内東条を経て摂津住吉に至り、七条大宮の戦いで楠木正儀が足利義詮を破って京の回復に成功した。

正平一統は破綻した。

義詮は近江に逃亡。

後村上天皇は光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王を男山に連行した。

しかし、足利方の反撃に遭って京を放棄し、男山に立て籠もるが、

義詮の軍は強く、辛うじて男山を脱出、三輪社・宇陀を経て、賀名生に帰還した。

1354年、光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王を河内天野の金剛寺塔頭観蔵院に入れ、

後村上天皇も金剛寺に移って塔頭摩尼院を行宮と定めた。

1355年、南朝に帰順した直冬を立てて京の回復を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れる。

この時点で光明上皇を京都に返した。

1357年、光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返す。

この時、祟光上皇は、子孫に至るまで祟光系統は皇位は望まないとの念書を幕府に入れる。

1359年、後村上天皇、観心寺に行宮を移す。

翌年、住吉に行宮を移す。。

1361年、幕府の政争に敗れて失脚した執事細川清氏の帰順を受けいれ、四条隆俊・楠木正儀らが京へ攻め込み、一時的に京を回復するが、すぐに義詮軍の反撃に遭って、撤退。

南朝の力は弱体化しており、退勢を挽回するまでには至らなかった。

それでも南朝はなお強硬姿勢を貫き、

1367年、勅使葉室光資をして幕府との和睦交渉が行われたが決裂。

1368年3月11日子刻に住吉大社宮司津守氏の住之江殿にて後村上天皇崩御。

以上が後村上天皇の生涯です。




南朝の皇位は代替わりし、後村上天皇の第一皇子寛成親王を第98代長慶天皇とした。

長慶天皇は、日本の第98代天皇、および南朝第3代天皇となる。

南朝関係史料の少なさから、近世以来諸家の間で天皇の在位・非在位をめぐる議論があり、

1911年、明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した後でさえも、

長慶天皇は在位認定されないままであった。

しかし、八代国治・武田祐吉の実証的研究が決定的な在位説として評価され、

これを受けて宮内省の調査が行われ、

1926年、皇統加列についての詔書発布となった。

長慶天皇の在位の事実が公認されるに至ったのだ。

この経緯を見ると、現代における皇位継承議論が、いかにあやふやな土台に成り立っているのかわかる。

ほんの100年前まで歴代の天皇すら学者の間で認識が一致していなかった。

それが一致したのが西洋の王室制度に似せるための明治政府の意向が随分働いた末だったなど、

本当の天皇の神秘性を継承したいと考える本当の日本人にとってはなんとも情けない現状である。

さて、長慶天皇の生い立ちは不明な点が多く、

親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが、

立太子に関しては確証を得ない。

1368年、26歳にして摂津の住吉行宮で践祚し、

間もなく弟の熙成親王を東宮とした。

南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、

天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。

また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、

先代まで、

何度となく持ち上がった和睦交渉が、

この代に入ってから全く途絶したことも、

史料の少なさと無関係ではなかろう。

践祚後間もなく和平派の楠木正儀が北朝へ降ったため、

1368年12月、長慶天皇は吉野に後退し、

1369年4月には、河内天野の金剛寺に移った。

しかし、

1373年8月、正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、

四条隆俊ら70人余りが討ち取られたため、

再び吉野へ還幸することとなった。

1374年冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、

以後は歌合が盛んに催されている。

1379年9月、大和栄山寺に移り、

1381年10月、宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とした『新葉和歌集』『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。

譲位の時期は判然としないが、

朝要分の免除に関して利生護国寺に下した1383年10月27日付の綸旨が、

在位を確認できる最後の史料と目され、

この後程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。

譲位に至った背景には、

1382年閏1月に正儀が南朝に帰参したことを受けて和平派が台頭し、

その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる。

譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、

1385年9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納めたが、

1386年4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。

その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である。

1392年閏10月、南北朝合一が成った際にも後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない。

『大乗院日記目録』によると、

1394年8月1日に52歳で崩御。

晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、

紀伊玉川里とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院とする説、

あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭の慶寿院とする説など諸説がある。

若年から和歌に優れ、

天授元年(1375年)の『五百番歌合』、

同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、

『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。

その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。

著作には先述の『仙源抄』がある他、

『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。

なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、

各地を潜幸したという伝説があり、

全国に御陵伝説地が点在する。

南部煎餅の祖とする伝承もある






ちょっとここらで、後村上天皇、長慶天皇の時代を北朝視点で見てみる。

足利尊氏は1358年死去し、

2代将軍となった足利義詮は本格的な南朝掃討をはじめる。

1361年、足利政権において政争から失脚した執事の細川清氏が南朝に属し、

楠木正儀らと4度目の京都侵攻を行い、一時的に占領する。

その後、後村上天皇が摂津国の住吉大社宮司の津守氏の正印殿を約10年間、

行宮(住吉行宮)とし、住吉大神を奉じる瀬戸内海の水軍を傘下にして、

四国、九州との連絡網を確立し、

南朝は各地で活動するが、

1363年、山名氏や大内氏の北朝への帰順などで衰退し、

拉致した三上皇を返還するなど講和的態度も示している。

1368年、後村上天皇が住吉行宮で崩御し、同地にて長慶天皇が即位する。

足利政権では有力守護の佐々木道誉、

3代将軍の足利義満のもとで、

管領を務めた細川頼之などが南朝の楠木正儀と独自に交渉を行っていたが、

長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったと考えられており、

和睦交渉は一時途絶。

1369年、楠木正儀は北朝へ投降する。

南朝の征西府懐良親王も菊池氏や阿蘇氏、

宇都宮氏の武力を背景に大宰府を有して九州を制圧していたが、

九州探題として赴任した今川貞世(了俊)に駆逐される。

その後交渉が再開され、南朝の使者が京都へ赴いている。

1383年、長慶天皇は弟の後亀山天皇に譲位する。

1392年、明徳の乱で有力守護の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した足利義満は、

和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で本格的交渉を開始する。

1392年、足利一門の畠山基国の攻撃により、

南朝の指揮官楠木正勝が楠木氏の本拠地千早城を喪失したことも、交渉の後追いになった。

南朝から北朝への神器の引渡し、

国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする事、

皇位は両統迭立とする事など3か条を条件に和睦が成立し、

1392年、閏10月に後亀山天皇は京都へ赴いて後小松天皇に神器を譲渡し、

南朝が解消される形で南北朝合一は成立した(明徳の和約)。

南朝に属していた公家は一部は北朝で任官したが、

官職は既に北朝の公家で占められており、

多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。

1412年)には後小松皇子の称光天皇が即位しており、

両統迭立の条件は反故にされている。

これに反発した南朝の後胤や遺臣らは、

朝廷や幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。

これを後南朝という。

小倉宮とは後亀山天皇の次に南朝の皇位に付いたとされる南朝第5代天皇の事だが、出生年月日が不明である。かろうじて父は後亀山天皇だと認められているが、親王宣下があったかどうかもわかっていない。

ということで、小倉宮は南朝の系統に属する宮家で、

初代は南朝第4代後亀山天皇の皇子・恒敦親王である。

嵯峨小倉山下に住したので小倉宮と呼ばれた。

皇位継承や幕府の権力闘争に翻弄され、

自らも皇位を競望して兵事に参画するなど、

後醍醐帝以来の流儀を貫いた末に絶家した。

足利義満の主導で実現した南北朝合一は

「両朝御流相代之御譲位」

つまり北朝と南朝が交互に皇位に即くという約束だった。

しかし、その約束は後小松天皇の認めるところではなく、

後小松天皇の後継を定める立太子もないまま、

1408年に義満が死去。

1410年になって後亀山院は突如として吉野へ出奔。

その理由について伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』では

「此五六年被號御窮困」としており、

経済的困窮が理由とされているものの、

南北朝合一の約束が果たされなかったことに対する、

抗議の意味が込められていた。

そうした政治的デモンストレーションは結局、

何の実りももたらさず、

1411年、後小松天皇は第一皇子の躬仁を皇太子とした。

1412年、称光天皇が践祚した。

わずか11歳という幼さだった。

それから4年後、

1416年、後亀山院は嵯峨に還御。

『看聞御記』によれば、

室町殿(足利義持)よりの再三の申し入れに応じての還御という。

そして、

1424年4月12日、崩御。

醍醐寺座主・満済の日記『満済准后日記』によれば「大覚寺法皇崩御。雷鳴最中云々」。

その後亀山院に「恒敦」という皇子がいたことを伝えているのが、

前内大臣・万里小路時房の日記『建内記』で「南方小倉宮」の入滅について記しつつ割注として

「後醍醐院玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子」云々と書かれている。

これにより、後亀山院には恒敦という皇子がおり、初代小倉宮であることが裏付けられる。

11歳で践祚した称光天皇だが、

生来病弱であった事は前述の伏見宮彦仁の養子入りの解説でも述べているが、

1425年にはいよいよ病状は深刻な事態になった。

称光天皇には皇子がなかったため持明院統(北朝)嫡流の断絶が確実となった。

この機を捕え、

南朝支持者が皇位を所望する旨を申し入れたとされる。

しかし、朝廷・幕府の方針は、

既に伏見宮貞成親王の子・彦仁王の擁立で内々に一決していたので、

申し入れが聞き入れられることはなかった。

この際、南朝支持者が擁立を図ったのが

南方小倉宮こと第2代小倉宮と考えられる。

南北朝合一の約束は反故になったと確信した「小倉宮聖承」は、

1428年7月6日、伊勢国国司で南朝側の有力者である「北畠満雅」を頼って居所の嵯峨から逐電。

「北畠満雅」はこの当時、幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏とも連携し、

小倉宮聖承を奉じて蹶起した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ