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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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南北朝の謎②





1358年、足利義満が生まれる。

足利義満は最愛の息子「義嗣」を天皇にしようと企んだ。

まず、妻を天皇の准母とし、自分は天皇の父となる事に成功する。

次に息子の義嗣を親王と同じ待遇で元服させ、

宮中で立太子の形をとった。

あとは後小松天皇が退位すれば、

自動的に義嗣に天皇の座が転がり込むことになっていた。

しかし「義満」は急死(1408年)してしまった。

本当に義満が皇位簒奪を目論んでいたのか、深く考察すれば非常に長い解説になると思うので、ここでは深くは掘り下げないことにするが、多くの状況証拠は義満の皇位簒奪説を裏付ける。

ただここで、考察してる皇位継承に、もっとも直結する興味を引く足利義満の皇位簒奪疑惑の要素は、

彼の血統である。

足利義満は紛れもない源氏の血統である。

後年、同じように皇位簒奪を疑われた、織田信長や豊臣秀吉に比べ、その正当性は格段に信憑性がある。

長くなるので、足利義満の男系血統については、後にしっかり系図入りで述べることにして、

ここでは、ここまでに止めておく。

1398年、崇光上皇が崩御した。

実子、栄仁親王には嫡子貞成がいたが、

栄仁親王の王子には親王宣下は行われない予定であったというから、

この時期までは伏見宮は世襲親王家ではなかったと言うことだ。

伏見宮貞成は、1411年、40歳にして、

ようやく父の栄仁親王のもとに迎えられ、伏見御所で元服した。

1416年、栄仁親王が薨去すると、

翌年、その跡を継いだ治仁王が急死した。

貞成には治仁王毒殺の嫌疑がかけられた。

後小松院や4代将軍、足利義持の安堵を受け、大事には至らなかったが、

伏見宮は正平一統の際に廃位された崇光天皇の正嫡の系統であるため、

傍系の後光厳天皇の皇統からは、常に猜疑心をもって見られた。

1418年、称光天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊した時も、

天皇から伏見宮貞成の子だと密通の嫌疑がかけられた。

このときも足利義持のとりなしで、

貞成は起請文を提出するのみで辛くも窮地を脱することができた。

1425年、称光天皇の皇太弟、小川宮が没すると、

伏見宮貞成は、かねてから病弱で継嗣もなかった天皇の皇儲の候補となった。

そして、後小松院の猶子として親王宣下を受けることとなった。

しかし、このことは称光天皇の逆鱗に触れた。

貞成は3カ月後、伏見指月庵で薙髪に追い込まれ出家する。

出家後の法号を道欽といい、

以後は道欽入道親王を名乗った。

1428年、称光天皇が再び重態に陥ると、

6代将軍「足利義教」が

道欽の第一王子の彦仁王を庇護し、

後小松上皇に新帝の指名を迫った。

これを受けて後小松上皇は称光天皇崩御の後、

彦仁王を改めて猶子とし、

譲国の儀をもってこれを即位させた。

後花園天皇誕生である。

後花園天皇は後小松上皇と光範門院の猶子として即位し、

後花園天皇自身もその立場を遵守した。

この一連の流れを見ていくと、

伏見宮が天皇家(後光源流)からいかに警戒されていたかがわかる。

称光天皇などは、自分が病床にありながら、伏見宮貞成への親王宣下に烈火のごとく怒り、貞成を出家させてしまうわけで、今日のような伏見宮へ皇統が移ることを、警戒していたことがよくわかる。

伏見宮3代目、貞成には2人の息子がいた。

彦仁、貞常という。

兄の彦仁は天皇家に養子入りし、弟の貞常が伏見宮を継いだ。

この時、天皇と伏見宮の両系統が並び立つ状況ができた。

後光源流、祟光流、である。

後花園天皇は後小松上皇の猶子として即位した経緯から、

後小松上皇の生前には実家、伏見宮への待遇改善には消極的であったが、

1433年に後小松上皇が死去すると、

積極姿勢を示し貞常を元服させたうえで親王宣下を与え、

貞成に上皇の尊号を奉る意向を伝えた。

1456年、後崇光院(貞成)が死去すると貞常は後花園天皇から後崇光の紋所を代々使用することと、

永世伏見殿と称することを勅許された。

これまでも世襲宮家は複数存在したが、

全ての当主が親王宣下される保証はなかった。

だが、今回の勅許は、今後、全ての当主に対する親王宣下の保証のようなもので、

これをもって「永世・世襲親王家」の成立とみなすことが可能となった。

貞成親王は京都の旧後小松上皇御所の隣の邸宅に移住し後花園の兄として尊号宣下がなされ、

貞成は皇位を踏まずして「太上天皇」となった。

つまり、伏見宮貞成には、名目上、後花園天皇の兄として太上天皇の称号が贈られたということだ。

その後、貞成の第二王子で後花園天皇の実弟にあたる貞常親王は、

後花園天皇から永世伏見殿と称することを勅許された。

ここで少し歴代天皇の流れをまとめてみることにする。

第98代、長慶天皇(1368~1383)大覚寺統→玉川宮家

第99代、後亀山天皇(1383~1392)大覚寺統→小倉宮家

北朝・第5代目後円融天皇(1371~1382)持明院統

第100代、後小松天皇(1382~1412)持明院統

第101代、称光天皇(1414~1428)持明院統

第102代、後花園天皇(1428~1464)持明院統


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