表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
31/105

南北朝の謎①



伊藤博文の暗殺についての背景を解説してみたのだが、

簡単にはまとめられないことに、今更ながら、気が付いた。

これ以上やれば、肝心の皇位継承問題からどんどん遠ざかる。

私がいいたかったのは、

伊藤博文がやった明治40年皇室典範増補は、

宮家皇族、特に伏見宮が死ぬほど嫌がる加筆だったと言うことと、

これは臣籍降下の復活規定であり、

明治の皇室典範で井上毅にねじ込まれた永世皇族制に、

小さいながらも風穴を開けたということだということである。

当然伊藤博文は、

皇室典範増補だけで収める気はなかっただろう。

更なる臣籍降下規定の強制力強化。

すなわち大正10年の皇族における臣籍降下準則程度までは、

軽く見据えていたと思われる。

しかし、残念ながら、伊藤博文は皇室典範増補制定から2年8ヶ月後、

ハルピンにて暗殺されてしまう。

それでも臣籍降下準則は、伊藤亡き後、11年後に無事成立を見たが、

伊藤博文の本音は、準則よりも、もう一段強い強制力を持つ、

出来れば法律にするつもりだったはずである。

そう考えると、

伊藤博文の暗殺に伏見宮が関与していなかったのかどうか、

私は怪しいと思っている。

少なくとも、今、現時点では、このような仮説を立ててるのは、

ココだけであることは言うまでもない。

ここで一旦、伊藤博文の件は休むとして、

本筋に戻すことにする。

天皇の皇位継承問題を考えるとき、

問題の旧宮家を調べねばならない。

そこで分かりにくいのが南北朝における伏見宮である。

ここで南北朝について歴史を少し学んでみたい。

南北朝時代は、

北朝内「崇光流」と「後光厳流」の争いでもあった。

元々はただの嫡流争いなのだが、

天皇家の嫡流争いは、簡単に収まるはずもなく、

それが今の「旧宮家」VS「天皇家」となって続いている。

祟光天皇と後光厳天皇の母は正親町三条秀子で同一人物である。

つまり二人は血の繋がった実の兄弟なのである。

普通は兄が嫡男なのだが、

南北朝の争いに巻き込まれて、

ちょっと複雑になってしまった。

南北朝を整理するには後醍醐天皇に注目することだと思う。

以前にも解説していて、繰り返しになってる部分もあるが、もう一度、後醍醐天皇や足利尊氏が活躍した鎌倉幕府末期のを考察してみよう。

1308年、後二条天皇が24歳で崩御したあと、

皇太子であった富仁(花園天皇)が践祚するが、

この時点では後伏見の嫡男の量仁(光厳天皇)は生まれていない。

また大覚寺統嫡流の邦良親王(後二条皇子)も未だ9歳で病弱であった。

そこで、後二条の弟で21歳の尊治親王(後醍醐天皇)中継ぎで立太子することとなった。

その後、ついに持明院統の正嫡として量仁が誕生する。

しかし、1318年、花園は大覚寺統の尊治親王(後醍醐)に譲位。

皇太子には19歳に達した大覚寺統の邦良親王が立った。

つまり大覚寺統が天皇、皇太子と続いてる。

この譲位に先立って、

幕府を介した両統の皇位継承に関する話し合いが行われた。

後醍醐天皇、邦良皇太子では、大覚寺統が続くから、

幕府から、邦良が皇太子になり量仁親王を邦良の次の皇太子に立てるという提案がなされた。

しかし、大覚寺統が圧倒的に有利なこの提案に持明院統は納得できず、

持明院統側は拒否した(文保の和談)

こうして、量仁の立太子は先送りとなる。

もともと後醍醐天皇は後二条天皇の弟で、

大覚寺統の中継ぎであった。

嫡流は後二条天皇の第一皇子、邦良親王である。

ゆえに後醍醐は速やかに邦良皇太子に皇位を譲るべきであった。

しかし1326年、邦良皇太子が27歳で死んでしまった。

後二条、後醍醐兄弟の父、後宇田上皇は置文として、

長男の後二条こそ、

大覚寺統を継ぐべき嫡流だと厳しく後醍醐に言い聞かせて死んだ。

しかし、大覚寺統内は邦良薨去の際、次の皇太子を誰にするかで分裂した。

▪「後醍醐天皇」の実子の「尊良」を皇太子に押す勢力。

▪「邦良親王」の実子「康仁」にするべきとの勢力。

▪「邦良親王」の弟「邦省親王」を押す勢力。

▪「亀山法王」の遺詔を守り亀山の末っ子「恒明親王」を押す勢力。

結局、邦良親王の子、康仁親王が次の皇太子に収まった。

ここで、最初の世襲親王家となる、常磐井宮恒明親王と木寺宮康仁親王が出てくる。

1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し「元弘の乱」を起こす。

しかし、後醍醐は敗れ隠岐に流された。

皇太子の量仁親王は践祚し、光厳天皇となる。

光厳天皇この時18歳。

現代では北朝初代と数えられている。

明治時代まで『本朝皇胤紹運録』による天皇代数で第96代が一般的であった。

光厳天皇は皇太子に邦良親王の子「康仁親王」を選んだ。

しかし、時は乱世「後醍醐」は隠岐を脱出し再び鎌倉幕府に反撃し、

今度は足利尊氏の助力で鎌倉幕府を打ち破った。

後醍醐は再び皇位につき、

「光厳天皇」「康仁皇太子」を廃し「後醍醐天皇」の実子「恒良親王」を皇太子に任命した。

「光厳天皇」は上皇となり「康仁親王」には「木寺宮」という「世襲親王家」が下賜された。

1336年「中先代の乱」と「建武の乱」が立て続けに勃発し、

足利尊氏と後醍醐天皇は対立する。

後醍醐は尊氏の命令違反を許さず「尊氏討伐」の院宣を発しました。

東海道を「新田義貞」、東山道を「洞院実世」、奥州街道を「北畠顕家」が尊氏討伐に向かい、

尊氏は箱根で新田義貞を打ち倒すが

「後醍醐天皇」は「楠木正成」らに守られ比叡山に籠り抵抗。

北畠親子、洞院実世が京に入り足利尊氏は摂津の「豊島河原の決戦」で敗北をきす。

足利尊氏は九州へ敗走しましたが敗走途中「光厳上皇」から新田義貞討伐の院宣をもらい、

九州で勢力を盛り返す。

足利尊氏は再び京都に向かって攻め上がり「湊川の戦い」で楠木正成、新田義貞を破りました。

この時、恒良皇太子は北畠親子、新田義貞に守られ、

兄「尊良親王」と共に敦賀に逃げ北陸王朝を開く。

年号を「白鹿」とし、尊氏討伐の綸旨を発給する。

しかし、後醍醐天皇が吉野で南朝を開いたため、

恒良親王は歴代天皇には数えられていない。




後醍醐天皇を吉野へ追っ払った光厳上皇は足利尊氏と共に、

治天の君として院政を敷き、

実弟の豊仁親王を践祚させた。

これが光明天皇です。

皇太子には花園上皇の第3皇子、直仁親王を指名します。

これは例の光厳上皇の隠し子です。

しかし、さすがに、この人事は反発が多く、すぐ撤回されました。

皇太子には光厳天皇の第一皇子、興仁親王が指名されます。

これが祟光天皇です。

直仁親王は一度は立太子されながら取り下げられた悲劇の皇太子です。

将来、興仁親王が即位した後、立太子される約束となっていましたが、

その後の歴史を見てご存じのように、祟光天皇と共に吉野に拉致され、

結局、皇位につくことはありませんでした。

元々、祟光天皇は「中継ぎ」でしたし、

その皇子は最初から即位は望めない運命でしたので、

その皇子、伏見宮栄仁が生まれたときの情報がほとんどないのは仕方ないでしょう。

1352年の生まれだと言うだけで、正確な生年月日もわかっていません。

話を戻して、1348年、北朝第2代、光明天皇が上皇となり、

興仁は北朝第3代祟光天皇として即位しました。

しかし、1350年「観応の擾乱」が勃発します。

足利直義が、足利政権の執事、高師直・師泰兄弟と対立した内乱です。

足利直義には猶子「足利直冬」がいました。

兄「足利尊氏」の認知していない実子です。

直冬は直義側で実父、尊氏と敵対する形で参戦します。

南朝九州の征西将軍宮「懐良親王」と連合し兵を挙げました。

尊氏は直冬を討伐するために九州へ出兵します。

すると足利直義はその隙をついて、

南朝と手を組み、髙兄弟を打つため、京都に侵攻しました。

足利直義は高師直・師泰兄弟を打ち破り、足利尊氏はやむなく和睦しました。

尊氏は南朝の後村上天皇を認め、

北朝の祟光天皇、直仁皇太子を廃位します。

1351年「正平一統」です。

しかし、足利尊氏は3ヶ月で正統一統を破り、南朝を裏切ります。

足利直義を鎌倉で討伐し、

南朝は光厳上皇、光明上皇、祟光天皇、直仁皇太子を吉野、賀名生(あのう)へ拉致します。

足利尊氏は「三種神器」もなく、3上皇も皇太子もいない状態で、

祟光天皇の弟の弥仁親王を践祚します。

やっと出ました、これが、北朝第四代「後光厳天皇」です。

前皇太子「直仁親王」は出家します。

皇太子はそのまま空位となっていたが、

栄仁親王は立太子されていません。

後光厳天皇は正式な皇位継承の儀式をしていなかったが、

元関白の二条良基は佐々木道誉、足利尊氏と相計って、

光厳・光明の生母「広義門院」に「治天の君」となってもらい、

「広義門院」が「伝国詔宣」を行い、

弥仁親王は即位できました。

1371年、北朝第四代「後光厳天皇」は第二皇子「緒仁親王」への譲位を志しました。

「崇光院」は「栄仁親王」への皇位継承を望みました。

しかし、将軍「足利義満」は「緒仁親王」を天皇とします。

これが、北朝第5代「後円融天皇」です。

北朝4代「後光厳天皇」→北朝5代「後円融天皇」→第100代「後小松天皇」→第101代「称光天皇」

と「後光厳流」の皇位継承は続きましたが、

後円融天皇は情緒不安定で、

常に祟光流に皇位を奪われることを恐れ、

朝廷は完全に「足利義満」に乗っ取られる形となってしまいました。

この隙を突いて「足利義満」は皇位簒奪を目論んでいたと植われてます。

しかし、皇位簒奪寸前で「足利義満」が薨去してしまいます。

第101代「称光天皇」には子ができず「後光厳流」の実系は途絶えました。

ここで南朝は皇位交代を主張するのですが、

幕府は8親等離れた「崇光流」の

伏見宮第3代当主「貞成」の嫡男「彦仁」を「後小松上皇」の「猶子」とすることにし、

北朝を続けることにします。

伏見宮は「彦仁」を天皇家(後光厳流)へ「猶子」として差し出し、

その見返りに「永世世襲親王家」の称号をもらうこととなりました。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ